第42話 初めて聞く五文字

「華乃!!」

「やめて! 離して!!」


 肩を掴んで引き留める僕。振りほどこうと暴れる華乃。

 夜の住宅街。人気のない道を選んで逃げたのか、周りの目はない。


「落ち着けって! ここで逃げたって意味ないだろ。隣に住んでるんだから。同じ学校なんだから」

「じゃあ家出する! 学校も辞める!」

「何でそうなるんだよ……どうやって生きて、」


 いくつもりなんだよ、と続けようとして、言葉に詰まる。

 家出しても寝泊りする場所があるのか? 養ってくれる存在がいるのか?

 あるし、いる。

 初めからそういう奴なんだと自分に言い聞かせて、自分には関係ない存在なんだと納得したくて、そうしてこいつをビッチだと呼び続けてきたのは、僕自身だろ。今さらそんなことに痛みを感じる資格なんて、お前にはない。


 それなのに、こんな風になってしまっているのは、ドラマに酔ったあのバカップルに当てられたせいであって。目の前の女の子の表情がはっきり見えてしまうほどに、星が明るいせいであって。なのにこいつが、それを見せぬよう、必死で顔を隠そうとするからであって。


 だから僕は柄にもなくムキになってしまう。


「待てって! とりあえずこっち向け!」

「やだってば……っ」


 身を捻って逃げようとする華乃を、抱きしめるように引き寄せる。

 簡単だった。非力な僕でもあっさり支配権を奪えてしまうほど、幼なじみの体は軽かった。

 いつからだろうか。こいつから近づいてきても、言い訳を盾に触れてこなかったから、僕はその質量を知らなかったのだ。


 だからこそ、やりすぎた。過剰だった。そして華乃の方も、僕からの攻撃に対する対処法なんて知らない。一方的に攻撃ばかりしてきたから、身も心も簡単に崩されてしまう。


「やっ……!」


 デタラメに暴れた拍子に、首元のチェーンが揺れ。必死に隠そうとしていたであろう、そのチャームが胸元から飛び出し。そして僕の目の前に晒される。


 時が、止まったような気がした。


 僕も華乃も見つめ合ったまま固まり。

 何秒たったか分からないが、彼女の潤んだ目から雫がこぼれ落ちる寸前に、僕の方から口を開く。


「……何で、華乃が、これを……」


 僕が、ティアラに送った、オーダーメイドのネックレスを。何で、君が。


「……何でって……っ、こっちが……っ」

「え?」


 震える声の、その理由がまるで分からなくて。そんな僕の反応が、さらに華乃の繊細な部分に触れてしまったようで。


 僕の両腕の中で、華乃は顔を真っ赤にして――叫んだ。


「何でわたしが貰ったものなのに純の前でつけちゃダメなの!? VTuberに好きな人がいたらダメなの!? 何で!? どうして!? 頑張ってきたのに、何にも意味ないじゃん! 美夜ばっかり! ティアラばっかり! 何でわたしは純に――」


 そこまで一気に吐き出して、そこでハッとしたかのように目を見開き、そして恐る恐るといった様子で僕の顔を見上げる。


「ティアラ……なのか……? 華乃、が……?」


 ほんとごめん。

 悪いけど、君なんかより僕の方が、ずっとずっと取り乱してる。言葉を選ぶことなんて出来ない。


 思ったことを、そのまま吐き出してしまった。


「――――」

「否定して、くれないのか」

「……わかんないよ、何も……ティアラがわたしなのかって、そんなの……もう、わたしが一番わかんないよ……っ」


 俯いて、もはや項垂れて。そうして絞り出してくれた言葉は、とても曖昧で。それなのにその弱々しい響きは、もはや懺悔であって。告白であって。降参であって。


 要するに、全てを認めたようなものだった。


「……聞かせて、くれよ……どうして、そんなことを……」


 ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃだ。何もかも。自分の感情が分からない。聞いたところでどうする? どうなる? 怒るのか? 泣くのか? もしかして、喜ぶのか? 分からない。華乃は何が目的だった? 僕を痛めつけるため? 喜ばせるため? 何が起きてるのか。何が起きてきたのか。これから何が起こるのか。何かが起きたら僕に何かが出来るのか。何も分からないし何も分かりたくない。


「聞かせたら……わたしが説明したら……純は、それを信じてくれるの……? わたし自身が、整理できてないことなのに……?」

「どういうことだよ……?」


 僕の問いに、華乃は力なく首を横に振り、そして僕の肩をそっと押して、体から離れる。

 もはや僕も彼女を抱き留めておくことが出来なかった。その資格があるのかどうかすら、今の僕には分からなかった。


「明日。いつもの時間」


 僕に背を向け、華乃がポツリと呟く。


「ティアラの口から説明……にはならないかもだけど……でも、ちゃんと気持ちは伝えるから」

「いつもの時間に、ティアラからって、まさか……」


 20時。この半年間、いつもいつも僕が待ちわびていた、配信時間にってことか……?

 配信で、僕に向けて、ティアラが――華乃が、メッセージを……?


「……じゃ、そーゆーことだから。もうわたしら、必要以上に会うのやめよ?」

「え?」

「たまたまお隣に住んでる、たまたま年齢が同じの人間同士になるの。たまたま近所や学校で顔を合わせたら、会釈ぐらいは交わすかもしんない、その程度の関係にしようよ。卒業したら……うん、わたし、家出るから。それっきりにしよ」

「何でそんな話になるんだよ……」

「もう、会わせる顔がないから。ううん、初めからなかったんだよ。わたしには、あんたに見てもらいたい顔なんて。だから、たぶん、きっと、仮面を被るしかなかった」

「…………」


 僕の心に、人生で初めての感情が生まれていた。


 頼むから、前フリであってくれ。

 頼むから、その肩の震えが、笑いを堪えるためのものであってくれ。

 頼むから、あの嗜虐的な笑みで振り向いてくれ。

 頼むから、全てドッキリだったと言ってくれ。

 頼むから、ずっと僕を馬鹿にし続ける、最悪の幼なじみでいてくれ。


 頼むから。頼むから。頼むから。頼むから。


「でも、最後にさ。やっぱこれだけは、わたしの口から言わせて? 17年もいっしょにいて、初めて言うかもなんだけど」

「華乃。いい、何も言わなくて。ティアラのこともいい、説明しなくて。全部忘れるから。全部忘れて、また元に戻ろう。僕はただのティアラのガチ恋厄介オタクで、君はそんなオタクの幼なじみを馬鹿にする、ただの可愛い女子高生で、」


「ありがとう。純。……うん、それだけ」


「――――」


 それは、正真正銘、幼なじみの口から聞く初めての五文字で。それが「さようなら」じゃなくて良かっただなんて思うのは現実逃避にもならなくて。きっとそれは別れの挨拶なんかより、ずっとずっと最後の言葉に相応しくて。


 そんなことよりも何よりも。そんな感傷を全部吹っ飛ばすくらい強烈に、僕の鼓膜を、脳を、心を揺らしたのは――


「ティアラ……!」


 その五文字を乗せた彼女の――どうしようもなく、甘く尊い――僕が恋した、セレスティア・ティアラの声だった。

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