第61話  ヴジョー伯爵、暗殺される

「急所は外してあります。あとは、あなたの神にお祈りください」

 私の胸で、トマが抑揚のない声で囁いた。心臓や肝臓を狙われなかったことに、驚愕した。腹を刺されただけならうまくすれば数日は生きられるはずだ。

 神殿騎士の身分をあらわす黒衣。三ケ月型の短剣。月の神エリュン。そして、新しいカレルジ銀行頭取からの手紙。すべての辻褄が合わず、私のなかに疑念が生じた。

 いったい誰が……?

 トマは私を抱擁するように両腕をひろげて短剣の柄から手をはなした。その無防備なほどの態度に、彼が、私に斬り殺されることを望んでいると知った。私は身体中の筋肉が痙攣するほどの凄まじい怒りを無理やりに押しやり、剣の柄にやっていた手をおろした。私には、この都を守らなければならない使命がある。斬り返しては、首謀者を知ることはできない。

 短剣が引き抜かれなかったと気づき、霞んだままの両目を懸命に見開く。

 そこにあるのは「暗殺者」としての訓練を積んだ男の姿でも、先ほどまでの人好きのする若者の姿でもない。紺青の双眸に私をうつし、疲れきった安堵に身を任せて悄然と立つ人間の姿だった。

 見あげる姿勢になったのは、扉に背をついた私の膝が折れたからだ。これしきの傷でしゃがみこむとは面目ないと感じたが、先ほど、斬り返す手をおろした時点で私の内側にある何もかもが事切れたようになっていた。

 彼は、私が荒い息を吐いて身じろぎするさまを見つめ、目を背けた。そして、あたりを見回して途方にくれたようだ。それは、私が甲冑や帷子を服の内側に身に着けていないか確かめるため城で私の背中に鼻の頭をぶつけ、大砲という情報を渡すためだと微笑んだ用意周到さとは無縁の心もとなさに思えた。

 問い詰めても、語らないであろうことはその顔を見て理解した。

「……逃げるなら、神殿横の、小川から、だ」

「伯爵様?」

 怪訝そうに首をかしげたのは、私が罠をはっていると思ったせいかもしれない。

「抜け道が、ある。岸壁に沿って……」

 自分の暗殺者を逃がそうとする私はお人好し過ぎるかもしれないが、これから起こるであろう内紛を思えば逃げてもらいたい。

「かわりに、この手紙と短剣を、隠滅し…ほ…い」

 彼は、私のいっている言葉の意味を理解した。アンリには、トマという神殿騎士がついてきていると話してしまった。私のこの姿を見つければ、犯人の検討はつくはずだ。だが、この手紙と三日月形の短剣があらわすのは、もっと複雑なものだ。

 誰かが、このエリゼの都に内紛を起こそうとしている。

 私にわかるのはそこのとだけだ。

 彼は髪が乱れるほど小刻みに頭をふって私の声を遮った。

「逃げてもいいとは命令されておりません」

「……誰、に」

 無駄とは思ったが訊いてみた。彼はただ、強張った顔で私を見おろすだけだ。落胆は隠しようもなかった。彼が自分の命を大事にしないのだとしたら、アンリを呼んで彼を拷問にかけるだけのことだ。

 そうして私が声をあげようとした瞬間、ふいに、色が失せるほどきつく結んだトマの唇が震えた。彼が、なんと呟いたのかだけは、私にも理解できた。

「兄さん?」

 トマの背後、廊下のずっとむこうにエミールが立っていた。

 エミールの嘘を、私は知った。彼はトマをよく知っているものを見る顔で凝視した。その場ではけっして見出すことのない相手を目の前にする、あの驚嘆に満ちた表情で。

「どうしてここに……」

 エミールの声が途切れたのは、私の姿に注意がむいたからだろう。沈黙のあとに襲いきたのは、声変わり前の少年の悲痛な叫び声だった。

 その声を聞きつけたアンリが走りながら剣を抜いた。

 トマは、動かない。

 こちらに背をむけたまま、弟を見つめているようだ。

 私はすでに目を閉じていて、アンリが振り上げた剣を制止することさえできなかった――――

 

 気がつくと、私はアンリの腕に抱かれて頬を叩かれていた。

「しっかりしてくださいっ」

 うっかりした。

 そうこたえて、この幼友達を笑わせてやりたかったが、私の口は動かなかった。アンリの切迫した声音から想像以上に傷が深いのだと知れた。それなのに、先ほどより苦しくない。我ながら妙に冷静だと感じた一方、違和感をおぼえた。

 私は、自分の姿を上から見ていた。

 出血のために、空色の装束はどす黒く変わっていた。自分が思っていたよりも長くは生きられないのではないかと考えた瞬間、我に返る。

 もしや、私は事切れたのか?

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