第50話 エリス姫、死神トトに拘束される
おれの目に映ったのは、弓矢をつがうサルヴァトーレの姿だった。ほっそりとした肢体を卑しい黄色の上下に包み、悠然とかまえている。その杏仁形の双眸はひたとおれを見つめ、獲物を捕らえる愉悦に燃えていた。
「走れっ」
アラン・ゾイゼの声に、弾けたように我に返った。
肩に突き刺さった矢を引き抜く騎士団長は、剣を抜いて背を押した。おれは怪我人を置き去りにすると決めて、階段を蹴る。
あの男にだけは、捕まりたくない。
荒れた呼吸に、剣戟の音さえもおれの耳には届かなかった。
どのくらい石段をおりたかわからなくなったころ、突き当たりに木戸が見えた。身体をぶつけるように押し開け、内側から無駄のようでも錠をおろした。
そして、おれは地階へと足を踏み入れた。
すぐ左手、肩の高さに、細かな文様が刻まれている。それを指で辿り、その「文字」を読み解こうとしたが、手の先が震え、心臓の音が邪魔をして意味をおえない。
松明の火をちかづけ、目をこらして幾度も深呼吸する。
ハジメ右。
ツギ左。
ツギ左。
おれは繰り返し、指でその意味をたどる。
そのころになってやっと、地下の澱んだ空気が肺を満たしていることに気がついた。カラカラに乾いた口腔を湿らせるために、革袋の口をあけて葡萄酒を口にしたかったが我慢した。
万が一、この標を見失えば、おれは確実にこの地下で道に迷う。
二度と、地上に出られなくなる。
都の地下、古神殿から城中までの道なら、幾度もあるいたことがあるが、ここは初めてだ。
慎重にいかなければならないが、背後に迫り来るサルヴァトーレの姿に身震いし、気を落ち着けることができず走り出した。
昔から、何故こんなふうな複雑な地下道をつくったのかは不思議とされていた。
もちろん、敵襲を恐れてのことといわれていたが、そもそも謎だったのは、誰がいったいこのようなものを作ったのか、作るだけの資金と技術があったのかだ。
道幅は思ったよりずっと広い。
標のある場所には、明かりを置く窪みまで用意されている。魚脂、獣脂の煙跡が残るのは、古神殿から城への抜け道だけだ。
一方で、馬の蹄のあとを見たという話を聞いたこともある。信憑性はともかくも、たしかに天井は高いのだ。
この国に多い横穴住居より格段に素晴らしいその構造に、古代帝国の威信を見せ付けられると語るものもいたが、おれの知る限り、帝国の土木技術者たちにもこれだけのものを建造する能力があったとはいえない。
帝国の地下にも、たしかに、地下道はある。
だが……。
おれは肩で息をしながら、二つ目の標を炎で照らす。
指の腹で、懸命に、読む。
ハジメ左。
ツギ……。
指先に、光が点された。
ぎょっとして振り返る瞳を、痛いほどの輝きが襲う。目が眩むとはまさにこのことで、ふらりとした身体を拘束された。
「はなせっ」
おれは松明を持った手を闇雲にふるってその手から逃れたが、腕を捕まれて引き倒され、背中と頭を地面に打ちつけた。まだ目のあかないうちに圧し掛かられて、両頬をしたたかに二度、叩かれた。
呼吸を忘れて痛みに慄いているだけのおれを、見つめる視線。
ようやく瞳の焦点のあったおれは狼藉者の半月になった唇に激昂し、腰の短剣を探ったが相手はそれを許さず、手首を握り締めて囁いた。
「いま抜いても遅いのですよ」
喉奥で笑いをこらえるサルヴァトーレの声。
「はなせと言っているっ」
「血が」
その手が後頭部に触れて、おれは自分が血を流していることに気がついた。そのとたん、鉄錆た独特の臭気が鼻腔を満たし、首筋あたりまで濡れた感触が広がりつつあることに気がついた。傷があると知ると、頭の後ろで血が脈打ってひどく痛んだ。
眉をしかめた顔を見て、サルヴァトーレがいった。
「そんなに痛みますか?」
「当たり前のことを訊くな。さっさと上から退け」
「ならば、もう暴れないでついてくると約束したほうがいいですよ」
「サルヴァトーレ、いつからおれに命令する権利があるのだ」
おれを押さえつけたまま、無位無官の男は苦笑した。
以前なら益体もない軽口が返ってきたが、今は無言で笑うだけだ。
彼我の立場を考えろと脅されるものと思っていたおれは、少々拍子抜けした。
半分異国の血を引いていると噂されたサルヴァトーレは、被差別民出身者だと喧伝するように、今日も濁ったサフラン色の繻子を身に着けていた。
だが、黄金宮殿の寵童のなかでも、サルヴァトーレは群を抜いて美しかった。それだけでなく、天才と呼ばれる頭脳の持ち主だった。ふつうに考えれば、たとえ奴隷上がりであろうと然るべき地位を得られたのだろうに、彼はそれを拒絶した。
いや、拒まなければいけない立場に立たされた。
「早く退け」
おれは、サルヴァトーレの顔へ向けてそう口にした。それには、切れあがった瞳が細くなる。
先ほどの殴打に口の中を切ったようで舌に血の味をおぼえた。手の甲で唇をぬぐった。最初の衝撃で松明を落としていたらしく、両手はあいていた。
そのあいた両手首を男の手がつかみ、荒縄で縛り上げた。なすがままになっていたわけではないが、奪いとられた短剣を首筋にあてられては、さすがのおれもおとなしくならざるを得なかった。
アラン・ゾイゼは無事だろうかと考えて、それは今、胸にしまっておこうとした。
「あいかわらず、痛い目をみてもわからないとは強情ですね」
おれが目を眇めたのは、その言葉がなにをさすか思い出したからだ。
だが、言えることばはなかった。
女のように見える、美しい、異国的な相貌を見つめ返す。
「……私は、後悔しましたよ」
「そうだろうな」
吐息をついて身体の力を抜き、目を閉じてつぶやいた。
「サルヴァトーレ、どうしてもおれを連れて行くというなら殺していけ」
本心だった。おれは、死の女神の神官職にある。自死は認められていない。
この男は、眉ひとつ動かさずひとを殺せる。それをおれはよく知っていた。
「あんたをわざわざ殺してやらないとならない義理は私にないでしょう?」
あんたと呼ばれる身分ではないと言い返そうとして、やめた。この男がこの調子で宮廷に出入りできたのは、月の君と皇帝陛下の気に入りだったせいだ。
そして、おれはこの男に恨まれても仕方がない過去があった。
傍若無人と罵れば、それはこちらのほうだと言われるだろう。
おれは、この男とともに、アレクサンドラ姫の事実上の教育係だった。古典や太陽神殿の教義はちょくせつ大神官が労をとったこともあると聞く。そのくらい、陛下はサンドラを愛していた。
この死神に、ただ至極優秀だというだけで大事な孫を預けてしまうほども。
「髪を、どうしたのですか?」
焼け焦げたそれを片手につかみ、トトが秀麗な眉をひそめた。
今では、この男のほうが長い髪をしていた。
「邪魔だから切ったのだよ。そんなことはいいから、上から退けと言っている」
言い終わる前に、頬を打たれた。
三度目は恐慌状態に陥ることもなく、おれは相手を睨みつけた。先ほどは恐れから酷い痛みを覚えたが、本気で殴られているわけではないとわかった。頬に熱はあるが、血流の流れに伴う後頭部の痛みに比べれば何ほどのこともない。というより、叩かれた頭がぶれただけで、後ろの傷が広がった気がした。
自分を見下ろす男の顔に、おれは堂々と文句をいった。
「頭が痛い。手当てくらいしろ。それに、おれに傷をつけては、今度こそおまえの命がなくなるぞ」
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