第60話 ヴジョー伯爵、おのれの本分を取り戻す

 息をのんだ私に、アンリが笑った。

「愛する女性をお守りするのが騎士でありましょう? あなたが臣従礼を誓うのは、あの麗しい女神の娘なのですから、仕方ないですよ。

 お忘れではありませんよね? このエリゼ公国は女神の御子によって治められ、あなたは偉大な皇帝ユスタス陛下からその御子をお守りするよう仰せつかったヴジョー伯爵の末裔なのです。

 あなたは、この国を守護するものです。この先どんなことがあろうと、その役目をおりてはなりません」

 アンリは私がしかと頷いたのをたしかめ、いつもの調子で続けた。

「とは申しましても、エリス姫救出は、動きようによっては公爵家への叛逆罪を問われますし、悪くすればオルフェ殿下を弑逆せねばならなくなりますが、よろしいですね?」

「そうならぬよう働いてこそ円卓の騎士の末裔たるヴジョー伯爵であると、言っておく」

「よいお覚悟です」

 アンリの、滅多に見せない晴れやかな笑顔に騙されたわけではない。

 実際のところ、オルフェ殿下の命運を左右するのは私ではないと考えたからだ。しかも、私が頼みにしたのは己の運や力量でなく、アレクサンドラ姫のそれだった。

 あの姫君がここに遣わされたのは、ただエリス姫の守護のためだけではないだろう。十二人の女戦士たち以外にも、彼女は自分の配下をこの国に放っている。エリス姫がこの国に帰ると決まったその日から、アレクサンドラ姫と皇帝陛下――そしておそらく月の君も――この国に対して策を講じてきたはずだ。

 その証左があの膨大な量の覚書であり、姿を消した女戦士たちの動向であり、帝国貴族である私の母の急とは思えない旅拵えにある。

 そしてむろん、叛逆の意思は私にはない。

 エリゼ公爵家にお仕えするのがヴジョー伯爵たる私の役目であるからには、あのお二人をお守りすることこそが、私の使命なのだ。

 調理台へとむかったアンリは、振り返りざま口にした。

「エリス姫の恐れておいでなのは、いったい何なのでしょうね」

「アンリ?」

「女人というのは誰も彼もが結婚したいものだと思っていましたのでね。ましてあの方は結婚することで《葬祭長》でなく、《大教母》になる権利を得ることができる。わたしが女なら地位も名誉も男も子供も欲しいと思うのではないかと考えると、不思議な気がしたのですよ」

「それは……」

「わたしがあの方なら、モーリア王国の王女を殺してでもあなたを取ります」

「物騒なことを」

「恋愛とはそんなものではないですか? まあ、政治向きでいえば、死んで欲しいのは王女ではなく国王のほうですがね」

「国王はまだ二十歳だぞ」

「ええ。今をどうにか切り抜けても、この国は今後ずっと若くて野心満々の国王を相手にし続けなければならない。そう考えると、モーリア王国にエリス姫をさしだすという弱気な貴族たちの気持ちもわからなくはないです。まあともかく、そうした話もエリス姫を救い出してからです。

 さっさと用意してください。わたしは鳥を絞めて焼いてから後を追います。痩せっぽちの子供らにたまには肉を食わせてやらないと」 

「子供というとむくれるぞ?」

「子供でしょう? 自分の身も守れないんですから」

「エミールはともかく、ジャンは剣をもつ身分じゃない」

「剣だけが身の守りではないでしょう? 神童と呼ばれて自惚れた挙句、神官資格を剥奪されるなんて幼稚です。エミールも、子爵家に生まれたくせにろくろく剣も振るえない」

「アンリ、その言い草はないだろう。あんなに慕われているのに」

「可愛くないとは言ってません。おっしゃるとおり、彼らとは、あなたよりずっと仲がいいつもりです。だからこそ苛めたくなるのですが、もうそれも止め時ですね」

 アンリが短く笑った。その笑顔は私の胸をついた。

 彼は白金の頭をぐるりと回して厨房を見渡し、片手に乾燥させた香草をもちあげて匂いをかぐと、こうしたものともお別れだ、と独り言のようにつぶやいた。

 城代の息子ではあるが、アンリは側室腹であった。兄たちと教育の差はなかったが、供をつけずに出歩ける身分でいるために帝都でも学ばず、仰々しさを嫌う私の側付に任命された。

 彼がここでわたしを見守った十年間、それがどのような年月であったかは私にはわからない。ただ、それが虚しいだけのものだったとは思わない。

「さあ、細かな話は後です。奥方様にお小言を食らうのは真っ平ですから、あなたは一足先に出かけてください。わたしとニコラは後から追います」

 アンリはそれ以上、何もいわなかった。

 彼が鶏を捕まえに裏庭に出るのを見届けず、私はその場を後にした。

 扉をあけて外に出ると、トマが扉からずっと離れた場所に立って庭園を眺めていた。

 エミールの明るい金髪と違い、トマの髪は褐色に近く、身長も頭ひとつ高い。瞳の色もエミールは澄んだ水色で、トマは深い青だ。それでも、心もち顎があがり気味で背筋を伸ばして立つ姿はやはり似ていた。ふたり並べてみないでも、血が近いと気がつく者もいることだろう。

 トマは揚げ雲雀が地に落ちくるのを見つめ、またそれが急激に舞い上がるのにつられるように仰のき、そこではたとこちらの視線に気づいて歩いてきた。

「すみません、ぼうっとしてしまって」

「いや、こちらこそお待たせした。それより、本当にエミールに会わなくていいのかな?」

「ええ。会わなくて、いいのです」

 口許をひきしめて頷いた若者に、理由をたずねることはできなかった。

 そのまま執務室へと連れ添って歩き扉の前に立つと、一昼夜ほど前、ここでアレクサンドラ姫に呼び止められたことがもう何年も前だったように思う。 

 物思いに足をとめた私を不審に思ってか、背中からトマの呼びかけがした。

「伯爵様は、新しくカレルジ銀行頭取になった方の御名前をご存知ですか?」

 あの方――月の君のただ一人の息子の名を、私は知らない。いや、それは先ほどゾイゼ宰相から見せられた手紙にあったはずだ。

「伯爵様宛てです」

 トマは私へと手紙をさしだしてきた。

 そこには、つい今しがた見た紋章が刻まれていた。私はそこにある署名を読み取ろうと右手を伸ばしてそれを受け取った。何故、彼がそんなものを持っているのかと疑問に思ったその瞬間、トマの身体が沈み、その手に短剣が閃いた。

 手紙が落ち、そこに血飛沫が散ったのと同時に、私の胸に頬をついたトマが唱えたのは、月の神エリュンの名前だった――

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