エピソード3・悲しいバレンタインデー
生後間もなく両親に捨てられ、遠い親戚に育てられた。少女時代からすでに過酷な運命に翻弄され、出逢いと別れを繰り返してきた。
そんな愛稀にとって、鳥須 凜はやっと出逢えた寄り添える相手であった。凜と付き合うようになってからも、度々の試練は訪れたが、ふたりで居ればこそ乗り越えられてきたようにも思う。
だが、そんな運命の糸が、切れてしまうかもしれない危機が訪れていた――。
数ヶ月前のこと。
愛稀はバレンタインデーに向けて、凜のために手作りチョコを作った。不器用なりに失敗を繰り返しつつ、6歳下の後輩に付き合ってもらいながら、それなりのものが出来たと思う。
そして迎えたバレンタインデー当日。
19時に駅前で落ち合う約束が、彼から1時間ほど遅れると連絡があった。珍しいことではなかった。県下の国立大の院生である彼は日々研究で忙しく、予定通りに実験が終わらないこともある。
彼の状況について、愛稀は理解があるつもりだった。研究者を志す人と付き合っているのだ。まして、仮に将来結婚しようものなら、パートナーのワークスタイルは、自分自身の生活にも関わるものになってくる。
張り切って早く家を出てしまったため、凜から連絡があった時にはもう、待ち合わせ場所に向かっているところだったが、通りにある喫茶店ででも時間を潰していればいい。その程度のことで、怒ったりはしないのだ。
けれど、その日はなぜか、妙に胸がザワつく感覚があった。その時は、愛稀はその理由が分からなかった。
やがて彼と落ち合い、無事チョコレートを渡した。凜はとても喜んでくれた。あまり感情を表に出さない彼だが、愛稀には彼の心の内を何となく察することができる。付き合ってまだ1年足らずだが、彼の内面を知れるほど濃密な時を過ごせている自信はあった。
近くのカフェレストランで食事をとった。とても楽しく、素敵な時間だった。これだけ幸せな時を過ごせているのだから、先ほどの胸がざわついたのは、きっと何か気のせいに違いない――愛稀は自分にそう言い聞かせた。
だが、ただの結果論なのかどうなのか。その不安が現実になることを、直後に愛稀は知ることになる。
食事を終えて、夜の街に出る。愛稀は凜の腕に自分の腕を絡めて、胸さえ惜しみなく寄せ付けるような格好で歩いていた。街灯で彩られた夜の街は綺麗だった。彼といるからこそ、世界は余計に美しく見える。別れの時が来てしまうことが残念だった。このままこの時が永遠に続けばいいのに――という子どもの夢のような発想が、普通に頭をもたげてしまう。
「ねえ、ずっと一緒に居ようね」
愛稀は思いを口にした。凜は何も答えなかった。愛稀は構わず続ける。
「今年もふたりでたくさんの思い出を作りたいな。夏には海とかお祭りとか……冬にはクリスマスもあるよね。そしたらお正月――1年あっという間だ。来年のバレンタインデーもこうやって一緒に過ごそうね」
「……愛稀」
ふいに凜が口を開いた。
「何?」
「君に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
凜の口調は少し深刻そうであったが、心の中の幸福で満たされている愛稀は気にもとめなかった。ただ、「ん、どうしたの?」と呑気に訊いた。
「実は、今日決まったところなんだが、海外に行くことになりそうだ。大学の留学支援のプログラムに選ばれて、アメリカの大学で研究できることになった」
「そうなんだ。すごいね。いつから行くの?」
「まだビザを取ったり、色々な手続きをしなければいけないから、出発までにはしばらくかかる。でも、向こうの大学は9月からはじまるから、それには間に合わせたい。夏ごろには旅立つ予定だ。だから、それからは君ともしばらく会えなくなる」
「しばらくって、どのくらい? 何週間? それとも、ひと月とか?」
「そんなに短くない。向こうである程度の実績が出るまで、研究することが条件のプログラムなんだ。短くても半年以上、何年も滞在する学生もいるそうだ。僕もどのくらいの間、向こうにいることになるかは分からない」
「半年、あるいは何年も……」
思った以上に長い期間であったことに、愛稀は唖然とした。彼とつながっていた腕の力が緩み、ひとり茫然と立ち尽くしてしまった。
「すまない、本当にさっき決まったんだ。でも、思いもよらなかったチャンスだ。無駄にはしたくない」
「……やだ」
ぽつりと愛稀は言った。会えなくなるなんて、そんなの嫌――と悲しげな顔を浮かべる。凜も少し寂しいような、困ったような顔になった。
「出発までにはまだ時間がある。それまでは極力、君との時間を優先するようにしたい」
「でも、来年のバレンタインデーは?」
「それは無理だと思う」
「じゃあ、やだ」
「もちろん向こうに行っても連絡はするし、できる限り日本に帰ってくるようにもするから」
「嫌だもん……」
凜も何とか愛稀に納得してもらおうと試みたが、彼女は何を言ってもふてくされたように「いや」と繰り返し、話はいっこうに前に進まない。
凜はいよいよしびれを切らした。「勝手にしろ」と踵を返して歩き出す。その時、頭の後ろをぐん、と引っ張られる感覚があった。振り返るまでもなく、その原因は明らかだ。後ろを見ると、案の定、愛稀が凜に向かって手をかざし、指に力を込めていた。これまでにも、ふたりでさまざまな大変な経験を重ねてきたが、そのうちに彼女はちょっとした念動力なら使えるようになっていた。
「いかせない。ずーっと私のそばに居させてやるんだから」
挑発的な笑みを浮かべる愛稀。
「やめないか」
凜はそれを振りほどいた。
「知ってるだろ、君と同じ力は、僕にも使えるんだぜ」
愛稀は今にも泣きそうな様子でしかめっつらを浮かべている。楽しいデートが最後には最悪のものになってしまった。ふたりはただ黙って、帰り道を歩いた。
愛稀には彼の希望は到底認められなかった。確かに、凜は以前からいつか海外で研究がしたいと話していた。でも、それはまだまだ先のことであって、こんなに突然、その時がやってくるとは思っていなかった。
愛稀は運命を信じているところがあった。いや、信じたいのかもしれない。凜は魂どうしが惹かれ合う、まさに赤い糸で結ばれている存在だと思っていた。そんな相手とやっと出逢えて、愛を育みだしたところなのに、離れ離れになってしまったらその愛の芽が潰えてしまうかもしれない。彼女にとって、それは何よりも許しがたい。
何とか引き止めなきゃ――愛稀はそのように思っていた。だが、直情で自分の目標に一直線な凜のことだ、あまり強く言い続けたら、凜は愛稀を一方的に振り切ってでも、行ってしまうかもしれない。
本当、どうしたらいいの……。
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