エピソード10・助けて…!
しばらく走ると、山を登る前に立ち寄った休憩所に出た。
ここに来るまでに、誰とも出会わなかった。売店にはあのお婆さんの姿もない。ただ店を閉めて、帰ってしまっただけなのか、それとも……。
ここが異世界である――そんなカグラの言葉が事実だとするならば、愛稀にとって馴染みのある人間はひとりもいないことになる。
愛稀は恐怖に襲われた。このまま神社を出て、街に戻ったとして、誰にも出会えないかもしれない。いたとしても、自分はその存在に触れることも、話すこともできないのだろう。
ひとりぼっち。極限の不安と孤独感に苛まれながら、愛稀は長椅子に腰かけた。震えが止まらない。
「凜くん……」
ただ、うずくまりながら、か細い声で愛する人の名を呟いた。
これは、自分の誤った行いが招いた罰なのだろうか。自分の我儘に相手を従わせようとして、思い通りにいかないからとごね、身勝手な願望を叶えるためこんなところまでやって来た。
自らの過ちに気づいた頃にはもう遅いのだとしたら、運命とは何と残酷なものなのだろう。
はっと思いついた。もしかして、携帯電話で連絡は取れたりしないだろうか。愛稀はポケットからスマートフォンを取り出した。ディスプレイを表示させる。
だが、期待を裏切るかのように、画面の右上に「圏外」と表示されていた。山の上ならともかく、こんな場所で電波が入らないなど、普通には考えにくい。通信上も、元の世界とは遮断されてしまっているようだ。
それでも、一縷の望みをかけ、愛稀はスマホを操作した。通話履歴から凜の番号を表示させ、ダイヤルした。
繋がらないことは覚悟のうえだ。やはり呼び出し音は鳴らない。ただ、電話が切れることはなく、なぜか無音の状態がしばらく続いた。これがどういう状態なのかは分からない。愛稀はただ、ありったけの思いを声に出した。
「凜くん、助けて……!」
言い終えた時、電話は切れた。辺りは静寂に包まれる。誰もいなくなってしまった世界で、ただ自分の心臓の音と呼吸音だけが聴こえていた。
ふいに、遠くから、トン、トンと足音のような音が聞こえた。それが徐々に近づいてくる。愛稀はぎくりとなった。誰かがこちらにやって来る。何者かが自分を連れ戻しにきたのではないか。
(来ないで――)
愛稀は目を伏せた。足音は徐々に近づき、やがて彼女のすぐ近くで止まった。誰かの気配を感じる。愛稀は目を上げることができず、その場にうずくまっていた。
「愛稀さん」
子どもの声に、思わず顔をあげた。立っていたのはユウだった。
「ここにいたんだね」
「私を連れ戻しに来たの?」
愛稀はおそるおそる尋ねた。
「まさか。それなら僕ひとりでは来ないよ」
「……私、分かんなくなっちゃった。カグラさんがどういう人なのか。最初は優しい人だと思ったけれど、今はひどくて、恐ろしい人に思える」
彼女の肉親であるユウには嫌な言葉かもしれないと思いつつ、愛稀は正直な思いを口にした。胸の内に秘めておけなかった。
「いいかい、座っても」
愛稀はこくり、と頷いた。不思議とユウのことは怖いとは思わなかった。愛稀の隣に腰を下ろして、ユウはつづけた。
「姉さんにもきっと悪気はなかったんだ」
「どうして? こんな目に遭わせておいて、理解できないよ……」
今から思えば、カグラは当初から、そのように仕組んでいたのだろう。でなければ、あの時、もとの世界に戻れないことを知りながら、茶と菓子を勧めてくることはなかったはずだ。
「ただ、考え方に良くないところがあったのかもしれない」
「どういうこと?」
「ボクたちの世界では、下界の人間より自分たちの方が偉い立場だって思う風潮が根付いているようなんだ。自分たちの方が、神に近しい存在だ、ってね。ボクはまだ子供だからピンとこないけど。でも、周りの人たちがそんな風に言っているところは何度も見てきた」
「カグラさんもそう思ってるの?」
「無意識のうちに、そういう思想が根付いてしまっているのはあると思う。愛稀さんに対しても、対等に接してあげて、おまけに上位な存在にしてあげたのだから、むしろ感謝されるべき、と心のどこかで思ってるのかも」
愛稀は思った。自分たちが住んでいる世界でも、地域ごとの考え方の違いや、国同士の思想の違いから、揉め事は度々起こっている。時にそれは、戦争などの悲惨な状況を招くこともある。どんな世界でも、価値観や認識のずれによって、問題は起こり得るもののようだ。
「だけど、姉さんが愛稀さんのことが好きなのは、間違いないと思うよ。山に戻ったら、同じ世界の住人として、よくしてくれるとも思う」
「そうかもしれない……。でも、私はもとの世界に帰りたい」
「だろうね。僕も、愛稀さんはもとの世界に帰るべきだと思ってる」
「そうなの? でもそしたら、ユウくん、これから寂しい思いをしちゃうかもよ」
自身の代わりに、愛稀に弟の世話をして欲しいというのも、カグラの思惑であった。
「愛稀さん言ってたじゃないか。大切な人がいるんだろ? その人と離れ離れになりたくないんだろ? その気持ちはボクにもよく分かるよ」
「ありがとう」
ユウのおかげで少し前向きな気持ちになれた。
だが、実際問題、もとの世界に帰る方法はあるのだろうか。けれど、ユウの自信ありげな様子をみていたら、還る方法を知っているのかもしれない、とも思えた。
「これからどうしたらいいかな?」
「祈ろう、神様に」
「また……?」
愛稀は拍子抜けした。この期に及んで神頼みとは、正直期待外れだ。けれども、ユウはいたずらっぽく笑った。
「“また”なんて言ったらバチが当たるよ」
「う……」
愛稀は口をつぐんだ。
「それに、何度も訪ねた方が、神様にも愛稀さんのことを認めてもらえるかもしれないよ。『あ、この人、また来た』って」
ユウはさらに言った。そうかも――と思った。それに、確かにいま出来そうなことといえば、そのくらいしかないのかもしれない。
「でも、今から山を登るのは怖いよ」
それでも愛稀は難色を示した。第一、今から再び、山の社を巡礼するのは無理があるだろう。夜も更けてしまった。さっきは勢いで山を駆け下りてきてしまったが、思えば危険な行為だったに違いない。それに、山の上にはカグラやトマもいる。
「大丈夫。ここいらで一番偉いお方は、すぐ近くにいるから」
そういって、ユウは屈託のない笑みを浮かべた。
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