第三話 帝国の皇帝陛下
こうして私はハーレムに入り、クムケレメ様付きの女官としてハーレムでの生活をスタートさせたのでした。
ここで少しハーレムの事について説明を致しましょうか。
ハーレムとは帝国においては、主に皇帝陛下の愛妾の住居、つまり私が住むこの宮殿を意味しますが。厳密に言うとハーレムという単語自体は「妻のスペース」を意味します。
帝国式大女神教の教えでは、男女の居住区画は分けるのが望ましいとされているのです。特に妻はみだりに夫以外の男性と顔を合わせるものではないとされ、普通の一般庶民でも、夫人は家からあまり出ないものなのだそうですね。出る時には濃いヴェールで顔を覆うそうです。
帝国式大女神教では、男性は四人の妻を娶る事が許されているそうです。もちろん、そんな事ができるのは王侯貴族や裕福な商人に限られますけどね。その四人の妻が住むスペースも「ハーレム」と呼ばれます。そのスペースの特大サイズが、帝宮のハーレムだというわけです。
妻は四人までの筈が、ハーレムには総勢三百人からのシャーレがいて、夫人と寵姫だけでも二十人くらいいるのですが、これは皇帝陛下はハーレムの誰とも正式な婚姻を結んでいないからです。「夫人」も妻ではなく、あくまで女奴隷なのですね。女奴隷と関係を結ぶ分には何人でも構わないという事です。なんとなく抜け道じみていますけど。
そんなに沢山の女性を抱えているのはなぜかと言えば、それはもちろん皇帝陛下が沢山のお子を得るためです。後継者がいなくなって滅びた国は歴史上沢山ありますからね、それに、後継者が少なくてみな暗愚だったりしても困ります。王子が一人しかいなくてケルゼン様を次期王にしなければならなかった故国のようにね。
皇帝陛下のお子を産むのですから、入宮時には処女である事が求められ、ハーレムに入った後は皇帝以外の男性と接することは、基本的に禁止されます。余計な種が混ざったら困りますからね。ハーレム三重の城壁の、最内である内塀を自由に出入り出来る男性は皇帝陛下だけです。
ハーレムは女性の領域です。そのお屋敷の中の「ハーレム」という区画は女性の管理区域なのです。ですから、ハーレム内に家の主人が立ち入るには女性、つまり妻の許可が要ります。勝手に入ると怒られるそうです。
しかしこれは帝宮のハーレムにだけは当て嵌まりません。皇帝陛下は勝手にハーレムに入ってくることが出来ます。なぜなら帝宮のハーレムには「妻」がいないからです。奴隷であるシャーレしかいないからですね。
それと、ハーレムは皇帝陛下の住居、お休みになるところでもあります。かつては、ハーレムの外にご住居があったそうなのですが。現在では皇帝陛下は毎晩ハーレムに「帰って」きて、朝になると出仕していかれます。ハーレムはただでさえ警戒厳重な帝宮の、更に三重の城壁に護られていて安全だからでしょう。
しかし、言い換えれば昼の間は皇帝陛下はハーレムにはいらっしゃらないのです。ですから昼間のハーレムはシャーレ達しかいない、完全な女性の園です。
ハーレムのシャーレには「夫人」「寵姫」「女官」「下働き」という階級があるのは既に紹介しましたが、これはざっくり言えばお世話をする方の違いです。
つまり夫人と寵姫は皇帝陛下をお世話する方々です。お世話にはもちろんアレも含みます。
女官は、夫人と寵姫のお世話をする係です。夫人や寵姫が皇帝陛下のお世話をするのを助けるお役目ですね。様々なお役目がございます。
そして下働きは女官をお世話し、その他雑用をする者達です。私の世話をしてくれるハーシェスがそうですね。
それと宦官達は力仕事、汚れ仕事、それと特殊業務をしてくれます。厨房に必要な薪を運ぶのも宦官ですし、先に出てきた医者や大工、庭師、ハーレムで飼っている生き物の世話をする専門家までいます。
それと新入りのシャーレに礼儀作法やハーレムでの決まり、読み書き計算を教える教師役の宦官もいます。私はエルムンドのところで教育を受けたので省略されましたが、普通はハーレムに入った後、しばらくは教育を受けるものなのです。私は結構な特別扱いだったのですよ。妬まれるわけです。
さて、私はクムケレメ様の女官になりましたが、つまりこれは王国風に言えば私はクムケレメ様の侍女になったと言い換える事が出来ます。私は経験がありませんが、王妃様や王太子妃殿下に高位貴族の令嬢が侍女として付けられる事はよくありますので、それと同じ事ですから理解は早かったですね。
女官には様々な役目があります。女性の身の回りの世話一般だけではなく、夫人付きの場合は皇帝陛下の朝のお支度の準備もあります。それを大体夫人一人につき十名くらいの人数で仕事を振り分けるのです。
ちなみに、寵姫も厳密には女官に含みます。オレンジのドレスを身に纏った寵姫は、皇帝陛下からの寵愛を賜ってはいますが、夫人よりは下の身分です。ですから、夫人に命じられたら動かなければならないという意味で、女官と同じなのです。役目を振られていないだけで。
私はクムケレメ様付きの女官として、最初にお部屋の整理整頓の業務を振り分けられました。これは女官としては最下位であることを意味します。
女官の地位は、夫人に近い順に高くなります。すなわち、お風呂のお世話、化粧や着替えを手伝う係の女官が最高位です。自らの身体を無防備に任せるのですから信頼出来る女官にしかやらせられませんからね。
次に衣服の管理。宝飾品の管理をする女官がきて、次は食事の時の給仕係が高くなります。ともに、信頼出来ない女官には任せられない仕事であることが分かります。詰まるところ夫人の信頼度によって女官の地位は上下するのです。
お部屋の整理整頓は夫人に直接関わらない係です。失敗しても悪意があっても夫人に害を与え難いと言い換えることも出来ます。新入り女官ですからその程度の信頼度でも仕方はありませんでしょう。
この女官に地位は、最終的には夫人が皇帝陛下に女官を推薦する順番に関わってきます。夫人に近しければ皇帝陛下に夫人から紹介してもらい易くなるのです。
つまりお化粧や着替えを手伝う女官は、皇帝陛下がおいでのお部屋で夫人の手伝いをします。食事の給仕もそうです。皇帝陛下が食事をする時に、夫人と共に給仕をしていれば、皇帝陛下の目に留まり易くなるわけです。
ハーレムにいる女性の究極の目的は、皇帝陛下の寵を賜って皇帝陛下のお子を産む事です。それには皇帝陛下の御前に出て、なんとか陛下の目に留まる必要があります。しかしながら、ハーレムのほとんどの女性にとって皇帝陛下の御前に出る事さえ容易ではありません。ですからシャーレ達はまずは夫人の元で一生懸命女官としての出世を目指すわけです。
そういう意味では私は恵まれたスタートを切った訳ですけど、では私は皇帝陛下のお目に留まって陛下の寵を賜りたいと思っているかと言われると、あんまりそんな事は考えていませんでしたね。
というのはほら、私は婚約破棄騒動に巻き込まれた女でしたから、結婚とか恋愛とかにうんざりしているところがあったのです。もちろん、私はケルゼン様に毛ほども恋愛感情を抱いてなどいませんでしたけどね。
ですから、男であることは間違いない皇帝陛下に愛されたいなどとは、ちょっと思う事が出来ないでいたのです。もちろん、私がここに送り込んだエルムンドの思惑は理解していましたし、優遇してくれた彼のために頑張って皇帝陛下にアピールしなければと思わないではなかったのですが。
その皇帝陛下とは、ハーレムに入ったその夜に一度だけお会いして言葉を交わしました。ハーレムに皇帝陛下がお入りになると、見張りの楼閣から太鼓の音が響きます。すると夫人達とそのお付きの女官は急いで皇帝陛下のお部屋の入り口に並ぶのです。
そして皇帝陛下がお入りになると全員で平伏します。平伏は、大女神様と皇帝陛下にのみする最上級の礼です。皇帝陛下はその中を意外に軽い足取りで入り、皇帝の間の大きなソファーにドサっと腰掛けました。
それを合図に全員が立ち上がります。三夫人がスルスルと前に出て陛下の前に出て、その後ろに寵姫。私達女官は部屋の隅に控えます。と言っても気を抜いてはいられません。夫人が何かを命じたら大急ぎで命令をこなさなければならないからです。
「お食事になさいますか?」
ユシマーム様が言うと、皇帝陛下は頷いたようでした。というのも、遠いし暗いしで陛下の顔は見えないのです。
すぐさま給仕係が料理を持って進み出ます。それを夫人たちが受け取ると、恭しく陛下の前に用意されたテーブルに並べていきます。そして夫人が毒味をして「どうぞ陛下」と皇帝陛下にお勧めになります。ちなみに毒味は皇帝の間に料理が入った段階で、毒味役の女官が既にしています。
お食事の時間には楽器係の女官が楽器を演奏したり歌を歌ったり、演舞係の女官が舞を舞ったり演劇をしたりする事もあります。この役職も皇帝陛下の目に留まりやすいので地位が高くなります。ただ、このお役目には才能が関わってきますから、単純に夫人の信頼だけでは決まりませんが。
食事が終わると皇帝陛下は中央浴場でお風呂に入ります。このお風呂のお世話も夫人がします。同時にお風呂係の女官も夫人のお世話をするために入ります。それが終わるとお酒が用意され、場合によっては女官や宦官が何か出し物をしますね。
そして、就寝の時間の太鼓が聞こえたら皇帝陛下は寝所に入ります。この時に、指名された女官が夜伽を賜る場合があるわけですね。この日はたまたまクムケレメ様が寝所をご一緒される日でした。それで、皇帝陛下が寝所に向かわれようと立ち上がった時に、私はクムケレメ様に呼ばれて皇帝陛下に紹介されたのです。
「陛下、私の新しい女官のヴェアーユですわ」
私はサッと平伏しました。平伏は王国にはない所作でしたから、エルムンドのところでかなり練習しましたよ。
「帝国の光にして大女神様の代理人である皇帝陛下に初めて御意を得ます。卑しいシャーレであるヴェアーユの忠誠をお受け取り下さい」
私の言葉に、皇帝陛下は足を止め、じっと見下ろす気配がしました。
「ああ、顔を上げよ。許す」
「ハイ」
私はゆっくりと顔を上げました。そこに、広大なレルーブ帝国を統治する偉大なる皇帝陛下のお姿がありました。
第一印象は、若いな、という事でした。おそらく三十歳にはなっていないでしょう(後で確認したら二十六歳だそうです)。口髭を生やした浅黒い肌の男性で、少し痩せ型。温和な表情をしていて、一見して威厳があるようには思えませんでした。それは格好が寝巻きでお風呂上がりだったからかもしれませんが。
皇帝陛下は私のことをマジマジと見ました。立ち上がるように促し、頭からつま先までジロジロと見ています。品定めされているような気分がしましたが、実際値踏みされていたのでしょう。
「ふむ。美しいな。気に入ったのか? クムケレメ」
「ええ。こう見えてなかなか気が強いんですのよ」
「そうか。励むが良い」
皇帝陛下はそう言い残すと、クムケレメ様と一緒にご寝所へと向かわれました。私は内心ホッとしておりました。いきなり寝所に連れて行かれるのかと思いましたからね。ですが、新入りで信頼しきれていない女官を、皇帝陛下がいきなり寝所に連れ込むことは絶対にありません。暗殺を恐れるからです。
私が皇帝陛下とお話したのはこれっきりで、その後はかなり長い期間、言葉を交わすどころかお顔をまともに見る機会がない状態が続きましたね。まぁ、ほとんどの女官にとってそれは別に普通の事です。
◇◇◇
さて、私はクムケレメ様の女官として最初はお部屋の整理整頓(掃除は下働きの女官の仕事です)をしていたのですが、比較的すぐに役職が変わりました。
きっかけは、お部屋の整理整頓を終えて、クムケレメ様の所有の物品を点検していた時の出来事でした。私はその中に一冊の本を見つけたのです。
それは古い本でした。見ると、私も昔読んだ事のあるローウィン王国の本だったのです。懐かしさに、私は思わず手に取り、本を開きました。
その時にお部屋にクムケレメ様がお帰りになったのです。
「ヴェアーユ! 何をしているのですか!」
ああ、まずいです。お仕事は終わっていますが、クムケレメ様の私物の本を勝手に読んでいたのでは怒られても仕方がありません。
クムケレメ様付きの女官頭が目を三角にして怒っています。私が初日にお茶をぶっ掛けた女官は女官頭のお気に入りで、あれ以来女官頭は私への当たりがきついのです。こんな絶好の機会を見逃す筈はありません。女官頭は鼻息荒く進み出て私を更に怒鳴り付けようとします。
しかしその時、クムケレメ様が言いました。
「ヴェアーユ。その本が読めるのですか?」
女官頭が慌てて口を閉じます。私はクムケレメ様に向けて頷きました。
「ハイ。読めます。読んだことのある本でしたし」
すると、クムケレメ様の目が潤みました。
「そう! その本は私が誘拐された時に唯一持ち出せたものだったのだけど、当時の私は幼くてまだ読めなかったの」
その後は帝国語は習ったものの、王国語は学ぶ機会がなく、この本を読むことがこれまで出来ないでいたのだとか。
少し文字が違うのと、文法の癖が違うだけで、王国語と帝国語はそれほど変わらないと思ったのですが、クムケレメ様にとってはそうではなかったようです。まぁ、私は王太子妃教育で、神聖文字とか古典語とかも学ばされていましたから、異国の言葉を習得するのに慣れていましたからね。
「ねぇ、ヴェアーユ。その本を読んで見せて頂戴な。昔お母様が読んでくれた事があるのよ」
確かにこれは色んな物語が書かれた本です。私は了承し。本を開いて一節を読みました。
「昔々あるところに、毎日楽しく遊んでいる蝉と、一生懸命働いている蟻がおりました……」
「ああ、そのお話知ってる! お母様が話して下さったもの。その本に書かれていたのね!」
クムケレメ様は大喜びなさり、それでそれから私はクムケレメ様にご本を読んで差し上げる係に任命されたのでした。
そしてそのお役目をしている間に私が色々な言語に詳しく、字も綺麗であるという事が分かり、私はクムケレメ様の書記のような事をするようにもなっていきました。夫人ともなるとハーレムの外の貴族から皇帝陛下への口利きを頼む手紙を受け取る事もあって、それの返事の代筆なども命じられるようになります。
書記はかなり重要なお仕事で、夫人にかなり信頼されている者がなる役職です。それにまだまだ新入りである私が任命されたのですから、これは異例なことで、私は女官達から大変嫉妬されましたね。ただ、書記は重要ではありますが、皇帝陛下にお会いし易い役職ではありません。その意味で私は寵姫の座から遠ざかってしまった事になります。
書記になったおかげで、私はハーレムの図書室への入室が認められるようになりました。クムケレメ様に読んで差し上げる本を探すという名目でです。図書室には古今東西の様々な本が集められていました。私はその中から面白そうな本を探し出し、クムケレメ様に読んで差し上げる一方、ついでに私が自室で読む分も借りました。暇つぶし用です。
ハーレムでは朝食後に女官以上が揃って皇帝陛下をお見送りした後、夫人の元で朝のお仕事があります。とは言っても書記の私はこの時間は夫人が手紙を書く事でもなければ暇です。お部屋の整理の手伝いをするくらいですね。
そこから昼食までは自由時間です。昼食時に夫人のお世話をすると、また夕方まで自由時間。夕食前に夫人のお世話をして皇帝陛下をお迎えした後、自室に帰ってお風呂に入り、就寝です。
自由時間にクムケレメ様に呼ばれて本をお読みしたり代筆をする場合もありますけど、特に仕事のない時間が山のようにあるのです。暇です。
多くのシャーレはこの時間に、同僚とおしゃべりをしたりお茶を飲んだりします。しかし私はあまりお茶に誘われる事がありません。
私は出世が早くて妬まれているのと、性格がキツくて嫌われているからですね。自覚はあります。最初の日のあれ以外にも、嫌味を言ったり嫌がらせをしてきた女官に三倍返しを喰らわせた事がありますからね。
そんなわけで、私は自由時間が暇なのです。それで私はもっぱら、自由時間は読書をして過ごしていました。図書室には読みきれないくらいの本がありましたからね。難解な本も多くて、それを解読しながら読むのも楽しいものでしたよ。
それで図書室に通っていた事で、ある縁が生まれる事になります。
その日も私は図書室で本を物色していました。図書室の本は製本されたものと巻物が混在しています。言語も様々で、帝国語や神聖語、古典語、あるいは王国語(王国近辺数カ国で使われている言葉です)、物凄く古い言葉で流石に読めない本までありました。
私は古典語も問題なく読めるので、かなり古い本を手に取ってめくっていました。羊皮紙の独特の匂いと、掠れたインクの文字。これは帝国式大女神教の司教が書いた帝国南部地方の様子の本ですね。面白そうです。
「古典語が読めるのか?」
突然、背後から声が掛かりました。私は驚きました。男性の声だったからです。ハーレムに男性はいませんからね。宦官は声が甲高いので男性とは違いますから聞けば分かります。
私が振り向くと、背の高い若い男性が私が持った本を覗き込んでいました。赤みが掛かった髪色で鋭い紫色の瞳が印象的です。精悍な印象の方でした。濃い青の上質なローブを着ています。明らかに宦官ではありません。宦官のローブは茶色です。
私は戸惑いながら答えました。
「……ええ。読めますわ」
「それは凄いな。聖職者並みではないか。元は学者か?」
「いえ、修道女だった事はありますけどね」
男性はほうほうと頷くと、近くの本棚から違う本を抜き出しました。
「古典語が読めるならこれもお勧めだ。古い帝国で流行った小噺集でな。なかなか面白い」
私は本を彼から受け取り、曖昧に頷きました。
「あ、ありがとうございます……」
私が一応お礼を言うと、彼はニコリと笑いました。秀麗なお顔です。屈託のない笑顔に、私も思わず微笑んでしまいました。
……これが、私と、アルタクス様の初対面です。
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