第五話 魔性の女ヴェアーユ

 私は寵姫扱いを受けるようになってからも、普通にアルタクス様とお会いしていました。というのは、皇帝陛下は昼間は宮廷に出仕されていてハーレムにはいないので、相変わらず自由時間は暇だったからです。


 で、図書室に行けばアルタクス様がいらっしゃるのですもの。それはお話くらいはしますわよね。アルタクス様も別に普通にお話をして下さいましたよ。


 そして夕方に皇帝陛下がハーレムにお帰りになると、今度は寵姫として皇帝陛下のお世話をする訳です。そうすると自然に私は皇帝陛下ともお話をする機会が多くなります。


 皇帝陛下は慣れると非常に気さくなお方で、そして割とお話する事がお好きでした。何でも、宮廷では静寂が尊ばれるとかで、出来るだけ陛下は声を出さずに部下を指示する必要があるそうです。時には手話という手の形で言語を表現する術を使う事もあるのだそうですね。


「息が詰まる。ハーレムに帰ってくると清々する」


 なんて仰っていましたね。陛下の三人の夫人、クムケレメ様、ユシマーム様、マビルーザ様の三人は何もお話がお上手な方々です。陛下がハーレムのシャーレにお求めなのは主に話し相手なのでしょう。


 その意味で私は話術に長けているわけではないと思うのですが、皇帝陛下は「ヴェアーユの話は面白い」となぜか気に入って下さいましたね。私の婚約破棄からの流転談を聞いてずいぶん楽しまれたようでした。


 王国の社交界の様子には強い関心を持たれまして、細かいところまで質問をしていらっしゃいました。舞踏会のお話をしますとため息を吐いてこう仰いました。


「それは楽しそうだな。我が帝国の社交とは大違いだ」


 帝国の社交とは、皇帝陛下が宮廷にお出になっている際に、昼食会として行われるのだそうです。出席者は皇帝陛下とその側近、そして大貴族の方々。全員男性です。


 それが絨毯を敷いた床に車座になって座り、昼食をご一緒するのです。この際に、一皿のお料理を全員で取り分けたり、杯を回し飲みしたりして、全員の連帯感を高め、皇帝陛下への忠誠心を新たにするのが社交の目的なのだそうです。


 この昼食会も沈黙が尊ばれるらしく、昼食前の礼拝以外は会話も音楽もなく、黙々と食事をするのだそうです。確かにそれではつまらないでしょう。


 例外は年に一回ある断食明けの祝祭で、この際は特別に歌舞音曲を伴った盛大な宴が開かれるそうですが、この際も女性はいないそうです。それはそうですね。ハーレムからシャーレを呼ぶわけにはいかないのですから。宮廷は女人禁制だそうです。


 そういう訳ですので、皇帝陛下としては王国周辺の舞踏会を始めとする社交文化をずいぶんと羨ましがり、できれば帝国にも取り入れたいとのご意向でしたね。もっとも。


「伝統を守るのも皇帝の務めだ」


 との事で、強引に導入するつもりは無いということでしたけど。


 お話をしていると分かりましたが、皇帝陛下は記憶力も良く、知らない事への理解力や許容力が高く、非常に聡明でした。宗教が違うせいで王国の常識は帝国の非常識だったりするのですが、それを頭から拒絶するような事はなく、きちんと論理的に理解を示されるのです。


 物静かで口数はあまり多い方ではありませんが、仰る事は的確で分かり易いのです。アルタクス様が仰るように英邁な方なのでしょう。流石は帝国の皇帝陛下。これでは故国の国王陛下や王太子殿下では相手になりますまい。


 こうして親しくお話をしていると、私はだんだん皇帝陛下にも好感を抱くようになってまいりました。はっきり言って思っていたよりも遥かに良い方です。夫人や寵姫の皆様がお役目というだけではなく、心から陛下の事を慕っていると見えるのは、この陛下のお人柄故なのでしょう。


 陛下のお側は居心地が良く、アルタクス様とお話するのも楽しく、私は皇帝ご兄弟と親しく交流する生活を楽しんでおりました。


 が、寵姫扱いになって三ヶ月後くらいにユシマーム様がキレました。


「貴女、いい加減にしなさい!」


 ある日の自由時間に、私は夫人であるユシマーム様のお部屋に呼び出されてドカンと怒られました。


 ウェーブした髪に黄色い瞳を持つユシマーム様はいつも和かな、温厚な方です。そのユシマーム様が青筋浮かべて怒るのですから余程の事ですね。


 が、私は何を怒られているのかが分かりません。当惑して立ち尽くしてしまいます。何もかも理解出来ていない私の姿を見て、ユシマーム様は頭痛を堪えるように額を抑えました。


「貴女ね。いい加減はっきりなさい」


「……何をでございましょう」


 本気で心当たりがなかった私はユシマーム様に尋ねました。ユシマーム様の頭痛は酷くなったようです。


「……本気で言っているの? 天然なの? 二人の男を素で弄ぶ魔性の女なの?」


「は?」


「皇帝陛下を選ぶか、アルタクス様を選ぶか、はっきりなさいと言っているのよ!」


 ついにユシマーム様は叫びました。……が、それでも私は何の話なのかが分かっていません。


「え、ええと、何を選ぶのでしょう? 恐れ多くも皇帝陛下と皇弟殿下を天秤に乗せるような事をした覚えはございませんが……」


「嘘をおっしゃい! 皇帝陛下の指輪を頂いていながら、アルタクス様にも媚を売っているじゃない! 皇帝陛下に失礼だとは思わないの?」


 ……何故に私がアルタクス様に媚を売っている事になっているのでしょう。その、アルタクス様は間違い無く私の良い話友達ではありますが、私はあの方に媚びを売った覚えなどございません。私は少し悩んで言いました。


「ええと、もしかして、私はアルタクス様とお会いしない方が良いのでございますか?」


「当たり前ではないですか!」


 ユシマーム様は自明の事だとばかりに怒鳴りました。……やっぱりそういう話なのですか。しかし何故なのでしょう?


「アルタクス様とお会いしようがしまいが、私の扱いは変わらないのではないですか?」


 私はシャーレ。皇帝陛下の奴隷です。皇帝陛下の命令には逆らう事が出来ません。皇帝陛下がお望みならご寝所をご一緒しますし、下働きに落とすと宣告されればそうしますし、あるいは死ねと言われれば粛々と死ぬしかありません。逆に言うと命じられた事以外は私の自由意志が許されているのですから、私がアルタクス様と会うかどうかは私が決めても良い筈ではございませんか。


 しかしユシマーム様は大きな溜息を吐いて処置無しというように首をブルブルと横に振りました。


「貴女、皇帝陛下をどんな方だと思う? 理不尽な命令をしてシャーレを無理矢理従わせる方だと思う?」


「いいえ。温厚で誠実な方だと思います。無理難題を押し付ける方だとは思えません」


 私は正直に言いました。恐らくあの方なら、奴隷であるシャーレでもその意志を尊重して下さいますから、嫌がるシャーレを無理矢理犯すような事は致しますまい。


 ただ、私は皇帝陛下のお召しを嫌だと断った覚えはございません。ご寝所に召されれば素直に応じる覚悟でございますよ。皇帝陛下を全然知らない頃なら緊張もしたでしょうけど、今は陛下に好感を持っていますし、信頼もしています。さほど緊張しないで身体を任せる事が出来ると思います。


「……陛下はね、貴女が自分から陛下に身を委ねるのをお待ちなのよ。貴女の事をアルタクス様が気に入っているのを知っているから」


 ……話がイマイチ見えません。アルタクス様が私の事を気に入っているというのがまずよく分かりません。アルタクス様は鳥籠の皇子で、シャーレをご自分のものにする権利がございます。気に入った女官は直ぐさま手に入れる事が出来る筈です。アルタクス様が私の事を気に入っているなら私はとっくにアルタクス様のものになっている筈ではありませんか。


 私はアルタクス様と仲良くお話はしていますが、今までに一度も女性として誘惑されたり誘われたりした覚えはございません。どこかに勘違いがあるのではないでしょうか?


 私の主張にユシマーム様は渋々説明をして下さいました。なんで分からないのか分からないという感じでしたね。


「アルタクス様は皇帝陛下に遠慮をなさっているのよ。シャーレは、全員が皇帝陛下の物だからね。アルタクス様はこれまで、慎重にお気に入りのシャーレを作らないように配慮なさっていたの。皇帝陛下は『ハーレム生活の慰めになるなら、シャーレを何人でも自分の物にして良い。もしも子が生まれても殺すことはせぬ』とアルタクス様に伝えているのですけど」


 しかしアルタクス様は皇帝陛下に迷惑を掛けることを恐れて、禁欲生活を送っていたのだとか。如何にもアルタクス様らしいご配慮ですね。


「そのアルタクス様が初めてシャーレをご自分に近付けさせたのよ。それが貴女。それを聞いて皇帝陛下は随分とご興味をお持ちになったわね。それで、クムケレメ様に貴女を紹介させた」


 そして私に寵姫の証の指輪を下さったのだけど、アレには私を「アルタクス様」の寵姫として特別扱いせよ、という意味があったのだそうです。私がアルタクス様に気に入られている事で、迫害されたり下働きに落とされたりしないようにという配慮です。


「でもね、皇帝陛下は貴女の事をお側においている内に気に入ってしまった。陛下は賢くてはっきりした考えをお持ちの女性が好きだからね。多分、アルタクス様も同じなのでしょう」


 アルタクス様がシャーレの中からご自分好みの女性を選ばなかったのは、兄君である皇帝陛下と趣味が似ていて被るのを恐れたからでもあるだろうといいます。


「今ではすっかり貴女の事がお気に入りで、出来ればご自分の物としたいと思っていらっしゃるわ。でも、先に貴女をお気に入られたアルタクス様に気を遣っていらして、それで貴女をお召しになるのをためらっているのよ」


 ご配慮なさっているのは私に対してではなくて、アルタクス様に対してなのだということでした。それはそうでしょう。皇帝陛下が如何にお優しくてもシャーレにそこまで配慮する筈がありません。


「なので、皇帝陛下は貴女がアルタクス様との関係を絶ち、皇帝陛下をはっきりとお選びになるのをお待ちなのよ。あるいは、はっきりアルタクス様をお選びになるのをね」


 私がアルタクス様をはっきり選んで身を委ねれば、皇帝陛下は残念に思いながらも祝福して下さるだろうというのです。それくらい皇帝陛下はアルタクス様に親愛の情を抱き、ご配慮を下さっているのだそうです。


 ……なんというお話なのでしょうか。私は呆然としてしまいました。それはそうでしょう。私の事を皇帝陛下とそのご兄弟が取り合っているなんて想像を絶しています。何かの間違いだと思いたいところですが、言われてみれば心当たりが色々ございます。


 私が皇帝陛下から指輪を賜り、それをアルタクス様に見せた時の事です。


 アルタクス様は衝撃を受けたお顔をなさり、何度も何度も本当に皇帝陛下から賜ったのかを確認していました。そして指輪を撫でながら真剣な表情で唸ってしまいましたね。しかし、私がご寝所をご一緒することは無かった事、オレンジ色のドレスは着ないで良いと言われた事をお伝えしますと、それはそれはホッとしたお顔をなさり、私に指輪をお返し下さって、その時はなんだか随分長い間私の手を取って、私のお顔をジッと見詰めていました。


 皇帝陛下も数日前、ご寝所に向かう際、頭を下げてお見送りをする私に、少し酔いの回ったろれつの怪しい口調で仰いました。


「其方が、あいつのものでなければな……」


 その辺の事を考えると、どうも私はお二人から、その熱烈にでは無い感じですけど望まれているのではないかという気がしないでもありません。私は恋愛経験がありませんし(ケルゼン様とは断じて恋愛経験などありません)よく分からないのですけど、好意を持たれていると言われれば、ほんのり感じない事もありません。


 顔を赤くして愕然とする私に、ユシマーム様は言いました。


「貴女はシャーレ。であれば、どうしなければいけないかは分かりますね? このまま陛下と殿下を両天秤に乗せるようなマネをしていたら、貴女、その内刺されるわよ」


 皇帝陛下のご寵愛を狂おしい程望んでいるシャーレは多いですし、寵姫の中には本気で皇帝陛下に惚れ込んでいる方もいます。実はアルタクス様に憧れを持ち、寵愛は望まないけどファンであるというシャーレも多いそうです。そういう方々からのヘイトがこの所私に対して溜まる一方だとの事で、三夫人のところには「あの女をなんとかして欲しい」という要望がいくつも届いているのだとか。


「本来は貴女の上司であるクムケレメが貴女を指導するべきなんですけど、クムケレメは今の事態を面白がっていますからね。仕方なく私が言うことにしたのです」


 考えてみればクムケレメ様もやんわりと「貴女も大変ね」とか「陛下は貴女が本当に気に入っているみたいよ」とか「アルタクス様には未来がありませんよ」とか暗に皇帝陛下を選べというお言葉があったような気も致します。


 私はシャーレ。皇帝陛下の為にここに送り込まれた奴隷です。私を送り込んだエルムンドは私が皇帝陛下の寵姫になる事を当然望んでいるでしょう。


 正式に寵姫になれば、場合によっては出世して、皇帝陛下に夫人に任命される可能性もございます。そして皇帝陛下のお子を、男の子を産めばハーレムの中では最高位になり、子が皇帝になれば「母后」として特別な地位に上がる事になります。


 夫人になれば特別な給料と、そして口利きを望む貴族達からの贈り物が殺到して途方も無い資産を築く事が出来る筈です。まして母后ともなれば、荘園を与えられてハーレムにいながら経営した方もいらっしゃったそうで、莫大な資産と権力を持つことになります。


 そういう立場になれば、それと皇帝陛下へのお願いで、私の望みである故国への復讐をする事も可能になるでしょう。私は幸い国境の太守であるエルムンドに伝手がございます。それと資産と権力を使って……。うん。出来そうですね。


 それには今のままではダメです。皇帝陛下に身を任せ正式な寵姫になり、出来れば夫人になり、一刻も早く皇帝陛下のお子を授かる必要があります。それにははっきりと意思表示をすることです。アルタクス様と絶縁をして、皇帝陛下をお慕いしている事をはっきり示す事です。そうすれば皇帝陛下は私をご寝所に伴い、私にはオレンジ色のドレスが与えられるでしょう。


 私は比較的あっさり、アルタクス様との絶縁を決めました。


 この頃の私には本当にアルタクス様への想いはありませんでしたし、更に言えば皇帝陛下への想いもありませんでしたから、純粋に損得勘定、打算、未来への展望の事だけを考えて、私は皇帝陛下を選ぶことに決めたのです。私はシャーレで、既に皇帝陛下の為に集められた女奴隷で、その任務は皇帝陛下に気に入られるために尽くすことだ、という教育された方針やハーレム内に充満していた雰囲気に引きずられた判断だったかもしれません。


 兎に角、私はユシマーム様に謝罪をしてお部屋を下がった時には、既にアルタクス様と絶縁する事に決めていました。しかし、その日からいきなりアルタクス様を無視するとか、会わないように立ち回るとかいう事は出来そうにありませんでした。それは今まで親しくして下さったアルタクス様に失礼だと思えたのです。


 やっぱりちゃんとお別れがしたいと思った私は、翌日、図書室に向かいました。アルタクス様は図書室で私をお待ちでした。私はハーシェスとルシャードに命じてお茶の席を用意させました。帝国式では飲食時には絨毯に座るのですが、ハーレムの中は王国がある西方大陸の出身者が多い事もあり、テーブルと椅子が普通にありました。私とアルタクス様はテーブルに着き、お茶と、私が持参した焼き菓子を食べながらお話を始めます。


 しばらくは普通のお話をしていたのですが、途中でアルタクス様の表情が改まりました。私の緊張に気が付いたのでしょう。彼は怪訝なお顔で仰いました。


「どうした。元気がないなヴェアーユ」


 元気がない、という事はないと思うのですが。でも、これ以上引っ張る事は許されませんね。私は名残惜しいものを感じながら、右手でテーブルの上に指輪を載せました。皇帝陛下が下さった指輪です。それを見てアルタクス様の表情が曇ります。


「この指輪に応える事に致しました」


 指輪は寵姫の証です。つまり、私は皇帝陛下の寵姫になるとの意思表示でした。アルタクス様は怖い顔で指輪の事を睨んでいらっしゃいましたね。


「アルタクス様にはこれまでの親愛にお礼を。卑しいシャーレに過分なご配慮を下さいまして、ありがとうございました」


 私はしっかりアルタクス様の事を見詰めて言いました。ハーレムで孤立していた私にとって、アルタクス様とお話する時間は楽しく貴重で、心安まる時間であったのは間違いありません。男性に嫌悪感を持っていた私がこんなに普通に男性と親しく会話が出来るとは思いませんでした。


 そしてその気があれば何時でも無理矢理手籠めに出来る権力をお持ちなのに、まったくそういう素振りの無かった事にも感謝したい思いでした。もしも彼によって手折られていれば、私は皇帝陛下の寵姫にはなれなかったのですから。


 そういう様々な感謝を込めて、私は立ち上がって大きくスカートを広げて膝を沈めました。


「アルタクス様に大女神様の祝福がありますように」


 この瞬間、私は本気で、アルタクス様とお別れする気でいたのです。名残惜しくなぜか悲しい気分になる事でしたが、私は先に進まなければならなかったのです。自分の為に、復讐の為に。ここは、本当に重要な分岐点でした。


 もしもここで僅かでも何かが違っていれば、私の運命もその後の世界の歴史も大きく違ったものになった事でしょう。


「……もう会えないのか?」


 アルタクス様がポツリと呟きました。私ははっきりと言います。


「ええ。もうお会いしない方がよろしいかと存じます」


 寵姫が皇弟と密会するなんてとんでもない事です。皇帝陛下にも失礼ですし、アルタクス様にも失礼です。それに普通にハーレムの規律違反で私は処罰されてしまうでしょう。私は正式に寵姫になったら、この図書室に来ることも控えようと思っていました。


 私が寂しい思いで微笑んでいると、突然私の視界が暗く塞がりました。当時に全身が温かい物で包まれます。は? 私は驚きに硬直しますが、すぐにその異変が、自分が誰かの胸に抱き締められているからだという事に気が付きました。


 他の誰であろう筈がありません。アルタクス様が私を抱き締めているのです。彼がその優れた俊敏性を発揮して、私を腕の中に一瞬で捕らえてしまったのです。私は戸惑いました。戸惑いながら自分の身体が熱くなるのを感じます。


「あ、アルタクス様。お離し下さい」


「嫌だ。離さない」


 アルタクス様もご自分の身体を熱くさせて仰いました。私は混乱しながらも、その熱さを心地良く感じるようになって参りました。戸惑います。何でしょう。なんというか、ずっと、私はこれを望んでいたような、そんな感じが致します。アルタクス様は私をぎゅーっと抱き締めて言いました。


「君は、暗闇に生まれた私のたった一つの光だ。足下を照らす白い月だ。失いたくない」


 私の頭をアルタクス様が頬ずりする気配がします。強いけど優しい抱き締め方、その熱さ。声色。全てから私への強い愛情を感じます。そうですね。私は多分これが欲しかったのです。


「兄上には渡したくない。行かないでくれ。ヴェアーユ」


 はっきりした意思表示でした。これまで頑なに兄である皇帝陛下を立て、帝位を望まずハーレムに引き籠もり、他のどんな美女にも手を出さなかったアルタクス様が、初めて兄君に逆らって望みを口に出されたのです。それが私を欲する言葉でした。


「君を愛している。ヴェアーユ。いや、カロリーネ」


 私の本名を覚えていらっしゃったのですね。それにも私は感動いたしました。何しろ、ハーレムに入ってもうすぐ一年。一度もその名で呼ばれた事が無かったのですから。


 この方は、私の話をしっかり聞いて、しっかり受け止めて記憶に留めて下さっていたのです。私とのお話を大事にして下さっていた証拠でしょう。誠実な方なのです。


 このような方に望まれたのです。それは女として名誉な事でありましょう。


 そう思った時、初めて私の心に彼への愛情が生まれたのです。それはすぐに膨らみ、皇帝陛下の物になろうと決意していたその心を押し流しました。野望も、復讐も、打算も、すべてどうでも良いような気分になってしまったのです。


 私は彼の背中に手を回し、自分でも彼を抱き締めながら言いました。


「……私の事を、大事にして下さいますか? アルタクス様?」


「ああ! 必ず、一生、私が死ぬまで大事にすると誓おう。カロリーネ」


 私の心は決まりました。いえ、もう抱き締められた瞬間から私は彼に心まで捕らわれてしまっていたのでしょう。


「分かりました。私は貴方の元へ参ります。アルタクス様」


 ……こうして、私はアルタクス様の寵姫となったのです。私が十六歳になった直後の、春の出来事でしたね。

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