第五章 被害者B

第49話 確証バイアス その1

「上手く、行ったのよね? 本当に全部、成功したのよね……!?」


 セレスティア・ティアラの引退配信、翌日。


 丈太のアパートで一夜を明かした私は、未だ一抹の不安を残したまま、しかしそれを顔には出さぬよう、彼と共にキャンパスでの一日を過ごした。


 17時前に彼がアルバイト先のコンビニに出向き、そして一人になった私は帰宅して、彼を入れたことのないこのガレージに――かつて父がホームジムとして、防音対策を施したこの空間に――またもや彼女を招き入れたのだった。


 結果を確かめるために。結末を報告してもらうために。


 先週まで私が使っていた配信機材は当然全て移動してある。よって、この部屋にあるのは、埃を被った父のパワーラック、ベンチ、ダンベル、そしてちょっとした棚とクッションくらいで。

 それを座布団代わりにして座る、その制服姿の女の子は。あの日、私達が初めて出会ったと同じ、小悪魔めいた笑みを浮かべ、


「うぷぷぷっ! ぜーんぶ計画通り、大大大成功ですよ! あはっ♪ よかったですね、ティアラせーんぱい♪」

「ほ、本当なのね!? これで、全部……やり遂げたのね、私達!」

「だからそうだって言ってるじゃないですかー。美夜せんぱいだって見てたんでしょ、わたしの最初で最後の生配信! あなたのスパルタご指導で『号泣』と『ありがとう』だけを五か月間も猛練習してきたんですから。ちゃんと評価してくださいよー、伴みやこ先生♪ うぷぷっ! いっぱいお名前があっていいですねー、まっかろんさん♪ ね、どう思います、京子さん♪」


 私の体は、崩れ落ちていた。


 緊張の糸が切れる――小説で何度も使ってきたその表現を、私は初めて体感したのだ。


 保科華乃の、そのわざとらしい煽り言葉は、それほどまでに私の心を軽くした。安堵させた。


 やったのだ……ついに成し遂げたのだ、私達は!


「うぷぷ! どうしました、京子さん? 最愛の彼ピからの疑いも晴れて、昨晩はパコパコやりまくりで足腰ヤバいって感じです?」

「いえ、今は射精管理中だから、ヤバいのは丈太の方じゃないかしら……。ていうか、あなたこそ初体験済ませてきたのでしょう?」

「そうですけど、それが何か?」


 華乃さんはケロっとした顔で言う。しかも、この前、闇猫から送られてきて私が放置していたフィナンシェをつまみながら、だ。

 最近の子にとっては、こんなものなのかしらね……。


「まぁ、いいわ。とにかく私も華乃さんも、完全に目的は達成したということね。あなたのセレスティア・ティアラもまぁ、悪くなかったと思うわよ」

「でしょー? ティアラちゃんそっくりだったでしょー!」

「そっくりも何も、私は配信で泣いたことなんてないんだってば。だからこそ号泣配信だけに絞って練習してきたのでしょう……本当、大変だったわよね……」


 ここまで来て、やっと私はため息をつくことが出来た。本当に長い道のりだった。


 ――五か月前――つまり、私が闇ノ宮美夜としてデビューして二か月、そのガワを放棄することになる一か月前だった。保科華乃と出会ったのは。


 『出会った』と称するのは、いささか過去を美化し過ぎかもしれない。実際は突然襲撃され、脅されたのだ。見知らぬギャル女子高生に。


 保科華乃は闇ノ宮美夜に送ったプレゼントにGPSを仕込んでいた。

 滅多にいない女性ファンからのプレゼントに喜んだ私は、まんまとそれを配信部屋であるここに飾ってしまったのである。


 私に刃物を突き付けながら、彼女が持ち掛けてきたこと。それは、「闇ノ宮美夜というアバターを自分に譲れ」という、とち狂った要求だった。

 私はそれを受け入れた。抵抗がなかった。ナイフなんて、いらなかったのだ。


 デビュー二か月にして、既に私は、VTuberを辞めたくて仕方なかったのだから。


「それにしても、阿久津純君……あんなに良い子が、闇猫のような気持ち悪いストーカーになってしまうだなんて、VTuberって本当に罪な存在なのね」

「あなたでしょう、その罪深いVTuber」


 理由はもちろん、ストーカーが、つまり闇猫が、怖過ぎたからだ。そんな闇猫に怯える私の様子を、恋人の丈太に怪しまれてしまったからだ。


 元々、子役時代の友人に勧められて受けたオーディションだった。趣味の小説投稿にPVすら全くつかず、承認欲求に飢えていた時期だった。そんな私にとって、中堅事務所からデビューした新人美少女VTuberという活動は、まさに麻薬のような中毒性があったのだ。


 初配信の前からツイッターでの投稿には多くのリアクションがあった。初配信には人気ネット小説の読者数を上回るような視聴者が訪れ、何の山もオチもない私の素人話を褒めに褒めて甘やかしてくれた。

 自分の発信を無視され続けてきた私のような人間に、あんな環境にハマるなという方が無理な話だ。


 ファンの反応に乗せられるがまま活動し続けた私の配信内容は、いわゆるガチ恋接客になっていた。

 昼間は最愛の彼氏とイチャイチャしているのに、毎晩20時を迎えた私は処女でウブで男友達もいない、楽しくお喋り出来るのは飼い主候補さんだけの、いつか現れるたった一人の飼い主さんを夢見る乙女、闇ノ宮美夜になっていた。


 それがいけなかったのだと思う。デビュー直後から、厄介気味なファンが何人も現れてしまった。私のことを本当に恋人か何かだと思い込んでいるんじゃないかと思えるようなメッセージの数々に恐怖を覚えた私は、活動の方針を変えることにした。


 ガチ恋接客から、やべぇ女への切り替えである。


 女子高時代にあんな友人達に囲まれていたこともあって、下ネタは苦手ではない。自分の性癖が歪んでいる自覚もある。美少女VTuberの下ネタや変態性癖話が持て囃される土壌がこの界隈にあることも学んでいた。


 結果的に、モデルチェンジは大成功。デビュー時からの方針転換やキャラ変なんて、この業界では何ら珍しいことではないし、ファンからの受けも悪くなかった。何より、狙い通りガチ恋勢の増加を防ぐことが出来たし、当初のガチ恋ファンの熱も徐々に冷めていってくれた。


 たった一人を、除いては。


『美夜の「キャラクター変更」は、迷惑な「厄介オタク」を「ふるい」にかけるため』。

 そこまで分かっていながら、その男は自分がまさにその厄介オタクであることの自覚がない。何のための「」強調だ。


『僕が「理解者」になったことで、やっと本来の「自分」を出せるようになったんだ』。

 逆だよ。


『処女を拗らせたが故の変態性癖と下ネタ好き。美夜のそういうところに呆れるけど、やっぱ「見放せない」んだよね、どうしても。出来の悪い「妹」っていうか?』。

 頼むから見放してくれ。妹的な存在に手紙やぬいぐるみやジェラートピケを送り付けてくるな。


 闇猫は、他のオタクとは一線を画していたのだ。その存在は私にとって恐怖以外の何物でもなく、端的に言って、ストーカーみたいなものだった。


 この時点で私は、自分の選択を猛烈に後悔していた。軽い気持ちで始めたVTuberにハマってしまい、そのせいであんな怖い思いをして。それでも誰にも相談出来なかった。


 闇猫は何か明確に不法行為をしたわけではない。ブロックしたり、事務所に何らかの対処を取ってもらったりして、彼を刺激するのも怖過ぎた。


 リアルな知人に相談するのなんて一番ダメだ。大事には出来ない。ただのストーカー被害ではないのだ。VTuberである私がファンから受けているストーカー被害――万が一にもそんなことを表沙汰にするわけにはいかない。


 丈太にバレてしまうからだ。


 闇ノ宮美夜というVTuberの活動は、私と丈太にとって、紛れもない浮気行為だった。

 そんなつもりじゃなかった。始めた頃は小説を執筆するのと同じような感覚だったのだ。創作活動と同じ類の趣味だと捉えていた。


 私は確かに小説のことは黙っていた。でも別に、何かのきっかけでバレてしまうのならそれでも全然構わなかった。そんなことで彼が私への想いを変えるなんてことあり得ないと、分かっていたから。隠していたのだって、小説内容がどうこうというよりも、単純に文章力の低さ、人気の無さが恥ずかしかったからというだけの話に過ぎない。


 一方で、VTuber活動に関しては、絶対にバレてはいけなかった。あそこまでファンにチヤホヤされてしまうこと、そしてそんな状況に自分がのめり込んでしまうことなんて予想だにしなかった。が、そんなことは言い訳にならない。自分が犯してしまったことは浮気だ。


 やべぇ女化した後の下ネタ系の活動なら一万歩譲って言い訳も出来たかもしれない。しかし、活動初期の、ガチ恋接客だけはどう足掻いたって言い訳不可能だ。私と丈太にとって、あれは紛れもない不貞行為。


 だから、私は何とかして闇ノ宮美夜を辞めたかった。いや、辞めるだけでは不十分過ぎる。

 白石京子が闇ノ宮美夜だったという過去を、事実を、抹消しなければならない。しかも同時に、ストーカーである闇猫を暴走させないような形で。


 無論、そんな都合の良い方法なんてあるはずがない――と、思っていた。


 そんなところに現れたのが、保科華乃だったのである。


 私と彼女の利害は、一致していたのだ。


「うぷぷ! でもここに来ると思い出しちゃいますねー。あの日はさすがのわたしも驚いちゃいました! 京子さんの美人さにもですけど、ナイフ突きつけられながら、あんな強気で交渉してくるんですもん」


 そう、私はあの日、私を脅そうとする華乃さんとの対話の中で、彼女自身の情報を引き出していった。

 華乃さん自身、さすがに平常心ではなかったのか、かなり饒舌だったことも幸いした。

 私への要求の端々から漏れる彼女の欲求を繋ぎ合わせて、ある仮定を導き出し、彼女に鎌を掛けたのだ。


「まぁ、高校生の恋心の暴走くらい、大人の私には簡単に分かってしまうのよ」

「カップルって性格まで似てくるんですね」


 彼女の目的が、「美夜に向けられた想い人の気持ちを自分のものにしてしまうこと」だと見抜き、そしてその想い人こそが闇猫であることまで私は看破した。

 まぁあの時点で本気で美夜にガチ恋していた人間と考えれば、真っ先に思い浮かぶのが闇猫だったというだけの話だけれど。


「ま、ずる賢さ、したたかさで言ったら丈太さんより京子さんのが全っ然上ですけどねー。簡単に操れた丈太さんと違って、あなたは対等な共犯者として組む価値がありましたよ」


 華乃さんの言う通り、私はこの狂人のただの被害者に成り下がるつもりはなかった。私が彼女の要求を飲む代わりに、彼女にも私の目的達成のために動いてもらう。そんな条件で私達二人は手を組んだのだった。


 私は愛する恋人との人生を守るためにVTuberという仮面を捨てる。華乃さんは恋する幼なじみを手に入れるために、その仮面を拾う――『闇ノ宮美夜入れ替わり計画』の始まりであった。


 しかし、そう単純には行かない。何度も言うように、私は引退するだけではダメなのだ。一度ネット上に発信してしまった情報を完全に消去するのは難しい。私が声を当てた闇ノ宮美夜という存在は半永久的にネットの海に漂い続ける。

 そんな中で、私が何かを隠していると疑っている丈太に対し、こちらから「何も隠してないよ? VTuberなんてやったことない」なんて当然言えるわけがない。自白したようなものだ。

 そして華乃さんも、闇猫――彼女の幼なじみの阿久津純――に、突然、「あんたの好きなVTuber、実はわたしだったんだ」なんて言っても信じてもらえるはずがない。そもそも声が全く違う。


 そこで私達が、いや主に華乃さんが編み出したのが、『ターゲット探偵化戦略』だった。


 ターゲット――つまり、丈太と阿久津君――自らの頭で、推理で、『真相』にたどり着かせるのだ。『闇ノ宮美夜の正体は保科華乃』だという真相に。


 人間は自分に都合の良いことを信じたがる生き物だ。

 丈太には敢えて一度、私がVTuberなのかもしれないという疑念を抱かせる。そして彼自身の推理でそれを否定させるのだ。丈太にとって、それこそが自分が求めてやまない結論になるはずだから。


「うぷぷっ! 京子さんにも見せたかったなー、純がドラマに酔って、ラブコメ主人公になり切っちゃってるあの光景! しょせんオタクですからねー。『僕の大好きなVTuberの正体が、実はツンデレ幼なじみギャルだった件』なんてラノベ展開にドーパミンが溢れ出ないわけがないんです!」


 人に言われたら信じられないようなことでも、自分の頭でたどり着いてしまったことなら、そうそう疑うことは出来ない。プライドが高い人間ほどその傾向が強い。


 そこまで行ってしまえば、あとはこちらのもの。多少の矛盾が生じても、丈太や阿久津君が、勝手に自らが掴んだ『真相』に都合が良いように解釈してくれるようになる。「全てバレてしまったのね……ごめんなさい、降参よ」と両手を挙げれば、こちらの動機や心情も、自分達の『真相』にピッタリ当てはまるよう、勝手に作り出して勝手に納得してくれる。私達は彼らの推理ショーに神妙な顔して頷いていればいい。


 この結末――彼ら自身が『闇ノ宮美夜=保科華乃』という結論にたどり着く――を実現するための、細かい戦術はまだまだたくさんあった。


 まず、この作戦の要となる戦術こそが、『グラデーション入れ替わり戦術』だ。


 すなわち、配信時の私の声を徐々に保科華乃のものに近づけていく。数か月かけて華乃さんの声を練習しながら、実際の配信にもそれを反映させていく。その変化が不自然にならないように――声音を変化させる口実を作るために――闇ノ宮美夜を辞めて新しいVTuber、セレスティア・ティアラになる。個人勢になれば、活動の自由も利く。


 私も完璧な保科華乃の声真似なんて出来ない。だが、完璧は必要ない。それっぽい声まで近づければ充分だった。あくまでも「保科華乃がVTuber配信のために作れそうな声」だと彼らの脳が納得出来る領域にさえ入れればいいのだ。


 そして華乃さんもまた、セレスティア・ティアラの引退配信までの五か月間で、セレスティアの声真似を猛練習する。


 当然、声真似なんてまともにやったことのない彼女にとって、そのハードルは私以上に高い。

 だから、そもそも美夜もセレスティアも出したことのない声を演じることにした。つまりは号泣だ。「もしもセレスティア・ティアラが号泣謝罪会見したら」という、もしも物真似で逃げる。正解なんて存在しない物真似なのだから、それっぽくありさえすればいい。

 あとはドーパミンに溺れた彼らの頭が、聞いたこともないセレスティア・ティアラの号泣に合わせるよう、勝手に脳内補完してくれる。


 それだけで充分ではあったと思うけれど、念のため、平常時のセレスティア・ティアラの声が華乃さんの口から発せられたという事実も準備した。

 ダメ押しとしても機能するし、万が一、疑念が生じてしまった際の既成事実も欲しかった。

 そのために「ありがとう」の五文字だけを華乃さんに五か月間、猛練習させた。

 号泣とは逆で、今度は保科華乃が絶対言わない五文字だったからだ。「保科華乃の地声による『ありがとう』は元からセレスティア・ティアラの『ありがとう』と同じ声だった」と彼らに勘違いさせるわけだ。


 もちろん闇ノ宮美夜を辞めるという手続きを踏んでまで、セレスティア・ティアラになった理由はそれだけではない。


 まず第一に、そもそも闇ノ宮美夜は白石京子という存在に繋がるボロを出し過ぎている。

 デビュー直後の私には不貞の自覚もなかったし、ネットアイドルとしてのリテラシーも低かったせいで、白石京子という影を隠すための努力が足りていなかったのだ。美夜の声自体、口調で誤魔化せてはいるが、セレスティアと比べても、ずっと私の地声に近い。


 だから、彼ら探偵の頭に『闇ノ宮美夜=京子』という仮定は植え付けたくなかった。『セレスティア・ティアラ=京子』という認識に置き換えてしまった方が、捜査をかく乱しやすかったのだ。そして同時に『セレスティア・ティアラ=闇ノ宮美夜』であることも強調して脳に刷り込んでおく。


 私達のゴールは、華乃さんによるセレスティア・ティアラの号泣引退配信。それを阿久津君には華乃さんの隣の家で生視聴させ、丈太には私の隣で生試聴させること。結果として彼らは、それまでに組み上げてきた『保科華乃=セレスティア・ティアラ』という真相に、100%の確信を持つに至る。


 その際に、これらの洗脳が効いてくるのだ。


 彼らは『保科華乃=セレスティア・ティアラ』かつ『セレスティア・ティアラ=闇ノ宮美夜』であれば『保科華乃=闇ノ宮美夜』であると、常識のように思い込んでしまう。


 実際は、保科華乃はあくまでもセレスティア・ティアラとして配信をたった一度、たった11分27秒こなしただけだ。彼女が闇ノ宮美夜であった時間なんて一秒たりとも存在しない。

 それなのに、彼らの調査の手は、認識の方向は、闇ノ宮美夜から完全に離れる。


 これにて、作戦は完遂である。

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