歓びの野は死の色す

磯崎愛

第1話 死の女神の娘にして葬祭長エリス姫、男装をして故郷に帰る

 エリゼ公国のひなげしは青い。

 正確には、公国の西南に位置する《歓びの野》に咲く花だけが青い。

 伝説によれば、この国の守り神である死の女神エリーゼの血は青く、その傷から流れ出た血によって染まったのだという。恋人である太陽神の浮気に嘆き苦しんだ女神が、おのれの御神体を傷つけたのがこの野原であったそうだ。

 それにしても、本来なら帰国を祝う夜会だなんだと誘われるはずが、一枚も招待状が届かない。この国の貴族社会から完全に無視されている状態だ。

 かつての知り合いが向こうから訪ねてきてくれるだけでも有り難いと感じるほど、ひとに疎ましがられる身分になりさがったというのも腹立たしいが、正直なところ隣の部屋に待たせている男と顔をあわせるのは気ぶっせいでしようがない。

 おまけにそうして吐息をついて見あげた梁は、色褪せた花綱模様もそのままで、ことさらみじめったらしい気分になる。

 ここが死の女神を祭るもっとも古く由緒正しい神殿とはいえ、こうもあちこち古寂びていては女神の御利益も何もあったものではない。

  情けなや。

 表通りから聞こえる鋳掛屋の声さえも、ここではのんびりしているようだ。早朝とちがい物売りの声が重なることもない日暮れ時とはいえ、街の様子はしずかだった。

 じっさい、田舎なのだ。

 十年前は、このエリゼの街しか知らなかった。ここが、自分の世界の中心だと思っていた。おれはここで生まれ、そして死ぬ予定でいた。

 だが、今は違う。

 開け放した窓から風がはいりこみ髪を揺らす。それに首筋をなでられて肌があわだち、マントの前を思わずつかむ。栗鼠の毛に縁取られた羊毛の生地はいかにも田舎貴族の持ち物らしく継ぎがあてられていたが、丈夫で暖かい。かつての自分はこうしたものに取り囲まれて育ったはずだった。

 今年は四月になっても妙に寒いと聞かされた。昨夜しかたなく火をおこしたせいか、どうも髪がにおう気がする。ためしに一筋とって指の先に巻いてみると、やはり煙臭い。灰の匂いを消す香木でさえ、この街ではしみったれて陰鬱だ。

 どれほど贅沢になれきってしまったのかと我がことながら片腹痛い。さりとて「帝都に帰りたい」とさめざめ泣けば誰かが送り返してくれるわけでなし。晴れて自由の身になったというのに、これはいったいどうしたものか……。

 それに、もしも再び帝都に戻ることがあるとしたら、あのひとの崩御の知らせが届いたときのことだろう。

 まあせいぜい華々しく執り行ってやるさと嘯いた。

 おれは今、白いひなげしを活けた花瓶を執務室へと運んでいる。本来なら葬祭長のおれを補佐する神官見習いの仕事だが、あいにく人手がないので致し方ない。

「姫さま!」

 扉の前にきたところで、片膝をついていた男が今にも駆け寄らんばかりの勢いで立ちあがった。

「そう呼ぶなと申しておる」

 きつく言いわたすと、彼は真顔でこちらを問いつめた。

「では、いかように御呼びすれば」

「葬祭長と呼べばよい。爵位はともかく、この街の第一神殿を預かるそなたの地位とおれのそれは、奉ずる神が違えど同等だ」

 太陽神を祭る長身の男の顔に苛立ちはない。よほど辛抱強くできているのだと感心する。さすが騎士道精神めでたきエリゼ公国の名門ヴジョー伯爵家に生まれたことはある。

「御名前をお呼びするわけにはまいりませんか」

「参らぬな」

 おれは扉をあけてくれた相手へ着席をうながさず、花瓶を下ろし、ひとり勝手に執務机に陣取った。                           

 人質として帝都にさしだされ、皇帝の寵姫となったエリス姫が〈男〉になって帰ってきたと噂になっているのは知っている。

 おれは帰ってきてからずっと男言葉で通しているし、兄のお古を着ている。髪は肩口で断ち切った。もしもおれがこの帝国領エリゼ公国の姫君でなく、この国でもっとも高い爵位を授与されていなければ追放ものであろう。

 陛下はおれに公爵位をくれた。餞別だと笑い、おれの父親と同じ位を珍しい菓子でもくれるそぶりで授け、封土は自分で奪い取れと言ってから最後にこう凄んだ。

――エリス姫、そなたの真実の母である《死の女神エリーゼ》のようになるがよい――

 そうして今、おれはこの国の守護神たる死の女神エリーゼをまつる最も古く栄誉ある古神殿に住んでいる。

 窓の外には青いひなげしの咲く《歓びの野》があり、目の前にいるのは大昔、恋仲だった男だ。

 帰国して以来、毎日ここに押しかけてくる。さすがに断り文句も尽きた。

「ところで、そのお姿は皇帝陛下のお指図によるのですか?」

 ヴジョー伯爵家の男は立ったまま、こちらを見おろしてたずねてきた。気遣わしげな瞳と、くせの強い褐色の髪は昔のままだ。

「指図はない」

 おれは彼の横の椅子に視線をやって座らせた。あの頃は、もう少し身体全体が薄かったように感じたが、この男も三十歳かそこらになろうとするのだから変わって当然だ。おれも相応に、少女から大人の女になった。 

「では、何か自然のふるまいに反逆するご意志でもおありですか?」

「ひとつ訊くが、自然とは何ぞ」

 用意されていた葡萄酒に口をつけた。こればかりは帝都の黄金宮殿よりこの土地のものの出来がいい。

「世の中には女性と男性がおりますのでその違いに応じた服装や言葉遣いがあるかと」

「帝都の宮殿では陛下の小姓たちは女よりも着飾っておったが誰も何も言わなかったぞ」

「それはそうでありましょう。皇帝陛下の寵を競えば当然です」

「では、ここで誰とも寵を競わずにすむおれが好きなようにしても問題なかろう?」

「そういうことではなくてですね」

「ヴジョー伯爵、おれがこの格好を通していると誰にどのような影響を及ぼすのか、はたまた迷惑がかかるのか委細述べてみよ」

 彼は小さく息をついてからこたえた。

「まずは貴女様の兄上様に。再来月、ご結婚予定のオルフェ殿下の恥となりましょう」

「おれのおかげで皇帝陛下の姪と結婚できるのに?」

「それは貴女様のおかげではなく、この国が川向こうのモーリア王国と結託して帝国を脅かすことのないよう、または裏切らぬように陛下が楔を打ちこんだまでのことです」

 とうにご存知のことでしょう、とつけくわえられそうな語調にはおぼえがある。この男がおれの語学教師だった時の言い口だ。

 おれを、十年前と同じ十四歳の小娘だと思うなよ。

「オルフェは許してくれている」

「殿下は帝都への『留学』を代わってくれた貴女様に恩義を感じておられますからね」

「いや、昔からオルフェはおれにやさしいのだ。そなたと違ってな」

 嫌味を言ったつもりが、彼は懐かしい表情で微笑んだ。

 西日が完全に《歓びの野》の向こうに落ちていた。室内が暗くなり、おれが目を眇めたのに気がついて、彼が灯りを運ばせましょうと立ちあがる。

「いや、それには及ばない。誰かが気をきかせて燭台なぞ運んでこないよう、外の女戦士に頼んであるのだ」

 ここにきてはじめて、不思議そうな顔をされた。

「邪魔をされずに昔のように話しをしたかったのでな」

 口にしてみると自分で思っていた以上に本心であると感じたが、彼は一笑にふした。

「ご冗談でしょう。会談を何度も断られたのは私の顔など見たくもなかったからではないのですか?」

「それも、ある」

 相手がなにか思いつめた顔をしたその刹那、おれも悟った。

 彼も、会いたくなかったのだと。

 それも致し方ない。

 おれはこの男を捨てたのだし、この男もまたおれを見限ったのだ。

「ルネ」

 応えはなかった。

 立ったままの相手を見あげ、おれは続けた。

「手紙をもらったのに返事を書かなかったのは悪かった。すまないと思っている。だが、あちらでの生活が楽しくて、そなたのことなど忘れていた」

「それはもう」

「ああ、すんだことだ。だが、おれはちゃんと謝りたかった。それに、そなたの教えは役に立った。おれは田舎者呼ばわりされずにすんだ。感謝している」

 硬いままだった表情がようやく緩む。

「それはようございました。私もお教えした甲斐もあるというものです。であれば」

「たとえ頼まれても、女言葉は使わぬ」

「なにゆえに」

 険を含んだ問いかけだった。

「厭いた」

「飽いた?」

「ああ。もう、嫌になったのだ」

「ご自身の評判が地に落ちようと気にしないと?」

「そんなものは、おれが十四で皇帝の寵姫となったときに底をついているのかと思っていたよ」

 この時ばかりは、彼の眉がわずかに寄った。おれはそれに満足し、ゆっくりと言葉をついだ。

「ルネ、そなたが結婚したことを恨んではいない」

 それでも彼が無言でいたことに安堵して、おれは続けた。

「約束もしなかったし、待ってほしいとも頼まなかった。実をいうと、知らせを受け取ったとき悲しくもなかった。不便はないか辛いことはないかとくりかえし書かれているのを見て、笑ったよ。おれはこの世の真ん中にいたのだからな」

 嘘ではない。

「それに、おれがもしも悲しいと、辛いと返せば、すぐにも助けてくれたとでも? おれは生きていくのに精一杯で、ほんとうにそれだけに夢中で、故郷のことなど忘れていた」

「私は……」

「奥方は残念だった。結婚して間もないうちに病で亡くなられたそうだな」

「ええ」

 伏せられた瞳に影がよぎる。似合いの夫婦だったとオルフェから聞いていた。

「再婚するつもりはないのか?」

 彼は目をみひらいた。

 彼の母上から申し入れがあった。頼みの独り息子が結婚しなくて困っていると泣きつかれては、かつてさんざん世話になった手前、断りづらい。

「そうですね、貴女様がしてくださるなら考えないでもありませんが」

「真顔で冗談をいうな」

「もちろん、冗談ですよ。安心してください。わかっています。どうせ母の差し金でしょう」

 まったくあの方は、そうつぶやいて彼が椅子に腰をおろす。それから思い出したようにこちらの顔を見た。

「もしや、貴女様に失礼なことを申し上げたりしなかったでしょうね?」

「いや、そなたほどはっきりとは言わなんだ」

「私のほうが酷いですか?」

 おれは笑いをかみ殺してこたえた。

「いや、有り難いぞ。おれの評判が地に落ちたと面とむかって口にしたのはそなたが初めてだ。父上でさえ、おれを腫れ物扱いだからな」

「それは、あんな屈強の女戦士たちを両手ほど従えていては無理もありません」

 彼はちらりと扉のほうへと目をむけ、好奇心もあらわに尋ねてきた。

「神殿騎士たちが軒並みのされたという噂は本当ですか?」

「それは、どうともこたえようがないな。否定しても肯定しても、おれの得にならん」

 ひきさがる顔でうなずかれ、ここで会話を打ち切ろうとしたところで。

「この今も、皇帝陛下を愛しておいでなのですか?」

 おれは息を止めたりしなかった。誰かに、いや、この男には尋ねられると想像してきた。だからゆっくりと息を吐いて、いくども考えてきた言葉を紡ぐ。

「美姫や寵童が咲き誇る百花繚乱の宮殿にあって、おれはそのなかでもっとも愛される『花』でありたいと願い、それができなくてやめたのさ」

 かつての恋人は、こちらの顔をじっと見た。

「おれは花ではない。花になぞ、ならんよ。しゃらくさい」

 かつて、女の人生は花のようなものでございますと言った女がいた。

 たしかにそうかもしれない。いや、かつてはおれもそう思っていた。

 だが、花はものをいわない。手足もない。さらにはきっと、何かを考える頭はないだろう……とすれば、女は花のようではあっても「花」ではないし、ゆえにその人生も花と似たものであっていいはずもない。


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