第六話 平和な生活

 アルタクス様の寵姫になった私には桃色のドレスが与えられました。当たり前ですがこの色のドレスを身に纏っているシャーレは私だけです。桃色のドレスを身に纏っている私の姿を見て、クムケレメ様は溜息を吐きました。


「勿体ないわね。皇帝陛下も随分と貴女をお気に入りだったのに」


 ありがたいお話です。皇帝陛下には自分の口からアルタクス様の寵姫に選ばれた事をお伝えしました。アルタクス様の方からもお申し出があったそうで、皇帝陛下は既に知っていらっしゃいましたね。


 皇帝陛下は苦笑するようなお顔で頷くと、私の手を取って仰いました。


「アルタクスは、アレは自分の事を抑え過ぎる傾向がある。少しは我が儘を言った方が良いのだ。あいつがあれほど強く望んだモノは其方が初めてだろう。アルタクスを助けてやって欲しい」


 そうして私はクムケレメ様の女官の地位を離れ、アルタクス様の寵姫となりました。ハーレムの位階は夫人三人を頂点としたピラミッド構造です。私はそこから外れたイレギュラーな存在になりました。


 本来、鳥籠の皇子のお気に入りのシャーレは非公式な存在なので役職が存在しないそうです。しかし私は皇帝陛下から指輪を頂き、そして三夫人から「アルタクス様の寵姫」と認められました。これは極めて異例で、皇帝陛下がアルタクス様に強く配慮している事が分かります。


 三夫人の指揮下から離れた事で、私は夫人のお世話をしなくて良い事になり、皇帝陛下のお見送り、お迎えすらしないで良い事になりました。他のアルタクス様付きの女官はしますよ。私だけが本当に特別扱いなのです。言わば私はハーレムの中で唯一人、皇帝陛下の所有ではなく、アルタクス様個人の所有するシャーレになったのです。


 アルタクス様の寵姫になっても私室は変わりませんでした。ただし、アルタクス様はハーレムの外に出勤なさいませんから、私の生活は様変わりいたしました。正直、私室にはあんまり帰れなくなりましたね。


 朝はアルタクス様と同じ寝台で起きます。ほとんど毎日ですね。宗教的理由で女性との同衾が禁じられている日がありますから、そういう日は私は私室に帰りますが、それ以外の日はアルタクス様が私を身辺から離したがりませんので、常に一緒です。


 アルタクス様の朝食のお世話をし、朝のお風呂のお世話をします。皇帝陛下のお世話の場合、身支度を調えられた皇帝陛下は専用口を通って宮廷にご出勤され、夫人や寵姫はそれから自分の朝食を摂り、女官、下働きの順で食事を摂ります。しかし、アルタクス様は出勤なさいませんので、私は一度アルタクス様の前を下がって別室で食事をします。


 アルタクス様は西方では男女が同じ席で食事をすることを知ってらっしゃるので、しきりに食事を同席しようと誘って下さるのですが、ハーレムの決まりで禁止されているので無理なのです。


 食事が終わると、もう完全に暇です。アルタクス様にはお仕事がありませんからね。図書室に入り浸っていたのも暇つぶしのためです。私が寵姫になってからもこれは変わりませんで、二人で図書室に行って本を探して、読んだり本の内容についてお話したりします。


 ただ、実はアルタクス様はたまに皇帝陛下からお仕事を言いつけられる事があるのです。書類が届けられ、処理を頼まれたり懸案を相談されたりします。ちなみに、ご本人同士でお会いする事は禁じられていて、これほどお互いに信頼し合っているお二人なのに、ハーレム内でご兄弟がお会いする事はありません。


 お仕事がある場合は、アルタクス様はお部屋で喜んでお仕事をします。お兄様のお役に立てるのが嬉しいそうです。書類にはハーレムの外で起こっている事が書いてありますから、外の息吹を知る事が出来てそれも喜ばしい事のようでした。


 ちなみに、私にも希に手紙が届きます。エルムンドからです。ハーレムでどうしているか? と尋ねる手紙ですね。彼はもちろん、私が皇帝陛下の寵姫になる事を望んでいたと思うのですが、私は皇弟のアルタクス様の寵姫になってしまいました。その事を少し申し訳ない気分で手紙に書いて送ると、エルムンドは随分と驚き、そして何故か喜んだような返事を寄越しましたね。


 アルタクス様に伺うと、彼はエルムンドと面識があるそうで、彼は熱心にアルタクス様を皇帝位に推していたのだそうです。私はこの時は知りませんでしたが、エルムンドはアルタクス様をハーレムから出して次期皇帝、皇太子にしようという運動をしている有力貴族の一人で、だから私がアルタクス様の寵姫になってお側に侍る事になったのを喜んだのですね。


 ただ、仕事量はそれほど多くはありません。アルタクス様はもっぱら暇でした。私が来る前は本を読むか、後はお庭で身体が鈍らないように運動をして剣術の稽古を宦官の兵士としていたそうです。そのお稽古は私も見ましたけど、結構激しくて驚きました。アルタクス様は軍の将軍もお務めになっていたそうで、その頃は馬に乗って軍団の戦闘に立って突撃すらしていたそうですね。


 私が来てからは二人でお茶をしたり、庭園をお散歩したりすることが多くなりました。ハーレムには広大な庭園があります。中には小川が流れ、幾つかのテラスがあります。眼下に城壁の外の海が見えるバルコニーもあり、そこにテーブルを用意させてアルタクス様とゆっくりと海と行き交う船を見ながらよくお話をしましたね。城壁の外を眺めるアルタクス様の表情は、やはりお外に出たいのでしょう、ちょっと切ないような我慢をしているのが分かるような表情をなさっていました。


 お昼も別々に摂り、午後も同じように二人でゆっくり過ごします。私達、というかアルタクス様には私の他にも女官が付けられていますが、私が呼んだ時しか来なくて良いと言ってあります。アルタクス様お一人のお世話なら、私とハーシェス、ルシャード達宦官で十分だからです。


 そうして夕食をまた別々に摂り、夕方のお風呂のお世話をして、少しくつろいだらご寝所に一緒に入って就寝です。アルタクス様の寝所には天蓋の付いた四角い大きなベッドがあり、絹と綿で作られた布団が入っています。外から中は窺えないのに風が吹き抜ける構造になっていて、夏でも暑さに苦しむことはありません。よくは分かりませんけど、水音もしますから流水を使った冷房設備もあるのでしょう。


  ◇◇◇


 私は完全に処女でしたから最初の日、アルタクス様のご寝所に召された時には、それは緊張いたしましたよ。


 一応は教育でそういう閨の事については習っていますから、しかたが分からないという事はございません。ですけど、それは初めての事ですし、色々なお話も聞いていますし、中には閨に入ると豹変する方がいるとも聞いたことがあります。それはそれは私は緊張して身を固くしていたのでした。


 しかし、アルタクス様はそれはもう幸せそうなお顔をなさっていまして、兎に角私を優しく取り扱って下さいました。ドレスを脱がされて、お互い裸になって抱き締め合った時に彼が呟いた言葉はその後もずっと覚えていましたね。


「……私は今、この世の全てを得た。幸せだ……」


 随分と大げさな言いようでしたけど、それを聞いて私も幸せでしたよ。この人に選ばれて本当に良かったと思いました。


 アルタクス様はほとんど毎日私と同衾して、かなりの頻度で私をお求めになりました。アルタクス様も私も若かったですからね。そういう風に愛されていると、私もアルタクス様の事が愛おしくて仕方がなくなります。そうすると湧いてくるのが独占欲です。アルタクス様を他の誰にも渡したくないと思い始めたのです。


 ですから、アルタクス様のお世話は私一人が独占するようになります。ハーシェスすら手伝わせないようになりました。他の女官などとんでもない。以前は彼のお風呂の世話は女官がしていたそうですが、それを聞いて私は激しく嫉妬しました。私があまりに怒るのでアルタクス様は呆れて仰いました。


「私が君以外を寝所に招き入れていないことは知っているだろう? そのような噂でも聞いたのか?」


 いいえ。私が寵姫になる前から、アルタクス様が女官をほとんど身辺に近付けない、禁欲的な生活を送っていた事は知っています。私が寵姫になってからはほとんど毎日同衾しているのですからね。浮気をする余地はありません。でも、こういう嫉妬心というのは理屈ではないのです。こんな素敵な素晴らしい良い男であるアルタクス様ですもの。女なら放っておきません。きっとアルタクス様の寵愛を受けようと狙っているシャーレがいるに違い無いと、愛に狂った私は思い込んだのでした。


 ……実際、シャーレの中には見目麗しいアルタクス様を遠目に見てキャアキャア騒いでいる一団がいましたよ。ただ、アルタクス様は鳥籠の皇子で、お立場が極めて不安定です。彼からの寵愛を賜ったら皇帝陛下からの寵愛は得られませんし、何か問題があってアルタクス様が処分されたら寵姫も巻き添えです。その危険を冒してまでアルタクス様にアプローチしてくるシャーレはいなかったのです。何も考えずに迂闊にアルタクス様に近寄っていった私以外には。


 アルタクス様に他のシャーレが近付くのを恐れた私はべったりとアルタクス様に寄り添い、片時も離れたがらなくなりました。アルタクス様はその事をむしろ喜んで、彼の方も私を身辺から離さないようになります。なんというか、二人してベタベタしながら庭園や回廊を散歩して、テーブルでお茶をしているのです。広いとはいえ三百人ものシャーレがいるハーレムですから、それは多くのシャーレがこの様子を目にしている訳ですよ。


 これは多くのシャーレがうんざりするのは当たり前ですね。女の園の中で唯一の男女のカップル。しかも公衆の面前にも関わらずベタベタ。


 今度はマビルーザ様に呼び出されましたよ。


「いい加減にするがよい!」


 銀髪に青い目のマビルーザ夫人は凜としたお顔立ちです。その彼女が怒りの表情を浮かべるとかなり怖い顔になります。


「あんなに人前でベタベタされたらハーレムの風紀に関わる! 少しは自重せよ!」


 ……心当たりがないではない私でしたが、それでも私は不満に思いました。


「でも、私のお役目はアルタクス様の寵姫ですし、アルタクス様とベタベタするのはお仕事ですから」


「何も人前でする事はあるまい! 何の為にハーレムがあると思ってるのだ!」


 ハーレムは女性区画を意味します。一人しか妻のいない庶民の家にもハーレムがあります。妻は基本的にハーレムから出ない物とされ、屋外に出る時には顔をヴェールで覆います。大女神教は、王国式も帝国式も共に男女関係には厳しく(信者全員が守っているかどうかは兎も角)人前で男女がイチャつくなんて厳禁です。特に、帝国式大女神教では、ハーレムの外で夫婦が触れ合うことすら禁じられているのです。


 私がアルタクス様とベタベタしているのはハーレムの中ですが、このハーレム宮殿はあくまでも皇帝陛下のハーレムです。アルタクス様のものではないのです。アルタクス様は特別扱いを受けておられますが、このハーレムの主人ではありません。それが寵姫とハーレムで好き勝手にして良い訳がないと言われればその通りでしょう。


 ハーレムの中にアルタクス様のハーレムがある、という考え方があるのだとすれば、アルタクス様の私室から私は出ない方が良いという事になります。ベタベタするならそこでやれという訳です。もっともな意見です。


 ただ……。問題があります。私はマビルーザ様に言いました。


「その、それはアルタクス様に言って頂けませんか? 私には殿下を止められませんので……」


 マビルーザ様が沈黙してしまいます。アルタクス様は私を伴ってお散歩をするのがお好きで、そもそもが運動がお好きで活発な方でもありますから、本を読む時以外は私をお外に連れ出したがるのです。私も外を歩くのが好きですから喜んでお付き合い致しますが、そもそもが二人での散歩はアルタクス様のご希望なのです。


 それを私がお止めする訳にはいきません。というのは建前で、私だってお部屋に閉じ込められたくはありませんよ。腐ってしまいます。それにアルタクス様をお一人で散歩させたら彼に悪い虫が付くかも知れません。


 マビルーザ様は怒りに眉をひくつかせながら(私の建前と本音などお見通しなのでしょう)、とりあえず屋外ではベタベタしないこと。せいぜい手を繋ぐぐらいで留めておくことを私に約束させました。そうしないと皇帝陛下に命じて頂き、私をお部屋に閉じ込めるぞと脅したのです。私は仕方なく約束致しましたが、結局はアルタクス様に抱き寄せられでもしたら、私だってお応えしたくなりますから、あまりこの約束は守られませんでしたね。


 環境もやることも変わりなくて、退屈は退屈な日々でしたが、毎日毎日アルタクス様と四六時中一緒にいる生活は、幸せそのものでしたね。普通の男性はお仕事がありますから、妻とずっと一緒にいることなど出来ようはずがありません。幾ら愛し合っていても無理なのです。それが、アルタクス様にはほとんどお仕事がありませんから、私達はずっと一緒でした。


 しかも熱烈に愛し合っていて、まだ若く情熱的でした。その二人がほとんど片時も離れずにいたのですから、それは幸せでしたよ。夢のようでした。後から考えても、この時期が私の生涯で一番幸福な時期だったのではないかと思います。結局、愛するアルタクス様とこんなに一緒にいて毎日ベタベタ出来たのは、そのほんの一年に満たない短い期間だけでしたから。


  ◇◇◇


 アルタクス様が鳥籠の皇子であり、言わば皇帝陛下の温情で生かされている身分である事は、私の頭の中に常にありましたよ。


 皇帝陛下にお子が生まれれば、皇帝陛下の血統的な「予備」であるアルタクス様は不要になります。そうすればアルタクス様は一生ハーレムで飼い殺されるか、場合によっては跡継ぎ争いを未然に防ぐために殺されてしまうでしょう。


 そうすれば彼の寵姫である私は巻き添えを喰って処分されてしまうでしょうね。まぁ、それは私だってアルタクス様がお亡くなりになったら、独りだけ生き残りたいとは思わないから良いのですが、それ以前の問題として、アルタクス様がそんな憂き目に遭わないようにしたいのです。


 それには、アルタクス様をハーレムから出して頂けるようにすることだと、私は考えました。


 幸い、アルタクス様は皇子時代に行政官や将軍としても活躍され、名声を得ていました。彼を支持し、皇帝になる事を望んだ方は多かったと聞いております。今でもせっかくの才能を帝国の為に発揮して欲しいと願っている者は多くて、アルタクス様をハーレムから出して皇太子にすべきだという意見も多いそうです。


 私はエルムンドに手紙を送り、その辺りの事情を詳しく聞きました。どうも皇帝陛下もアルタクス様の才幹を惜しいと思っていらっしゃるそうで、どうにかハーレムから出す方法を模索しているようだとの事でした。ハーレムにいるアルタクス様に政治的なお仕事を振ることなど慣例には無いそうで、そういう実績を積ませる事で、アルタクス様は帝国にとって有用であると有力貴族にアピールする狙いがあるようだとの話でしたね。


 私はエルムンドと連絡を取り合い、帝国の内外の諸問題を聞き、それについてのアルタクス様のご意見を日々の生活の中で伺うと、その意見をまとめてエルムンドに送りました。エルムンドはそれを「アルタクス様のご意見」として帝国の有力者に伝え、それを皇帝陛下や大臣達に奏上するという事をしました。流石はアルタクス様で、そのご意見には有用なものが多かったのです。そのご意見が採用されればされるほど、アルタクス様が帝国のお役に立てる事がアピール出来ます。


 慣例を重視する大女神教の司教や保守派の大臣は、皇弟たるアルタクス様を帝位争いの元となると考え、ハーレムから出す事に反対でした。これに対してアルタクス様をよく知るエルムンドなど地方の太守と軍の指揮官がしきりにアルタクス様の復帰を願っているという構図で、皇帝陛下は表立っては意見を申し上げられるお立場ではないものの、内心ではアルタクス様の復帰をお望みのようでした。


 アルタクス様の復帰を願う意見はじわじわと強くなっていましたから、このまま行けばそれこそあと一年ほどもすればアルタクス様はハーレムを出る事が出来たのではないかと思われます。そうすれば私はハーレムを出て、アルタクス様のお屋敷のハーレムに移る事になったのではないかと思いますね。その時は多分、奴隷身分から解放されて自由民となり、アルタクス様と正式に結婚してお屋敷の女主人になったことでしょう。


 しかしながら、結局、そうはならなかったのです。


  ◇◇◇


 ある日、アルタクス様のところに宦官がやってきました。そして、皇帝陛下がお呼びだとの事で、彼を連れて行ってしまったのです。これまでに無かった事で私は驚きましたが、もしかしたら私も協力したエルムンド達の運動が実って、アルタクス様のご境遇について良い変化があったのではないかと期待も致しましたね。


 ……ところが、アルタクス様はそのままお帰りになりませんでした。


 夜になっても、翌朝になってもお帰りになりません。私はパニックを起こしました。これは、もしかして最悪の事態が起こったのでは……。アルタクス様が皇帝陛下に処分されてしまったのではないかと恐れたのです。


 実は私も関わったエルムンド達のアルタクス様復帰運動には、副作用の懸念がありました。有力貴族がアルタクス様を後援するという事自体が、彼が皇帝位を狙っている証拠だと見做され、危険視される可能性があったのです。そういう意見が大きくなると、大臣や司教といった保守派がアルタクス様の処分を主張する危険があったのです。


 現在は皇帝陛下以外の男性皇族がいらっしゃらないので、アルタクス様を処分する事は出来ないはずですが、もしかしたら内緒にされているだけで皇帝陛下のお子が、夫人や寵姫のどなたかに宿ったのかも知れません。皇帝陛下はハーレムで旺盛に夫人や寵姫と閨をご一緒しています。いつお子が出来てもおかしく無いのです。


 私は心配で食事も喉を通りません。アルタクス様はそれからなんと五日に渡ってお帰りにならなかったのです。私は女官や宦官にアルタクス様の行方を調べさせたのですが、所詮はハーレムから出られない彼らには調査にも限界があります。しかもこの時、夫人や寵姫の皆様もなぜか私室に閉じこもり、宦官や女官との接触を避けているというお話でした。


 これは大変です。私は焦り、混乱し、もう私自らが何とかハーレムを抜け出してアルタクス様をお救いするしかないとまで思い詰めました。


 しかし、アルタクス様がお帰りにならなくなって五日後、突然クムケレメ様から女官頭が使わされました。そして無表情に彼女は私に「皇帝陛下のお迎えに参加するように」と言いました。


 私はアルタクス様の寵姫になってから皇帝陛下のお見送りやお迎えに参加しなくなっていたのは前述の通りです。しかし、シャーレなのですから本来は皇帝陛下のお迎えは義務なのです。


 そんな事をしている場合ではない、とも思いましたが、同時にこれは皇帝陛下にアルタクス様の事を尋ねる好機だとも思いました。私は了承し、ドレスを整えて皇帝陛下の私室に向かいました。


 見張りの塔から太鼓の音が響き、皇帝陛下が宮廷からハーレムに入る専用通路に入られた事が分かります。私達シャーレは急いでハーレム側の出口から皇帝陛下の私室に繋がる通路の左右に並びます。


 その時に、私は何故かクムケレメ様に呼ばれました。


「貴女が一番前です。ヴェアーユ」


 私は首を傾げました。シャーレの序列的に、私は夫人の前に出ることなどあり得ません。私は特別扱いを受けてはいますが、それでもハーレムの序列第一位は三夫人なのです。戸惑う私をクムケレメ様はグイグイと押して最前列に出してしまいました。ユシマーム様とマビルーザ様がなんとも言えない目で私を睨んでいますが、彼女達も何も言いません。


 仕方なく私は最前列で平伏しました。皇帝陛下がお出でになったら、何とかアルタクス様の事を尋ね、彼が窮地に陥っているのなら何とかお助け頂こうと思っておりました。あんなにお互いに信頼し合っているご兄弟ですもの。もしもアルタクス様が捕らえられているのだとしても皇帝陛下の本意では無いだろうと思うのです。


 平伏していると、男性の足音が致しました。……随分聞き覚えのある足音です。皇帝陛下の足音はそれほど聞いた事がなかったように思うのですが。私が内心で首を傾げていますと、足音は私の目の前で止まりました。


 私は一時期皇帝陛下のお側に侍った事もございますから、それほど皇帝陛下に緊張する事はありません。しかし、本来であれば足を止めずにそのまま私室にお入りになる皇帝陛下が足を止めた事には驚きました。なんでしょう?


 しかし、そんな驚きは次の瞬間消し飛びました。


「ヴェアーユ」


 私は思わずお許しもないのにバッと顔を上げてしまいました。あまりにも聞き覚えのあるお声。この五日間、夢に聞いてうなされるほど求めたお声です。見上げるその先に、そのお方は厳しい表情で私を見下ろしていました。赤茶色の髪にタルバンドという布を巻き付け、紫色の長衣に身を纏っています。こんなキチッとした格好の彼を見たのはこれが初めてでした。


 私は呆然と呟きました。


「……アルタクス様……?」

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