第八話 前途多難

 三夫人と寵姫は、アルタクス様が即位されて一月もしない内に全員嘆きの宮殿に移られました。


 ユシマーム様はしきりに行きたくないと嘆いていましたね、


「あちらにはなんでも、以前の皇帝陛下にお仕えになった夫人や寵姫が何人も残っているそうじゃないの。そんな方々に囲まれて暮らすなんて嫌よ」


 しきりになんとかこちらのハーレムに残れないかと私に尋ねていたのですが、こればかりは決まりなので私にもアルタクス様にもどうしようもないのです。結局は諦めて素直にハーレムを出て行かれました。


 マビルーザ様は私の事を心配したのか、出て行かれるまで何度も私をお説教を下さいましたね。


「其方は人の上に立つという心構えが分かっていない」


 と仰って、部下の話をよく聞けとか、部下は叱る前に褒めよとか、厳しく当たり過ぎると部下は隠蔽を図るから大きな態度で接せよとか、細々した注意を下さいましたよ。


「特に其方は相手の失敗に不寛容過ぎる。やり返し過ぎるのも問題だ。それでは無用な恨みを人に買うばかりだぞ。少しは心を広く、許す心を持て」


 自分が正しいなら間違った相手を容赦なくやり込めても良い訳では無いのだと仰いました。私は一応は神妙に聞きましたよ。当時はあんまり理解は出来ていなかったとは思いますけど。


 夫人と寵姫、そしてハーレムを出て行った者は合計で百名以上になりました。ガラガラになった寂しいハーレム。遂に私の第一夫人としての生活が始まったのです。


 ……が、これがもうのっけから大変でした。


 まず、私はハーレムのシャーレにも宦官にも親しい者がいませんでした。せいぜい自分付きの下働きであるハーシェスと宦官のルシャードくらいです。アルタクス様の寵姫だった頃、いわば部下として十人の女官が付けられていたのですが。アルタクス様を独占したがった私は、この十人をほとんど近付けさせませんでした。


 貴人のお世話には役得があります。お食事やおやつの残り物を頂けたり、雑用をこなした時に小遣いを貰えたりですね。それまでは享受出来ていたそういう役得を、私は女官から奪ってしまった事になります。なので私はこの女官達からは非常に恨まれました。


 それと三夫人付きや寵姫付きの女官も、皇帝陛下の寵愛を振り切ってアルタクス様の寵姫になった私の事を憎悪していました。彼女達にしてみれば、自分が望んでもなかなか手に入らない地位を、私があっさりと捨てたように見えたのでしょう


 そういうシャーレがかなりの人数いたのです。彼女達は私の言う事なんて全然聞いてくれそうにありませんでしたね。私は困り果てました。


 何しろ私は下働きをしないで女官になった上に、比較的すぐにクムケレメ様の側近との言える書記になっていましたから、ハーレム内での業務に詳しくありませんでした。ですから、ハーレムのシャーレがどのような業務に従事しているか、その業務をどのように下働きと女官に振り分けたら良いのかがさっぱり分からなかったのです。


 人の上に立つという事は、部下に仕事を振り分けるという事です。仕事の内容も知らないのに部下に仕事は振れません。当たり前ですが、クムケレメ様始めとした三夫人だって恐らく全ての業務は把握していなかったでしょう。しかし、そうであれば把握している女官に教わるか、ある程度はその女官に仕事の割り振りを任せれば良いのです。クムケレメ様のところにいた偉そうな女官頭がそういう女官でした。


 しかし私はそういうハーレム歴が長く、業務に詳しい年嵩の女官にこそ嫌われていました。私が全然言う事を聞かなかったからですね。女官は自由時間にも夫人のお世話の為に夫人の私室か、私室の周辺に待機して何かを言いつけられるのを待つものですのに、私はさっさと自室に引き上げ、図書室に行って本など読んでいたのです。女官頭には何度か注意されたのですが、私は「女官頭とはいえ同じ女官身分の筈」と聞く耳も持たなかったのです。


 ハーレム歴の長い女官には強い繋がりがあります。クムケレメ様の女官頭はハーレムを出てしまいましたが、かなり私を恨んで残る者達に悪口を吹き込んで行ったのでしょう。全員が私の「助けて欲しい」という要請を言を左右にして拒否しました。第一夫人の権力で強制的に従わせる事は出来なくはありませんでしたが、そんな事をしても嘘やサボタージュなどで陰で足を引っ張られるだけでしょう。意味がありません。


 兎に角、何もかも私の人望の問題でした。人望というのは信用です。そして信用は少しずつ積み上げるものなのです。私は最初から積み上げる気がありませんでしたから、今や私のシャーレからの信用は瓦礫の山でした。これを最初から積み直すのはもの凄く骨が折れる作業でしたよ。でも、やるしか無かったのです。


 とりあえず私はハーレムの中を歩く事から始めました。長たる者、自分の管理区域の事を見もしないでは何も出来ませんからね。


 ハーレムは三重の塀に囲まれた広大な宮殿です。何代も前の皇帝陛下の時代から少しずつ増築されて今の形になったそうです。中央に大きな庭園がある他、他にも小さな庭園が幾つかあり、幾つかの建物がその中に建っていて回廊で繋がっています。非常に複雑な構造をしていて、まるで迷路のようです。


 庭園の中には動物を飼っているところもありまして、鳥やウサギやリス、鹿までが放たれているところがあります。閉鎖空間にいるシャーレにとって動物は良い慰めになりますから、猫や犬を飼っていた夫人も多かったようです。


 ハーレムの北側に皇帝陛下の私室がございまして、その周囲に夫人と寵姫の私室、その南に女官の部屋があります。これらは個室です。その南には図書室や中央浴場や礼拝所などがあり、その南に宦官や下働きのお部屋。その周囲に厨房や洗濯室や看護室やその他雑務部屋があります。下働きと宦官は四人部屋が普通だそうです。下働き頭とか宦官長は違うのでしょうけど。


 私は下働き経験がありませんから、ハーレムの南側にはほとんど立ち入った事がありませんでした。第一夫人になって初めて入ったのです。行ってみると、そこはハーレムの華やかな区画とは大きく違う、雑然とした生活感溢れる区画でしたね。建物も小さくて人も多いのです。


 シャーレ三百人と宦官、そして皇帝陛下の為のお料理を作る厨房は広大で、薪が天井まで積まれていましたね。大きな鍋がいくつも置かれていまして、油の匂いが充満していました。


 お料理は、皇帝陛下と夫人、寵姫に限っては特別なお料理が出されますが、女官以下は基本的に毎日全員が統一したお料理が出されるのだそうです。帝国のお料理はお肉やチーズやお野菜を香辛料で炒めたり煮たりしたものを、薄いパンで包んで食べるものが多いです。王国よりも油も香辛料も多いらしくて、少し刺激の強い味が多いですね。


 食事はほとんど手づかみで、パンの上にお料理を乗せるときにはスプーンを使います。ナイフとフォークは西方人の多いハーレムでは使える人も多いのですが、夫人の中で希に使う人がいるくらいで、あまり使う人はいません。料理に合いませんからね。


 お肉は圧倒的に羊の肉が多くて、次に牛肉。豚肉は不浄であるとして嫌われているそうです。私の故国では豚肉が一番食べられているお肉でしたので最初は驚きましたね。魚介類も多く使われますよ。何しろ帝都は目の前が海ですからね。


 後はお茶ですね。シャーレはお茶を大量に飲みます。これは単純に帝都が暑いからです。喉が渇くのですよ。それとシャーレ同士でおしゃべりをする際にも必須なのです。この時にお茶菓子として食べられるのがナッツなどの入ったパイで、シロップが掛かっていてもの凄く甘いお菓子です。だから帝国の紅茶は渋いものが多いようですね。


 そういうお料理を厨房では一日中作っています。下働きや宦官はいきなりやってきた第一夫人を胡散臭そうに見ていましたが、私は構わずズカズカと入っていって言いました。


「私も手伝いましょう」


 皆、あっけにとられた顔をしていましたが、人の心を掴むにはまずその人の仕事を手伝うことでしょう。特に重労働の現場であればあるほどこれは重要です。あざといですが、仕事を手伝って貰えて悪い気分になる人はあまりいません。


 ただし、足手まといでなければです。幸い私は修道院で、ここより狭くて大変な厨房で仕事をした経験があります。先輩修道女に怒られ笑われながら、必死に料理を覚えた経験が役に立ちましたよ。色々教わりながらもテキパキと働いて、厨房担当の下働きは感心して褒めてくれました。


 同じ事を洗濯場でもやります。ハーレムは大所帯ですから、洗濯も大変なのです。下着やシーツなどから、夫人や寵姫、女官のドレスの洗濯もあります。ドレスの洗濯などは繊細ですからね。専門技術なのです。ですから洗濯担当のシャーレは職人気質の者が多くて、手伝いを許可してもらうまでが大変でしたね。厨房から貰ったお菓子を差し入れたりして、何度か通ってようやく許可が出ました。


 洗濯は大量の水やお湯、それにくさい石鹸を使用する重労働です。私はドレスを脱ぎ捨てて下着姿で奮闘しましたよ。修道院でも洗濯はしていましたからね。大変さは覚悟していたのですが、熱い中湯気に塗れて頑張ったせいでヘロヘロに疲れてしまいました。


 ただ、頑張りは認めてくれたらしく、洗濯係の者達はかなり私に好意的になり、私の質問に快く答えてくれるようになりました。厨房と洗濯の担当のシャーレには古株の者が多いのです。ハーレムの色々な事を知るには最適なのでした。私は何日も厨房と洗濯場に通い、ここのシャーレとはすっかり仲良くなりました。重要な一歩です。


 ハーレム全体の掃除は宦官の仕事です。庭園の手入れ、動物たちの世話も専門の宦官が行います。宦官はその特性上、補充が容易ではありませんし、宦官もハーレムの外では生きられません(宮殿のハーレム以外の場所でも少しは働いているらしいですが、宮殿の外では迫害されるので生きていけないそうです)。ですから宦官には年齢を重ねたベテランが多くいます。


 彼らの信頼を得るために、私は掃除も手伝いましたよ。しかしながら第一夫人にそんな事をさせたら自分たちが罰せられると止められてしまいました。仕事を手伝えないとすると、彼らからの信頼を得るにはどうしたら良いのでしょうか? 私は自分付きの宦官である(第一夫人になってからはもっと何人もの宦官が付けられていますが)ルシャードに相談しました。


 ルシャードは笑って言いました。


「大した事をする必要はありません。何かをして貰ったらお礼をする。たまに褒美としてお酒でも届ける、で良いと思いますよ」


 お酒は宦官には呑む機会があまり無いのだそうです。褒美にすると喜ばれるとの事でした。


 私はそれから何かというとお酒やお菓子(お酒が呑めない宦官もいますからね)を褒美に出し、宦官の詰め所に差し入れました。あからさまな賄賂だと言えましたが、人望を得るには気前というのは大事なのだそうです。それだけで無く私は宦官に対しなるべく積極的に声を掛け、褒めました。


 おかげで「第一夫人は愛想も気前も良い」という評価になったらしく、私は宦官からの信頼を得ることが出来たようでした。宦官はハーレムの生活を底から支える重要な存在です。厨房と洗濯場のシャーレの信頼と合わせて、私はどうにかハーレムの人々を統率する基礎を築くことが出来たのです。


  ◇◇◇


 問題は、女官達でした。彼女達の私への反感は相当なものでしたから、彼女達の信頼を得るのは並大抵の事では無理そうです。特に先の皇帝陛下の三夫人に気に入られてお側に仕えていた、高位の女官は隙あらば私の足下を掬おうと狙っているような状況でしたね。


 私は考え、飴と鞭の対応で行くことにしました。


 飴は、私付きの女官への抜擢です。私はこれをあえて、先帝の頃にはそれほど高位ではなかった女官から引き上げました。それまで特にあまり私とは関わりが無かった者達です。


 何度も言うようですが、シャーレの最大の目標は皇帝陛下からの寵愛です。そのためには皇帝陛下のお目に止まる事がどうしても必要で、それには皇帝陛下のお側に何としても寄らなければなりません。


 そのためには夫人の側に仕える女官になるのが最大の近道です。というか、寵姫を役職的に任命するのは夫人の役目ですし、皇帝陛下も夫人の推薦した女官でないと普通はご寝所に招き入れませんから、夫人付きの女官になるしか方法がないのです。


 抜擢した女官は喜びましたよ。そもそも私にそれほど強い反感を持たない者を選別しましたので、一気に私への感情は良化しました。私はここぞと彼女達との関係を深めるべく、お茶会を開催して皆にお菓子を配りました。なるほど、三夫人が女官達としきりにお茶会ばかりしていた理由がよく分かりましたね。


 こうして私は自分付きにした女官を優遇する一方、私に反感を持つ女官を遠ざけました。それまで夫人付きの良いお部屋に住んでいたものを、南の方に引っ越させたりもしました。つまり「下働きに落とすぞ」と脅したのです。実際には高位の女官は私のように、貴族の有力者からの贈呈された者が多く、下働きに落とすと贈ってくれた貴族の反感を買う事になるので簡単には落とせませんが、不可能な事ではありません。


 その上で私は女官を一人ずつお茶会に呼んで、彼女達を懐柔に掛かりました。勿論ですが、態度には気を付けましたよ。王国にいた頃の私ならここでドヤ顔で「これ以上私に逆らうのなら容赦なく下働きに落としますよ!」とでも宣告するところですけど。そんな事をしたら面従腹背されるだけで背中から刺される原因を自ら作るようなものです。


 私はむしろこれまでの態度を謝罪して贈り物もし、彼女達の反感を解くことに努めました。彼女達だって出世したいとは思っておりますし、私に逆らい過ぎるのは良くないとも理解しています。プライドの高い彼女達にとって自ら折れるのは許せないことですが、上位である私が低姿勢でお願いしてきたのなら、譲るのは吝かではない事でしょう。


 数人が懐柔に応じると、後は時間の問題です。仲が良い女官同士で説得し合ってくれて、結局かなりの人数の女官が私に従ってくれるようになりました。


 もっとも、何人かの女官は頑なに私の懐柔に応じませんでした。先に述べた古株のベテランの女官が多かったですね。彼女達はいまさら皇帝陛下のご寵愛は望んでいませんし、給料を貯め込んでいて資産もあって賄賂も効きませんでした。


 仕方なく私は彼女達の説得は断念し、遠ざけたまま放置するしかありませんでした。所詮は、全ての者に好かれるなんて無理なのです。諦めも必要ですよ。


 こうして、私は半年掛かりくらいでどうにかハーレムの掌握に成功したのです。


 しかしその頃には、次の大問題が既にハーレムに上陸していたのでした。


  ◇◇◇


 先の皇帝陛下のお母上は先々帝の夫人の一人で、その方は先帝陛下が即位する少し前に亡くなっていたそうです。


 それに対してアルタクス様のお母様はご健在でした。つまり先帝陛下とアルタクス様は異母兄弟だったという事になります。


 そのアルタクス様のお母様、シャヌジェ様は先々帝陛下が亡くなった後に嘆きの宮殿に移っておられたのですが、アルタクス様の即位に伴ってこちらのハーレムに帰ってくる事になったのです。


 皇帝陛下のご母堂は「母后」としてハーレムに君臨する習わしだそうです。普通、母后様は必ずハーレムにいらっしゃるものなので、いなかった先帝陛下の時代が逆に珍しかったのだという事でした。


 私はそれを聞いた時、少しホッとしました。それならば私は母后様の下について、大人しく彼女の言う事に従っていれば良いのではないかと思ったのです。ハーレムの統率の困難さに頭を抱えていたところでしたから、ハーレムに元々いて知識もあり、夫人だったのだからシャーレを統率するのにも慣れている母后様に任せてしまった方が楽だと思えたのでした。


 しかし、母后様がお帰りになると知ったアルタクス様は額を抑えて呻いてしまいました。


「母か……。なんとか嘆きの宮殿から出さない方法はないものか……」


 私は目を瞬きました。お母上なのですよね? 帰ってきたら嬉しいのではないのですか? 私も母を早くに亡くしていて、母親の事は良く分かりませんけど。


 どうも不穏な空気を感じた私は、ジャヌジェ様についての情報収集を始めました。


 仲良くなりつつあった厨房や洗濯場のシャーレも、ジャヌジェ様の名前を聞いて嫌そうな顔をしました。


「なんだって? あの女が帰ってくる? そいつは願い下げだね!」


 などと言います。先々帝の頃のハーレムを知っているシャーレも宦官も軒並み顔をしかめます。……なんというか、他人事とは思えないほどの嫌われようではありませんか。どうも余程性格が悪い女性のようです。


 詳しく聞けば、それはもう傲慢で高慢で我が儘でイヤミで口も悪くて執念深くて、それはもう嫌な女だった、という事でした。……ますます他人とは思えません。せっかく代替わりと共にハーレムを去って清々していたのに戻ってくるなんてがっかりだ、という扱いでしたね。


 ヴェアーユ様は評判より実際に会ってみれば仕事も手伝ってくれるし褒美もくれるし良い方だったが、ジャヌジェ様は下働きから成り上がった方なのですが、その頃から言う事は聞かないし我が儘だして手に負えなかった、という話でした。兎に角驚くほどジャヌジェ様をよく言うシャーレや宦官がいません。ある程度情報を集めたところで私は覚悟を決めました。これは生半可な相手ではなさそうです。


 アルタクス様の即位から三ヶ月ほどして、ジャヌジェ様がハーレムに入宮なさいました。私は見ていないから伝聞ですが、なんでも大勢の騎士に守らせ、自分と荷物を載せた馬車を豪華に装飾し、進む先に花を撒かせ、楽団に音楽まで演奏させて嘆きの宮殿からこちらの宮殿までの間をやってきたそうですね。見物人が出る大変な大騒ぎだったそうですよ。どうにも派手好きな方のようです。


 ハーレムの大外門をお入りになったジャヌジェ様はそこの客室で五日間検査などを受け(ハーレムの中に伝染病などを持ち込まないため、この隔離期間は必ず守らなければなりません)それから内門を潜ってハーレムにお入りになりました。この時嘆きの宮殿から一人女官をお連れになったのですが、実はもっと何人もの女官を連れてきたので彼女達も入れるようにと騒いで一悶着あったようです。慣例で一人しか入れられないと決まっているので無理だったのですけど。


 ですから既にこの段階で母后様は大変不機嫌だったのです。私は内門からお入りになったジャヌジェ様を門の前でお待ちしたのですが、何やら門の外に向けて悪罵を放ちながらお入りになったジャヌジェ様は私を見るなり挨拶も無しにこう叫びました。


「お風呂の準備をしなさい! まったく! 宦官のしつけがなってませんよ!」


 私は目が丸くなってしまいましたが、さりげなく聞き流してスカートを広げて膝を沈めました。


「初めまして母后様。私はヴェアーユ。アルタクス様のお側に仕えるシャーレでございます」


 私の挨拶を聞いてジャヌジェ様は流石に足を止めました。


 真っ黒な髪をした背の高い女性です。皮膚の色は少し濃く、鼻は高いです。顔立ちは整っていまして、御年四十三歳とは思えないほど若々しいです。瞳も黒く、鋭い目付きで私を睨みました。


「ああ、貴女がアルタクスの寵姫なの? 話は聞いているわ」


「いいえ。私は既に第一夫人の地位を頂いております」


 私の返答を聞いてジャヌジェ様はただでさえ鋭い目を更に厳しくしました。


「誰がそんな事を決めたのですか! ハーレムの人事は私が決めます! 勝手な事をしないで!」


 ……既にこれはかなりヤバい女だと確信していた私は、粛々と頭を下げて言いました。


「皇帝アルタクス二世陛下がお決めになりました。文句があるなら陛下にどうぞ。誰か、母后様をお部屋にご案内して」


 それからもジャヌジェ様は、割り当てたお部屋が嫌だとか(母后様はそのお部屋に入ると慣例で決まってるのに)内装が気に入らないとか、付けられたシャーレが気に入らないとか大騒ぎして、何度も何度も私を呼びつけては怒鳴る有様でした。私は三回目からは行かなくなりましたよ。あまりにも馬鹿馬鹿しいです。


 その結果、夕方にハーレムにお帰りになったアルタクス様に、ジャヌジェ様はご挨拶もそこそこにまだ平伏したままだった私を指さして叫んだのです。


「アルタクス! なんですかこの女は! 今すぐ第一夫人をクビにしなさい!」


 しかしアルタクス様は秒も間を置かず即答しました。


「嫌です。ヴェアーユは私の最愛の女性だ」


 そして揺るがぬ愛を示すように私の手を取って立ち上がらせ、私を抱き寄せると頬にキスをしました。ジャヌジェ様は顔を真っ赤にして怒りました。


「母の言う事が聞けぬのですか! アルタクス!」


「聞く義務はございません。今や私は皇帝です。母上こそ、あまりに我が儘が過ぎると嘆きの宮殿に返しますよ」


 アルタクス様の取り付く島のない返答に、ジャヌジェ様はうぬぬぬと怒り狂い、足音荒くアルタクス様の私室を出て行ってしまいました。アルタクス様は私を抱き寄せたままうんざりしたように溜息を吐きました。


「……あんな母だが、よろしく頼む。ヴェアーユ」


 ……全然全く、よろしくされたくありませんが、あんなでもあの方はアルタクス様のお母様です。私にとっては姑です。どうにか付き合って行くしかないのでしょう。私はアルタクス様の胸に顔を沈めてガックリしました。兎に角もう、なんというか、前途多難です。


 実際、ジャヌジェ様との関係はここからしばらくの間、私の事を悩ませ続ける事になるのでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る