第33話 俺は寂しい
肌の香りがする。
首元に顔を埋めて、エカルトはラウラの甘さに酔った。
抱きしめた腕はどんどん強くなって、細い腰をへし折りそうだ。それでも緩めることはできない。
いったいどれだけ飢えていたのか。
「エカルト……様」
ラウラの唇から発した名前が、エカルトを歓喜に導いた。
初めてだ。最愛の唯一が、彼の名を呼んでくれるのは。
言いにくいのか、後からいかにも付け足した「様」はご愛敬。それまでが愛しくかわいらしく思えてしまう。
「事情は後でお話しいたします。今はお取込み中のご様子……」
言いかけてラウラはエカルトの腕を押しやった。
「宰相、ハーケ侯爵ですか?」
エカルトの肩越しに、両ひざをついたままのハーケを見ている。
紫の瞳がすうっと細められて、顔を伏せたままのハーケをじっと。
「ノルリアンの王女ラウラです」
ハーケの前に立って、顔をあげるように言う。
エカルトは気に入らない。なんだかわからないが、面白くないのだ。
「ラウラ、その者とは俺が話している途中ですから」
不機嫌丸出しのふてくされた声なのは自覚している。それでも自分の前で、他の男の名前を呼んで話しかけるラウラに腹が立つ。
たとえ相手が、かつての師ハーケであってもだ。
「今少し、後ろで見ていてください」
強引にラウラを背中にかばうようにして、再びハーケの前に立ったエカルトに、すぐ隣から笑い声があがった。
テオバルトは抑えきれないらしく、腹を抱えていた。
「殿下、わかりやすすぎます。そういうのは後でお二人でゆっくり」
気づけば眼下のハーケの肩も小さく震えている。
くっくっと抑えた笑いと共に、初めて口元に微笑を浮かべた。
「おそれながら殿下、よろしゅうございました。おめでとうございます。心から、心からお慶び申し上げます」
それは罪人の顔ではなく、かつての師宰相ハーケのそれだった。幼い頃、星の読み方を教えてくれた優しく懐かしい彼の。
エカルトの胸にこみ上げるものがある。
だめだ。今何か言えば、情に引きずられたものがこぼれ出る。
彼は次期国王だ。その言葉はひとたび口にしたが最後、けっして取り消すことはできない。
「おって沙汰する。マラーク総督エルケ侯爵は、旧総督執務室に監禁しておくように」
意識して表情を殺し、テオバルトに指示を出す。
その後西棟の消火を見届けてから、王城の東棟に入った。かつて王太子だった彼が住まいにしたところだ。
「料理人は城外へ出したので、こんなものしか用意できなくて。口には合わないでしょうが」
東棟の二階奥、一番広い南向きの部屋は、かつてエカルトが使っていた頃とほぼ変わっていなかった。ヴァスキア王家の紋章やタペストリーこそ外されていたが、家具の配置や絨毯はエカルトの記憶にあるままで、それも清潔に保たれているとあってハーケの深い思いが伝わってくる。
エカルトは古い樫材のテーブルに、なんだかいろいろと入った皿を置いた。
エカルトには見慣れたシチューだ。とにかく手元にある材料を、ありったけ入れて煮込む。岩塩が申し訳程度に入っている。それに黒パンを薄く切ったものと。
怖々とラウラの顔を伺う。
久しぶりに会ったのに、最初のディナーがこれではひどすぎる。エカルトにも男としての意地があるのだ。
正体を明かし愛を打ち明けて出陣して、感動の再会を果たしたその夜に、ごった煮シチューではあまりにも情けない。こんなことなら料理を習っておくべきだったと深く後悔している。
「乾燥イモと玉ねぎ、それにベーコン? たくさん作るからかしら。よーく味がしみ込んでる」
ラウラはごく自然にスプーンを口に運んでいる。じっと見つめるエカルトに気づいて、「どうかしたの?」とむしろ不思議そうだ。
「飛竜に乗ってる間中、ケガをしてないか、無事かしらと心配でたまらなかったのに。顔を見たら安心して。そしたらお腹が空いたわ」
見ていて気持ちがいいほどの健康的な食欲だ。野営中の騎士でさえ、時にぶつくさ文句を言う薄味なのに。
けれど思い出す。これがラウラだった。王族として生まれてはいるが、マラークの愚かな前国王のように美食を当たり前にはしていない。むしろ太王太后エドラの薫陶よろしきをえて、粗食に耐えて平然としている。自分で料理することさえあるのだ。
「飛竜は? すぐにお返ししないといけないのだけど、さすがに今夜くらいは休ませてあげた方がいいと思うの」
休ませるところはあるのかと、不安げに眉を寄せる。
かつてヴァスキアにも神殿があり、神獣である黒い飛竜がいた。けれどマラークに占領されてから、神殿は閉鎖されたままだ。
「城の中庭を開放しましたから。安心してください。十分ではありませんが、できるだけのお世話をさせてもらいます」
「よかった。貴重な飛竜に食糧とかお酒とか毛布とか、そんなものを運んでもらったのよ。救援物資と人と、後から船で遅れてくるけれど、とりあえずすぐに必要になりそうなものをと思って。かなり罰当たりで贅沢な使い方ね」
今夜のごった煮シチューのベーコンも、どうやらラウラの運んできてくれたものらしい。
城には十分過ぎるほどの蓄えがあったが、これはそのままとっておいた方がいいとラウラは言う。天候不順でこの秋の収穫は酷いうえ、マラークの内乱だ。きっとヴァスキアの食糧事情は、さらにひどくなるだろうからと。
「城の者がつつましく食べるくらいのものは、じきに船で届くから。わたくしもせっせと貯めておいたのよ?」
得意気にふふんと鼻を上に向ける横顔の、なんとかわいらしいことだろう。
こんな他愛のない……、いや為政者としては他愛なくはないが、とにかく色気のない会話をしているというのに、エカルトにはその一言一言がラウラの唇からこぼれているというだけで、宝石のように貴重で美しく愛おしい。
「ラウラ、あなたの努力はありがたいと思います。でも今この状況でそんなことばかり言うのですか?」
ラウラの背中から椅子ごと抱きしめる。
首筋に顔を埋めて唇を寄せた。
「俺は寂しいです」
からん。
スプーンが床を鳴らした。
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