ウィリアム・タリエスの来訪

 空は蒼く薄雲を張り、温かみの薄い陽光にマストに乗った小鳥が羽を膨らます。

「ふぅ」

男は軽く癖のある金髪をかき上げ、悩まし気にため息をついた。



魔法使いと弟子 番外

ウィリアム・タリエスの来訪



「ごきげんよう、柊君」

 柊橙ひいらぎだいだいがその男と出会ったのは幼馴染の朔と交流を再開する数年前のことだった。

夜会カヴンに弟子、吾妻を連れて訪れた彼女は刺激的な出会いに巻き込まれることとなる。


「誰だよアンタ」

 吾妻が間に入り橙に話しかけた男にガンを飛ばす。

金髪に赤いメッシュを入れた少年は橙の二人目の弟子だ。

「やーめなさい」

橙より少し背の低い首根っこを掴み吾妻を男から引きはがす。

「す、すみません……この子ガラが悪くて」

吾妻は少しヤンチャな性格だった。

橙が面倒を見るようになってから大分落ち着いては来たが、まだ喧嘩早い。

相手の男は涼し気な表情を崩さずお気になさらず、こちらこそ失礼しました。と続けた。

「あの、以前どこかで……?」

 橙は男に見覚えがなかった。

男の外見は二十代に見えた。

きれいに色を抜いた白い髪、カラコンだろう黄色い眼、雰囲気は細身ながら筋肉のついた長身に黒いスーツを纏い、グレーのネクタイを締めている。

アクセサリは黒い皮手袋と時計のみだが、身に着けているものには高級感があった。

「いいえ、初対面です。便利屋さんをされている柊橙君ですよね?」

「……はい」

 便利屋、というわけでもないのだが実質そうなっているのは否めない。

「ワタシは神楽坂と申します。どうぞよしなに」

男は恭しく一礼し名刺を差し出した。

橙は名刺を受け取るポーズのまま固まる。


神楽坂 庵


 彼の悪名は国内で魔術を志す者にはおおよそ知れ渡っていた。

端的に言えば彼は現在日本でもっとも有名な元暗殺者。

今彼の姿は若く見えるが本当はかなりの老齢で戦前から性別能力国籍を問わず人を殺している。

殺した数はすでに1000を優に超えるという。

狐の術を使うことも有名で千人殺しだの妖狐だの呼ばれている。

 このあたりに越してきたし協会と和解したと噂で聞いたときはまさかと思ったが夜会にまで出てくるとは思っていなかった。


「あ、あの」

 橙も荒事の経験はそれなりに積んできたが場数が違う。とても敵う相手ではない。脂汗がスーツの背に滲んでいく。

「怖がらないでください、今日はお願いに来たのです」

神楽坂は柔和な笑みを浮かべ、背後にいた少女の手を引いた。

「……こんばんは」

心持ち嫌そうに出てきたのは暗い瞳の少女。

身長は140㎝あるかないかだが大人びた印象の美少女だ。

レースのあしらわれた繊細なグレーのワンピースがよく似合っている。

黒目が真っ黒で、橙は一瞬カラーコンタクトを入れているのかと思った位だった。

「柊君、三日ほどこの子を預かってくれないかな?」

「え、あ」

少女が橙の横に立つのに合わせるように会場の天井が爆発した。

「よろしく」

「!?姐さん!!逃げるよ」

吾妻が引っ張り、橙はようやく我に返った。


 会場から逃げ出すと少女も二人についてきていた。神楽坂の姿はない。

「はぁ…………」

「大丈夫?」

少女はショックを受けた様子もない。逆に気遣われ橙は困惑する。

「だ、大丈夫よ。あなたこそケガはない?」

勢いで逃げてきてしまったがこれは依頼を受けたことになってしまったのだろうか。

「……チビ。名前は」

吾妻がぶっきらぼうに尋ねる。今度は初対面の人との喋り方を教えねばと橙は思った。

「長谷川、邦子」

「とりあえず、三日。よろしくね。邦子ちゃん」



「邦子ちゃんは神楽坂さんの家族とか親戚なの?」

「違います」

 事務所に戻り邦子をソファに座らせ橙は紅茶を淹れた。

吾妻は隣の部屋で気まずそうにしている。

「……聞かない方がいいやつかな」

「別に、ただの弟子です」

「弟子!?」

このリアクションに慣れているのか邦子の表情は揺るがない。

邦子が指を軽く振るとちいさな作り物のような狐が出現し、カップにちょんと乗り水面を舐めた。

「気を悪くしたらごめんなさい、決まりなの……」

橙も毒見をしているのだと気づく。

「いえ……気にしないでいいわよ」

「姐さん、本当にそのガキうちで面倒みんの?」

「仕方ないでしょ……あそこに戻るわけにもいかないし、神楽坂……さんもどっかいっちゃったし」

「わたしに遠慮しているなら結構です。庵は呼び捨てを好んでいるようなのでそのままどうぞ」

邦子は毒見が済んだのだろう、紅茶を口に運ぶ。

「そ、そう……」

ひょっとしてこのような事に慣れているのだろうか、邦子はあまりに落ち着いている。

「別にわたしは一人で留守番しても良いんですが、庵が貴方に任せると決めたのならなにか来るのでしょう」

「……あなた神楽坂と一緒に住んでいるの?」

「ええ」

「住み込みで修行しているのかしら」

「弟子になる前から一緒に住んでいますが、今はそうですね」

くすりと笑うその横顔にどこか退廃的な色気を感じ、少しだけいけない想像をしてしまう。

「……姐さん?」

吾妻の怪訝そうな声音に橙はハッと我に返るのだった。


「とにかく、任されてしまったものは仕方ないわ」

 グレーのワンピースは決して華美なものではないが、どことなくロリータというのだろうか、本人が美少女であることも含め目を引いてしまう。

橙はロッカーから邦子が着れそうな着替えを見繕うがやはり少し大きい。

「ほかの服に着替えたほうがいいですか?」

「そうね、少し目立つから」

「17番、倉庫解錠」

圧縮詠唱バッジスペリング

声の音に意味を乗せて発動する音声魔術の発動キーを要素圧縮し単純動作で発動させる技術である。

いいとこ小学生の使える術ではない

目を丸くする橙と吾妻の前で邦子はおそらく自分の倉庫から服を引き出す。

「もう、ちゃんと魔術も使えるのね」

「ええ、まぁ」

無感動にソファに服を積んでいくが好みも何もないのだろうか、10着ほど引き出して邦子は橙に向き直った。

「これで足りますか」

足りる足りないの話ではない。

橙は手に取って見分する。どれもブランド品の華奢で愛らしい服だが、ひらひらしていて現在の服より遥かに目立つ。

「あなたの服って全部こういうのなの?」

「シフォンのふわふわの服は……あまり好きではありません」

他はもっと強烈らしい。

「服って……その、あの人が買ってるの?」

「そうです」

「……」

「別に汚損しても気にしませんし必要なら経費で申請していただければ……」

「そうね、買ってきましょう」



・ ・ ・


スウェットの上下やジーンズとジャージと下着と靴ともろもろを買い、事務所の鍵を吾妻に託し、橙は邦子を連れて自宅に戻った。

「こういうの、パジャマ以外でも着ていいんですね」

スウェットを物珍し気に眺める邦子に橙は苦笑する。

「それは部屋着用だから、……まぁパジャマみたいなものだけど」

「普通は、こういうのを着るものなんですか?」

「普通……うーん、まぁ環境に依るから……」

「わたしは……服も全部庵が用意してくれていたので」

人里離れた場所に居を構えているのだろうか。

テレビなどでほかの子供を見たことがないのだろうか。

学校にちゃんと通わせて貰っていないのだろうか。

疑問が次々湧いてくる。

しかし橙は教師でも児童相談所の職員でもない。

「スカートも似合っているけど、動きにくいし冷えるからね」

リビングで邦子は買ってきた服を物珍し気に見ている。

「庵は泣かないでしょうか」

「……泣く……?」

「……いえ」

短い邂逅だったがあの余裕のある表情が崩れるところはあまり想像がつかない。

非道な暗殺者でも涙を流すのだろうか。

「どういう状況かはわからないけど今日はうちに泊って貰いましょう。一応ここはオーナーも魔術士だから安全よ」

 橙も不安ではあったが子供に当たっても仕方がない。

せいぜい事後に料金をふんだくるとしよう。


 邦子は家事も一通り覚えているらしかった。

自宅では神楽坂と当番制で生活しているそうだ。

手伝ってくれるのかと台所に入る許可を出したが、あっという間に主導権を握られてしまった。

米は土鍋で炊いているらしく炊飯器こそ珍しそうに見ていたが、邦子は橙より料理が上手かった。

橙の目の前でテキパキと料理が完成していった。

家事は全て神楽坂に習ったらしい。

「……あんまりあの人が家事をするイメージが湧かないわ」

「わたしよりは上手いですよ」

おからの和え物、みそ汁、鶏の照り焼き、カブの甘酢漬け

テーブルに並んだ料理の前で静かに邦子は手を合わせ、食事を始める。

「おいしい……」

「……」

「お風呂の使い方、終わったら教えるわね」

「はい、ありがとうございます」

綺麗な箸使いで楚々と料理を食べる。

余計なことは一切しゃべらない。

行儀がいいことだ。

ほんの少し絡みづらくもあるのだけれど。


・ ・ ・


 邦子と一晩過ごして分かったのは彼女にはあまり気配がないということだ。

意図的なのか無意識なのか本当のところはわからないが、鈴のない家猫より存在感が希薄だ。

ベッドで寝るように言ったのだが落ち着かなかったらしく、部屋の隅で縮こまり視覚を強化して本を読んで明かしていた。

朝部屋にいることに気づくまで家中を30分ほど探し回った。

「すみません。おとまり、慣れてなくて」

特に隠れたつもりはなかったそうだ。

息を殺して生活しているのかと心配になったがどうやら平常であるらしい。

「こっちこそごめんなさいね。さて、今日は何をしようか」

伸びをしてカーテンを開ける。

庵から爆発後連絡はない。

「とりあえず、逃げたほうがいいと思います」

「え」

防弾ガラスに、びしりと蜘蛛の巣状のヒビが走った。




 橙は非常時用の持ち出し鞄を引っ掛け、邦子の手を取り部屋を飛び出した。

エレベーターを避け階段で一階まで降り、倉庫から靴を取り出し履く。

邦子にも靴を履かせ息をつく。マンションの上階からは爆発音がした。

「あーもー、この時間からとか空気読みなさいよ……」

「大丈夫ですか?お部屋」

「いいのいいの、うちはいのちはだいじにがモットーだから」

発生した損害は全て神楽坂に請求するとしよう。

「はてさて、このまま知り合いのとこ行くのはまずいしどこに行くかなぁ……」

「すみません……」

「怒ってないよ。強いて言うなら神楽坂にはちょっと怒ってるけど」

まだ邦子が原因と決まったわけではないし、例え邦子が原因でも仕事のうちだ。責任を感じる必要はない。

「邦子ちゃん、海に行こうか?」


・ ・ ・


 コスプレの出来る漫画喫茶の更衣室で服をジーンズとラフなものに着替え、髪をまとめて帽子にしまうと邦子のシルエットは男の子になった。

買い物に行っておいて良かった。

逆に橙はウイッグをつけて婦人服を着る。

これでパッと見は親子連れに見えるだろう。

めくらましをかけて料金を払い、売店で軽食を買って近くの在来線に乗る。

「邦子ちゃん、大丈夫?眠くない?」

昨晩から寝ていない筈だが邦子の顔色は変わらない。

「3日くらいなら連続稼働しても大丈夫です」

どんな教育をしているのか!!

「大丈夫じゃないし、背が伸びなくなっちゃうわ。ちゃんと寝ないとだめよ」

「……背、伸ばしたくないのでいいです」

「成長期なんだから駄目よ」

「……」

邦子は喋らなくなってしまった。

手を取って電車を乗り継いでいく。

平日の日中になりどんどん人は減っていく。

海が視界に入る頃には乗客は一車両に四人ほどになっていた。

「降りるわよ」

邦子は静かに頷く。

駅は無人だった。行楽地とはいえ観光シーズンを外せばこんなものだろう。


「どうして、海に来たんですか」

機嫌を直したのか邦子は水平線に視線を泳がせている。やはりと言うか、来たのは初めてらしい。

「まず向こうにとってもこちらにとっても見晴らしがいい」

「……」

「次に周りに被害が出るものや高層建築が少ない」

「そうですか」

「おまけに申し訳程度だけど戦闘スタイルに合ってるってとこかな」

海風が橙のウイッグを撫ぜた。

雲は無く風は気持ち良い。

もう少し暖かければ泳がないまでも水遊びくらいできたのに。話をしていたら遠い所に連れて行ってあげたくなったというのは秘密にしておこう。

「道中今夜の宿はとっておいたから、後で向かいましょう」

追跡者の気配はない。

ありがたくも、どこか不気味だった。




 降りられる磯を見つけたので二人で降りてみる。

邦子は小さなカニを拾った棒で釣り上げた。

「邦子ちゃんは海に来るの初めて?」

「はい」

「彼とは出かけたりしないの?」

「仕事が忙しいですし、報復に巻き込まれるといけないと言うので」

波が打ち寄せ棒からカニが落ちた。

「そっか」

「橙さんは、わたしがかわいそうだと思いますか」

疑問、なのだろうか。邦子の問いは独白めいている。

「あなたが嫌なら、かわいそうだと思うわ」

「そうですか」

邦子が棒を放し立ち上がると、拍手の音が聞こえた。


彼は橙の結界をすり抜け、自然体に現れた。

「どなたですか」

金髪のイケメン。

勿論吾妻ではない。

神楽坂でも、ない。

身長は180以上は有りそうだし、少しくせのある金髪は脱色ではなく生来のものだろう。碧い瞳を彩る睫毛も色素が薄い。

こんな時期、こんな時間にこんなところにいるのは違和感の塊だが、そんなことより何より、そのハンサムと言っていい造形の笑みに固定化された表情はどす黒い血に濡れていた。

「ウィリアム」

日本語が通じるのか、男は柔和な声音でそう名乗った。



「家に襲撃に来たのもあなた……?」

英語のほうが良いだろうかとも思うがこの歳の魔術士なら翻訳術位使えるだろうと橙は日本語で尋ねる。

「スミマセンでした。玄関カラお邪魔するつもりデシタが庵に怒られて頭ぶつけちゃいマシタ」

少しカタコトの発音で男、ウィリアムは返してきた。

「ぶつけた……?」

橙のマンションはまず鳥よけに3枚の結界が張られ、ガラス自体にグラファイト構造を採用した上防弾・剪断対抗術が付けられている。通常頭突きどころかミサイルでも割れないガラスだ。一枚500万くらいするらしい。

ヒビが入る勢いでぶつかれば頭は潰れたトマトになる。

「ちゃんとピンポンするべきデシタ。ゴメンネ」

話しながらウィリアムはずっと笑みを崩さない。不気味だ。

「なんのご用、ですか」

「ナンテ事はない、邦子チャンを養女に迎えたくてね」


………………………………………………


「は?」

「嫌です」

慌てる橙に対し邦子は落ち着いた様子だ。

「ソウカ、残念。でも良いパパになれるよう頑張るネ」

パパ

「えっと……?話がわからないんですが……??」

「庵と結婚する予定だから、娘さんにご挨拶に来たんだヨ」


?????


 恋愛の形は自由である。

外国では同性でも籍を入れられるしあり得ない話ではない。

ないのだが……

「…………ウィリアムさんは神楽坂の恋人、なんですか?」

「まだ口説き落とせていないケド、ボクは失敗したコトないから」

えっ

付き合ってもいないのに!?

「えっと…………邦子ちゃん、邦子ちゃんは神楽坂の子供じゃないんだよね?」

「大人になったら結婚すると言われています」



………………………!?!?!?!?!????


「え、邦子ちゃん神楽坂の婚約者なの?」

「わたしは庵の所有物です」

「ナンダ。庵はロリコンだったのカァ」

なんなんだ、こいつら。

この場の倫理は始まる前から既に死んでいた。

「胃が痛い……おうちに帰りたい……」

橙は頭を抱えた。少なくとも邦子とは後で話し合う必要がありそうだが、当の神楽坂を抜いて話していい内容ではない気がした。

「ロリコンではないので大きくなるまで待つと言っていました」

「ええ……ウィリアムさん、邦子ちゃんはこう言っているのですが……」

「大丈夫だヨ。ボクは庵が他の誰を愛してもそのパートナーごと愛すると決めているからネ!」

「そういう問題では……」

「安心して。わかるまでちゃんとボクが愛を教えてあげるカラ」

橙は理解した。この男との会話は無駄であると。

「邦子ちゃん、最悪一人で逃げてもらうことになるかも……」

橙は後ろ手にスマホのロックを外し邦子に持たせた。使い方は分からないかもしれないがGPSは事務所のPCと端末から確認できるようにしてある。吾妻との合流には役立つだろう。

「ソロソロお話はオシマイでいいカナ?」

「っ」

声は橙のすぐ傍から聞こえた。

ぽんと肩に大きな手が置かれる直前、橙は反射的に邦子を庇い階段側にとび退く。

多少距離を離しても無意味。ということか。

「速いデスネ。感心デス」

「邦子ちゃんが嫌がっている以上、あなたにこの子を渡すわけにはいきません……」

圧縮して携帯している杖を元の大きさに戻し構える。並行展開していた肉体強化術でどこまで通じるか、橙の頬を汗が伝った。

「橙さん、自分が足止めしてわたしを逃がすつもりなら多分無駄です」

「聡明な子だネ。庵はそういうのが好みなのカナぁ」

ウィリアムは不思議そうな顔で二人に向かい手を伸ばし……固まった。


「見つけたぞクソ虫野郎」

カンと高い音を立て神楽坂庵は刀の鞘先をコンクリートの護岸に叩きつけた。

庵は夜通しウィリアムを探していたのか、身に着けたスーツは若干くたびれネクタイが曲がっていた。全身に殺気を纏い、瞳は血走っている。

「やぁ庵」

ウィリアムは蕩けそうに甘く歓喜の声を上げた。


「庵」

小さな邦子の声に、庵は眼を細め柔らかい笑みを浮かべた。

「おや、追いついてしまったのですね。まぁいいでしょう。柊君、邦子を連れて一緒にお逃げなさい」

庵はネクタイを締め直し、刀を鞘ごとベルトにつけられたホルダーに刺す。

次の瞬間庵の姿が掻き消え、海上に特大の水柱が上がった。


「行こう、橙」

邦子に袖を引かれ橙は階段を駆け上がった。

庵がウィリアムを蹴り飛ばしたのだと岩と護岸の削れた跡で理解する。

そして庵の反応を見てウィリアムの正体に思い至っていた。

もし彼が橙が知るウィリアム・タリエスその人ならば橙たちに介入する余地はない。


・ ・ ・


「あはははははっ」

水柱が上がり、海水を滴らせウィリアムが立ち上がった。整った顔にかかる髪を軽くかき上げる。どれほどの勢いだったのか顔の血はほぼ流れていた。

橙達に背を向けたまま庵はウィリアムと向き合う。

ウィリアムはゆっくり長い脚で水を割り岸に上がると、庵の足元に騎士然と跪いた。

「ああ……やっぱり庵、君はサイッコーだよ」

「…………気持ち悪い」

「昨日はほとんど喋れなかったね。久しぶり。愛してるよ」

庵は無表情でウィリアムを蹴りつけるが今度はウィリアムの片手がその足を抑えた。

「流暢に話せるのに何ださっきの茶番は」

「なんだ聞いてたんだ。盗み聞きするなんて庵はエッチだね」

「…………」

「女子供にはカタコトの方がウケがいいからね」

「カマトトぶりやがって」

「それはお互い様じゃないか。ふふ、ボクらはそっくりだ」

「虫酸が走る。ワタシは手前が大嫌いだ」

「怒った顔もかわいいよ」

ウィリアムが抑えた足にキスをするとますます庵は激昂する。

残像も残さず刀を抜き放ち頸に刃を走らせるもウィリアムは足を名残惜しそうに放しひらりと避けた。

「触るんじゃねぇ気色悪い」

「人の心は移ろいやすいものだよ。君はどうしたらボクに振り向いてくれるかな」

「有り得ないから手前が他の鞘を探せ」

庵の刀をウィリアムの手が弾く。

庵は動揺せず刃を返す。

ウィリアムの手には指輪が嵌っていた。ベージュより少し明るい色の石が銀の太い台座に埋め込まれている。

「詩的な表現だね。ロマンチックだ。知ってるくせにボクを焦らして、罪な人」

「気持ち悪いって言ってるんだよ」

「庵はボクが男だから嫌なのかい?」

「相手の気持ちを一切考えず自分の感情をひたすら押し付けてくる人間なんざ老若男女問わずお断りだダボ」

「恋は通じるまで一方的なものさ」

指輪で剣戟を全て受け止めウィリアムは幸せそうな表情を浮かべる。

指輪はウィリアムの杖であり、銘を【ストリキニーネ】という。

「久しぶりに庵と遊べてとても嬉しい。興奮で今夜は眠れないかもしれない」

「こっちは手前のツラなんざ二度と見たくもない。永眠してろやカス」

「君に出会ったあの日からボクの頭は君で一杯なんだけどな」


・ ・ ・

  

 もう10年以上昔の話になる。

ウィリアム・タリエスは当時ジュニアスクールの王だった。

文武両道才色兼備な人格者

教員・生徒・保護者のすべてがウィリアムを愛し、ウィリアムもその全てに平等に愛を注いだ。もし、冷静に外から彼らを見ることができるものがいたなら一目でその異常性に気づけただろう。

彼女は8人、彼氏も3人。

彼は魔術で人心を操る術に長け過ぎていた。

彼を愛するあまり両親は離婚したが全ての結果はウィリアムに不都合が生まれないよう調整された。

彼の在籍期間学内に一切の諍いは生まれず、彼の恋人達同士ですら口論の一つも生じなかった。

不気味に整った平和な世界。


 終わりの日は突然訪れた。

日の落ちかけた薄暗い室内。

老人の猛禽のような鋭い眼光。

細身だが均整のとれた体、筋肉はあるが枯れた腕と長い指、そこに握られた刃に滴る血液。

切り落とされたばかりの父の生首を見て、しかしウィリアム少年はそれを掴む老人に意識を奪われていた。

ウィリアムはその老人を今まで見たどんないきものより美しいと思った。

「なんだ。ガキもいたのか」

最初ウィリアムは老人がなんと言ったか分からなかった。次の瞬間距離は一瞬で詰まり、肉の落ちた指がウィリアムの首を手折ろうと掴んだ。

帰宅前に家主に書類を出そうとしたハウスキーパーが来なければウィリアムはそのまま殺されていただろう。


 或いはこの時庵がウィリアムの首を刎ねていれば、或いはウィリアムの人生初めての被虐が従軍など別な形だったなら、彼達のその後の人生は全く変わったものになったのかもしれない。


 表向き引っ越しを理由に、卒業を目前の学校を辞めたウィリアムは魔術に傾倒し、そこでも頭角を現す。

彼が20歳を待たずして立ち上げた宗教法人【新人類(NewHumanity)】は、現在アメリカでキリスト教に次ぐ2位のシェアを持つ宗教になった。


彼は3億の信者を救い800万人を殺した。

彼がアメリカ社会に与えた恩恵とダメージはどちらも莫大なものだ。


その点でも、ウィリアムは神楽坂庵にとても似ていた。


ウィリアム・タリエスは北米魔術協会に指定された国家3位の魔術師である。


 ・ ・ ・


岩場を抉り、テトラポッドを破砕し、闘いは続いた。


「あの時殺しておくべきだった」

「そうだね、運命の神に感謝しないと」

会話にならない会話の応酬に次第に庵の口数が減っていく。

刀は今日だけで二本折られた。今までウィリアムに折られた刀は16本になる。三本は持ち帰られ彼の寝室に飾られているのだが、庵はそれは知らない。

「八十九番」

二人を中心に半径1キロ程を不可視の波が打つ。

「結界?二人っきりで何をするつもりだい?ドキドキしてしまうよ」

「ぶっ殺す」

「庵もボクも同じ待遇、同じ格、ボクらは互いを殺せない」

「その中身のねぇ頭さえ送り返せば奴等も満足するだろう」

実際、国家間のパワーバランスに影響する術士には手出しをしないよう各国の協会同士は協定を結んでいる。庵とウィリアムは協会の規定で一応保護されていることになっていた。

協定は、結んでいる。

ただし指定の上位達の私闘を止められる人員は現実極めて少ない。


 護岸が抉れ、瞬時に修復される。

庵を中心に風が渦を巻いた。

「ああ、痛い」

言葉とは裏腹に甘い声を上げてウィリアムが手を抑える。

抑えられた手からは指が落ち岩に赤黒い染みを作る。

「……」

「ストリキニーネ、最高の気分だ。今を永遠にしよう!」

ウィリアムが両手を掲げる。十指がついた両手を。


 ・ ・ ・


 地形を砕き、互いの肉体を破損させる応酬の末、ウィリアムが庵を組み敷いた。

ウィリアムは蕩けそうな笑顔で庵を見下ろす。

「退け、クソガキ……」

「もう諦めなよ庵」

岩に深々と突き刺さるステンの棒、護岸に付けられていた手すりを変形させたそれで庵の両手は縫い留められていた。

「気絶するくらいには痛いはずなんだけど、やっぱり庵は凄いね」

「ぶっ殺す」

ウィリアムは庵にマウントを取り、蝶の標本を眺めるように彼を観察する。

「ねぇ、やっぱり結婚しようよ。絶対に幸せにするからさ」

「嫌だっつってんだろ✕✕✕」

庵が片手を引き千切り棒から逃れる。肉と血が零れても庵の表情には怒りしか浮かんでいない。

「ああ、逃げないでおくれ僕の蝶。君を傷つけたくないんだ」

ウィリアムが伸ばした腕が瞬時に炭化した。

獣の唸り声

「喰い殺せ」

主の声に呼応しウィリアムに喰らいついた炎の獣は、しかし今度は腕の一振りで吹き飛ばされ悲しげな声を上げた。

庵の使い魔である火狐だ。

「今日はいないなと思っていたけどひょっとしてボクを探していたのかな?」

熱源が1つ、2つと増えていく。

庵の傍に降りた熱源のいくつかは姿を溶かし無惨な手に同化する。

庵は修復した手でもう片手の棒を手ごと岩場から引き抜き、立ち上がる。

「空木、雛菊、すみません」

小さく呟く庵の手に新たな刀が収まる。その刀身は墨よりも黒い。

「前にボクの肋骨を折ったカタナだね!懐かしいなぁ」

ウィリアムの火傷も完治している。

「長丁場は好かない。今日こそ死ね変態」

狐火は陸地側から押し寄せ、時間差で追いついた狐達が二人を取り囲んでいく。



 そこでふいとウィリアムの動きが止まる。

視線は護岸の上。結界を突破し停まった車に向けられていた。

車からはサングラスをかけた女が降りた。

ゆるく巻かれたブロンド、スーツに包まれた凹凸のある身体。

ハイヒールで階段を危なげなく降りてくる美女もまた、異質。


「ロビン」

『帰りますよ。ウィル』

ロビンと呼ばれた女はため息をつきながらウィリアムに危なげなく歩み寄り、その両手に一瞬で手錠をはめた。

「ロビン、どうしてバレたの?まだ日本について2日なのに」

『貴方が一週間も行方不明になれば行き先は分かるわよ』

そのまま庵からウィリアムを剥がす。

『お疲れ様ですカグラザカ。ご協力に感謝します』

「ちゃんと、首輪を付けていただきたい……」

「庵がボクに首輪を?『ウィリアム、黙りなさい』

「ロビン、もう少しゴウニシタガッテ空気を読むべきだよ。あとちょっとで庵をゲットできたのに」

『貴方を性犯罪者にさせたくありません。帰りますよ』

ウィリアムはキョトンと軽く目を見張り、また笑顔を貼り付けた。

「またねー、庵♡」

『回収に来るのも大変なんですよ。一応確認しますがカグラザカ、米国に籍を移すつもりは』

「もう二度と来るな」


 車が出たのを確認し庵は片手に刺さったままの鉄棒を引き抜いた。

「八十三番、釣鐘」

血が吹き出す傷口に術をかけ無理やり止血。倉庫から手袋を出して被せ、形を繕う。

そこまでやり遂げ、庵は地面に転がった。

「疲れた……」



 ウィリアム達の乗った車が去るのに合わせるようにもう一台ワゴンがつけられ、橙と邦子が降りてきた。

おおかた協会の支部で出くわして一緒に来たのだろう。

仰向けのままの庵を邦子が覗き込む。

「庵、生きてる?」

「生きていますよ」

庵は力なく笑った。



おわり



本作はフィクションです。作中に登場する団体・人物およびその名称は実在するものとは関係ありません。



おまけ


〇冒頭のウィリアムのシーンは?

A.ウィリアムは北米魔術協会の決定で国外への渡航が禁じられてしまった為小型ヨットで太平洋を渡ってきました。もちろん密入国になるので犯罪です。


〇夜会の会場を破壊したのは?

A.もちろんウィリアムです。非正規の手段で密入国したので正規の手段で会場に入ることができず夜会の参加者にマーカーを仕掛け会場を特定し外部から建物を破壊し侵入しようとしました。もちろん犯罪です。


〇庵とウィリアムはどちらのほうが強いの?

A.ウィリアムです。

単純な直接被害者数でも庵は5桁、ウィリアムは6桁殺しています(組織的に800万人殺しています)

術師としての性質でも庵はウィリアムが苦手です。

設定はあるので機会があれば書くかもしれませんが本筋に関係ないので多分書かないです。

アメリカの1位は存在災害、2位は生きている死骸というのですがこの二人くらいでないとウィリアムを殺すのは難しいかもしれません。日本1位は接近戦に持ち込めば殺せるので庵を餌にすれば殺せるかもしれませんね。米国的に彼が制御出来なくなればそうするかも。


〇どうでもいいこと

庵の非公認ファンクラブ子狐倶楽部の会員No2はウィリアムです(No1は大体主催者)。

主催が変わっても伝手を駆使して頑張ってNo2を維持しています。なお庵は子狐倶楽部を定期的に自分で潰しています。


ロビン・ウッドワード

ウィリアムの初めての元彼女で腹心的存在。生きたまま別れた初めての存在で現在は教団でウィリアムの面倒を見ている。

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