第5話 海原の笹舟 1−5

「うちの家風に合わない嫁を選ぶからこんなことに」

「たいした子供も産めずに」

「嫁によく似てる子たちだもの」


 手のひら返しの物凄さにびっくりし、とても悲しかったことは間違いない。

だけど今までの、特に祖母の言動に対しての芥子粒のような違和感が、ああ、そういうことか、と一気につながったように感じた。この人は今こういう性格になったのではなく、もとからのものなのだ。いい祖母の仮面の下の素顔は一生変わることはない。


 仮面が剥がれたのか、ある時期を境に悪い部分がヒートアップしてしまったのか、知っている人ではなくなってしまった父。元からの性格が息子の離婚で露呈してしまった祖母。

 人は変わらない。


 あるいは、何かのきっかけで、悪い方向になら変わってしまう。

 幼い頃の親の離婚で強烈に刻み込まれた概念は、歳を追うごとに強くなっていった。その後のリアルな友だち関係や、画面の向こうの有名人の言動も、あたしの考えを強固なものにしていった要因だろう。


 そしてその考えから、あまりに我が強く、一歩も引かず、明らかに悪いことをしてなお謝らない人種には、強烈な嫌悪感を抱いてしまう。と共に、自分はそうなりたくないという思いも強い。

 そんなあたしの前に現れたのが寿実さんだった。


 あたしのぶちまけた一杯の水と投げつけた暴言によって、自分の生き方に疑問を持ち、そこにNOの結論を出し、タワーマンションの最上階から飛び降りた人。

寿実さんの何がすごいのかって、生き方を変えた事ではなく、そのきっかけが、自分に対して〝負〟を突きつけた人間の言葉だったことだ。言わば敵の意見に耳を傾けた。あたしにそれができるだろうか。

 せめて、寿実さんのように耳に痛い言葉を聞き入れ、変われる人もいるのだと認識を改めたい。


 目の前の白いローボードのガラス面から覗く場違いな絵本〝おしいれのぼうけん〟を眺めながらそんなような思いが頭の中を漂っていた。

「お待たせ、杏果ちゃん。杏果ちゃんが一緒ってこと、説明してたら長くなっちゃって。ごめんね」

「ううん。若葉ちゃん、あたしがいても大丈夫そうですか?」

「もちろんよ。わたしの気持ちを変えた人、って言ったら大歓迎だってさ」

「もう帰ってきます?」


「うん。あと三十分くらいね。ちょっと今日塾に寄ってるの」

「転校、したんですよね?」

 あたしは立ち上がり、寿実さんに促されるままキッチンに向かいながら聞いた。

 寿実さんは肩の上のセキセイインコ、テンを慣れた手つきで鳥籠に戻す。


「うん。若葉と相談してそうしたの。どっちみちみんなと同じ中学には行かない予定だから、一年早まってもいいって。離婚のこと聞かれるのが面倒みたい。二人とも苗字は変えないの。面倒なことはしなくていいかな、って」

「そうなんですね」


 それは寿実さんの心模様のような気がした。兄妹が違う苗字になるのはかわいそう。と同時に、自分が怜和と違う苗字になるのは抵抗がある。

 それからあたしと寿実さんは、並んでキッチンに立ち、焼き肉の用意をしながらたくさん喋った。いや、たくさん喋りながら焼き肉の用意をした。

 その後若葉ちゃんがバースデーケーキを手に帰ってきて、三人でローテーブルを囲む。


 大きなホットプレートを真ん中に、まわりを肉と野菜を載せた大皿や取り皿、タレが二種類、グラス類が取り囲み、天板から溢れ落ちそうになっている。

「ごめんなさいー。あたし手ぶらで」

「そんなことないじゃない。さっきいいワイン買ってくれたわよ。これ!」

 寿実さんは、自分の隣から白ワインのボトルネックを掴んで持ち上げる。

 寿実さんとあたしは缶チューハイ、若葉ちゃんはコーラで乾杯し、誕生日を祝う宴がスタートした。と言っても、ろうそくを立てたケーキに、寿実さんが息を吹きかけた以外は、ごく普通のご飯会だ。


 それを異様に喜び、テンションが下がらない寿実さんに、家族に誕生日を祝ってもらうことが全然ない結婚期間だったんだろうか、と複雑な痛みが胸に渦巻いた。

 寿実さんのお酒を飲むペースは早い。ワイングラスを持つ手は、まだお肉が四分の一くらい残っている頃合いだというのに、すでに不安定に揺れている。そして話し方が叫びになっている。


「もう! 母親としてやってあげたいことはたくさんあったんだよなあ。もうちょっとお金がもらえてればなぁ。でもこれからは若葉と楽しくやってくの! 怜和なんかもうすっかり大人になっちゃったよ。母親としてマイナス影響しか与えられてないよー」


 最初の一本はアルコール三パーセントのフルーツ缶酎ハイだし、ワインに移ってからも量としてはそれほど飲んではいないはずだ。弱いというより、アルコールに慣れていないんだろう。


 思ったような子育てができなかったことを嘆く寿実さんは、お酒がはいったことによって、きっと本音が出やすくなっている。

 あたしの視線はローボードの中の「おしいれのぼうけん」に吸い寄せられる。背表紙しか見えていないけれど上部はギザギザに傷んでいる。


「若葉ちゃん、寿実さんってたくさん、読み聞かせとかしてくれたんじゃない?」

 隣でぱくぱく休みなくお肉を頬張る若葉ちゃんは、箸を持つ手を空中で止め、こっちを向いた。


「そりゃもう! やばいくらい、いくらでも読んでくれた! 怜和兄(にい)なんか小学校の高学年になっても、うちが読んでもらってる時、ちゃっかり横にいたりしたもん」

「寿実さん」

「んー……」


 寿実さんの方を見ると、すでにテーブルには向かわず、横にある巨大クッションの上に腕を伸ばして身体を投げ出していた。

「あたしが、怜和のこと意識したのって、小説がきっかけだったのかも。怜和って本読みますよね?」

「え……」


 寿実さんはさっきまでの緩慢な動作が嘘のように素早く起き上がり、盛大に唇に張り付いていた髪を手で乱暴に避けた。サラサラの髪質のおかげで少し撫でつければすぐ元のきれいなボブカットに戻った。


ボブは切り方次第ですごく変わるらしい。頭を振ってもすぐ元に戻る、と以前佳菜子が美容師さんの腕にいたく感動していたことを思い出す。服はフリマアプリ。でもきっと、カットはケチらずに上手い美容室を使っているんだろう。

「何? どういうこと、杏果ちゃん!」

「大学に入って二、三日目かなあ。電車の中で……」

「電車の中で?」

「そんなに迫らないでくださいよ」


 あたしの方に身を乗り出した寿実さんのぱっちりしたアーモンドアイは、酔いのせいで目元が赤くなっているものの、爛々と輝いていてちょっと怖い。

 かなり恥ずかしかったけれど、あたしは電車で隣になった怜和が、スマホでサガンの小説を読んでいるところを目にし、それからなんとなく気になり始めたことを話した。


「男子大学生がサガンですよ、サガン! めっちゃギャップじゃないですか」

「サガン? そんな高尚なのをあの子が?」

「まあ……みたいですね。でも本を読まない子が多い中、怜和に今でもそういう習慣があるのって、間違いなく寿実さんの読み聞かせのおかげですよ。遺伝もあるのかも。元旦那さんって本読む人ですか?」


「読まない」

 そこでまた、横のクッションの上に倒れそうになったものの両手でどうにか支え、意を決したようにあたしに向き直った。

「杏果ちゃん!」

「な、なんでしょう?」

「ごめんなさい!」


 頭をすごい速さで下げるから、酔っている寿実さんは勢いあまってクッションに突っ込んだ。


「わたしは杏果ちゃんがくれた手紙にものすごく感動したの。自分に水を引っ掛けた相手に謝れる子もいるんだ。手間をかけてでも相手の痛みをぬぐおうとする子がいるんだって、仰天した。だから、もう怜和に会うのは最後かもしれないと思ったから、ほとんど衝動的にあの手紙、見せちゃったの。気づいて欲しくて。変わってくれる、最終手段的な。でも杏果ちゃんに確認も取らず、見せたのは申し訳ないことだった。許されないことだった。本当にごめんなさい」



 

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