第51話 エリス姫、死神トトと自身の罪を思い出す
脅しのつもりはなかった。
それはトトも承知していたはずなのに相手はただ肩を揺らして笑い続けた。
その様子を不審に思ったが、あえて、そのことに触れなかった。
「ほんとうに、変わりませんね」
変わらないわけはないと言ってやりたかったが、おれの唇は相手のそれで塞がれた。おれは目を開けたまま、甘んじてそれを受けた。
「色気のない。目を閉じるくらいしませんか」
「してどうする」
「あんたに会いたい一心でここまで来たのに」
「おれに復讐しに来たとでも言うつもりか?」
「……恨んでいないとはいいませんよ」
その正直なことばには息をついた。
おれたちの間で、あの日のことが口に出されたことはない。
おれも本気ではなかったし、この男もまた、魔がさしただけだ。
ただし、その過ちは高くついた。
サルヴァトーレは幼いころから寵童として過ごした男色家で、おれがそうと決め付けただけでなく、この男自身もそれを疑ったことがないはずだ。
それでも、朝から夜までアレクサンドラ姫という共通の話題をもって互いの進捗状況を語り合ううちに、または、幼くして色事をおぼえさせられた似通った境遇ゆえに親しくなり……。
事に及んだわけではなかった。
おそらく、服でも脱げばどこかで正気に戻ったことと思う。
でなければ、友愛のしるしにくちづけただけだと居直ればよかったのだ。
それができなかったのは、ふたりとも、死んでもいいからあの黄金宮殿から離れたかっただけにすぎない。
おれは、月の君の別邸で十日間ほど足に枷を嵌められて暮らした。
皇帝陛下からの呼び出しがなければ、一月でも二月でも牛馬のように繋がれたままだったであろう。公爵家に生まれながら奴隷のように扱われたその恥辱は、ことばに尽くせぬものだった。
たしかにおれは、月の君の愛人になると契約した。しかしながら、彼に己の自由を買われたわけではない。
そのときまで、おれは、そのことを忘れていた。
そして、サルヴァトーレへの処罰は陰惨を極めた。
「犯してやるとでも言えば様になったのでしょうね」
苦々しい罵り言葉に、おまえと寝る気はないと言い返さなかったのは、ただひとえに、宮刑に処された男への憐憫の情でしかなかった。
何もこたえなかったことで、トトは短剣の切っ先をおれの胸のうえに翳した。胸を突かれるのかと覚悟したが、刃は胸前のボタンを弾いた。
「トト?」
おれが上半身を起こそうとすると、右手に肩を押さえつけられた。
「胸を抉り取られるというのは如何ですか?」
悲鳴は、おれの自尊心によって唇の外へと流れなかった。だが、息をのんだせいで相手の杏仁型の両目は細まった。
「それとも」
刃の先が胸の中心から臍のしたを辿っておりた。
下肢の付け根でとまった剣を、荒れた息で見つめた。目をそらすには、相手の身に起きた事実を知りすぎていた。
「私の父の国では快楽を得ることのないようその部分を削り取るそうですが、縫い止めてしまったほうが、あんたにとっては好いのかもしれないですね」
こちらの表情を見下ろす視線に愉悦が混じるのを感じた。
この男がおれに復讐したいのだとすれば、ソレが相応のやり方であろう。されたことを同じくやり返すのであれば。
恐ろしくないとは言わないが、ある種の諦めはあった。震えているくせに、あたまの何処かで、自分だけ助かったことを悔いるような気持ちもあったのは確かだ。
枷を嵌められたおれは人間扱いされないことに怒りを燃やし気も狂わんばかりに泣き叫んで許しを乞うたが、この男の絶望を理解したというわけではない。ことに、男根にばかり自身の理由をおく存在であるというだけでなく、寵童でありながら性器切断されなかったのは、その才知ゆえに、この男が将来、誰かと結婚し相応の地位を得ることが許されていた故だった。
ふとした出来心で処罰されたふたりのうち、片方の罰が軽いことを許せないと叫ばれれば、それはわからなくはなかった。
だが。
「トト、おれに復讐するのは楽にできようが、後のことはどうする?」
「あと?」
「おまえひとりが帝都から遣わされたわけではあるまい。おれを生きて連れて帰らぬのであれば、おまえは任務に失敗した咎を受けるのではないか?」
「私の身を心配してくれてるつもりですか? それとも無体は止めてくれという意味ですか?」
皮肉っぽい笑みのあいまにひとつふたつとボタンが外れ、おれは羞恥に血をのぼらせたが、声をあげることは堪えた。そして、相手の暴挙をとめることができるとは思わずに、本心をいった。
「その、両方だ」
「都合のいいことを言いますね」
「おれも、死にたいと思うほど後悔したからな」
瞳があい、トトは白い亜麻布に切っ先をあてていた手をとめて尋ねた。
「何を?」
「決まっておろうが」
戯れに交わしたくちづけのせいで、おれは自分の尊厳を失いかけたし、この男も危うく命まで奪われそうになったのだ。
トトの両目がおれの顔を見つめていた。明らかに、おれに何かを言わせようとする視線だった。
「ヴジョー伯爵という男は、あんたの何が好きだと?」
唐突な質問と思えたが、次の瞬間には意図は知れた。寝かせた冷たい刃が頬にあたる。
「顔?」
性器を痛めつけられるのも女へ対しての侮辱になるが、顔を傷つけるのもまた、否、もしかするとそれ以上にそうであろう。先ほど、アラン・ゾイゼに髪を焼かれただけで、おれは悲鳴をあげて逃げ惑いそうになった。
死体を切り刻むのが日常と化していた男らしく、刃を扱う手に迷いはない。
「……知らん」
真剣にこたえたはずが、相手はそうと受け取らなかったらしい。刃物ではなく、平手打ちが頬を見舞った。おれは後頭部の痛みに耐えかねて、声をあげた。
「頭が痛いといっている!」
「痛いと泣けば助けがくるわけではないでしょう。それとも、伝説の騎士に相応しく、あんたの想い人は今ここにやってくると?」
物語なら、ルネの姿がここにあっていいことだろう。
あわやという場面に、颯爽と騎士があらわれて囚われの姫を助け出す。
しかしながら現実は、そんなふうにはできていない。
「……それはない、だろうな」
おれは、吐息をついて真実を述べた。
静かで、しかしながら強固な無力感が襲ってきて、おれはそれに抗う術を思いつけず、瞳を閉じた。目尻をつたうの熱いものが涙だと、そのときのおれは気がつかなかった。
亜麻布の裂ける、女の悲鳴を思わせる神経質な音が耳を貫いていた。
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