第5話 海原の笹舟 1−4
「自分的には安くていい物件が手に入ったなーなんて満足してるんだけど、わたしって究極に何も知らないから、ちょっと心配なんだよね」
そう笑う寿実さんからは、初めて会った時に感じたいささか萎縮した雰囲気は綺麗さっぱり吹き飛ばされていて、溌剌とした魅力に溢れていた。
「あたしも物件とかわかりませんけど、充分素敵です」
「ありがとう。あのさ、杏果ちゃんって鳥、大丈夫な人? たまにダメって人、いるでしょ?」
「このコですか? 可愛いですよね」
「うん。テンって名前。ルーティーンだからさ。ちょっと放鳥したいの。今日は少しになっちゃうけど」
「いいですよ。もちろん」
「わたしが働きに出ちゃっていないから、昼間一羽で寂しいよね。生育環境が変わっちゃったのよ。落ち着いたら保護鳥の施設から、同じくらいの年齢のコをもう一羽引き取りたいんだ」
それから寿実さんはテンを鳥籠から出した。テンはすぐ寿実さんの肩に乗ってくる。その状態のままお茶の用意をしてくれ、あたしたちはひとまず、ローテーブルの前に腰を下ろした。
この時も寿実さんは「あのね、杏果ちゃん……」と歯切れ悪く何かを言い淀み、あたしを横目で見る。「なんですか?」と聞いても、「うん、やっぱ後で」と明らかにおかしい。
それでもうちの大学の学食メニューの話で盛り上がっていたら、あっという間に一時間が経ってしまった。
寿実さんが立ちあがろうとローテーブルに手をつく。
「杏果ちゃん手伝ってくれる? お料理ってできる?」
「できますよ。あたしの親、シングルマザーなんです」
寿実さんはまなじりが避けるほど大きく目を見開いた。そのタイミングで寿実さんのスマホが着信を告げた。
「あ、ごめん、若葉から電話だ。もうちょっとそこに座って待っててくれる?」
「了解です」
腰を浮かしかけていたあたしは、再びローテーブルの前に座った。
立ち上がり、少し離れた場所でスマホを耳に当てる寿実さんの後ろ姿を、眺めながら考える。
怜和の価値観がどうとか岬たちには批判したこともあったけど、あたしも相当に確証バイアスがかかった人間なのかもしれない。寿実さんの変化を目の当たりにしてそう感じている。
今は母と離婚し、別れて住む父親の実家は金沢の旧家なんだそうだ。
父は大学で東京に出てきて、そのまま金沢に戻らずに就職。両親は職場で出会い、結婚。翌年には兄が、二年後にはあたしが生まれ、ごくごく平凡などこにでもある幸せな家庭だった。
結婚してから毎年夏には家族で金沢に帰省していた。あたしには優しかった祖父母だったけれど、その態度や言葉の端々、イントネーションに、兄やあたし、母の出自をそれとなく卑下するような底意地の悪さが、うっすらと透けて見えていた。
例えば、あたしが母の自慢をした時のことだ。母は小さなWEBデザインの会社に勤めていて、自分でも作品を作ることが好きだった。
十年以上前の話だから、母のやっていたことは年齢の割には前衛的だし、作ってプリントアウトしたものも、ポストカード並みに美しい。うちの玄関にある額縁に、母はそれを季節毎に入れ替えて飾ることが好きだった。友だちにも好評で、あたしはそれがとても自慢だった。
単純に母を認めて誉めて欲しかったから、祖母にそのことを話した。
でも祖母は、へえー、と言ったきり。そのへえー、は後ろにいくにしたがい上がるイントネーションで、揶揄するようなニュアンスが含まれていた。子供だったあたしは戸惑い、口を閉ざすしかなかった事を覚えている。今から思えば、WEBデザインという自分にわからない分野で働く母を、認めたくなかったんだろう。
しつこく学校の成績を聞かれたり、ピアノ教本の進み具合を聞かれたりする。
ピアノは面白いドラマに触発されて軽い気持ちで始めたけれど、すぐに飽きてしまい、進度は緩やかだったはずだ。
答えるのは気が進まなかったけれど、嘘をつくほどの処世術は持ち合わせておらずに本当のことを伝えると、「誰の血かしらねえ」と当時はわからなかった言葉が返される。けれど、やっぱりニュアンスからポジティブな意味ではない、と悟っていた。
その時は理解できなくとも、案外、模糊とした記憶ほど心に残るものなのかもしれない。後でそういうことだったんだ、と気づくことも多い。
でも、冬に帰省できない時にも、年齢にしては多い額のお年玉を送ってくれ、会えばお小遣いを渡されお菓子もおもちゃも買ってくれる。
友だちもみんな、おじいちゃんおばあちゃんが大好きだったこともあって、その名称を持つ人種は孫に優しいもの、という思い込みもあった。
微かな引っかかりはあったものの、あたしは祖母のことを充分に好きだった。
そんな中、あたしが六年生の時に両親は離婚した。
小学校のある時期を境に、父は性格が変わってしまったように思う。後で母から聞いた話によると、その頃に部署変えがあったのだそうだ。
そのせいなのかどうか、意見の対立があれば時には譲る姿勢もあった父と母の関係は崩れ始めた。父はもともと頑固だったけれど、人の意見を認めないことに拍車がかかった。母やあたしたち兄弟に裁量のある事柄にまで自分の意見を持ち込み、それを強要するようになる。
怜和の父親ほどではないにしろ、父も家長である自分の意見は絶対だと思っていたのかもしれない。ある時期を境に変わったというよりは、素の自分が色濃く出てきた。 擦り合わせようと努力していた母は徐々に疲れていった。
価値観の相違。離婚に一番ありがちな理由で父と母は別れた。
離婚は寂しかったけれど、喧嘩ばかりする両親を見るのも辛かったから、お互いに別の道を歩む事が家族の先々を思えば最善なのだと、自分の気持ちを無理に納得させた覚えがある。
おじいちゃんにもおばあちゃんにももう会えないのかな、と落ち込んでいたら、一度、金沢から出てくることになった。最後に会った祖父母は、もうあたしたち兄妹に優しいまなざしを向けることはなかった。
「だから反対したのよ」
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