嫉妬 1
パーティーを終え、自室で寝支度を整えたフィリエルは、ガウンを羽織ってリオンの部屋に向かった。
彼の部屋に行くのは実に二週間ぶりでドキドキする。
ポリーとともに部屋に向かうと、扉の前に立っていた兵士が扉を開けてくれた。
リオンは自室に人を入れたがらない傾向にあるので、ポリーとは扉の前で別れて一人で入る。
リオンはどうやら入浴中のようだ。
暖炉の前の椅子に座って、フィリエルは持って来た箱の中身を確かめる。
この中にはリオンへのプレゼントと、それから「あるもの」が入っていた。フィリエルの寝相対策である。
(陛下、インク壺使ってくれるかな……?)
水晶で作ったインク壺には、猫の模様を彫ってみた。
少々難しかったが、ヴェリアが教えてくれたし、魔法で手助けもしてくれたので、売り物といっても過言でないくらいの出来だと思う。
フィリエル一人ではここまで綺麗に作れなかっただろうから、ヴェリアには感謝しかない。
暖炉の、薪がパチパチと爆ぜる音を数えながらリオンを待っていると、ややしてガウン姿のリオンがバスルームから出てきた。
フィリエルを見つけて、リオンが双眸を柔らかく細める。
フィリエルはぱっと笑って立ち上がると、リオンに暖炉の前を勧めた。
「陛下、座ってください。髪乾かしますから」
「いや、すぐ乾くし、別に……」
「そうですか……」
しゅん、と肩を落とすと、リオンが慌てたようにタオルを差し出してきた。
「や、やっぱり頼む」
「はい!」
フィリエルは箱をソファの上に置くと、椅子に座ったリオンの背後に回ってタオルで丁寧に髪の雫を拭っていく。
フィリエルが猫のとき、お風呂に入れられた後はリオンがこうしてタオルで乾かしてくれていたことを思い出した。
(陛下の髪、わたしの髪よりちょっと固いのよね)
だが、艶々だ。
「陛下、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。だが、今朝も聞いたよ。それから昼と、パーティーの前にも」
いったい何回言うつもりなんだと、リオンが小さく笑う。
「おめでとうは何回言ってもいいんですよ」
「そうなのか」
「そうなんです。それから……」
リオンの髪が乾いたので、フィリエルはソファに置いた箱の中から小さな包みを取り出した。
「これ、プレゼントです。上手にできたと思うんですけど……たぶん」
「プレゼント?」
リオンはきょとんと目を丸くしてから、どこか戸惑ったような顔をしてフィリエルから包みを受け取った。
「開けても?」
「はい」
リオンが包みを開くのをドキドキしながら待つ。
「インク壺か。……これは猫?」
「猫です」
「……そうか。可愛いな」
リオンはふわりと笑うと、水晶に掘られた猫をそっと撫でる。
「君にはあまり似てない」
「わ、わたしが猫だった時をモデルにしたわけじゃないですから」
「そうか。……そうか。今まで誕生日にプレゼントが届けられてもなんとも思わなかったが、君がくれたと思うと、嬉しいものだな」
「使ってくれますか?」
「ああ。明日から使わせてもらうよ」
柔らかい表情を浮かべたリオンがプレゼントを喜んでくれているとわかるから、フィリエルはホッと息を吐き出す。
去年まで不要だと言われていたから、いらないと言われたらどうしようと少し不安だったのだ。
リオンがライティングデスクの上にインク壺を置くのを見届けてから、フィリエルは箱の中からもう一つのものを取り出した。
「フィリエル、今日は疲れただろう? 少し早いが休も――」
振り返ったリオンが、フィリエルの手にあるものを見てひゅっと息を呑んだ。
「………………フィリエル、それはなんだ?」
長い沈黙の後で、かすれた声で訊ねてくる。
フィリエルは箱から取り出した縄をリオンに向かって掲げて見せた。
「陛下の安眠対策です! わたしが陛下の安眠を妨害しないように、そこのブランケットでぐるぐるまきにしたあとでこれで縛ってください!」
これぞ、ヴェリアが授けてくれた秘策だった。
――動けなきゃ寝相もへったくれもないんだからいっそ縛ってもらったらいいんじゃないかい?
と、ものすごく投げやりではあったが、そう言ってぽいっとこの縄をくれたのである。
ちなみに「それを言ったあとの陛下の顔が見ものだがねえ」と言っていたがあれは何だったのだろうか――、とリオンを見上げると、目を剥いたまま凍り付いていた。
(あれ?)
思っていたのと反応が違うぞ、とフィリエルは首をひねる。
てっきりリオンも「名案だ」と喜んでくれると思っていたのに。
「あのー、陛下?」
もしかして、目を開けたまま寝ているのだろうか。
ぱたぱたと目の前で手を振ってみると、リオンがハッとして、それからものすごく嫌そうに眉を寄せた。
「フィリエル、いったいどういうつもりだ」
「え? だから、陛下の安眠対策……」
「俺の安眠対策で、どうして君をブランケットで簀巻きする必要がある?」
「えっと、縛られれば陛下の安眠を妨害しないかと……」
何か間違えただろうかと思っていると、リオンが大股三歩でフィリエルとの距離を詰めると、手から縄を奪い取った。
そして、問答無用でゴミ箱の中に放り投げる。
「あ!」
「俺は妻を簀巻きにして縛るような趣味はない‼」
(えっと、趣味とかじゃなくてね……?)
リオンがまた寝不足になったら大変だからなのだが、意図が伝わっていないのだろうか。
「でも陛下、寝相対策はこのくらいしか方法がないと思いますし、陛下がまた睡眠不足になったら大変ですよ。寝ている間に陛下を蹴とばさないように、縛っておいた方が安全です!」
「…………」
一生懸命説明したのに、リオンはまた嫌な顔をして沈黙してしまった。
「その寝相対策というのは何なんだ」
「何って、わたしの寝相が悪すぎて、ついでに歯ぎしりとか寝言とかいびきとかもひどすぎて、陛下は寝不足になったんですよね?」
「なぜそうなる!」
「違うんですか⁉」
「むしろ誰がそんなことを言った?」
「え……、と」
そういえば、言われたわけではない気がする。
いやでも、リオンが寝不足になる原因はそのくらいしか思いつかなかった。さすがに寝ている間にもっとひどい状態にはなっていないだろう、と思いたい。思いたいが……、もっとひどい何かがあるのだろうか。
(寝ている間に歩き回ったり奇声を発したりするのかしら⁉)
そこまでくると、もう、一緒に寝ない方がいい気がしてきた。
そんな女の隣で寝なければならないリオンがあまりにも可哀想だ。
青ざめていると、リオンが額に手を当ててはあとため息を吐く。
「何を考えているのか知らないが、間違いなく見当違いだ。別に俺は君の寝相にも寝言にもいびきにも歯ぎしりにも悩んでなんかいないし、それで眠れないなんてことは一つもない」
「じゃあ、なんで寝不足なんですか?」
「それは……!」
リオンがフィリエルを見て、ぱっと視線を逸らした。
(もしかしてわたしが嫌なの⁉)
泣きそうになっていると、リオンが頭をがしがしとかいて、ベッドのフットベンチに腰かけた。ぽんぽんと隣を叩いたので、座れということだろう。
フィリエルがちょこんと座ると、リオンがぎゅっと手を繋でくる。
「以前俺は、『愛』というものがわからないと言っただろう?」
こくん、と頷くとリオンが申し訳なさそうに眉を下げて続けた。
「俺は、俺自身が君のことをどう思っているのかがわからない。君以外の妻は欲しくないと思ったけれど、君を愛しているかどうかは、正直、わからないんだ」
「はい……」
それはフィリエルもわかっていたけれど「愛しているかわからない」と言葉にされるとちょっと傷つく。リオンに優しくされるたびに「もしかしたら」と淡い期待を抱いてしまっていたからかもしれない。
「その……、愛はよくわからないが、君が隣で眠っていると、何といっていいのか……そ、そういう欲を、感じてしまうことがあって……、眠れないのはそのためだ。君のせいじゃない」
(そういうよく?)
はて、と首を傾げかけたフィリエルは、脳内で「よく」を「欲」と変換した瞬間にボッと赤くなった。
「俺は君を傷つけたくないし、君だって自分の感情もわからないような男に抱かれたくはないだろう? 俺のような欠陥品と違って、君は、その……きちんと、愛されるべきだと、思う」
「欠陥品……?」
それはどういうことだろうか。
フィリエルが眉を寄せると、リオンが情けなさそうな表情を浮かべた。
「わからないんだ。好きだとか、愛おしいとか……人に対するそんな気持ちがわからない。嫌いだとか憎いとか、そういう感情はわかるのに、誰かを愛おしいと思う感情がわからない」
「だから、欠陥品……?」
「ああ。……きっと俺はこの先もずっとこうなのだろう。だから君は、俺とは別の男と再婚した方が幸せになれる、と思う。例えばオーレリアン殿下のような……」
「それは――」
「だが!」
反論しようとしたフィリエルの言葉を遮って、リオンが続けた。
「だが……俺はそれでも、やっぱり妻は君がいいと思う。君だけがいいと思う。そんな身勝手な俺が、身勝手な欲で、君を傷つけていいはずはない。でも、自分の意思でそういう欲がなくなるわけではなくて、だから……その、眠れない」
フィリエルとつないでいるリオンの手が熱い。
フィリエルはリオンと、それからリオンの手を見て、彼の手を、きゅっと握り返した。
「陛下は、欠陥品じゃないですよ。……だって、陛下はこんなに優しいじゃないですか」
リオンは、人に対しての好きとか愛おしいといった感情がわからないと言ったが、もしそうなら、こんなに優しいはずがない。
「陛下はたくさんたくさん傷ついたから、きっと、人よりすごくすごく警戒心が強くて、好きって感情が動きにくいだけだと思うんです。たぶん氷みたいに固く固まってしまっているんだと思います。そして、陛下はその感情に人一倍疎くなってしまっているから、固まった感情が溶けようとしていても気がつかないだけなんだと、思います。でもまだ気が付いていないだけで、きっといつか気が付くと思うから、欠陥品じゃないですよ」
リオンが戸惑ったように瞳を揺らす。
「だが、俺は……、君のことをどう思っているのかはわからないのに、嫌な感情だけは抱くんだ」
嫌な感情だけは抱くと言われて、フィリエルの心がずきんと痛んだ。
もしかしなくても、リオンはフィリエルが嫌いなのだろうか。
嫌いなのに、嫌いという感情に目を背けていてくれているのではなかろうかと、泣きそうになる。
だがここでひるんではダメだ。
たぶん、ここでひるんだら、猫になる前の二の舞になる気がした。
嫌われているのならば、嫌われているところを聞き出して、どうすれば好きになってもらえるか考えなければならない。
部屋に閉じこもって怯えている前の自分に戻ってはならないのだ。
ここで向き合えなければ、フィリエルはまた猫になってしまって、そしてもう二度と人には戻れない気がした。
「い、嫌な感情って、どういう感情ですか? わたしの、どこが嫌ですか?」
「君じゃない」
リオンが緩く首を振る。
「そうじゃなくて……」
リオンは言いよどむように視線を下げ、そして、ぽつりと、囁くように言った。
「君が、オーレリアン殿下と一緒にいるところをみると、イライラして、もやもやして、嫌な気持ちになるんだ」
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