第34話 最後には聞いてくれる

 エカルトの唇が首筋を這う。

 ラウラの心臓は早鐘を打ち鳴らして、警戒警報を繰り返していた。


 こうなってほしかった。

 エカルトが望んでくれることは本望で、それでこそ苦労してマラークからの強行軍に耐えた意味がある。

 けれど同時に同じくらい困っていた。

 このまま事に及ぶのは、いくらなんでも抵抗がある。

 頭は煤だらけで足は泥だらけ、動き回った後なので汗もかいている。かといって着替えようにも、そんな余分なものを持ってくる余裕などなかった。だから当然、下着もない。

 そんなことは気にしないと、きっとエカルトは言うだろう。自分はもっとひどい汚れ方だとも。

 そこは女心というものだ。エカルトが汚れているのは気にならないが、自分の汚れや臭いは嫌だ。恥ずかしくて素直になれないに決まっている。


(どうしよう……)


 嫌な汗が背中を伝う。

 自分の読み間違いを激しく後悔した。エカルトはラウラの伴侶なのだ。会えば当然、こうなることも想定内だったはずなのに。せめて荷物にならない下着の一組くらい、どうして持ち出さなかったのか。

 この状況でエカルトが、適当な言葉でごまかされてくれるとも思えない。

 本当のことを打ち明けて、待ってもらおうと決めた。


「お湯を使ってからにさせて。お願いよ」


 黄金の瞳には既に暗い灯がともっていて、ラウラの言葉に首を振ってみせる。

 

「待てません」


 閨のあれこれをエカルトは知らないのだ。そうに違いない。

 知っていれば、汚れたままの身体でしたくないラウラの気持ちがわかるはず。

 エカルトの育った環境では、誰も閨教育など授けなかったはずだ。だからその……、彼はきっと動物のように終わると思っているのだろう。

 仮にその動物のようなでも、ラウラには抵抗があるが。


「エカルトはこれから後のこと、誰かから教わった?」


 こういうことは、ずばりと聞いた方がいやらしくない。

 覚悟を決めて言い出すと、エカルトは目を丸く見開いて一瞬呆けたように固まる。

 次の瞬間、ふっと唇の片端を上げて小さく笑った。


「困った質問ですね。どう答えてもラウラの機嫌が悪くなりそうだ」


 ラウラの機嫌が悪くなる?

 どうして……と考えて、はっとした。

 一般的な閨教育は座学と実技の二部構成だ。実技には普通、年長の貴婦人が導き手にあてられる。つい最近まで身近にあった例を思い出して、ラウラはぞっとした。

 自分でかけた縄に、首を絞められたようなものだ。


「もう口を閉じてください」


 あきらめてと、耳元で囁かれる。


「じきに気にならなくなりますから」


 掠れた声が甘い。

 この男はいったい誰だ。こんな蕩けるような声の男をラウラは知らない。

 

「お水でいいから用意して。お願いよ」


 震える声でやっと懇願してみたが、返事の代わりに唇を塞がれる。

 いつのまにか抱き起された身体はすっぽりエカルトの胸に抱き寄せられて、身動きひとつ自由にならない。

 

 井戸の冷たい水でいいと言っているのに。

 お湯を沸かすのでは薪がもったいないだろうと、そこまで譲っているのに。


「往生際が悪いですよ、ラウラ」


 黄金色の瞳は発火寸前の火薬のようで、危うい小さな炎がちらちら揺れている。


「続きは戻ってから。必ずいただきにあがります。俺、言いましたよね?」


 許してくれる気はないのだと、ラウラは絶望する。

 願わくばエカルトも初めてであれば良い。それならばあまり濃厚な夜にはならないだろうから。互いに結ばれることが一番で、集中しているうちに事は済むはずだ。ラウラのあれこれを観察する余裕などないに違いない。

 そういうラウラも、実技は済ませていない。座学の授業だけは受けたが、その模擬演習をと言われて丁重にお断りした。

 いくら初夜で困るのだと言われても、ただ知識のためだけに男性と肌を合わせるのにはどうしても抵抗があった。その代わり奨められた書籍は片っ端から読破した。古典の名著から始まって、現代ものの俗本まで。その書籍どおりのことが起こると思えばこそ、ラウラはなんとしてでも身体を洗いたかったのだ。


(どうかエカルトが、誰の手ほどきも受けていませんように)


 元夫との初夜予定とは違って、今度こそ真の初夜なのだ。

 もう少し甘く痺れるようなとか、胸が高鳴って息ができないとか、そんな酔いしれる感傷に浸りたかったのに。

 エカルトが手慣れていませんようにと、祈ることになろうとは。

 お湯にさえ不自由するこのタイミングで、大切な時を迎えてしまうことがなんとも悲しかった。

 

(できるだけ早く、手短に済ませてほしい)


 またあらためて仕切り直しをするから。そう思うのだが、さすがにそれを口にするのは止めた。

 教本によれば、それが男にとってけして名誉な言葉ではないと、そのくらいは知っていたから。

 


「わかりましたよ、俺の負けです。湯を沸かしましょう。それであなたの気がすむのなら」


 はぁと大きなため息をついて、エカルトは自分を抑えてくれた。

 

 呼び鈴を鳴らすとすぐに、テオバルトが飛び込んでくる。

 湯の支度をとエカルトが言い終える前に、テオバルトは外に控えた騎士たちを次々に中に入れた。

 騎士たちは皆、両腕にたぷんと揺れる湯桶を抱えている。


「そうおっしゃると思ってましたから。想定内です」


 あっというまに、バスタブはいっぱいになった。


「それでは良い夜を、殿下」


 長居は無用と、さっさと部屋を出て行く。

 なんと鮮やかな手際だろう。

 テオバルト、あのテオはもともと気が利くとは思っていたが、今日という今日は心から賞賛する。

 彼の恋人になる女は、間違いなく幸せだ。

 感謝と賞賛を惜しみなく注いで見送っていると、背中からぐいと抱き寄せられた。


「気に入りませんね。ラウラはテオバルトの方がお好きですか?」


 地を這うような低い声が怖ろしい。

 不機嫌を音にしたらこんな声になるのではないか。


「あなたの望みをかなえたのは俺です」


 ふてくされてふいっと横を向いたエカルトの横顔を、ラウラは愛おしいと思った。

 あれほど急いでいたくせに、最後にはラウラの我儘を聞いてくれる。


「ありがとう、エカルト。大好きよ」


 ぐずぐずとためらっていた迷いが一気に吹き飛んで、今は素直な思いがあふれ出る。

 微笑んで斜めに見上げた先に、エカルトの極上の笑顔があった。

 

「俺が洗ってあげます」


 メイドもいないのだから仕方ないでしょうと。


「俺はラウラのお願いを聞いてあげましたよ?」


 そのとおりだ。エカルトはラウラの一番の悩みを解決してくれた。

 お湯を使わず初夜を迎えることに比べれば、少々の羞恥心くらいなんでもない。

 覚悟を決めて黄金色の瞳を見上げた。

 

「背中のボタン、外してくれる?」


 こくんと、エカルトが息を飲んだ。

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