エピソード11・恋人からのメッセージ

 他に誰もいなくなってしまった研究室の中で、凜は実験ノートをまとめていた。


 顔を上げて、窓の外を見る。空は真っ黒だった。壁際の時計を見ると、すでに10時半を過ぎている。実験に追われていたら、すっかり遅い時間になってしまった。


 渡航予定先の大学の研究室から送られてきたサンプルの解析作業を行っていたのである。凜の研究生としての力量を図る、渡航前のテストのようなものだった。

 サンプルの調整は終わり、いまはRIの検出にかけている。検出が終わるまで、あと1時間というところだ。実験を終わらせて帰宅する頃には翌日を迎えているだろうが、まあ仕方がない。


 サンプルは非常にデリケートに調整されていて、少しでもコンタミ(汚染)したり、検出時間を誤ったりすると、すぐにちゃんとした結果がみられなくなるように設計されていた。向こうの研究員が、凜のために特別にこしらえたものだ。

 しかし、いつものように作業をこなせば、何の問題もないはず――凜はまともな結果が得られることをほとんど確信していた。

 実験ノートに今日の作業の工程を記録し終えた。


 ふと、愛稀のことが気になった。


 アメリカへの留学が決まって以降、凜は着々とその準備を進めてきた。よっぽどの事がない限りは、話が流れることはないだろう。

 しかし、自分のそのような状況とは裏腹に、肝心の彼女との話し合いはまったくといっていいほど進んでいないのだった。


 思えば、数ヶ月前。留学のことを打ち明けたバレンタインデー。彼女を突き放すような態度を取ってしまった自分も良くなかったのかもしれない。以降、愛稀は次第にこの話題に触れないようになり、時が経つにつれて徐々に連絡の頻度も下がっていった。


 一方で、凜自身も留学の準備を言い訳に、愛稀と向き合うことから逃げていたのかもしれない。


 彼女がかけがえのない存在であることは間違いなかった。彼は、自分が人との関係性を築くことが苦手な性格であることを自覚していた。恋人ができることなど、考えてもいなかったのである。


 ましてや今後、彼女以外にそんな異性に出逢えるとも思わない。だが、今の状態を続けていれば、やがて彼女との縁は切れてしまうだろう。


(このままじゃ駄目だな)


 きちんと話し合わなくては――と、ぼんやり考えた。



 ――ヴーッ、ヴーッ……。



 突然、デスクの上でスマートフォンが鳴った。人気のない室内に妙に響く。凜はそれを手に取った。


「…………?」


 ところが、画面には何の表示もされていなかった。気のせいだったのか、とも思ったが、そうとは考えにくい。確実に、スマートフォンは鳴っていた……はずだ。機器を耳に当ててみた。その時、


 ――凜くん、助けて!


 ふいに、そんな叫び声が聴こえた気がした。まぎれもなく愛稀の声だった。スマホに目をやったが、電話はつながっていない。再び耳に当てても、声は聴こえないどころか、どこかにつながっている様子もなかった。


 自分の方から愛稀に電話をかけてみたが、かからない。呼び出し音すら鳴らない。


 何かおかしいと思った。彼女の身に何か起こったのだろうか。


 凜は電話をかける相手を変えた。


『もしもし』


 やがて電話口から、落ち着いた女性の声がした。愛稀の友人で、凜の後輩でもある間宮 遙だった。彼女なら何か知っているかもしれない、と凜は直感したのだ。


「すまない、こんな時間に電話してしまって」


『いえ、大丈夫ですよ。先輩が電話してくるなんて珍しいですね』


 電話の相手、間宮 遙は言った。


「少し訊きたいことがあるんだ。最近、愛稀と会ったり、話したりしたかい?」


『……愛稀から何か聞いたんですか?』


 遙は神妙な口調になった。やはり、ふたりの間で何かがあったらしい。しかし、凜は自分からは核心的な話をするのは差し控えることにする。


「いや、少し気になったことがあってね。差し支えなければでいいんだが、教えてくれないか?」


『分かりました。今朝も話していたんです。いえ、実を言うと、ここしばらく、愛稀から頻繁に連絡が来ていました』


「そうなのかい……?」


 遙はこれまでの経緯を話した。凜のことで相談をされていたこと、そして彼女に神社に行くように勧めたこと――。


「……なるほど、そういうことがあったのか」


『ごめんなさい、今まで黙っていて』


「構わない。こちらこそ、自分たちの問題に君を巻き込んでしまって、すまなかった」


『愛稀がどうかしたんですか?』


 遙は心配そうに訊いてくる。


「大したことじゃない。ただ、何となく気になっただけさ。ありがとう」


 凜は適当に応えた。遙も何も突っ込んではこなかった。深入りすべき話ではないと察したのだろう。


 凜は電話を切った。

 遙の話から、これまでの出来事について推理してみる。遙の言葉に従って、愛稀はその神社へと向かった。もしかすると、そこで何か大きな出来事に巻き込まれたのかもしれない。


 理論派でオカルト的な話は一切信じなかった凜だが、愛稀と関わるようになって、彼女の身の周りに常識では説明できないような不思議な出来事が起こるのを目の当たりにしてきた。まして、神社のような場所であれば、彼女の身に何かが起こったと考えても、不思議ではない。


 例の神社なら、大学近くの駅から電車で向かうことは可能だ。ただ、時間的に電車の本日の運行は、じきに終わってしまう。


 実験は諦めなければならない。


 迷っている余裕はなかった。凜は白衣を脱ぎ、すぐに荷物をまとめた。軽く部屋の戸締りをチェックし、消灯して、外に出て扉の鍵を閉める。

 辺りはすっかり暗くなり、非常灯以外明かりは見えなかった。暗い廊下を歩く彼の足音だけが、棟内に響いた。

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