第2話 死の女神の娘にして葬祭長エリス姫、かつての恋人に求婚される

 あらためておれは机の上のひなげしを見た。白い花びらはパピルス紙のように薄く、細かなひだが寄っている。

 指で触れると紙とはちがい、水気をふくんでいるとわかる。

 歓びの野の青いひなげしは死者に手向けるとき以外、摘んではならない。女神を奉ずる神官でさえ、祭り事のときにだけ敬意をもって摘みとるにとどめ、みだりに手を触れない。

 だが、おれは不敬な不埒者で、女神の恩寵そのものを疑っていた。

 そもそもおれは、この国では珍しいまっすぐな黒髪に黒い瞳をもって生まれた。闇を従える女神は夜の色をまとっていると信じられていて、女神を先祖と仰ぐエリゼ公爵家にそういう子供が生まれれば、その子は女神の寵児としてまつりあげられた――

「今さらおれが太陽神の神官になりたかったといっても、誰もそれを信じまいな」

「そういう言葉を無闇やたらに口に出されるのはどうかと思いますが。今現在、貴女様は公国の葬祭長でおいでなのですから」

 この花の贈り主がそう言った。

「そなたの神は女神官を認めぬからな」

「そうですね」

 彼のまつる太陽神は国教と呼ぶに相応しく、帝国全土で広く信奉されている。しかしながらこの国では当然、少数派だ。彼が三十歳になる前に第一神殿の主という栄誉ある職を襲うことができたのは、信者が少ないという現実的な理由とともに、その骨柄のよさがある。

 なにしろ彼と同名のルネ・ド・ヴジョーは伝説の円卓の騎士のひとりで、皇帝ユスタスとともに蛮族と戦い《歓びの野》に散った勇者なのだ。爵位は伯爵だが格が違う。さらには、わがエリゼ公爵家より歴史は古い。

 じっさい純白の式服を脱いで大青で染めた上下をまとっているのを目にすると、無腰であることが奇異に思えるほど騎士然として見えた。

「ところで、誰の許しを得て部屋の前にいた」

「葡萄酒の樽をお届けしたら、あの女戦士たちがこちらへ案内してくれました」

 思わぬ背信をつきつけられて、危うく呻き声をあげそうになった。

 酒で買収されたか、アマゾオヌたち!

 まさかその程度の貢物で裏切られるとは思ってもみなんだ。それともおれが、あまりに強く締めつけすぎたか。

「姫さま?」

「だからそう呼ぶなと申しておる!」

 声をあげて見据えると、男はなにも聞かなかった顔で続けた。

「失礼ながら、ここでお仕事をなさっているようにはお見受けできませんが……」

 彼は腕を組み、室内をぐるりと見渡してみせた。おれもしみじみ部屋を眺めた。

 いやはや、惨憺たるありさまだ。

 この部屋には死亡確認記録書の一枚もない。というよりも、書棚からはこの国の人間の出生記録、葬儀の式次第綴さえも失われている。略奪のあと著しく、鍵と鎖だけが残された場所はあまりに無残で寒々しくはあるが、隠すものはなにもない平明さは清々しくもあった。つまりは秘密も何もないから、この男は部屋の前にすんなり通されたのだ。

「おれが干されていると皮肉るのがここへきた理由か?」

「滅相もない」

 長身の男は首をふって否定した。そのせいでくせのある褐色の巻き毛が頬にふれ、彼はそれを気にして耳にかけた。その、神経質そうな身振りをじっと息をつめて眺めていた昔を思い出す。十歳から二年ばかり、おれはこの男の教え子だった。

 おれは今、不遇をかこっている。

 葬祭長などという名誉職を与えられたが、上級職のゾイゼ宰相兼大神官のいる限り、このおれが葬儀を執り行うことはない。

 それが、おれのこうした物言いや男装のせいであれば構わない。十年間の帝都留学からもどってきた「エリス姫ご乱心」に由があるのならば、納得する。

 だが、真実はもっと複雑だ。

「ゾイゼ宰相は、貴女様に仕事をさせたくないようですね」

 この略奪――現実はもっと穏当な言葉ではあったが――を示唆したこの国一番の権力者の名に、おれは肩をすくめた。

「せっかくモーリア王国と懇意になったところで、帝国風を吹かせたくないのだろうな」

「あの方の出自はもともとあちらの国ですから」

「余所者は信じられないと弾劾する気か?」

 冷笑にも、彼は穏やかに返す。

「この十年の平安は宰相閣下のご尽力の賜物でしょう。公爵様が病に倒れられゾイゼ殿を宰相に据えて以来、この国は帝国でなくモーリア王国寄りの状況でした。しかもあの方は死の女神を奉じながら、その恩寵は信じておられない」

「それはおれも同罪だがな」

 吐き捨てた本音を、彼はかるく受け流す。

「貴女様はちがいます」

「そう断じる理由は何だ」

 問いかけに、彼は昔懐かしい笑顔でこたえた。

「それは、私よりも《死の女神の娘》である貴女様のほうがよくご存知でしょう」

「どうだかな」

 かぶりを振って否定した。以前なら素直にわが身をかえりみただろうが、もうその手にはひっかからぬ。

 ルネ・ド・ヴジョー伯爵は帝都の学士院で学び、皇帝陛下から直々に神官職に任命されて帰国した。それからすぐ十八歳でおれと兄オルフェの教師になった。おれが十二歳で帝都に旅立ってから二年後に結婚し、すぐに妻と死に別れた。

 そして今、毎夜ここに訪れては、おれを守護する女戦士たち全員に焼き菓子と早咲きの金雀児の枝をくばり、神殿騎士たちへ牛を一頭おくりつけ、ヴジョー伯爵らしい気前のよさを披露して人気をあげている。

 星明かりだけの室内で、三本立ての燭台には蝋燭は一本しか立っていない。闇を統べる死の女神が炎を好まないせいもあるが、実は貧窮しているのだ。

 おれにはまっとうな禄がない。葬儀を執り行うことができなければ、実入りはない。

 皇帝陛下のおふざけで公爵位を授けられているが、封土がないのでどこからも上がりはない。また、神官職としての禄はぎりぎりここにいる人間を養うだけで精一杯だ。公爵家の姫君としてのそれは、おれの帝都での滞在費にたち消えた。

 つまりおれは持参金もない嫁ぎ遅れた貴族の娘そのもので、どこかの神殿で養ってほしいくらいの立場にある。

 彼はそれをよく知っていて花だの本だのと一緒に番の鶏や蜂蜜、ひいた小麦の袋まで自ら担いで運んできた。世闇にまぎれ供も連れずにふらりと来ては、他愛ない話を半刻ほどして帰っていく。その心遣いには感謝している。

 昔から、そつのない人物ではあった。

 今日はすこし趣が違うのは、この惨状を目の当たりにしたせいだろう。

 女戦士たちは賢明だ。おれが未婚でいる間は皇帝陛下の命令で守護しないとならないが、結婚後の義務はない。

「お尋ねしますが、あの女戦士たちのなかには女王陛下の姫君がおいでなのですか?」

「ああ、末娘のアレクサンドラ姫がいる。みごとな赤毛のむすめがそうだ」

 思い出すように伏せられた顔へと、

「誘惑されたか?」

 そうぶつけると、苦笑した。

「剣を持って彼女と戦えというのがそうでしたら、恐らくは」

「それは重畳。帝都でもアレクサンドラ姫が声をかける男は滅多にいなかった。自信があるなら相手をしてさしあげるといい」

「ご冗談でしょう?」

「冗談ではないさ。彼女に勝てば王様だ。負ければ首を斬られるって話だがな」

「私の聞いた話では、もっと不名誉な処罰だったかと……」

 男性器官の切除のことか。

 顔をあげると、かつての教師はすこし気後れした横顔をみせた。

 女戦士たちに関するくだらない風聞には困りものだ。王女が自分より強い男を国に連れて帰るのは事実だが、それ以外では顔を赤らめるばかりの与太話がまかり通っている。

 ルネのような男でもあんな噂を信じるのかとひそかに驚きながら、

「十五の小娘に負ける気か?」

「近ごろ剣など滅多に振るいませんからね。もとより争いは嫌いですし、得手でもありません」

「十年前の馬上槍試合ではみごと下から勝ちあがったではないか」

「あれは、貴女様が一番になれとおっしゃったから……」

 途中で彼は、言うべきことではなかったという顔をした。

 おれも、同様に感じた。

 この気まずい沈黙を払うのはこちらの役目だろうな。おれは笑顔をつくって語りかける。

「それでも、兄のオルフェに華をもたせてくれたのだったな」

「いえ、殿下の実力ですよ」

 かぶりをふって否定したのでもう一度、微笑みかえす。

 オルフェは心臓に負担をもって生まれてきた。そのため激しい運動は禁止されている。異国の生活にも不安があった。

 だからおれが、帝都への留学を引き受けた。

「旅立たれた貴女様に、私がなにを書き送ればよかったのか考えてみたのです」

 いささか唐突にも思えたが、しばし耳を傾けることにした。

「貴女様を励まし気遣うようなことを書きながら、私は一度たりとも自分の想いをお伝えしませんでした。今さら書いても詮無いことだと思いましたし、貴女様のご迷惑になると考えました。それだけはしてはいけないと戒めていたのですが……本当に貴女様が望まれていたのは、そちらのほうだったのですね」

 あの当時、この男の前では泣いてばかりいた。おれが泣くと、身を斬られたような顔をした。帝都はそんなに恐ろしいところではないし手紙を書くから寂しくないと口にしてぎゅっと手を握ってくれるので、おれは甘やかされるままに泣いていた。

 帝都では、泣いている暇はなかった。目をしっかり開けて、誰が敵なのか、或いは味方なのか見定めて、誰からも貶められないよう高い位置につかなければならなかった。

「ゾイゼ宰相の専横をこのまま許すおつもりですか?」

 いきなり話を戻され言葉につまった。

「姫さま」

 いつの間にか、椅子の横に立たれていた。おれはそっと彼の顔から視線を外し、体温を感じてあわてて頤をあげる。その位置に立たれると、よその国のことばを教わっていたあのころの記憶がよみがえる。

「許すも許さぬもない。宰相はおれよりも上級聖職者で、実質的にこの国の政治機構の大部を掌握している」

「ですが」

 ルネの双眸がいつになく真剣な色に変わるのを目にして、おれはゆっくりと唇の端をつりあげた。

「無論、このままでは終わらせないさ。おれは、《死の女神の娘》だ。たといその恩寵がこの見た目以外に何もなかろうとな」

「それでこそ、はねっ返りのエリス姫です」

 無礼な物言いのしたり顔を睨みつけると、彼は心底嬉しそう目尻をさげた。

「ルネ、随分な喜びようじゃないか」

「貴女様の元気なお姿を拝見できそうですからね」

「おれはそんなに萎れていたか?」

「田舎暮らしを厭い、都落ちしたご自分を憐れまれて嘆き通しているのかとお見受けしておりましたよ」

 おれはそっぽをむいて言い返す。

「いまも田舎は嫌いだ」

 彼は小さく笑ってこたえた。

「私はこの国が好きですがね」

「変わっているな。いや、ヴジョー伯爵家に生まれたそなたには当たり前か」

「私も昔は嫌いでしたよ。まして帝都で学んでいたころは故郷に帰りたくないとまで思いました。真実、あの地がこの世の中心でしたからね」

 おれも、そう思っていた。

 この大陸、否、この地上のすべての真ん中にいると信じていた。ましてやおれは、そのもっとも高みにいた――七つの丘、そこにある黄金宮殿の、皇帝陛下のすぐそばに。

「エリス姫、やはり私と結婚していただくわけにはいきませんか?」

 口をひらくより前に、先ほど触れた花びらが床に落ちた。

 おれは婢のようにかがんでそれに手を伸ばした。

「姫さま」

「早う去ね」

「エリス姫、私は」

「聞きたくない」

「……わかりました」

 おれは、礼儀正しく辞去の挨拶をして去っていく彼のあしおとを全身で聴いている自分がおかしかった。あれから十年もたったはずなのに、おれは彼に恋焦がれていた小娘とまるで変わらない。

 さっき水気があるとおもった花びらは、手のひらの中では乾いて千切れそうだった。

 

 

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