みかん食うか?

 早朝4時に起床した雪梁は、歯磨きと顔だけを洗ってランニングウェアに着替え、白い吐息を吐きつつ走りに出た。

 巡るは聖輪館女学院、通称"セイジョ"の敷地内。中高一貫の全寮制とあってかなり広く、建物も多い。


 いつ何が起こるかわからない環境と状況であるが故、一日も早く全体を把握しなければならぬとし、あちこちを周回してなんだかんだと二時間が経過。およそ40㎞近くを走ったところで雪梁は宿直室に帰還した。

 その後、10畳の居間に広げたマットの上で筋トレとストレッチを行ない、ユニットバスで汗を流し、中庭に面した窓から日の出を拝み、掌を合わせて脳内で経を読んだ。


 慣れるまではルーティンになりそうだな、と思いつつ雪梁は作業着兼戦闘服を装備していく。

 肌着の上からつなぎを履き、防寒用のベストを羽織り、あらゆる工具と道具が機能的に差し込まれたマルチツールバッグを腰に巻き、頭には手拭いも巻く。最後に安全靴を履いて玄関に立てかけていた大鍬を携え、部屋を出ていく(玄関に戸はない)。


 田中雪梁、学校用務員として記念すべき初出勤。

 その門出は乙女の悲鳴によって迎えられることになる。


 ◇


「きゃーー‼ 女子トイレの便器にしがみついてる変態がいるーー!」


 初仕事はトイレタンクの水漏れ修理であった。

 セイジョは教職員まで全員が女子、故にトイレも全て女子用である(来客用には男性用あり)ことからありもしない変態性が際立ってしまう。

 清掃中の看板を無視して投擲される罵声を一身に浴びながら、雪梁は黙々と修理作業に勤んだ。


「あの人が例の用務員?」

「なんで男なんて採んのよー。マジキモイ」

「ああいう汚れ仕事は男の仕事でしょ」


 次いで実習棟のLED灯交換に赴いた雪梁を、やはり冷えた目で女生徒たちは出迎えた。

 わざわざ聴こえるように言うなよな、と舌を打ちつつ、なるべく無心で作業に没頭した。


「なんか汗臭くなーい?」

「どっか他所でやれっての……マジ迷惑」

「年的にふつー大学生とかじゃん? 低学歴って哀れだわー」


 体育用具の錆取りと塗装作業に勤しむ雪梁の背後を誰かが通るたびに嬉しくない施しがぶつけられる。

 色彩鮮やかな景観はこういう職に支えられてるんだぞ、と脳内で教育的指導を行ないつつ、やはり作業に準じた。


 これにて午前中の作業は終了。

 気疲れの息を多めに吐く雪梁は昼休憩へと入った。


 ◇


 昼休み/宿直室


「せっつりょーさん、一緒にランチしましょ♪」


 花のような笑顔でサンドイッチを掲げる志穂を見て後光が差したように見えた雪梁であったが、これは相対評価が齎すある種の幻術だ、と己を律する。


「え、お昼それだけ?」


 こたつ台の上にはコッペパンが一つだけ置いてあった。いかにもたくさん食べそうなのに、と志穂ははてな顔である。

 無論これには理由がある。購買へ行ったが、すでに列を作っていた女生徒たちに不潔だなんだと疎まれたので早々と退散したのだ。

 以上のことから、仮に大食堂へ行っても以下同文になるので今日はこれで辛抱しているのだそうだ。


「ひっっどい! 学院を助けに来たヒーローをハブにするなんて超ありえない! これからご飯どーするんです?」

「夜は俺用のお膳が用意されているというし、明日は早めに購買へ行くようにするから大丈夫だ。あとな羽有」

「はい?」

「俺をヒーローみたく捉えない方がいい。俺はあくまで外法者モグリ、まっとうな道を歩けない出来損ないだ」

「そんな! でも雪梁さんはわたしを助けてくれて!」

「社務所で話した通り、俺が霊に対してやったことは説得ではなくただの暴力。魂への加害行為なんだ」


 加害。――厳つい表現に志穂の表情は強張りを見せる。


「今回の件を解決するため、学院内にはまっとうなやり方で霊や妖と向かい合ってきたエキスパートが集められてる。そいつらと関わることもあるだろうから、そのうちわかる……俺のやり方は決して褒められたものではないのだと」


 だから、と区切り、雪梁は志穂に向く。その眼は真剣そのものだ。


「俺との距離は広めに空けておいてくれ。俺もなるべくお前の学校生活を脅かさないよう配慮する。もちろん手伝いが嫌になったら言ってくれ。強引に引き止めたりしない」

「そんな……!」

「女子校ともなれば、事実であろうとなかろうと関係なく、瞬く間に人の噂や悪評が広まる。だから知り合いであることも口外しない方がいい。午前中だけでそうするべきだとわかったくらい、女の園は俺の想像を遥かに上回るほどに陰湿だった」

「ゔ……」


 志穂はこれでもかと面白くなさそうに顔をしかめ、唸る。これは雪梁の言い分に反論できないからこその反応だった。

 心情的には納得などできないが、素人である自分が専門家の意見を跳ねのけられる材料などない。そして雪梁の指摘する女の陰湿さを骨の髄まで理解しているが故、唸るしかできないのだ。


「とりあえず今日はここで食ってっていい。……みかん食うか?」

「……食べる」


 ◇


 実習棟/第三調理実習室


「ゔ~~~」

「シホー、顔がブスいぜー」

「女の子がそんな顔しないの」


 実習棟2F、第三調理実習室でいつもの仲良し三人組はせっせとケーキ&クッキー作りに励んでいた。

 調理に失敗などはしていないし、決して楽しくないわけでもないのだが、やはり志穂は隙あらば唸ってしまう。


「だってなんだか、だってだってなんだもん」

「キューティーハニーかよw あのガテン系となんかあったん?」

「せ、雪梁さんは関係ないし。あの人はただの地元のご近所さんだし」

「昨日どっかに連行されてたじゃん、嬉しそうに」

「う、嬉しくないしっ。もうちょっとで告訴するとこだったしっ」

「じゃあなんでそんな顔してんだよ。まるで三日溜めてたアレを力いっぱい――」

「シホ、そこの包丁取って。リコ、調理中にそれ以上言ったらマジでキレるからね」

「怖wwガチかよwww」


 わちゃわちゃとしながらも志穂はごまかし続け(ごまかせてると思っているだけ)、二人の追及から逃れるべくクッキーが焼き上がるまでの間、廊下へと出た。


「はぁ……」


 他人のふりなんてしたくない。恩人である雪梁を、この学院を救いに来た戦士を、助けられたわたしが、セイジョの生徒である自分が肯定できないなんて、そんなの納得できない。

 志穂はずっとそんな感情に苛まれている。この想いにはきっと解決などないと、心のどこかでわかっていながら。


「……ん?」


 ふと、虚空を眺めていたはずの志穂の眼は異物を捉える。

 実習棟から中庭を挟んだ体育棟の校舎の壁に、明らかな異形がへばりついていたからだ。


「あ、あれって、まさかッ」


 鬼にも老婆にも見える顔面に張り付いたぎょろぎょろと忙しない両の眼に、カメレオンのごとき体躯の四肢を持つ痩せた怪物は、ゆっくりとした動きで各教室内を覗いている。――まるで舌なめずりしながらビュッフェの前に立つ乞食のように。


「ででででで出たっ。雪梁さんに知らせないとっ」


 震える手と呂律で志穂は雪梁へ電話。怪物発見を必死に伝える。


「もしもし雪梁さん! 超ヤバそうなのがいるんですっ! なんかすごいヤバくてっ! 超グロキモくてっ! てかもうヤバいんです!」

『手がかりゼロだな……とにかくそっちへ行く。羽有は今どこにいる?』

「実習棟の二階、第三調理実習室前の廊下です! 怪物は中庭を挟んだ向こう側、体育棟の壁にへばりついててマジキモですっ!」

『了解、三分で行く』


 三分後、駆けてくる雪梁の足音に安堵した志穂は異形の怪物を指差し、まくし立てる。


「ほらアレ! ヤバくないですか⁉ 超怖いですよねっ! マジヤバい!」

「ヤバいのはわかったから落ち着け。……笑輾しょうけらか」

「しょう、けら?」

「人の生活を覗き見て悪事を神に報告するという習癖を持つ、中級妖霊に分類されている妖怪だ」

「覗きはサイアクだけど、悪事を神様にチクろうとしてるだけなら、もしかして無害?」


 いいや違う、と雪梁は志穂の思い違いを正し、笑輾しょうけらが有害である理由を二つ述べる。


笑輾しょうけらの本質は――、"神という正義を建前に他人のプライバシーを覗き、暴き、拡散させることに快感を得ている"ってところだ。お前はこれを善行と思うか?」


 志穂は顔をしかめてぶんぶんと首を振る。


「そして今、この聖輪館女学院はあらゆる魔がせめぎ合い、共存していることで瘴気の坩堝と化している。これが妖霊の類を狂暴にしてしまうんだ。羽有にもわかりやすく例えるなら、この学院内に漂う気にバケモノは酔ってしまい、人を襲うようになるって意味だ」


 故に笑輾しょうけらは、この学院内に存在する妖霊は漏れなく除霊ないし排霊をしなければならない。

 そう断ずる雪梁はがちゃりと大鍬を掲げ、戦闘態勢へと移行。目つきも鋭く、そして重いものに変わった。


「排霊してくる。羽有はここにいろよ」

「あ、あんな壁に張り付いてるやつ、どうやってやっつけるんですか?」

「上の教室の窓から飛び下りて大鍬こいつで叩く」

「三階から飛び降りる⁉」

「そんなことで怪我してたら妖霊どもとなんて戦えない」


 そう云い捨て、力強く地面を蹴った雪梁は一階の渡り廊下から体育棟へ向かうため駆けて行った。

 残された志穂は雪梁の背に頼もしさを覚えながら応援の意を伝え、彼を見送る。


「がんばってくださぁーい! ケガしないでくださいねー! ……あんなバケモノにも恐れず向かっていくなんて、やっぱ雪梁さんて凄い……ん?」


 はた、と志穂は気づく。気づいてしまう。

 雪梁の足音が遠のけば遠のくほど……マジでヤバいことに。


「雪梁さーーーーん‼ ちょっと待ってーー‼」


 血の気を捨てた志穂は全力ダッシュ。雪梁を追う。


「上の教室はヤバいってー! 雪梁さーん‼ 雪梁さーーん‼」


 このままでは雪梁が危ない。なんとしても止めないと。――志穂は必死に追いかけるが、やはり走力の差は歴然で欠片も追いつけない。

 そして当の雪梁は志穂の声に気づくこともなく、遂に笑輾しょうけら直上の教室前に辿り着いた。

 中から人の気配もするが、緊急時故致し方なしと判断した雪梁はがらりと戸を開き、教室内に踏み入った。


『『え?』』


 雪梁の視界に埋め尽くされていたのは、なんと運動着から制服に着替えている下着姿の女生徒たちだった。


「……すまん」


 雪梁は一言詫びを入れ、なるべく見ないよう心掛けつつ足を止めることなくずんずんと進み、中庭側の窓を開けて直下を見下ろした。


『『きゃあああああああああああああああ‼』』


 背後で巻き起こる絶叫に押されるように、大鍬を構えた雪梁はふわりと飛び降りる。

 上で何が起こったのか、とでも言いたげに見上げてくる笑輾しょうけらのポカンとした表情に雪梁はかなりイラッときた。


「てめえのせいで俺まで覗き野郎だ……クソ!」


 これまでの鬱憤を晴らすかのように振り下ろされた大鍬の一撃は、確と笑輾しょうけらの首に刺し込まれた。

 全力で振り抜かれた一撃で以て首ごと頭を飛ばされた笑輾しょうけらは、断末魔を残すことなく地面に落ち、そのまま塵と消えていく。


「荒ぶる御魂に平安を……主波羅斗利しゅばらとり主波羅斗しゅばらと⁉」


 清酒を撒いて経を読む雪梁の頭部に走った痛みの正体は罵声と共に降ってくるペットボトルであった。次々に浴びせられる罵声と投擲物は冷たく、そして硬い。

 片や、このオチを予見できていた乙女はひとり落胆にへたり込み、項垂れるしかなかった。


 ◇


 放課後/宿直室


「覗き男」

「ド変態」

「盗撮犯」

「下着泥棒」

「ロリコン」

「性犯罪者」

「レイプ魔」

「死ね」


 笑輾しょうけら排霊の後、一瞬で広まった噂は雪梁に数々の称号(?)を与えた。

 晴れて学院一の汚物と成り果てた存在をこたつの対面から呆れたように眺める志穂は、やはり大きな溜息を吐かざるを得ない。


「学院長室に呼び出しくらったんですよね? 学院長からはなんて?」

「仕事熱心なのは良いけれどほどほどに、と」

「あれだけ苦情出たのにそれだけ? 一般的に考えたら通報ものなのに」

「異性を警戒して鍵をかける習慣が希薄だったことを含めてのご采配だ。今後は施錠の癖もつけさせると仰ってくださった」

「桐原学院長、優しー」

「この恩義には精一杯報いる所存だ」


 ただでさえ好感度低かったのにこの先どうなるんだろう、と先行きを不安がる志穂。そんな彼女の様子に違和感を覚えた雪梁は、その核心をまっすぐに問うてみる。


「で、なんで羽有が落ち込んでんだ」

「……思っちゃったんですよね。わたしも笑輾しょうけらになっちゃうのかなって」


 志穂が妖怪になる。この不思議な表現を笑うことなく、雪梁は居住まいを正す。


「雪梁さん、前に言ってましたよね。妖怪も人の魂で出来てるって」

「あいつらは霊と同様に、人の欲や魂から成る存在だ。特定の習癖を持った魂が集まり、クッキーの型のように固定の形を取って顕現する……それが妖怪だ」


 志穂は覚えている胸の痛み、その源を自ら紐解いていく。


「わたしもたまに笑輾しょうけらみたく、色んなディスプレイから他人のスキャンダルや炎上騒ぎを覗き見て、ウソかホントかわかんない噂話やゴシップに一喜一憂して、それを暇つぶしだとかエンタメだとかって捉え方して、楽しんでたんです」


 正義や善行を建前に他人のプライバシーを暴く者。関心とお金を集めるために軋轢をショーアップして公開する者。そしてそれらを我関せずと楽しむ者。

 笑輾しょうけらの在り方はまさに昨今の情報化社会、その流行に即したような妖怪であると志穂は感じていた。


「だからいつか、死んだ後のわたしの魂も、あんな醜くて浅ましい存在になるのかな、って」

「大丈夫だ。それはない」


 雪梁はあまりにも即座に、そしてすっぱりと志穂の不安を切って捨てた。


「あらゆる妖怪のあらゆる逸話が現代まで残っている最大の理由は、そこに学びがあるからなんだ」


 人は伝えることで何かを残そうとする生き物である。そしてそのなにかで救われる人がきっといると、未来に託す自由を持っている。


「妖霊とはつまるところ人の業。裏を返せば、業の深い生き方をしないための教訓がそこにはある。お前はちゃんとそれを見つけた。だから、絶対大丈夫だ」


 まっすぐ眼を見てそう伝えた雪梁の想いを、温かさを、志穂は心で受け取った。

 その胸にもう不安はなかった。表情にはいつもの花のような可憐さに、ほんの少しの赤みを足した笑顔が灯っている。


「なんだよ」

「雪梁さん、優しー♪」

「言ってろ」

「ではでは、先生に怒られて落ち込んでる雪梁さんにはこれを差し上げます」


 志穂は隠していた一品を取り出し、雪梁に差し出した。


「落ち込んでねえよ……なんだこれ」

「今日の調理実習で作ったクッキーです。ほら」


 ラッピングから開封されたのは定番の型を抜いて作られたものではなく、オリジナルのものだった。


「ふっ、なんだこれ」


 大鍬。ハンマー。レンチ。これまでの排霊に使われた工具類を模したクッキーの登場に雪梁は微笑み、こんな型は初めてだ、と言いながら一つ口に運んだ。


「力作ですっ。お味の方は?」

「美味い」

「やたっ♪ わたしも食ーべよ」

「みかん食うか?」

「食べます。あーん♡」

「自分で食え」

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