1-2 神隠し(2/2)
葉月と帰ってきた数日ぶりの我が家。
彰人は息子の好きな菓子をたくさん用意して息子の無事の帰還を祝った。
「葉月、偉かったな。好きなだけ食べていいんだよ」
星屑のようにきらきらした金平糖、葉月のほっぺたくらいに大きな豆大福餅、可愛らしい形の練り切り、琥珀糖、色とりどりの落雁。
「わぁ……!」
葉月は目を輝かせて感嘆の声を上げた。
「ありがとう!お父様!」
葉月は小さな口いっぱいに菓子を頬張る。
多少行儀が悪くても今日は特別だ。
「おなか空いてたのか?晩御飯も葉月が好きなものにしよう」
息子が一番好きな豆大福をひとつぺろりと平らげ、ふたつめも口に入れるのを微笑ましく眺めていた。
しかし葉月の様子がなにか妙だ。
もぐもぐ頬張りながら不満そうな表情をした。
「葉月、どうかしたのか?」
彰人は我が子に声をかける。
「疲れたのか?お茶も飲んでいいよ」
「うん……この大福、なんかちがう?」
葉月は大福を半分残して首を傾げていた。
「違うってなにが?」
「食べた感じがしない。なんか違うけど、わかんないの」
「?」
葉月は戸惑っているようだが、彰人にも意味が分からず首を傾げるしかなかった。
○ ○ ○
それからの葉月はぼんやりしていることが多くなった。
いつもなにかしら遊びを探している活発な子だったのに。
拐かされていたことによる精神的な疲労だろうか。
それだけじゃない。
どれだけ食べてもお腹がいっぱいにならないと言って不満げにしている。
「もっと食べたい。お腹空いた!なんか変なの!」
「どこが変なんだ?」
「わかんないよぅ!お腹すいた!」
彰人は困り果てた。
夜遅くのことだ。
食事を作ってくれる家政婦はもう帰ってしまい、食べれるものはぜんぶ食べて飽きてしまったと駄々を捏ねる。
「じゃあお茶漬けを作ろう。お父様は下手なんだけど」
仕方なく慣れない前掛けをして台所に入る。
「海苔はどこにしまってあったかな……」
食糧庫をあさり、葉月に背を向けてしゃがんでいたときだ。
突然葉月が後ろから抱きついてきた。
甘えているんだと思ったが何か様子が違う。
そのうえ彰人の方も身体が硬直して動けない。
首筋に鋭いなにかが食い込む感覚。
でも嫌ではなく不思議な光悦感が体を満たす。
「――ッ!」
ドロッと血が溢れそれを舐め取られているのが感触が伝わってくる。
気が遠くなりかけたときようやく身体が動き元に戻った。
「――ハッ!」
(なんだったんだ、今の)
振り向くと顔を真っ青にした葉月が立っていた。
ひどく驚き戸惑っているようだ。
しかも口の周りには血がついている。
「ごめんなさい、わからない……」
「葉月、怪我したのか?どこが痛い?」
初めは葉月が口に怪我をしたんだと思った。
でも違うようだ。
「葉月なんか変なの。なんでかわかんないよ」
彰人も初めて見る葉月の戸惑いの表情に驚いた。
自分の首筋に違和感を感じて触る。
「血が……どうして?傷もないのに」
わけも分からず混乱するばかりだ。
「お父様、もっとしてもいい?」
「え?」
次に顔を上げたとき、すっかり別人に変わった我が子の表情にゾッと背筋が凍った。
でもすぐに元に戻り「違う、もうしたくない!」と言って逃げていった。
***
次の日。
何を食べてもひもじいと言う葉月のために市場へ食材を買いに行った。
野菜や魚、焼き芋や駄菓子、乾物に輸入品のビスケット、あらゆるものが売っている。
甘味屋へ連れて行き餡蜜や汁粉なども注文した。
だが葉月は首を振るばかりで「違うの」と言う。
彰人もだんだん疲弊してしまい「何が食べたいのかはっきり言いなさい。よく考えて!」と口調が強くなってしまった。
「もう帰るけどいいのか?」
「うっ……」
葉月はついに泣き出した。
「だって、欲しいけど、やっちゃダメっていうもん!」
「誰が言うんだ?」
「だってこんなことしないよぅ!変だって言われるもん!」
「何言ってるんだ?わかるように言って」
「噛みついて血を飲みたいの。でも、葉月も変だって思うの」
「はあ?」
彰人にも訳が分からず、おかしな反応をしてしまった。
本当に我が子が何故こんなことを言うのかが分からない。
「お父様、してもいいって言う?」
「それは……」
たしかに、道徳的にしてはいけないことだ。
人に噛みついて傷つけるなんて。
でもその言葉で漸く葉月にされたことに気がついた。
(昨晩もそうやって私の首に噛みついていたのか)
でも傷はついていなかった。どういうことだ?
「帰りたい。人がいっぱいいるから葉月我慢するのが嫌なの」
葉月はぐいと強い力で彰人を引っ張った。
「葉月、ちょっと待って――!」
それも今までの葉月と同じとは思えないとても強い力だ。
そのまま葉月に引っ張られて走って家に帰った。
彰人もすっかり息が上がって草履も脱がずに玄関にへたり込んだ瞬間、正面から葉月に抱きつかれた。
「うわっ!」
勢いで後ろに倒れてしまう。
上にかぶさった姿勢のまま葉月は父の喉笛に噛みついた。
昨日と同じだ。
痛いのに何故か嫌ではない。
ぼうっと思考が歪み、他に何も考えられない。
多幸感で満たされる。
「ッ……葉月……」
夏の虫の鳴き声と、ただ舌を這わせて吸い付く音だけが聞こえていた。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
「旦那様、旦那様」と呼びかける声で目を覚ます。
玄関のガラス越しに見える外がすっかり薄暗くなっていた。
さっきはまだ昼過ぎだったはず。
三時間近く私はここに居たってことか?
家政婦が彰人の顔を覗きこんでいた。
ちょうど夕飯の支度をしに来たのだろう。
「どうしましたか?玄関を開けたら旦那様と葉月ちゃんが倒れていたから驚きました。お医者様を呼ばなくていいですか?」
「ああ、別になんともないんだ」
ぼうっとした頭を抱えて起き上がる。
「長く横になってたせいか身体が痛いけど……それ以外は本当に何とも」
葉月に噛みつかれた喉にも傷はなかった。
全てが気のせいだった、と思うにはあまりに生々しい記憶が残っているが。
その夜はいつものようにふたりで食事を食べた。
葉月に「お腹、いっぱいになったか?」と聞いたらけろりと返された。
「お父様の血を飲んだらお腹いっぱいになった」
背筋がぞっと泡立つ。
昨日と同じ、また別人みたいな顔だ。
「でもやっちゃいけないって思うのに我慢できないの。葉月は変なのかな」
「……」
飲みかけの茶を置いて「変じゃないよ」と言った。
「食べたいものが違うだけだ。そんな人もいるんだよ」
と無理やり笑みを浮かべた。
そう言いながら彰人はある伝承を思い出していた。
――「
生者の生き血を啜ることで永遠の美貌と生を得ているという妖の存在だ。
伝承にはなにかしらの裏付けがあると言うから全く嘘とも言い切れない。
本当に存在するのかもしれない。
現に、葉月の奇行はそれでしか説明できそうにない。
あの神隠しで葉月は本当に変わってしまっていたのだ。
「でも葉月がしたくないと思うなら他の人にはしない方がいいな」
「うん。そう思う」
「それでも、血を飲むしか腹を満たせないなら、お父様にだけはしてもいい。お父様は葉月を変だとは思わないから」
「……うん」
葉月は感情が溢れたのか泣き出してしまった。
「大丈夫。葉月は変わらないよ。お父様の大切な息子だ」
我が子を抱き寄せて安心させようと撫でたが、彰人の胸中は不安と得体の知れない恐怖でいっぱいだった。
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