知らないリオン 1

 誰も自分を必要としていない。それどころか、死んで喜ばれるような人間だったのだと思うと、すべてがどうでもよく感じられた。


「リリ」


 大きくて温かい手が、フィリエルの背中を撫でる。


「リリ、ミルクだよ。それともクッキーがいいかな? ミルククッキー、好きだよな?」


 小さく割ったクッキーを口元に近づけられるも、フィリエルは伏せたまま目もあけなかった。

 リオンも、フィリエルがいなくなってせいせいしているのだろう。

 初日こそ焦っていたように思ったが、それは単にロマリエ国との関係を気にしていただけで、今は「フィリエル」という名の妻などそもそも存在していなかったかのように平然としていた。

 そんな夫のもとで、ペットにされているなんて、あまりに滑稽で笑うことすらできない。


 あのとき、猫になりたいと願うのではなく、生きることをやめたいと願えばよかったと思って、ヴェリアに誰かを殺すようなことをさせてはならなかったのだから、これでよかったのだと思う自分もいた。


 人を頼らずとも、このまま何も食べなければそのうち衰弱死するだろう。

 人間よりも、この小さな動物の方が弱く脆い。

 全身を襲う飢餓感にも、それほど長く苦しまないはずだ。


 ベッドの上で丸くなって、鼓動はいつ止まってくれるだろうかとそればかり考える。

 ベッドの上にいるのは、リオンがここに運ぶからだ。

 最初は部屋の隅に行って丸くなっていたのだが、何度もベッドの上に連れ戻されるうちにどうでもよくなった。


「リリ、ご飯食べよう?」

(いらない)

「せめて水でも」

(いらないったら)

「リリ、お願いだから」

(もう放っておいて)


 知らんぷりを続けていると、抱き上げられて、胡坐をかいたリオンの膝の上に乗せられる。

 無理やり口を開けようとされたので、がぶりと噛みついてやった。

 もっとも、全身に力が入らないのでたいして痛くもなかっただろう。


 リオンは噛みつかれてもあきらめず、口の中にミルクに浸した指を突っ込んできた。

 口いっぱいにミルクの甘い味が広がって、フィリエルを今まで以上の飢餓感が襲う。

 けれどここで食べてはダメだと叱咤して、意地でもうごかないでいると、二度、三度、とミルクをつけた指先を口の中に入れられる。

 そのうち、スプーンでミルクを口に運ぼうとしてきたので、頭を腹に抱え込むようにして丸まった。


「リリ!」


 リオンの怒ったような声がするが、怒られてももう怖くない。

 リオンなんて知らない。

 死んで喜ぶくらいなら、娶らなければよかったのに。

 政略結婚だったとしても、王様なのだから、断る方法くらいあっただろう。

 フィリエルは断ることなど許されなかったけれど、リオンから断ってくれれば結婚しなくてよかったはずだ。


(嫌い嫌い、大嫌い)


 大好きだった。

 冷たくされても、好きな気持ちが捨てられなかった。

 でももういい。

 もう、何も考えたくない。

 このまま死んでしまおう。


「そんなに俺が嫌いなのか……?」


 リオンを全身で拒絶していると、力なくうなだれた彼が、小さな声でつぶやいた。


(わたしが嫌いなのは陛下の方でしょう?)


 可愛がっている猫がフィリエルだと知れば、きっと彼はすぐに捨てるだろう。

 自分は悪くない。何も悪いことはしていない。自分の人生だ。最期くらい自分の意思で好きにしてもいいだろう。そう思ったのに、リオンの声があまりにも悲しそうで、フィリエルはほんの少し目を開けた。

 見上げると、泣き出しそうなリオンの顔がある。


(なんでそんな顔をするの?)


 彼のこんな顔、見たことがない。

 猫になってから、全然知らなかった彼の表情ばかり見てきたけれど、リオンがこれほど悲しそうな顔をしたのははじめてだ。

 たとえようのない罪悪感が胸の中に広がる。

 フィリエルを傷つけたのはリオンなのに。リオンのはずなのに。フィリエルの方が悪いことをしている気になった。


「君まで……、俺を拒絶するのか」

(どういうこと?)


 まるで他にも、リオンを拒絶した人がいたような言い方だった。


「……なー」


 絶対に反応してやるもんかと思っていたのに、気づけば小さな声を上げていた。

 リオンがハッとしたように目を見開く。


「リリ!」


 小さな声で鳴いただけなのに、パッと嬉しそうに微笑まれて、フィリエルの心がぎゅっとなった。


「リリ、ミルクだよ」


 ここで飲まなければ、リオンはまた悲しそうな顔をするのだろうか。

 このままここで生きたいとは、まだ思えない。

 死んだほうが楽になるはずだと、まだ思っている。

 でもこの一時、彼の表情を曇らせたくなくて、フィリエルはリオンが差し出したミルク皿に顔を近づけた。


 ぺろぺろと舐めると、リオンが「よかった」と安堵の息をつく。――しかし。

 急に吐き気がしてきて、フィリエルは飲んだミルクをけほっと吐き出した。

 けほっけほっと痙攣するように咳を繰り替えると、リオンが青ざめる。


「リリ! リリ‼」


 悲鳴のようなリオンの声を聞きながら、フィリエルの意識は闇に飲まれた。






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