第62話 ヴジョー伯爵、太陽神殿神官見習いエミールと作男ジャンの話しを聞く

 私は、自分とアンリの姿を目にしてから、呆然と立ち尽くすジャンを見た。ジャンは倒れ伏して動かないトマの身体の前で膝をついたエミールと我々を交互に見て、何がおきたか解き明かそうとして濃い眉をしかめた。彼が手紙に目を落としたそのとき、アンリが顔をあげ、ジャンを一喝した。 

「ジャン、死んだ男には用はない。縫合はできるな?」

「ああ……」

「ならば来い」

 アンリに横抱きにされた肉体は部屋の向こうに消えたが、私はそこに立っていた。少なくとも、私の見ていたのはアンリでもジャンでもなく、エミールと、トマだった。

 エミールはトマのうつ伏せに倒れた身体に取りすがり、真っ赤な顔でくりかえし嫌だと叫び、自分が引き裂かれでもしたかのように頭をふっていた。

 私は物心ついて以来こんなふうに我を忘れて泣いたことがなく、哀れと思うより先に驚嘆した。

 思い返してみても、おのれの感情の昂ぶりのまま涙を流すなどしたことがない。

 私は、父が死んだときにも声をあげては泣かなかった。ニコラをはじめ、父の供回りたちが泣いていた姿は覚えているが、一族の者はみな表面上落ち着き払って死の床を見つめ、葬儀にのぞんだ。

 もしも、万が一にもエリス姫が身罷られたとして、私はこのように声をあげて泣くだろうか。あの方の命のかわりに己をさしだすことは幾らでもできる。だが、私はヴジョー伯爵としての務めを、あの方の命と引き換えにできるだろうか?

 もっとも、そんなことを問う前に私は凶刃に倒れ、自身が死の淵を彷徨っているようだ。そう考えて、トマが何を守り、何を損なったのか問うことをやめた。あれほど嘘をつくことを厭うエミールが、トマを知っていたのを偽ったのは、何かに感づいていたからだろう。さりとてこの無垢な少年にトマが自分の「仕事」を悟らせるような愚かな真似をしたとも思えない。

 トマの血が大理石のうえで黒く乾き始めたというのにエミールの号泣はやまず、その華奢なからだを抱きしめてやろうにも自分の体はこの場になかった。試みに声をかけようにも口がない。不便なものだ。

 そう感じた私の背をつきぬけて、ジャンが戻ってきた。腹のあたりに血痕がついているが、もとより汚れ作業用の衣服のせいで目立たない。

「エミール、お前、この神殿騎士の知り合いなのか?」

 顔をあげたエミールは、ジャンの質問の意図どころか仲間の顔さえも見分けがつかない様子で髪を振り乱して泣いていた。ジャンは問いかけるのを諦めてそこにしゃがみこみ、倒れているジャンの顔とエミールのそれを見比べた。やはり、一目で血がちかいと分かるほど、似ている。

「エミール、このままだとヴジョー伯爵家の一族に吊るし上げられるぞ」

 獣のように呻くだけのエミールの頬を叩いて肩を揺すり、ジャンが問う。

「こいつは誰だ」

「兄さんが、こんなことをするなんて……」

「『こんなこと』って、お前、なにか知ってるのか?」

「僕は、ああ……どうしてこんな……」

 また顔を伏せたエミールの肩をつかんでジャンがいった。

「お前は何にも聞かされてないんだろ、この事件に加担してないだろ? だよなっ」

「うっ……僕……」

「知ってるなら、俺はお前を助けられない」

 ジャンの硬い声が、エミールの泣き濡れた頬にふれた。

 エミールはようやくにして意味を悟ったのか、ジャンの顔をまっすぐに見た。薄青の瞳に光が戻ったことで、ジャンの眉がひらきそれと同時に肩も落ちた。

「エミール、いいか? よく聞け。お前はこのままだと間違いなく殺される」

「……え」

「たとえお前が何も知らなかったとしても、そして神官様の命が助かったとしても、お前は復讐のため捕まえられて拷問の上、殺されるだろう。わかるか?」

「あぁ、そ、うだ。城に知らせに行かなきゃ、逃げなきゃ」

「エミール! 今は、お前の家族のことは考えるな」

「でもっ」

「いいから、お前の家族には家臣がいるだろう? お前はひとりなんだ。わかるか? お前のことを守って戦ってくれる人間は誰一人としていないんだよっ。お前が、お前自身で自分を守るしかないんだ。しっかりしろ」

「しっかりって、どうしたら、こんな、こんなの……」

 エミールの金色の頭がガクガクと震えはじめた。ジャンが小さく舌打ちして、もう一度その頬を叩く。

「エミール、しっかりしろよっ、いつもすかしてるお前らしくないだろう。落ち着けよ。とにかく聞け! そして答えろ!

 お前は、この件は知らないんだよな?」

「知ってたら、こんなっ」

 激昂したエミールを片手で制し、ジャンが問うた。

「わかった。それともう一つ、お前自身はどうしたい? お前の一族がこの件に加担してるかどうかはわからんが、貴族同士の争いに騎士として身を投じるか?」

「僕、は」

「お前、剣を取って城に帰るか? 帰るなら、俺は止めない。お前の親兄弟を守るために戦いに行くなら、俺にはそれを止める権利がない。

 お前は貴族だ。

 だがな、お前はそれと同時にこの太陽神殿の神官見習いだ。法と秩序を守る、太陽神の教えを遵守する者だ。殺戮に身を任せる道理はない。そうだろ?」

「そ、うです」

「よし。俺はこの件に関してお前が無実だと思う。だからお前を逃がしてやりたい。俺の言うことがわかるか?」

「う、ん」

「お前は助かる。助かるから、しっかり俺の言うことを聞くんだ」

「はい」

 ジャンもそこで安堵したように頷いた。それから、エミールの肩から手をはなして自分の短衣を脱いで渡した。エミールも意図を察して神官見習いの長衣を身体から取り払った。下穿きだけになったジャンは、その首に下げていた小袋をエミールの細い首にかけた。

「これ、は?」

「大神官様に下賜された指輪だ」

「え……」

「とりあえずそれ持って、俺の村へ行け。場所はわかるな? それで、領主様に帝都へ行く援助をしてもらうんだ」 

 エミールは涙で濡れた睫をしばたいて彼を見あげた。

「いいか、エミール。この国はそれでも一応、帝国領だ。大神官様に匿ってもらえ。ヴジョー伯爵やエリゼ公爵だって、大神官様にはそうそう逆らえない。大神官様と同等の立場にあるのは皇帝陛下か、もしくはこの国の大教母だけだ。

 お前は太陽神殿の神官見習いだ。お前が真実なんの罪も犯していないなら、大神官様はお前を守る責務がある」

「それは」

 わかる、とうなずいたエミールは、おずおずとジャンの顔を見て続けた。

「ジャンは?」

「何だよ」

「ジャンは、どうするのですか?」

「俺は、ここにいる」

 エミールが息をのんで相手の顔を見つめた。

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