第34話 白石京子

「ごめんなさいごめんさないごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「うん、まぁ、いったん落ち着こ? な?」


 安アパートの一室。俺の部屋。

 カーペットにペタンとお尻を落として座る京子は、頭を抱えてずっと俺に謝り続けている。俺が差し出したいつもの猫の湯呑みにも、今は口をつけようとしない。


 あの教室で突然発狂し、そして壊れたように泣きながら大爆笑し始めた京子を俺が回収してここまで連れてきていた。

 教室中の人間たちが唖然として俺たちに釘付けになっていた。同じ趣味の同志ということもあってなのか、カメラを向けてくるような人間がいなかったのは幸いだったが。場所が場所なら、あんな風に壊れた絶世の美女の画なんて、バズを狙う大学生たちの恰好の的でしかなかっただろう。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「うん、謝らなくていいから。な? ちゃんと話そうぜ。な?」

「捨てないで捨てないで捨てないで捨てないで捨てないで捨てないで」

「そういうことではなく」


 仕方ない。こうするしかないか。


 俺はいつも通り京子の唇にキスをした。

 俺の乱れた感情がビンタによってたいてい修復できるのと同じように、京子が取り乱したときには俺のキスでだいたい解決できる。この場所で初めて体を重ね合わせたときも、緊張と恥ずかしさでいろいろ暴走し始めた京子を何度もキスで宥め続けたおかげで、一生忘れられない経験にできた。と勝手に思っている。


「…………っ、ん……っ」


 唇を離すと、京子は名残惜しそうにこちらを見つめ、甘い吐息を吐く。潤んだ瞳、染めた頬。いつもならこのまま、俺も京子も止まらなくなっていたはずで。

 だが、今はその時じゃない。「今は」で、あってほしい。明日からはまた、これまでの関係に戻りたい。


 それを決めるのも、これから始まる話し合い次第なのだ。


 俺は、ローテーブルを挟んで京子の正面に座りなおす。

 何とか最低限の正気を取り戻した様子の京子も、伏し目がちでありながら、姿勢だけはやはりいつもの京子だ。マナー講師も土足で逃げ出す完ぺきな正座である。


「これが、最後になってしまうなんて……私、やっぱり嫌よ……」

「俺だってそうだ。京子と別れるなんて絶対嫌だ。だから、ちゃんと確認したい。ちゃんと、話をしよう」


 京子がコクリと首肯する。


 ――思えば、俺はあまりにも独りよがり過ぎたのかもしれない。

 京子があんなことをしていたなんて、絶対に許せないし、俺の価値観ではあんなのは間違いなく裏切りであって浮気だ。

 でも、京子も同じ認識でいたなんて、どうして言い切れる? そんなの俺の願望であって、理想の押しつけでしかなかったんじゃないか?


 もしも、京子にとって、アレが浮気のつもりでないというのであれば――何か特別な思い入れがあるというのであれば――ちゃんと耳を傾けるべきだ。

 そして俺も、「俺にとってアレは浮気されてるとしか思えない」と、ちゃんと伝える。

 そうやって、互いの気持ちをすり合わせて、落としどころを見つけていく――それが、大人の恋愛というものなんじゃないだろうか。家族の営みというものなんじゃないだろうか。


 そう、俺はただただ――子供だったのだ。


「京子。正直に、お前の気持ちを話してくれ。どんな言葉が返ってきても、俺はちゃんと受け止める。感情的に拒絶したりなんて、絶対しない。確認し合おう、お互いの気持ちを」

「丈太……っ! ありがとう……本当に、あなたに出会えて……あなたを選んで……あなたに選んでもらえて……良かった……!」


 そうして、俺は訊く。ずっと訊きたくて、ずっと聞きたくなかったことを。勇気を振り絞って、俺は初めて、恋人と、真っ正面から向き合うのだ。


「京子、お前がセレスティア・ティアラであったことは、お前にとって、浮気には当たらなかった――そういうことなんだな……?」

「ええ。確かに私にとって小説はとても大事なことで、でもやっぱり恋人があんなものを書いていたと知ったあなたの気持ちも――…………え? なに? ごめんなさい、緊張してしまっていて……よく聞き取れなかったかもしれないわ。もう一度言って?」

「ああ、何度でも言ってやるさ。もう俺は逃げない。京子、お前がセレスティア・ティアラであったことは、お前にとって、浮気には当たらなかった――そういうことなんだな……?」

「…………は……? セレス……なに?」

「いいんだ、京子。もう全部わかってる。これ以上、俺たちの間に誤魔化しは必要ない。お前にとって、セレスティア・ティアラであることは、どういった意味があったんだ?」

「セ……セ? え? セレスティナ……ティナナ……?」

「とぼけるなって、ここまで来て。セレスティア・ティアラだよ、セレスティア・ティアラ!」

「は……はぁ? ちょ、ちょっと待って。何か思っていた展開と全然違う。珍妙な呪文で呪いを掛けられている気分」

「いい加減にしろよ! 全部知ってるって言ってんだろ! 京子がセレスティア・ティアラになってセレスティア・ティアラのキモオタたちをティアシコさせまくってるセレスティア・ティアラ切り抜きチャンネルの動画が百万再生超えてることまで知ってるんだからな俺は!」

「私にとっては、全然知らない摩訶不思議な単語が飛び交っている状況なのだけれど!?」

「知らないわけねーだろ! お前がセレスティア・ティアラなんだから!」

「セレスティア・ティアラって何!?」

「闇ノ宮美夜だよ!!」

「やみのみやみや!?」

「闇ノ宮美夜!!」

「やみのみやみや!? 誰!? ていうか何!?」

「お前だよ!!」

「ええー……なにこの怪談、世界一こわい……」


 もはや俺たちは立ち上がり、掴みかからん勢いでまくし立て合っていた。大人の話し合いはどこ行った。

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