(エピローグ)
空港は、これから旅立とうという人々でにぎわっていた。
凜はロビーの椅子に静かに腰かけて、旅立の時を待っている。むしろ、見送りに来た愛稀の方が緊張でそわそわと落ち着かない様子だ。
けれども、彼の方だって落ち着いた外の様子とは裏腹に、その胸の中は期待でいっぱいになっているに違いない。
あの出来事から、1ヶ月ほど経っていた。
例のサンプルは、翌日に急いで確認したところ、やたらと露光時間を長くしてしまった割には、何とか結果が見られるレベルにおさまっていた。
もしかすると神様が助けてくれたのではないか、そのようにも思えなくもない。
とはいえ、理想通りの様相とはいかず、一応先方に事情を異世界云々の話は抜きにしておおまかに説明した。
『オーケー、オーケー、事情は分かった。君にも大切な人がいるんだろう。気にしなくていいよ』
すると、向こうの教授はこのように応えて、すんなり許してくれた。
いずれにしても、幸運が重なって、何の問題もなく事は進み、今日の出発を迎えることができた。彼の門出を祝うかのように、空は雲ひとつなく夏の日差しが世界を照らしている。
凜は言う。
「年末にはいったん日本に戻って来れそうだ」
「本当! じゃあ、お正月もこっち?」
「もちろん」
「じゃあ、初詣はあの神社に行こうよ」
「……いいのか? つらい思いをした場所なのに」
「でも、嫌なことばかりじゃなかったから。ユウくんや神様にも、また来るって約束しちゃったし。それに、ひとりじゃ危なくても、凜くんが一緒なら、安心でしょ?」
「分かったよ」
「やった!」
愛稀は両手でガッツポーズをつくり、喜んだ。あんな目に遭っておきながら、明るいものだ、といいたげに凜の顔もほころぶ。嫌な思いを引きずらないのが、彼女の良いところだった。
とにかく、彼女にとって、あそこはかけがえのない場所になったようだ。
「さて、そろそろだな」
時刻を確認して、凜は立ち上がった。バッグを肩にかける。スーツケースを押して、保安検査場のゲートへと向かった。見送りの愛稀はここまでしか来られない。
「気をつけてね」
愛稀は、精一杯の笑顔を作って、凜に言った。
「君もな」
凜は彼女に微笑んでから、踵を返してゲートへと歩いてゆく。離れてゆく後ろ姿に、愛稀は心が少し乱れるのを感じた。
一抹の焦りのような感情がわずかに胸に渦巻く。
大勢の人たちの中に紛れて、愛する人が行ってしまう――。彼の夢を応援すると決めてなお、揺れる想いは彼女の中に残り続けるのだった。
向こうに行っても私のこと忘れないで――、この気持ちを伝えるためにはどうしたらいいだろう。彼がゲートにたどり着くまでの、ほんのわずかな間で愛稀は考えた。
「凜くん!」
大きな声で彼の名を呼んだ。凜が再び立ち止まる。彼が振り向くのと同時に、愛稀は駆けだした。
彼に駆け寄ると、彼女は背伸びをして、少し背の高い彼にキスをした。
時が止まったかのようなしばしの間を置いて、唇を離す。にっこりと微笑みかけた。
「行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくるよ」
凜はクールに応えて、今度こそゲートへと向かっていった。
彼は感じてくれただろうか。
頑張ってね、気をつけてね、やっぱり寂しい、私のこと忘れないでね、待ってるからね――。
人目もはばからず大胆なことをしてしまったが、そんな乙女心を伝えたくて、咄嗟に起こしてしまった行動だった。
けれども、またも不安がよぎる。欧米の人は大胆な人が多いという。躊躇いもなく、人前でキスなんかもできてしまうのかもしれない。
もし、向こうの国で彼の前に魅力的な女性が現れて、おもむろにアプローチをしてきたとしたら……。凜がその人になびいてしまう可能性だってあるかもしれない。
もっとも、彼がそんな人間ではないことくらい、愛稀は誰よりも分かっているはずだ。なのに、ちょっぴり彼を疑うような心が生まれてしまう。
不安を拭いたくて起こした行動から、またも不安な気持ちが生まれるとは、なんとも滑稽な話だ。自分の身勝手さに我ながら呆れてしまうが、誰かを好きでいる限りそんな心は消えないものなのかな、という気もした。
「……信じてるからね」
遠くなってゆく彼の背中を見送りながら、自分に言い聞かせるように愛稀は呟いた。
愛稀と凜、そしてふたりの恋の物語は、まだまだ続いていくのだった。
(了)
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