第2章 5話「葛城」

 年が明けた。

 百済の阿花王が亡くなったと報が入り、人質にきていた直支(トキ)が百済に帰った。

 入れ替わりのようにして新羅が人質を送ってきて、先日は高句麗からの使者も難波津で迎えた。正直、今更という感はぬぐえなかった。ただ、高句麗もそれだけ北方の情勢に苦心しているということであろう。倭国と関係を保っていた方が得策だと考えたのだ。それはそれで倭国にとっても都合がよかった。なぜなら倭国も、今は外に目を向けるほどの余裕はなかったからである。

 各地で噴火や地揺れが起き、水害もあったという。大和でも不吉なことが起こっていると耳にした…。

 荒ぶるカミの物語…。

 スメラ族には言い伝えられる話があった。

 この大地もわれらのように生き、動き、変化していると。

 息をし、鼓動し、食し、排泄するのだ。

 われも幼い頃から、お爺からいろいろ聞かされた。その時はただの滑稽なつくり話かと思っていたが、でも今ならわかる。それは、われらが産まれるもずっと前から、この大地で繰り返されてきた壮絶な破壊と創造の記憶なのである。


「どうしたのですかぁ?毎日のように眉間に皺をよせて」


 大鷦鷯が物思いにふけっていると、髪長媛が声をかけてきた。


「ほら、こんな感じに」


 髪長媛が眉間に皺を寄せてみせてみる。というより顔全体がしかめつらになっていた。


「われはそんなぶさいくな顔はせん」


「まぁ、ひどい」


 髪長媛は大鷦鷯の体を叩いた。顔は笑っていた。

 しかし、すぐに悲しそうな顔をし、


「わたしのせいでありますか?」


 とうつむく。


「ん?われが眉間に皺をよせているのはおぬしのせいと?それは断じて違う。おぬしのせいではない」


 髪長媛はゆっくりと顔をあげた。


「われは、このところ各地から寄せらせる噴火や地揺れ、水害のことを考えておったのだ。難波はそのような知らせは早いのに、われにはどうすることもできない。それが歯痒くてな…。大和ですら、不吉なことが起こっていると耳にするのに…」


「…気になるのでございますね?」


 髪長媛はじっと大鷦鷯を見つめた。


「あぁ、なにか嫌な予感がしてな…」


「行けばよろしいではないですかぁ?」


「えっ?」


「そんなに思いつめるほど、気になさっているのなら、大和くらいなら出向いて見聞きしてくればよろしいのではありませんかぁ?」


「………」


 髪長媛に言われるまで、そんな単純なこと逆に思いつきもしなかった。


「よいのか?われが少し宮を離れても?」


「えぇ」


 髪長媛はうなずいた。

 すでに大鷦鷯の頭の中には、どうやって大和入りしようかと考えが巡っていた。





 大鷦鷯の行動は早かった。翌朝には大和へ向かって発っていた。

 舎人は付いてこようとしたが、なにかと理由をつけて帰らせた。


「大鷦鷯さま。山の中は危険でございます。もし賊でも出たら」


「大丈夫や、われは河内から大和にかけては詳しいのでな」


「しかし…」


「おぬし、われより土地に詳しいというのか?」


「いえ、それは…」


 宮の主としての行幸となれば、各地でもてなされた上、きっと本当に起っていることが伏せて伝えられる可能性がある。大鷦鷯としては、民に紛れて、大和で起こっている本当のことを見たかった。

 大鷦鷯は、高津宮を発つと河内湖を避けるように東に向かい、生駒山麓から日下直越道(くさかただごえみち)で大和へ入った。陽が暮れると洞穴の中で休んだ。顔を衣も泥だらけになったが、野や山を駆け巡った幼い頃に戻ったかのような気がしてむしろ心が安らいだ。

 朝を迎えると洞穴を出て出発した。大和の中心の纏向や、橿原に向かうのはさすがに憚られた。われの顔を知っているものも多いであろう。

 大鷦鷯は山麓沿いに南下し、葛城の方へ入った。

 徐々に山に遮られるように平地が少なくなり、その平地は無駄がないように水田が敷き詰められた大和特有の光景が目に入ってきた。集落が築かれるのは山麓から高台にかけてで、上から下へとそのまま身分が反映されている。高台には葛城一族や鴨一族が住んでおり、平地に近い最下層には土着民が住んでいた。土蜘蛛と呼ばれるその土着民は、地面に穴を掘った土屋根の原始的な住居に住んでおり、土をかぶせた屋根から草や蔓が生える様子が蜘蛛のように見えるからそう蔑称されるようになったという。

 麓に下りて水田が近くになってくると、異様な様子に大鷦鷯は目を凝らした。

 水田のところどころが虫食いのように茶色く色が濁り、稲穂が枯れているのだ。

 畦には、途方にくれて水田を眺めている民の姿があった。

 大鷦鷯は民に近付き声をかけた。


「一体なにがあったんや?」


 振り向いた男は、うつろな目をして大鷦鷯を見上げた。一瞬怪訝そうに眉をゆがませ、あきれるようにため息をつくと答えた。


「田の中に入ってみればわかるわ」


 大鷦鷯は言われたとおり、畦から水田の中に入り進んだ。

 男は、本当に大鷦鷯が水田の中に入ると思わなかったらしく、驚いて立ち上がると、


「稲の根のあたりを見てみるがいい」


 と指をさした。

 大鷦鷯は振り返りうなずき、屈んでは枯れている稲を持って見る。


「むっ…」


 大鷦鷯は思わず仰け反った。根がただ茶色く変色しているだけかと思ったが、よく見ると無数の小さな虫が這っていたのだ。大鷦鷯はあたりを見渡した。この枯れている稲は、すべてこのような虫が付いているというのか…。


「これはなんていう虫や?」


 大鷦鷯は男に向かって叫んだ。


「わからん。見たこともない虫や」


「見たことないと言っても、虫は虫やろ?」


「んな。このあたりでは絶対こんな虫はおらん」


 大鷦鷯は首をかしげつつも、地元の民がいうのだから間違いはないのであろうと納得しようとした。しかし、にわかには信じられない。大鷦鷯が水田から出ると、男が近づいてきて声をひそめて言った。


「異国から来た虫じゃないかって、皆は言っとる」


「…異国?」


「海の向こうからやってきた虫やと。つまりな、戦のせいで多くの渡来のものがこの葛城にやってきた。虫もそれに一緒に付いてきたというんや」


「渡来してきた虫……」


 大鷦鷯は再度、水田の方を見渡してみた。茶色く変色した部分は、はるか向こうの方にも点在しているのが見える。このままいけば、全部の水田が駄目になってしまうのではないか…。もしそうなると大和でも飢餓が…。


「こんな状況でも上のものは収穫を調として収めろと言うからな…。それはそうと、あんた誰や?このへんのものやないやろ?」


 男が顔を覗き込んできて言った。

 大鷦鷯は、とぼけた振りをし、


「……それが、われも自分が誰なのかわからんのや」


 と頭を掻いた。


「………」


「目覚めたら河原に倒れていて…」


「はっはっは」


 男が突然、歯無しの口をあけて笑った。


「あんたもその類か。戦から帰ったのか?」


「……」


 大鷦鷯は男の言う意味がわからなかったが、とりあえず話を合わせうなずいた。


「佐糜(さび)に行けば、あんたみたいな奴らがたくさんおる」


「佐糜…?」


 男はあごをしゃくり向こうを指した。佐糜とは地名のことかと思い至る。


「わかった、おれが連れて行ってやろう。倭国の真実が見れるぞ」


 男はくくくっとおもしろそうに笑いながら歩いた。

 大鷦鷯は成り行きにまかせることにした。

 男は水田から離れ、水路沿いに歩いた。しばらく行くと川が見えてきた。近づくと徐々に嫌なにおいが鼻を突く。河原には、いたるところに人がたむろし、寝そべったり、座り込んだりしていた。


「見てみろ、あれはほとんど異国のものたちだ。ここでやることもなく飢えて倒れておる」


 男は顔をしかめ言った。


「これはひどい…」


 大鷦鷯も顔をしかめ、手で鼻と口を覆った。


「異国のものは戦に負け、俘虜(とりこ)として連れて来られたが、いきなりこんな異国の地にやってきては体が持たんようやな。中にはすでにこの地についた時には病になっていたものもいたらしい。向こうに行ってみると屍の山も見れるぞ」


 男はくっくっくっと笑ったが、大鷦鷯はとても笑えなかった。この鼻を突く匂いは、屍の匂いということか。


「忍海の連中は鉄器をつくる奴らなので、丘のうえに大層な屋敷を構えておる。異国人と言っても千差万別だな。まぁ、それは倭国のものでも同じだが。戦から帰った倭国の兵も酷いもんだよ。戦にいくと体だけではなく、ここ」


 男は頭を指さした。


「頭もおかしくなってしまうんや。かつては倭国も戦をしていた時代もあったが、大陸の戦とは悲惨さが比べものにならないらしい。相当この世の光景とは思えぬものを見てきたのだろうな。哀れだ。次第にそんな奴らは邑からも追い出されてな。行くあてもなく彷徨っとるんや。あんさんみたいにな」


 男は大鷦鷯を舐めるように見た。

 大鷦鷯は頭を抱えた。なんということだ。そんなことになっていたとは…。

 そして、まったく耳にしたことない事実であった。立ちくらみがして倒れそうになる。男が、ほら言わんこっちゃないと支えてくれた。

 たしかに、ここに来るまでの道中で、行くあてもなく彷徨っているような男の姿は度々見かけた。大鷦鷯は出来うる限り人目につかずに来たので、そのようなものの姿を見かけても意識的に避け、声をかけることもなかった。まさか、あのものたちが戦から帰った兵だというのか。倭国は戦に勝ったのではなかったのか。その功労の兵たちは、各地で手厚く出迎えられているのだと思っていた。それがまるで除け者のように…。

 父上はこのことを知っているのであろうか。スメラミコトは国をシラス存在…。知らぬはずがない…。だとすれば、一体この大和の様子はどういうことなのか…。


「あんた、ほんまに何も覚えてないみたいやな」


 男は憐れみの目で大鷦鷯を見た。


「このあたりを歩いていたら、そのうちあんたを知っているものに出くわすかもしれん。どうぜどこに行っても仕方がないやろうし…」


「一人にしてくれんか」


 大鷦鷯は言った。


「……」


 男は一瞬黙り、


「まぁゆっくりとしたらええ。ここは酷いところやが、来るもの拒まずやからな。へっへっ」


 と鼻で笑いながら去って行った。


「あと、そうや」


 男は立ち止まり、振り向いた。


「あちらの高台の方には近づかん方がええぞ」


 男が視線をやる。大鷦鷯もそちらを向いた。


「あの高台の方は、葛城襲津彦の宮がある方やからな…」


 男は声をひそめた。


「あんたのような風貌やったら、すぐ捕まえられてしまうやろう…」


 男は身を震わせるようにして、またへっへっと笑うと、今度こそ去って行った。

 大鷦鷯はその姿を見送り、見えなくなると、男が近づくなと忠告した高台の方へ向かって歩き出した。





 さすがに正面から堂々と歩いていくのもどうかと思い、大鷦鷯は斜面を這い上がるように高台を目指した。すると、ふと目の前が暗くなった。

 顔を上げると、槍を持った男たちに囲まれていた。


「◎△$♪×¥●&%#?!」


「&%◎△$♪×●&%#?!」


 わけのわからない言葉でまくしたてられた。異国の言葉だ。二人は甲冑を着ていた。背が異様に高かった。


「われは、われはな…」


 大鷦鷯は名乗るべきか迷った。しかし、ここで名乗らないとどうなるかわからない…。


「$♪×●◎△$♪×¥%#?!」


「¥●&%#&%◎△$♪×●&%#?!」


 異国兵の二人はなにやら言い合うと、大鷦鷯に槍を突き立てた。

 大鷦鷯は反射的にしゃがみ込み、叫んだ。


「われはな…!スメラミコトの…!」


 しかし、異国兵はひるむことなく、さらに槍を大鷦鷯に向けて突き立てた。

 その時であった。


「誰だそいつは」


 頭上から声がした。倭国の言葉であった。しかも女の声だ。異国兵の動きが止まる。


「#&%◎△$♪●◎△$」


 どうやらその女も異国の言葉が話せるらしい。なにかをまくしたてていた。

 大鷦鷯は見上げて顔を見た。女と目が合った。


「あっ。おまえは」


 女がそう言って目を見開いた。

 女はまるで舎人のような恰好をしていたが、衣から覗く腕や脚は、女であることを示していた。顔もよく見れば綺麗な顔つきをしている。角髪は結んでいなかった。長い髪をうしろで束ねている。となりには鳥の羽を装束にしたものも立っていた。鴨族のものであろう。


「んんんんっ??」


 女は大鷦鷯に顔を近づけてきて見た。


「おまえのこと、わらわは知っておるぞ」


 女はそう言ったが、大鷦鷯はまったく身に覚えがなかった。


「おまえはスメラミコトの御子…」


 女がそこまで言って、ようやく大鷦鷯も頭をよぎるものがあった。


「あああああああっ!!」


 大鷦鷯が叫ぶと、女も同じように「あああああああっ!!」と叫んだ。

 そして、互いに指をさし合い言った。


「おぬしは葛城襲津彦の娘の!」


「おまえは大鷦鷯!」


 二人して見合って、舐めるように見た。

 磐之媛…、そう、たしかそんな名前だった。


「しかし、スメラミコトの御子がこんなところでなにをしておるのだ。そんなみずぼらしい姿をして。宮を追い出されたのか」


 目線は磐之媛の方が高かった。背の高い女である。

 大鷦鷯は、正直に言うか迷ったが、「道に迷ったのだ」と嘘をついた。


「きゃははは」


 磐之媛が笑った。その笑い方に覚えがあった。間違いない。“あの時の女子”だ。


「スメラミコトの宮に向おうとしていたのか?まったくの畝火山の方は逆だぞ。あの山が見えぬか。あれが畝火山だ」


 そんなことわかっておるわと大鷦鷯は内心悪態をつきながら、この磐之媛はわれのことを疑わないのかと、意外な気がした。案外、見た目より素直な娘なのやもしれん。


「見逃してやってもいいが、兵に見つかってしまったからな。父上に一応は報告はせんと。しかし、めんどうだな。わらわはこれから…」


 磐之媛は一人でぶつくさとなにか考え込んでいた。大鷦鷯はその横顔を見て、思わず言った。


「おぬし、令しくなったな…」


「はっ?」


 磐之媛がこちらを見た。


「いや、おぬし、令しくなったなと言ったのだ」


 他意はない。大鷦鷯は素直な感想を言っただけであった。


「……」


 しかし、磐之媛は顔を真っ赤に染めて、その場に固まった。

 異国の兵も困惑していた。しびれを切らした鴨族の男が、磐之媛の肩を叩くと、ようやく今目覚めたかのような目をして、


「はよう。わらわに付いてこやんか!」


 と怒鳴って向こうを向いた。

 大鷦鷯には、なぜ急に磐之媛が怒りだしたのかわからなかった。

 しかし、葛城襲津彦に会おうとした目的は果たされることになったので、言われたとおり磐之媛のあとに続いた。





「ぐはははははっ」


 葛城襲津彦の笑い声が宮に轟いた。

 高台にあった葛城襲津彦の宮は、大和や河内では見かけない異様な建物が建ち並んでいた。特に中心の宮殿は異様で、なんと言ったらいいのか、まるでそう船のような形をした宮殿であった。


「怪しい者を捕えたと兵が説明するので、高句麗の密偵でもなにかと思えば、スメラミコトの御子であったとは」


 葛城襲津彦は再度、その巨体を揺らし笑った。

 ひとりきり笑ったあと、急に真顔になると、


「まさか、本当に密偵だったとかか?」


 と訊く。


「まさか…」


 大鷦鷯は首を振った。


「…そうだな。ぐはははははは」


 また葛城襲津彦は笑った。

 さすがに笑い過ぎだと大鷦鷯は辟易しながら、部屋の中を見回した。磐之媛の姿を探したのだ。


「娘か?娘は熊野へ使いに出したところだったからな。おぬしを届けたら急いで向かったわ」


「……」


「それで、スメラミコトの御子がこの葛城の地になんの用だ?」


 葛城襲津彦は身を乗り出し、有無言わさぬ雰囲気で言った。先ほどまで笑い顔にごまかされていたが、やはり以前に感じたような、戦を乗り越えてきたものに宿る特有の殺気があった。思わず鳥肌が立ってきた。下手な嘘をついても見抜かれるであろうと、大鷦鷯は正直に葛城まで至った経緯を話した。

 葛城襲津彦は黙って聞いていた。大鷦鷯の話が終わると、


「ほう。ごくろうなことであるな。しかも御子が一人で。噂には聞いていたが、相当な変わりものであるな…。で、土蜘蛛どもに聞きこんでなにかわかったか?」


「うーむ…」


 大鷦鷯は顎に手をやり考え込みながら、

「稲に変な虫がついておった」と答えた。


「ほほう」


 葛城襲津彦が目を見開く。


「つち…民は、異国からやってきた虫だと話しておった」


「で、わがのせいであるとな?」


「いや…、誰もそんなことは言っておらん」


「隠すな。ふん。この葛城には大陸から来たものが多く住んでおるのだ。およそ、そいつらのせいとでも聞いたのであろう。しかし、そんな証拠はどこにもない」


 だろうなと大鷦鷯も思っていたのでうなずいた。


「しかし、同じような虫を大陸で見たというものもいる」


 葛城襲津彦がそう言ったので、大鷦鷯はずっこけそうになる。


「大陸から来たものの中には水田耕作に詳しいものもいるのでな。今そのものたちと話し合っている最中なのだ。御子の手を借りるまでもない」


「……」


「今回のことは内密にしておいてやろう」


「……」


 葛城襲津彦は鼻で笑い、「まぁその見返りと言ってはなんだが」と続けた。


「見返り…?」


「うむ」


 葛城襲津彦は大鷦鷯を見据えうなずく。大鷦鷯はごくりとつばを飲み込んだ。


「まぁ、それを飲め」


 葛城襲津彦は大鷦鷯の前に出された器を奨めた。水が入っていた。大鷦鷯は器と手に取り水を口に含んだ。先ほどからのどは乾き切っていた


「われの娘、磐之媛を后(きさき)として取らぬか」


「ぶーっ」


 大鷦鷯は口に含んでいた水を勢いよく吹きだした。

 ごほっごほっと咳き込む。

 葛城襲津彦が両手で顔をぬぐった。水しぶきがかかったらしい。

「すまぬ」と大鷦鷯は謝ると、息を落ち着かせ言った。


「なにかの冗談で?」


「わしが冗談でそんなことを言うと思うか?」


「……」


 たしかに冗談を言っているような雰囲気ではなかった。葛城一族がスメラ族に娘を出す。特段おかしな話ではないかもしれない。しかし、あの娘のことだ。われのことなんて願い下げであろう。葛城襲津彦の娘であれば、体つきの立派な兄の大長守の方がお似合いではないのか。


「われの一存でそれは答えられぬ」


 大鷦鷯はそう答えた。本心であり、事実であった。


「うむ。そうだな」


 葛城襲津彦も納得したようにうなずく。


「そういえばおぬし、稚郎子の話は聞いたか?」


「稚郎子…。菟道の弟のことやな」


 大鷦鷯は白々しく言った。久しぶりに聞いた名前であったが忘れるわけがない。


「いや、なにも聞いておらんが…」


「えらく熱心に学んでおるらしく、今は百済から来た阿直岐を師としていると聞いた」


「阿直岐…」


 すぐには思い出さなかったが、あの不思議な動物の馬と一緒にきた阿直岐であったと思い至った。馬の飼育と繁殖に心得ているといい、大和の軽坂上の場所が与えられたはずであるが…。


「馬の飼育でも学んでおるのか?」


「いや、そうではない。阿直岐は百済では学者でもあったそうだからな」


 学者?また聞きなれない言葉が出てきた。


「しかし、それでも物足りなかったそうで、稚郎子はさらに頭がよい学者を百済から呼び寄せたそうだ。王仁(ワニ)という名のものだそうだ」


 そんな名の者を、はて難波津で迎えたかどうかと大鷦鷯は記憶を辿ったが、思い出せなかった。

 しかし、いくら御子であろうと稚郎子の一存でそんなことはできぬであろう。父上が手引きしているのは間違いない。父上はそこまで稚郎子へに思い入れようを…。


「高句麗からの上奏文を稚郎子が読んで、内容が失礼だからと言って破り捨てたという話も聞いた」


「なっ!?」


 大鷦鷯は驚きつつも、あの稚郎子ならありえると話だなと思った。


「ほう。それほど驚かぬか」


「いや…、そんなことはない」


「優秀な弟をもって兄としても頼もしいのではないか?」


 葛城襲津彦が意味深に含みを持たせ言った。そして大鷦鷯の目を見る。


「…われのことを虚仮にしておるのか?」


 大鷦鷯がそう答えると、葛城襲津彦は「ぐはは」と笑い、


「これからの倭国は、より一層大陸と渡り合っていかないとならないからな。稚郎子のような弟がおれば、おぬしも心強いであろうと言ったまでだ。他意はない」


 二人して見合った。

 大鷦鷯は額から汗が流れ止まらなかった。葛城襲津彦の威圧のある目つきが突き刺さるように迫る。普通のものなら、きっとこんな目で見られたら耐えれないであろう。われはお爺で鍛えられたから…。

 その時であった。

 葛城襲津彦のうしろに舎人が近づいて、なにか耳打ちした。

 はじめ普通に聞いていた葛城襲津彦であったが、突然肩を上げ驚いた。

 そして、大鷦鷯の方に視線をやる。

 良い報告ではないのは明らかであった。その緊迫した雰囲気が伝わってくる。

 舎人が離れると葛城襲津彦は咳払いしてから、身を正して言った。


「スメラミコトが倒れられた」


「なにっ!?」


 大鷦鷯は思わず大きな声を出し、身を乗り出した。

 いろいろ悪い報告は頭の中では想像していたが、その想像を遥かに超えていた。


「倒れたとはどういうことや?薨去(こうきょ)されたということか!?」


「いや。血を吐き気を失った。しかし、目は覚まされたということだ」


「……」


 大鷦鷯はごくりと唾を飲む。


「御子に徴集がかかったそうであるから、おぬしの元へも報は届けられておるはずだ。どうする?ここから軽島豊明宮に向かうか?」


「そうであるな…。さすがに難波まで戻ってからでは…」


「うむ。急いて行け。従者を付けさせよう」


「いや、われ一人で向かう」


 しかし、葛城襲津彦はそれは認めさせなかった。

 鴨族の舎人が付いた。

 大鷦鷯が葛城襲津彦の宮を飛び出すように駈け出すと、鴨族の舎人は足音もさせず続いた。

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