王太后への挨拶 3
城の敷地は、広い。
とはいえ、城から敷地内にある離宮までの距離は、わざわざ馬車を用意するほどでもなく、リオンはいつも歩いて行く。
フィリエルを腕に抱えたリオンのあとを、ぞろぞろとついてくるのは彼の護衛騎士だ。
リオン自身も腰に剣を佩いていて、母親に会いに行くには物騒だなと思わなくもないが、これはフィリエルが人間だったころも同じだった。
離宮に到着すると、リオンは護衛騎士を一人だけ連れて玄関をくぐる。
ほかの護衛騎士たちは外で待機である。
離宮の執事がサロンに案内してくれた。
初老の執事は、リオンが抱えている猫フィリエルに不思議そうな顔をしたが、さすが長年王族に使えているだけあって無駄口は叩かない。
通されたサロンに王太后の姿はなかったが、これもいつものことだ。
王太后はしばらくリオンを待たせてから、悠然と姿を現すのである。
(前までそれほど気にしたことはなかったけど、あれ、王太后様なりの陛下への嫌がらせだったのかしら?)
王太后が毒を欲していると知ったあとだからだろう。すべてが疑わしく思えてくる。
広いサロンの中。
フィリエルを抱えたままソファに座ったリオンの背後に、一人だけ連れてきていた護衛騎士が立つ。
(この人、騎士団長よね?)
リオンの側近は何年もいるが、四十歳ほどの騎士団長は、その中でも筆頭と言っても過言ではない立場の男だった。
リオンを幼少期から知る人で、ずっと、兄のように彼を守って来た人だと聞いたことがある。
(一人だけここに連れてきたってことは、たぶん、騎士団長のことは信頼しているのよね?)
他人に対して笑顔を見せないリオンだが、信頼していなければ自分の背中を守らせたりはしないだろう。
リオンに抱かれたままじーっと騎士団長を見上げていると、彼がふわりと微笑んだ。
「にゃー!」
(何かあったら、よろしくね!)
フィリエルの言葉は伝わらないだろうが、微笑んでいる騎士団長はリオンにも優しい瞳を向けていて、何があっても彼を守ってくれそうだと安心できた。
(それにしても、遅いなあ)
いつものことだが、なかなか来ない王太后にイライラしてくる。
事前に今日の午後二時に行くと伝えていたのだから、準備くらいして待っていればいいのに。
フィリエルが退屈してきたことに気が付いたのか、それとも自分の気を紛らわせたいのか、リオンがフィリエルをお腹ゴロンさせてこちょこちょとくすぐってくる。
「にゃー、にゃああん!」
(ちょっと、そこダメー!)
わき腹をこちょこちょされて身をよじれば、くすくすと笑われた。
ここに来るとき、リオンはいつも凍り付いたような硬い表情をしていたが、今日はいつもよりもリラックスして見える。
しばらくフィリエルをくすぐって遊んでいたリオンだが、かちゃりと扉が開を聞いて居住まいをただした。
フィリエルを腕に抱えなおし、静かに立ち上がる。
たっぷり三十分も国王を待たせて、サロンに入って来たこの離宮の主は、相変わらず美しかった。
けれどその美貌は冷ややかで、まるで熱を持たない人形のようだと思う。
リオンの顔からもすこんと表情が抜け落ちて、フィリエルは小さく震えた。
五年間ずっと見てきた顔だが、笑顔のリオンに慣れてしまったからか、ちょっとだけ怖い。
王太后サンドリーヌはリオンを一瞥した後で、彼の腕に抱えられているフィリエルに視線を落とした。不快そうに眉間を寄せるが、何も言わずにソファに腰を下ろす。
(陛下あまり王太后様と似ていないのよね。まったく面影がないわけじゃないんだけど)
サンドリーヌは金髪に青い瞳の、小柄で線の細い女性だ。一重の切れ長の瞳に、ツンと高い鼻をしている。
対してリオンは、黒髪にエメラルド色の瞳。鼻筋が高く通っているのは同じだが、二重のアーモンド形の瞳をしている。
リオンは王太后ではなく、前王――すなわちリオンの父に瓜二つなのだ。
リオンの弟王子はサンドリーヌにそっくりなので、二人並ぶと、あまり兄弟には見えない。
(確かそれで、陛下が生まれて間もなかったころに、あまりに王太后様と似ていなかったから実は前王陛下の愛人の子ではないかって噂が流れたことがあったんだっけ)
けれども、その噂を否定したのは王太后本人だと聞いたことがある。
前王は大勢の愛人を抱えていたが、王太后と結婚して数年は、他の女性をそばに侍らしてはいなかったそうだ。リオンが生まれた時には愛人はいなかったし、何より当時王太后が妊娠していたのは周知の事実である。それは根も葉もないただの噂だったが、リオンが生まれて数年後、前王が大勢の愛人を侍らすようになってしまったから、その噂が再びささやかれるようになったとも聞いた。
王太后が座ったので、リオンもソファに座りなおした。
「お元気そうで何よりです、母上」
リオンの声は固い。
王太后はふっと笑った。それはまるで、嘲るような笑みだった。
「あなたは大変だと聞いていますよ。なんでも王妃があなたに愛想をつかしていなくなったとか」
フィリエルはぎくりとした。
サンドリーヌはぱらりと扇を広げ、口元に広がる笑みを隠して続ける。
「どうせあなたが不実なことをしたのでしょう。血は争えないと言うことね。見た目だけではなく中身までそっくりなんて……」
「俺は……!」
リオンが思わず、と言ったように声を荒げかけて、それからきゅっと唇を引き結んだ。
「……夫婦の問題です。母上には関係のないことでしょう」
サンドリーヌは不快そうに目を細めたが、何も言わずに、ついとサロンの扉に視線を向けた。
サロンの扉が開いて、お茶を乗せたワゴンが運ばれてくる。
フィリエルは、ぴくっと鼻を動かした。
顔を上げて、ワゴンに乗せられている紅茶を凝視する。
――腐った魚の匂い。
ヴェリアの声が脳内に響いた。
ひゅっと、息を呑む。
紅茶は二つ。
リオンのものと、サンドリーヌのもの。
メイドがティーカップをそれぞれの前に置いて、中央に菓子を並べた三段トレイを置いた。
紅茶と菓子の匂いが充満する中、フィリエルは慎重に匂いの元をたどる。
腐った魚の匂い――ヴェリアがポリーに渡した瓶の中身は、リオンの前に出された紅茶の中に入っていた。
ヴェリアが用意した瓶の中身はただの水だ。リオンが口をつけたとしても何ら問題ない。しかし、もともとは毒だったことを思うと、ゾッとした。
(どうして……)
王太后サンドリーヌに瓶を届けると聞いてから、怪しいとは思っていた。けれども同時に、心の底では「違う」とも思っていた。リオンはサンドリーヌの息子だ。そのリオンに、母親が毒を盛るなんて、ありえないだろうと。あってはならないだろうと。
そんなことになれば、どれだけリオンが傷つくだろうかと、思った。
リオンが、ティーカップに視線を落とす。
この匂いは猫であるフィリエルがかろうじて気づけるくらいのもので、人間である彼にはわからない。
リオンが目の前の紅茶を飲んでも、あれは毒ではないのだから、大丈夫。
大丈夫、なのだが――、フィリエルはどうしてかあれを飲んでほしくなくて、紅茶に手を伸ばそうとしたリオンの手に、じゃれつくように飛び掛かった。
「にゃー!」
「わっ、リリ⁉」
にゃーにゃーと喚いて暴れて、リオンが驚いている隙に後ろ足でティーカップを蹴とばす。
ちょっとだけ足先に紅茶がかかって不快な気持ちになったが、飲みやすい温度に冷ましていたのか火傷するような温度ではなかった。
「その猫は一体何なの⁉」
ガチャン! とティーカップが割れて、サンドリーヌがヒステリックに叫んだ。
リオンがフィリエルを抱え上げ、濡れた後ろ足を見てから頭を撫でる。
「リリ、熱くなかった? ……母上、俺の愛猫が失礼しました。紅茶がかかったようですので、獣医のもとに連れて行きます。今日のところはこれで」
「な――」
王太后が絶句している。
飼い猫を獣医に見せるという理由で王太后との面会を中座していいものだろうかと思ったが、彼女がリオンに殺意を抱いているのは明確だ。何故ならもともとあの瓶に入っていたのは猛毒だとヴェリアが言っていたからだ。
このままリオンをここに留まらせるのは危険なので、彼がこの場から去るのはフィリエルとしても大賛成である。
騎士団長が、笑みをかみ殺すような顔をしたのをフィリエルは見逃さなかった。
リオンが幼少期から彼の側にいる騎士団長は、リオンとサンドリーヌの冷え切った関係をよく知っているはずだ。
しかし、リオンがフィリエルを抱えて立ちあがり、サロンの扉へ向かおうとした瞬間、騎士団長の表情が変わった。
「陛下‼」
騎士団長が腰の剣に手をかけ、声を張り上げたのと、サロンの扉が蹴破られたのは同時だった。
フィリエルはひゅっと喉を鳴らした。
蹴破られた扉からは五人の男が飛び込んできた。全員がその手に武器を持っている。
騎士団長がリオンを背にかばって、剣を抜いた。
表情を険しくしたリオンがフィリエルを床に下ろし、自らも剣を抜く。
ソファに座ったままの王太后を一瞥して、リオンは吐き捨てた。
サンドリーヌの側には、紅茶を運んで来たメイドが短剣を構えている。
「……嵌めましたね、母上」
「あら、何のことかしら?」
フィリエルは、微笑みすらたたえているサンドリーヌにゾッとした。
彼女は本気でリオンを殺しに来ているのだ。毒殺に失敗したときのために、刺客まで潜ませて。
他の騎士団の人間は離宮の外に待機させているが、サンドリーヌの余裕そうな表情から考えるに、あちらにも手が打ってあると思われた。
「陛下は動かないでください」
じりじりと男たちとの間合いを詰めながら、騎士団長が言った。
二対五。
ついでに背後に武器を構えたメイドが一人。
リオンも手練れだし、大丈夫だとは思いたいが、武器を持った人間に襲われたことのないフィリエルは、何を基準に大丈夫と判断すればいいのかがわからない。
(というか、王太后様の余裕そうな表情が気になるわ……)
人数で勝っているから確実にリオンを仕留められると思っているのだろうか。
用意した五人の刺客は、それほどまでの手練れなのだろうか。
王太后の微笑みが不気味で、フィリエルはまさか他に何か罠があるのではなかろうかと、部屋の中に視線を走らせる。
フィリエルが部屋の中を確かめている間に、二人の男が騎士団長によって切り伏せられていた。
味方が二人やられたというのに、サンドリーヌはまだ余裕そうだ。
(陛下が本気になったら、メイドごと切り捨てられるってわかっているのかしら?)
だが、リオンはおそらくそれはしない。
国王が王太后を手にかけたとあらば、それが正当防衛であっても国が荒れる。ここは王太后を捕縛し、証拠をもとに処遇を決定するのが、降りかかる火の粉が一番少ないやり方だろう。
王太后もそれがわかっているから余裕でいられるのかもしれない。
じっと部屋の中の様子をうかがっていたフィリエルは、そこで、残り三人の刺客のうち一人が、ずっと後ろの方にいることに気が付いた。
騎士団長を恐れて下がっているのかと思ったが、男が持っていた武器がほかの四人と違って短剣であったことに違和感を覚える。
(なんであの男だけ短剣?)
たまたま、あの男が短剣を武器にすることを得意としているからだろうか。だが、それにしては男たちの背後に隠れるように動いているのが気になる。
じっと男を観察していたフィリエルは、彼が短剣を持っていない方の手を腰に伸ばすのを見た。
手には何か筒のようなものが握られていて――
(吹き矢‼)
「にゃあああああああ‼」
男が吹き矢を口に当てようとした瞬間、フィリエルは地を蹴った。
(だめ! だめだめ、絶対に、ダメ‼)
リオンを守るように飛び出して、叫んで、彼を守るように両手を広げた、その直後。
バチッと目の前で火花のようなものが散って、ヴェリアが施してくれた「魔女の守り」が発動したのだと理解するより前に。
「――フィリエル?」
リオンの茫然とした声が、フィリエルの耳朶を打った。
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