メルティーキッス

うみべひろた

メルティーキッス

 そもそも私が姉に聞きたかったのはアーモンドチョコレートの作り方だった。


 それだって本当は、姉になんて聞きたくなかった。

 誰か他の人に教えてもらいながら作りたかった。

 だけど友達に作り方を聞いて回ったら、


「知らない」

「なんか、すごくめんどくさいらしいよ」

「チョコレートなんて溶かして固めるしかやらないし」

「私なんてイオンでゴディバ買って終わりだし」

「ゴディバすごっ。コージーコーナーので良くない?」


 そんなのばっかで誰も教えてくれなかった。

 でも、どうしてもアーモンドチョコレートを作りたかったんだ。

 バレンタインまでに覚えたかった。

 せっかく作って渡すなら、自分が好きなものをあげたい。たくさん作って一緒に食べたい。




 6歳年上の姉は、お菓子と料理を作るのがとても上手だった。

 もう全然作ってくれないけれど、姉の作るシフォンケーキがとても好きだった。


 何年前のことだろう。姉の後ろに立って焼けるのを眺めていると、突然聞かれた。

「分かる? シフォンケーキをおいしく作るコツ」

「砂糖いっぱい入れるんじゃない? 甘くておいしくなりそう」


 適当に答える私を姉は笑った。

「お子ちゃま、だねー。ダメだよ砂糖なんて。入れ過ぎると焦げちゃう」


 甘いだけの恋なんて、すぐ燃え尽きちゃうんだから。


 って、その言葉が何故か今でも忘れられない。

 まだ私は、あの時の姉の年にさえ追いついてない。


「シフォンケーキのおいしさは、香りと口当たりで全部決まるんだ」


 だからさ。

 って、私の口にスプーンを突っ込んでくる。

「ちょっと……って、何これ? すっごく、甘い」


 それは、春の青空の下。地平線の向こうまで続く花畑を丸ごとキャラメルで固めたみたいな。

 甘くて。

 ふわふわして。

 暖かい香り。


 「知らなかったでしょ。でもさ、タヒチ産のバニラを知ったら、もう戻れないよ」




 バレンタインにはブラウニーとかショコラムースとか。毎年のように新作を出してきていた。

 余った分をいつも味見させてくれて、そのおいしさにいつも感動していた。

 その中でも、いちばん好きだったのがアーモンドチョコレートだった。


 売っているアーモンドチョコみたいな、すべすべしたきれいな卵型じゃない。

 形は不揃いだったし、ごつごつした岩みたいだった。けれど、とてもおいしかった。


 甘ささえ感じるその香り。

 口に含んだら、チョコレートは奥深くまで華やかに輝いていた。

 考えたくはないけれど。あの味は、確かに姉そのものだった。


 私にとって、チョコレートの理想はそれ。

 確かにあのとき、タヒチ産バニラの味を知ってから。私はずっと抜け出せていないのかもしれない。


 だから本当ならば、最初から姉に聞けばよかったのだ。

 あれの作り方を教えて、って。

 でも、あんまり。そうしたくはなかった。できれば避けたかった。




 19時前に家に帰ってきた姉は、ただいまーと靴を脱ぎ捨ててそのまま自室にこもってしまった。

 多分もう、こうなったらいつも通り。夕飯まで出てこない。


 だから私は姉の部屋へと向かう。

 最近は自分から姉の部屋まで出向くことなんてなくて、なんだかすごく足が重い。

 でもこんなの、親の前でしたい話じゃない。聞く相手が姉であるならばなおさらだ。


 階段をそろそろと上って、ずっと奥にある姉の部屋の扉。

 閉め切られていてわずかな音さえも出てこない。

 何してんだろ。


 意を決して、こんこんとノックする。

 待ってみたけれど返事がない。


 焦れてもう一度扉を叩こうと掌を上げる。

 そして振り下ろそうとしたときに姉が出てきた。部屋の中からふわりとローズの香りが流れ出る。


「ん? アンタどうしたの?」


 Bluetoothの無線ヘッドホンをつけた姉は、既にスーツからジャージへと着替えている。

 ユニクロで買ってきた赤いジャージ。やる気ないほうの姉。

 この人、もう絶対に部屋から出ないつもりだ。


「えー……っと」

 時間ある? とか聞いたら、この人はめんどくさがってそのまま扉を閉めてしまうだろう。

 絶対に教えてくれない。だからもう迷っちゃいけない。


「教えてほしいことがあるの」


「今忙しいんだけど」

 姉はくるりと後ろを向いて、後ろ手に扉を閉めようとする。

 いや、どこからどう見ても暇でしょ。


「ごめん、すぐに終わるから聞くだけ!」

 慌ててこちらからもドアノブを引っ張る。「チョコレートの作り方を教えてほしいの!」


「ん? チョコレート?」

 姉は驚いた表情でこちらを見る。

 ドアを閉める力が緩んで、引っ張っていた私は転びそうになる。

「そう。いつか作ってくれたアーモンドチョコレート」


 姉は腕を組んでしばらく考え込んでから、

「何? アンタ、オトコ出来たの?」ってにやりと笑った。

「バレンタインの前日、人が頑張ってチョコを作ってる横で、テレビ見ながらげらげら笑ってたアンタにも。高3になって、ようやく」


 思わず言葉に詰まってしまう。

 やっぱり姉はこうだ。

 こういう話が大好きで、事あるごとにそんな話を面白がって私に投げつける。


 そんなとき、私はいつも黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

 人に自慢できるような恋愛なんて、そんなのしたことないから。

 たまに反撃して聞き返したって、姉の口から出てくるのはいつも違う男の名前だった。

 そして決まって言われる。「だから、アンタはどうなの」って。


 そうなってしまったら、もう勝ち目はないのだ。


 だいたいバレンタイン前にこんなことを聞くなんて、目的が見え見えすぎる。

 だからイヤだったんだ。


「オトコなんてできてません」

 できてないから作るんです。チョコを。


「ふーん。若いねぇ女子高生。まぁ頑張るがいいさ」

 姉はにこにこと頷いている。何に頷いているのかはわからない。「でも残念だけど、アーモンドチョコはダメだよ」


 その言葉に私は反論する。「なんでダメなの。私はあれが好きなの」

「アーモンドチョコはすっごく手間がかかるし難しいの。アンタ、ちゃんとお菓子作ったことなんてないでしょ。一度も」

「……溶かしたガーナで星形のチョコレートなら作れる。作った」

「百均のシリコン型でやってたね。そのチョコレート、なんていう名前か知ってる?」

「いや、チョコはチョコだし」

「ガーナっていうんだよ」


 確かに。ガーナは食べても溶かしてもガーナだった。


 あまりにも姉のお菓子がおいしすぎたから、私はずっと食べるほう専門だった。

 練習したって、絶対に姉よりもおいしいお菓子は作れないと思ったから。


 あれ? だとすると、私がお菓子を作れないのはある意味で姉のせいなんじゃない?

 って言ったら、どんな反撃を受けるか分かったものじゃない。

 面倒だから黙っておく。


 別にアンタでも頑張ればそれなりにはできるだろうけど。

 姉は言った。


「確かに、アーモンドがキャラメリゼされていく姿はとても美しいよ。魔法で黄金色のドレスをまとったシンデレラ」

 でもさ。姉は私の目を真っすぐに見つめる。

「バレンタイン用だったなら。アーモンドチョコレートって、作るのが大変な割に得るものがとっても少ない。なんでだか分かる?」

 私は首を振る。

 姉はふふっと笑う。人差し指を私の鼻の前に差し出す。


「味覚がお子ちゃま過ぎるの」


 その姉を、私は見上げる。

「あんなに華やかなチョコレートなのに」

 輝いた味のアーモンドチョコレート、私の理想のチョコレート。それをお子ちゃまって。


 そりゃ、姉に比べれば私はまだ小さいには違いないけれど。


「チョコレートだけじゃ飽きちゃうからって、余計なものまで混ぜ込んじゃう。あれもこれもって求め過ぎるから全部がぼやける。ダメだよそれ。あなたが食べてほしいのはチョコレートなんでしょ? 甘くて、とろける、チョコレート」


 姉は笑った。ぽってりとした唇がつやつやと光っている。

 最近よく使っているというピンクローズのグロス。

 メイクが上手いのか、素材のなせる業か。いずれにしても、私ではこうはならない。


「チョコレートはキスと同じ」

 その唇はつやつやと動く。姉の部屋から漏れ出る光を弾きながら。

「せっかくバレンタインにあげるんだから。いちばんふさわしいチョコレートを教えてあげる」


「いちばんふさわしいチョコレート? なにそれ」

 そんなものがあるのか。


「言ったでしょ? チョコレートはキスと同じ。いちばんいいチョコレートはつまり、いちばん気持ちいい大人のキス」


「……分からないよ」

 キスなんてまだしたことのない私には、その感覚がどんなものなのか分からない。

 でも多分それは、ただ唇を合わせるだけのキスとは違うのだ。

「分からないなら教えてあげる。本当に気持ちいいキスを」


 部屋の中と外、私たちの間にあった一歩分の距離。

 それは姉の長い脚で簡単に詰められてしまう。

 私の鼻先を姉の長い髪が撫でて、ローズの香りがふわりと漂う。


 それはとても良い香り。

 タヒチ産バニラを思い出す。

 青空の下、地平線まで続く花畑。


 目を閉じて、と姉は言った。

 え、嘘でしょ、と思いながら、それでも私はその引力に抗うことができない。

 視界は姉によって完全に閉ざされて、心臓がどくんと脈打って、

 暖かい体温が近づいてきて、

 私の唇に何かとても甘いものが触れた。


 そのまま私の唇を割るように、ぬるりと滑り込む。

 出そうとした声は虚空の中へ霞む。


 熱い。


 それは甘さの記憶だけを残して、熱の中へ溶けてしまう。

 まるで最初から私の中で溶けることを、私と一緒に溶けることを約束されていたように。

 甘くて熱いチョコレート。


「……何これ」


 口の中にはまだ熱を持った甘みが残っている。

 押し込まれたチョコレート自体は一瞬で溶けてしまったけれど。


「メルティーキッス。知ってるでしょ?どこにでも売ってる普通のチョコだよ」


 自分の指にくっついたココアパウダーをぺろりと舐め取って姉は言った。

「バレンタインにふさわしいのは生チョコレートだよ。市販品だけど、溶けていくみたいな味のチョコ」


「なんで生チョコなの? 他にもおいしいのはいっぱいあるのに」

 まだ心臓のどきどきがおさまらない。

 それを隠したくて私はとりあえず言葉を発する。


「キスって、なんで気持ちいいか知ってる? 唇が触れるからだよ。他は全部、混ぜ物に過ぎない」

 お腹のポケットからメルティーキッスの袋を取り出して、姉は自分の口へも放り込む。


「教えてあげる。口に入れた瞬間に溶けていく、甘くてやわらかい生チョコのレシピを」

 姉は言った。


「……えーっと、それって、難しいの?」


「簡単だよ。やる気さえあれば誰にでもできる」

 今日はもう疲れたから明日。と、姉はヘッドホンを再びかぶる。「本当に気持ちいいキスをつくるのは、技術じゃなくて気持ちなんだから」


 じゃ、と手を振って。

 姉はポケットからもうひとつメルティーキッスを取り出してこちらに放り投げる。

 金色のパッケージは緩やかな弧を描く。

 私と姉の間にきらきらと光をなびかせて、私の両手の中に収まる。


 ゆっくり閉まる扉を、閉じた後もしばらく眺め続けた。


 結局また、姉のペースだ。

 目的さえ変わってしまった。


 金色のパッケージを破る。

 さっき姉がしてくれたみたいに、キューブを口の中へ押し込む。


 そう、確かにメルティーキッスはおいしかった。

 まず最初に感じるのは熱の奔流。どうしようもなく熱く、強く、私をとろかし押し流そうとする巨大な波のうねり。

 次に感じるのは抗いきれない甘さ。私の身体すべてが、そのただ一点の感覚だけを味わい尽くそうとする。全身の感覚がそこに集中して、一瞬のあとに身体じゅうに広がる。春の桜のよう。全身が甘い。

 最後に残るのは気怠さ。熱と甘さですべての酸素が焼き尽くされたみたい。息は早くなって心臓は大きく打ち始める。


 そもそも私が姉に聞きたかったのはアーモンドチョコレートの作り方だった。

 だけど私はもう戻れない。

 今は、どこまで行ってもやわらかく熱いメルティーキッスが、とても甘くて愛しい。



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