エピソード15・天の助け

 先ほどの声は、脳内に直接響いたもので、直接耳から聞いた声ではなかったことに気づいた。元の世界に還りたいとはやる心が、彼女自身の頭に幻聴を聴かせたのだろうか。それとも――。


「やっと出てきてくれましたね」


 カグラがニンマリと笑った。もしかすると、彼女の仕業だったのかもしれない。いずれにしても、あの声はユウには聴こえていなかったことは、間違いないようだ。

 にもかかわらず、愛稀はつい冷静さを失って、扉を開けてしまった……。


「愛稀さん、そろそろ観念して。私たちと生きましょう」


 カグラが手を差し伸べてくるが、愛稀は「いや……」といって、へたりこんだまま後ずさった。


「困ったわね……」

 と、カグラはそのような顔になる。カグラの隣に、トマがやってきた。


「愛稀さん、あなたがこの世界に留まることは、あなた自身のためにもなるのですよ」


「私自身の、ため……?」


 続いて、カグラが言う。


「今の下界の人間は堕落しています。信心を失い、ただ醜い心のまま朽ち果てようとしている――。でも、愛稀さん、あなたにはまだ清らかなものを感じるの。向こうの世界にとどまって、心が汚れてしまっては残念だわ」


「そうなってもいい。私は、元の世界に還りたいの」


 愛稀の決意は固かった。


「それは無理だって、何度いっても分からないのね。……いいわ、このまま愛稀さんを山に連れてってちょうだい」


 カグラが命じた。後ろに控えている面を被った従者たちのうち、2人が小屋の中に入ってきて、愛稀を取り押さえようとする。


「やだ、来ないで!」


 男のひとりが手を伸ばしてくる。愛稀は半ば無意識その方に手をかざした。

 途端、男の腕が弾かれたようにぐるんと上方に回った。背をそらし、やがてビタンと地面に叩きつけられた。

 もう一人の男が迫ってきた。愛稀が腕を横に薙ぎ払う。男はその方向へと吹き飛ばされ、壁に身体を打ちつけた。


 よほど神経が昂った時だけ、愛稀は自らの夢の世界の力を現実に転化することができた。連れていかれるという恐怖心が、愛稀の力を一時的に増大させたのだ。


 カグラの目が怒りに満ちた。


「そこまでするのなら、こちらも手段は選びません。無理やりでも、連れて行きなさい!」


 カグラの号令で、大勢のしもべたちが小屋へと入ってくる。これだけの人数、一人では到底太刀打ちができない。愛稀は壁際に追いつめられた。


「姉さん、もうやめてよ!」


 ユウが叫ぶが、彼らは徐々に愛稀に迫る。もうダメ……! 愛稀は目をつぶった。

「待ちなさい!」


 外から声が聞こえた。カグラとトマが声の方を見る。その直後はっとした顔になり、その場にひれ伏した。従者たちもそれに従う。


 何事かと、愛稀もその方を見た。向こうの方に、きらびやかな着物に身を包み、頭には金色の飾りをつけた長身の女性が立っている。

 髪は腰に届くくらいに長く、暗がりの中だというのに女性の周囲だけ妙に明るい。後光が差しているかのようだ。


 ユウもその場で頭を低くした。周囲で立っているのは、愛稀だけになった。


「え、皆、どうしたの?」


 間の抜けた質問をするが、誰からも答えはなかった。手に持っていた扇子を口元に当て、奥ゆかしく女性は笑った。


「顔を上げて。大勢にそんな風にされると、かえって私が申し訳ない気持ちになってしまうわ」


 男性の言葉に、一同はおそるおそる立ち上がった。女性は扇子をぱちんと閉じ、愛稀の方に向けた。


「そなた、こちらへ」


 口調は穏やかだが、従わざるを得ないような厳かさを含んでいる。愛稀はおそるおそる彼女に近づいていった。


「あなた、誰ですか?」


 訝し気に尋ねる。背後からユウが叫んだ。


「このおおやしろの主祭神さまだよ!」


「神様……なるほど、偉い人だ」


 あ、人じゃないのか――と愛稀は独り言ちた。少なくとも、ここにいる愛稀以外の者たちは、一般的な“人間”とは異なる存在である。神様と呼ばれる存在であればなおさらだ。


「でも、どうして。ボクたちの前にも滅多に姿は現さないのに――」


 ユウが呟く。神様は言った。


「こうも騒々しくてはな。元気なのは結構だが、少々ヤンチャが過ぎるのではないか? この神聖な地を何だと思っている」


「申し訳ありません。しかし、これには大きな理由が……」


 カグラが慌てて言うが、すぐに神様の言葉に遮られた。


「一部始終見ておった。嫌がる者を集団で追いまわし、神聖な場をかき乱すのは、果たしてその場を護る者として相応しい行為といえるだろうか?」


 威圧感のある言葉だった。カグラは黙り込んでしまう。神様は愛稀の方を向いた。


「わが眷属の勝手でひどく迷惑をかけた。この者たちには、相応の罰を与えるつもりだ。どうか許して欲しい」


「いいんです、もう。それより、私は還れるんでしょうか?」


「それがそなたの願いだったな」


「はい」


「難しい話ではある。今、完全にこの世界に同化してしまっているからな。だが、そなたは運がいい。そなたのことを心配し、迎えに来てくれている者がいる」


「誰ですか……?」

 と、愛稀は尋ねる。神様が後ろを振り返った。ある人物が立っているのが見えた。


「凜くん……!」


 愛稀は驚いた。なぜ今まで気づかなかったのだろう――。神様の後光に隠れてしまって、あえて気をつけて見ないと分からなかったのだろうか。愛稀は凜の方へと駆け出した。


「えっ……?」


 しかし、自分の身体は、その身体は彼をすり抜けてしまった。


「あれ……?」


 愛稀は振り返ったが、凜は愛稀のことを知覚さえしていない様子で、ただ背を向けて突っ立っている。神様が言った。


「そなたのことは分からぬよ。存在している空間の位相が違うからな。この世界に完全に入り込まぬよう、こやつの身体の周りにはバリケードが張ってある」


 あの娘、なかなか粋なことをやりよるわ――と、神様は独り言をいうが、何のことなのか、愛稀には分からなかった。とにかくいま問題なのは、凜が自分の存在を認識できないことだ。


「でも、だとしたらおかしいよ。凜くんは、どうやってここまでやって来れたんですか?」


「わらわは神ぞ。そなたの世界とこの世界を行き来することなど朝飯前だ」


 神様が凜をここまで連れてきてくれたのは、間違いないようだ。


「それじゃあ、凜くんにはあなたの姿だけは見えているの?」


「今は見えぬし声も聞こえておらぬ。そなたたちの世界に位相を合わせておるからの。じゃから、本人を前にして、好き勝手いえるわ」


 神様はまるで、悪口を楽しむお局さんのように、いたずらな笑みを浮かべた。愛稀は嫌な予感がした。


「この者、なかなかに無礼での。さっきわらわを見て、開口一番わらわに何と言ったと思う。『お前は誰だ』だと。身の程知らずな男じゃわい」


「ごめんなさい……」


 自分のことでもないのに愛稀は謝った。それなりに付き合いが深い人間として、彼ならやりそうだと思えてしまう。


 彼は人の地位や立場に無頓着で、どんな相手にでも自分が思ったように発言する癖があった。だが、そんな彼の性格は、思わぬところで誰かの怒りを買ってしまう危険もある。彼に何度指摘しても、なかなかその習性は直らないのだった。


 よもやそれを神様の前でやってしまうとは……愛稀は頭を抱えたい気分になった。


「まあ構わぬ。はねっ返りも若さのうちじゃ。こうやって連れきてやったのも、こやつのまっすぐな性根が嫌いにはなれなかったからでの」


「はぁ――」


 ひとまずは安心したが、問題はここからである。本当に、凜はこの場に愛稀たちがいることなど知りもしないようで、凜はただその場に立ったまま、ただきょろきょろと辺りを見渡していた。


「でも、これじゃあ、凜くんとお話もできないです」


「せっかちな娘じゃの。安心せい」


 神様はまたも扇子を愛稀の方に向けた。


「その者の横に並べ。手をつなぐように、自分の手をその者の手元にもっていくのじゃ」


 愛稀は神の言葉に従った。互いの身体はすり抜けてしまうが、つないでいるような気持ちで、彼の手のところに自分の手を重ねた。

 神様は掲げた両手を、凜と愛稀の周りに円を描くように腕を動かした。二人の周りに、淡い光が起こった。

 次の瞬間、愛稀の手に温かい感触があった。見ると、彼女の手は、しっかりと彼の手を掴んでいる。凜も手に知覚があったらしく、ふと愛稀の方を向いた。


「愛稀」


「凜くん」


 やっと互いに存在を認め合うことができたと、安堵した。ふたりの前には神様がいる。が、その周囲にいるはずのユウやカグラたちの姿がない。


「今、そなたたち二人の間だけ結界を張り、異なる位相の空間を作った。わらわだけはそなたたちの空間にチャンネルを合わせておるが」


「これからどうすればいい」


 凜が尋ねた。


「そう急くな。これから説明する。これからわらわが、そなたたちを出口へと案内する。とはいえ、もと来た道を戻るだけじゃから、それ自体には大した苦労はないだろう。

 だが、いくつか注意点がある。一つは、二人ともつないだ手を決して離すな。今ふたりを守っておる結界が消えてしまう。そしてもう一つ、このおおやしろの敷地を出るまで、決して後ろは振り向いてはならぬ。知っている者の声が聞こえたとしても、幻聴だと思い無視して歩き続けろ。よいな?」


「分かりました」


 愛稀は応えた。凜も無言でうなずく。


「では、ついてまいれ」


 神様は凜と愛稀の横を通って、歩いてゆく。ふたりも振り返って、神様に続いた。歩いてゆく神様の背に愛稀は語り掛けた。


「あの……」


「何じゃ?」


 神様は背を向けたまま答えた。


「ユウくんにも罰を与えるんですか?」


「もちろんじゃ。禁忌を犯したからな」


 禁忌というのは、眷属でありながら願いごとをしたことだろう。


「あんまり厳しい罰は与えてあげないでください。できたら、カグラさんたちにも」


「なぜそんなことを言う? あの子供はともかく、それ以外の者たちはそなたにひどいことをしたのであろう」


「ユウくんが、カグラさんたちにしばらく会えなくて、独りぼっちになっちゃったりしたら可哀想だから……」


「そなたは優しいな。分かった。皆、反省したら許してやることにしよう。罰はどうしてやろうかな。百叩きにするかそれとも――」


 後半の内容は聞かなかったことにした。彼らへの処罰ついて楽し気に呟くなど、サディスティックな神もいたものである。意地悪なところがあったり、我を通そうとしてきたり――神様にもずいぶん人間臭い一面があるようだ。案外、そんな神様と眷属の関係性も、人間社会に似ている部分があるのかもしれない。


 それからは誰も、黙々と歩き続けた。森のざわめきに混じって、方々から何やら声のような者が聞こえてくる。育ての親や友人など、ありとあらゆる人の声が愛稀を呼んでいた。

 ふいに、「行かないで……」と、か細い子供の声が聞こえた。ユウの声だ。振り向きたい衝動に駆られた。が、横目で凜の方を見ると、彼は何も気にしている様子はない。やはりこの声も、幻聴なのだろう。

(きっと空耳だ……)

 愛稀は自分に言い聞かせてながら歩きつづけた。或いは、愛稀を引き留めようとして、この自然が聞かせている声なのかもしれない。


 楼門の手前までやってきた。


「ここを抜ければ外に出られる」

 と神様はいった。カグラたちに追われている時は通り抜けられなかったが、いまはその結界は神様によって解かれていた。参道の向こうに大きな鳥居がある。


「この門をくぐればひと安心だ。後ろを振り返っても問題はなかろう。じゃが、後戻りはするな。なるべく立ち止まらず、速やかに鳥居をくぐって外に出よ。

 ――そうじゃ、もとの世界に戻ったら、早めに食物を口にするように。身体がちゃんとあちらの世界に馴染めるようにな」


「分かりました」


「これでお別れじゃな――。

 そうだ、餞別に、おぬしらに助言をしておこう。人間、ひとりでは不完全なものだが、ふたりで互いを補い合い、完璧であるように努めよ。男子は強く、女子の方はしなやかに、いつまでも並んで歩き続けられるよう、心がけよ。

 ――では、達者でな。道に迷ったら、また来るがよい。いまのように、直接お告げはできぬかもしれぬが、正しき道を進むためのヒントぐらいは与えられよう」


「ありがとうございました」


 凜と愛稀は並んで歩きだした。参道に出たところで、もう一度お礼を言おうと、愛稀は後ろを振り返った。しかし、もうすでに、そこに神様の姿はなかった。


その時。


 チリーンと鈴の音が聞こえた。ふと見ると、楼門の隅から子ぎつねが顔を出して、こちらを見ていた。首元に鈴の付いた首輪をつけている。愛稀には、それがユウだと分かった。


「さよなら。元気でね。また来るからね!」


 愛稀は凜とつないでいない方の手を大きく振った。子ぎつねは寂しそうに、でも納得すしたかのように頭を垂れた後、門の向こうの闇へと消えていった。


「さあ、あまり立ち止まるのは良くない」


 凜に促され、「そうだね」と愛稀は再び歩き出す。

 不思議な旅のゴールが近づいている。愛稀と凜は同時に鳥居をくぐった。

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