1-1 遭遇(1/3)

 仕事を終えて帰ってくる。

 掃除や洗濯、食事の用意など、家事の一切は家政婦がやってくれているが、どうしても他人に任せられないことがひとつある。

 

 私の息子、葉月のことだ。

 

 玄関から真っ直ぐに二階の奥の部屋へ行き扉を開ける。

 

「お帰りなさい」

 

 ソファで本を読みくつろいでいた葉月が表情も変えずに私を出迎える。

 

「ただいま、葉月」

 

 妻を早くに亡くし頼れる家族がいない私にとって、この息子が私の生きる糧である。

 息子にとっても私は欠かせない存在だ。

 

「葉月、今日は遅くなってごめんよ」

「ん、大丈夫」

「おなか空いてるだろう」

 

 ジャケットを脱いでシャツのボタンを外し、息子の隣に腰掛けると、息子は本を置いて私に体を預けた。

 そして、私の首筋に牙を立てる。

 滲み出る血を息子は心地よい音を立てて飲み始めた。

 葉月は普通の人間の食事では腹を満たすことができず、人を生き血を糧として生を保っている。

 この国に古くから伝わる怪奇話においては『死喰い人』と呼ばれる存在だった。


 

 しかし生まれたときにはこうではなかった。

 息子は幼いときに、とある事件に巻き込まれたことがある。


「神隠し」としかいいようの無い不可解な出来事だった。

 

 何者かに誘拐されて救出されたとき、息子はすっかり別の生き物に変わってしまっていたのだ。


 とは言っても、その身体は私と血の繋がった私の愛しい息子だ。

 亡き妻が残したたった一人の忘形見。

 食べるものが変わってしまっても息子であることに変わり無い。

 私は自ら血を差し出して息子の唯一の糧になることを選んだ。

 

 息子は少ししてから口を離す。

 いつもより飲む量が少なかったように思う。

 

「どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」

「胸、今日は胸から飲みたいの」


 と言われて少し躊躇ったが、仕方がない。

 シャツを全部脱いで素肌を晒した。

 息子の方はなんの遠慮もなく私の胸元に顔を埋め柔らかい部分を噛んだ。

 「ひっ」と変な声が出てしまったが、辛抱して姿勢を保つ。


 こんなことをされたのは息子がまだほんの両手で抱えられるくらいの大きさだった頃だ。

 乳飲み子の本能なんだろうが、私を母親だと思って胸に吸い付いていた。

 

(なんだ、いくつになっても可愛らしいことをするんだな)

 

 それを思い出してなんとも微笑ましい気持ちになっていた。

 

 しかし今日は妙に吸う時間が長く感じる。

 同じ姿勢を保つのも辛くなってきたころにようやく離してくれた。

 

「もういいのか?」


「ん」と小さく返事をしてか細い指で口元を拭う。

 そして口元についた血を舐める姿がまた愛らしい。

 

 あまり見ていては嫌がられると思ってそっと目を逸らし、シャツを着直した。

 

「お父様、レバー食べてね」

「レバー?」

「ニワトリの肝臓。血液を作る栄養が多く含まれているらしいよ」

 

 なにかの文章をそのまま読み上げるような平坦な口調で言った。

 近ごろ栄養学の本を取り寄せて読んでいたのはそう言う理由か。

 息子なりに私のことを考えていたことが嬉しくて自然と頬が緩んだ。

 

「お父様の血、最近味が変わった。おいしくないんだもん」

「え、そうなのか……?」

 

 食材は私の方だったか。

 心配しているのは私のことではなく自分の食事のことだと気がついてなんとも微妙な気持ちになった。

 

「気をつけるよ。仕事が忙しくて食事は後回しになっていたかもしれない」

「滋養強壮剤とか飲むよりやっぱり生の食材の方が身につくらしいよ。体重も落とさないように気をつけてね」

「うん、気にかけてくれてありがとうな」

 

 それでもやはり嬉しい。

 幸せにひたり、息子の髪を撫でた。

 

(こうしているのが血を吸われているよりやはり一番心地が良いな)

 

 息子の方はぴくりとも顔を動かさない。

 表情が乏しくなったのもあのときからだ。

 精神的にもやはり変化があるのだろうか。

 

 たまに心配になるが、私はできるだけ辛いことから目を逸らすことにしていた。

 

「私も食事をしてくる。またあとでな」

「ん」

 

 いつものやりとりを済ませて部屋を出ようとしたとき、息子から声を発した。

 

「お父様、最近新しく知り合ったひとがいた?」

「新しい知り合い?」

 

 首を傾げる。

 

「初対面の人は色々いるからわからないな。仕事でよく面会するし」

「特に何度も会っているような人は?」

「んん、そう言われても……」

 

 息子が何を聞きたいのかがわからず戸惑った。

 

「あ、最近入った事務員さんかな。先週入ってきた」

 

 息子は表情を険しくした。

 

「その人とどんなことをしたの?」

「どんなことって、書類を振り分けてもらったり、……茶を出してもらったり」

「他には?」

「仕事をするだけだ。どんなことが気になるんだ?」

「……」

「本当に仕事だけ?」

「ああ」

 

 ますますわからない。

 でも何と聞き返したらいいかもわからず戸惑うしかなかった。

 

「そう」

 

 息子は納得していないようだが話を切り上げた。

 

「変わったことがあったら教えて。ただ外でどんなことがあったか気になるだけ。私は外に出ないから」

「そっか。たまにはどこか行こう。場所を探しておく」

「ん」

 

 息子は外に行くと心がざわつくらしい。

 本能的なことで他人の血を吸いたくなるそうだ。

 そんなことは本人もしたくないからと自ら部屋に篭っている。

 それは私も心配だ。

 息子にも我慢していることがあるだろうから。

 

「じゃあ、またあとで」

 

 と告げて部屋を出た。

 

 今日はなんだか変だ。

 そして私も仕事が長引いたせいか疲労が溜まっていたし、考えるのもおっくうになっていた。

 余計なことを気にしないようにして、雑念を振り払った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る