第14話 ヴジョー伯爵、エリス姫の待つ菫の家をおとなう

 エリゼ公国には山がない。

 遮るもののない空の下、緩やかな起伏を描く丘がどこまでも続き、その間を蛇行する河が流れている。この河の恵みこそが、この国の栄華の基礎となった。

 街から河岸をいくらか下ると、崖に横穴を掘って住むひとびとがいる。

 そこは光のあたらぬ住居ではあるが、慣れてしまえば気温が安定して住み心地がいい。もちろん、葡萄酒の貯蔵庫としても最高だ。

 菫の家とは、そうした葡萄酒の貯蔵庫兼横穴住居のひとつだった。

 帝都に旅立たれるエリス姫に、菫の香りのする葡萄酒を貯蔵していた場所ごと私がさしあげたものだ。ここに納められるべき樽は、毎年きちんと帝都にあげられるよう手配した。

《黄金なす丘》で収穫される葡萄酒の木苺の香りより、姫さまは普段はこちらを好まれたのだ。

 今日の姫さまは、喪の色ながら裳裾をひいていた。よくよく見れば葬祭長としての簡易式服であったが、襟と袖には雪よりも白いレースがふんだんに使われているためにたいそう艶やかに見えた。

「少し変えてみたが、どう思う?」

 問いかけに、私はただただうなずいた。

 早かったなとかかった声に続いて、挨拶もなく突如としてはじめられた会話ではあるが、この唐突さこそがエリス姫らしく、私はなんともいえず笑いたくなっていた。

 そうした私の気持ちのあれこれを姫さまは勘違いしたようで、ややむくれたような顔でこちらを仰ぐ。

「おれは、良いだの悪いだのという感想を訊いておるのだがな」

「よく、お似合いです」

「そんなことは十二分にわかっているさ」

 姫さまは悪戯の成功した子供の顔つきで首肯して、自分の手柄を見せびらかすような仕種で肩に散った髪をかるく払う。

「それで、組合員たちの反応はいかがなのですか?」

 私の問いに、姫さまは少し固い声で返す。

「帝都のように奢侈禁止令が出されるほど売れるとは思わないが、まったく金にならない商売ではないと判じている。それより何より、神殿の女たちにはいい稼ぎになる」

「この国は、八年前の災厄から立ち上がったばかりですからね」

「ああ。現実的には輸出用だ。帝都の流行に憧れる後進国たる小国貴族たちの手に、二流品として渡るだろう」

 二流品という言葉をつむいださいに、エリス姫は皮肉っぽい微笑をみせた。私がそれに気がつくと。

「だが、販路はこちらで確保した。帝都は遠い。あちらから運べばそこに道中の危険まで加味された値がついてまわる。こちらは神殿騎士をつけて売る」

「では、陸路をいくのですか?」

「ああ。これ以上、水運業者にうまい汁を吸わせるのも癪だからな。そのかわり、亜麻は従来どおり、水路をつかう」

「そうですね。彼らの反撥を買うようなまねはしないほうがいいでしょう」

 私が納得顔でうなずくのを見て、エリス姫がなにかを思い出したらしい。

「そういえば、雪のように白いレースを黒衣の神殿騎士に運ばせるのだと説明したら、サンドラ姫が、それなら美男ばかり集めなきゃというので笑ったよ」

 私はどう返していいのかわからず、曖昧に微笑んだ。

 それでも、商人たちが騎士に守られて旅をするのは妙案だと認めた。昨今の世情不安のため、道中傭兵を雇う交易商も多くいる。そうして高額を払って雇い入れた傭兵が、いつ夜盗になりかわるかもわからないこの時代、神殿騎士ならば信用がおけるだろう。

「そなた、ここへは滅多にこないようだな」

「ええ。管理だけで、あとは任せてしまいましたので……」

 地下水のしみとおる天井は葡萄酒のためには湿気があっていいものの、たびたび水滴が落ちてくるのでは住むには困る。それも、きちんと補修のあとが見えた。

 点々とならぶ燭台には芯のかたいままの蜜蝋燭が揃えてあった。胡桃材の卓上にはかんたんな食事の用意があるが、これは、この方の差配したもののようだった。

 それでも、私は高貴な女性をこのような場所に立たせておくことに躊躇していた。さりとて、用意のいいこの方がわざわざこんなところで待っていたとなると、軽々しく場所をうつすとも言いがたい。

 奥には、椅子と長卓が並んだだけのそっけないこの場所よりはいくらかましな部屋もあるのだが、この入り口でいうべきことはいっておかないとならなかった。

「先ほど私はオルフェ殿下ならびに宰相閣下に、モーリア王国の王女殿下との婚儀の話をすすめてくださるよう、告げて参りました」

「それは、ひとまずめでたいな」

 めでたいと言われ、私は怯んだ。

 悲しい顔をみせてほしいと思ったわけではなかったものの、手放しで喜ばれて落胆した。自分がこれほど情けない男であったかと、忌まわしくなるほどだ。

「ルネ、乾杯するぞ」

 籐かごから杯を出され、給仕のいないことに今さらに気づいた私はあわてて姫さまの手からそれを奪った。

「そのままで。姫さまにそのようなこと、させられません」

「おれはここしばらく何でも独りでしてきたがな」

 苦笑したものの、エリス姫はおとなしく席についた。織布さえかかっていない卓にはパンと蜂蜜、それから腸詰と数種類の乾酪があった。

 つましいといえばつましいが、この住居には似つかわしい。

 先ほどうかがった様子では、外に女戦士が三人ほど控えていた。馬に乗ってきたらしく、すぐ河岸のすぐそこまで足跡があった。それなのに繋いだ姿がないことをいぶかると、彼女たちのひとりが轡をとって、厩につないで休ませると申し出た。

 そのとき、すぐに帰るということばを私はのみこんだ。

 彼女たちは一晩この扉の外ですごす体制でいた。それなのに火も焚かず、馬も隠そうというのだから余程、用心しているのだ。あの蹄のあとも消し去るくらいのことはする覚悟だと、その瞳が語っていた。

 そうしたことを思い出しながら、一方で、何故か私は緊張から逃れていた。

 ここに呼び出されたのは、姫さまが何らかの事情で神殿を離れたかったために違いないと思い始めた。または、姫さまの「神殿改革」の概要について、話してくださるものと考えていた。

 乾杯は互いの健康を祈るという味気ないものに落ち着いたが、ひとくち含んだのちの姫さまは恍惚として長い睫を伏せた。

「葡萄酒だけは、この国のものに限る」

 本心からのことばと聞こえた。私は、この方がようやくこの国に戻ってきたのだと強く感じて、しみじみとうれしく思った。

 考えてみれば、それ以上のことはない。

 死の女神の娘たるこの方がこの国にあるというそれだけで、私にはこれ以上なく幸福なことだったのだと気がついた。

 エリゼの街の西と東、互いに古くからある神殿に住み、ときにこうしてそのお姿を拝見できればそれで十分にも思えた。

 たとえてみれば、この方は歓びの野に咲く青い雛罌粟のように摘み取ってはならない高貴な花で、私がそれに触れることが許されるのは永久の眠りにつくときだけであると……

「ルネ、まずは噂話からしようか」

 杯をおいたエリス姫が私の顔をみた。

「そなたの結婚相手は夫を毒殺したことは間違いない」

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