第10話 さよなら、お母様

 メイドと執事、コックへの挨拶を済ませて……アンリエッサは母親の寝室に向かう。

 寝室の前にはメイドが立っている。アンリエッサが入りたいといっても聞いてはくれないだろう。


「はいはい、失礼しますねー」


「あ……」


 見張りのメイドに術をかけて眠らせる。

 彼女は基本的に母親付きなので、アンリエッサと関わりはない。

 恨みもないため、虫に好かれるようにはしていなかった。


「鍵がかかっていますけど……開錠開錠」


 鍵はメイドが持っていた。

 スカートのポケットに手を突っ込み、不躾に奪い取る。


 アンリエッサの母親……名前はアリーシャベル・アドウィル。

 とある子爵家の生まれで、アドウィル伯爵家に嫁いできた。

 彼女には三人の子供がいる。ルークスタンとマリアベル、そしてアンリエッサである。

 十代の子供が三人もいるのだから、さぞや子育てや教育は大変だろうに……アリーシャベルは基本的に自室から出てくることはなかった。

 彼女と会うためには、こうして部屋に侵入しなくてはいけない。


「失礼いたします。お母様」


「~~~~♪」


 鍵がかかっていた扉を呪術で開くと、アリーシャベルはベッドの上で子守唄を歌っていた。

 長い白髪の女性である。顔立ちは整っているが全体的にやつれており、まるで枯れ木のように細い。


「お久しぶりです。お母様」


「~~~~♪」


 アリーシャベルはアンリエッサに気がついた様子もなく、子守唄を歌い続けている。

 そして……ベッドにいて上半身を起こしたアリーシャベルの両腕には、金髪の人形が抱きかかえられていた。

 アリーシャベルは人形をあやして、ひたすら子守唄を口ずさんでいる。


「……相変わらずですか。貴女はまだ彼岸の世界にいるんですね?」


 アリーシャベルは五年前から心を病んでおり、何を話しかけても反応しなくなっていた。

 原因は……アンリエッサが魔力無しと診断されたこと。

 通常、高い魔力を有した貴族の夫婦に生まれた子供は同じように魔力を持っている。

 魔力が少ないということはあっても、ゼロということはまずないのだ。

 しかし……アンリエッサは魔力無しと診断された。

 これにより、アリーシャベルは不貞を働いたのではないかと疑われてしまったのである。


『違う……違う、違う……これはアンリエッサじゃないわ。だって、私は不貞なんてしていないもの……!』


 周囲から向けられる白い目に耐え切れなくなり、アリーシャベルは心を壊して夢の世界に閉じこもってしまった。

 周囲の声に耳を貸すことなく、人形の『アンリエッサ』をあやしているのである。


「……貴女に対して、特に恨みはありません。むしろ、私のためにこんなことになってしまって申し訳ございません」


「~~~~♪」


「もしかすると、顔を合わせるのはこれが最後かもしれませんので一応は言っておきます。産んでくれてありがとう……貴女のおかげで私は人生を取り戻すことができます。今度こそ、自分の思うがままに生きられる」


 だから、ありがとう。

 もう一度お礼の言葉を告げて、アンリエッサは母親に背中を向ける。

 次に屋敷に戻ってくるのはいつになるかわからない。日に日に衰弱しているのを見るに、もはやアリーシャベルと顔を合わせる機会はないかもしれない。

 アリーシャベルが心を壊したことがアンリエッサが虐げられる原因になっているのだが……そのことに恨みはなかった。申し訳なさが勝っている。


「~~~~♪」


「…………」


 案の定、反応のない母親は子守唄を続けている。

 予想通りの反応にアンリエッサは溜息を吐いて、ドアノブに手をかけた。


「いってらっしゃい、アンリエッサ」


「!」


 しかし、背中に小さな言葉が投げかけられた。

 振り返ると……アリーシャベルは先ほどと同じくベッドの上。人形を抱きかかえて歌っている。


「…………空耳ですか?」


「~~~~♪」


 答えはない。

 だが……これで十分だった。

 アンリエッサは少しだけ気持ちが軽くなった心境で、母親の寝室から出ていったのである。






――――――――――

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