第32話 星が降る

 人が二人、ようやく並んで通れるほどの幅の通路は、苔の蒸した古い石造りで、しばらく使っていなかったらしい。湿って淀んだ空気に満ち満ちていた。

 当然灯りなどあるはずもなく、騎士たちの持ち込んだ手元の携帯灯が唯一の光源だ。

 ぬるりと滑る床には、ときおりかつてはなにか生き物でしたみたいな物体が転がってる。気味が悪いので皆、下は見ないようにしている。

 先導のテオバルトが足を止めた。


「ここから厨房の食糧庫に入れます」


 いかにも秘密扉といった鉄の板を指して、テオバルトは少々得意気だ。

 まだ十歳の時に七歳のエカルトを背負ってここを抜けたと、自慢げな顔の理由を付け加える。


「人の気配があります。ご用心ください」


 ぐるりと皆を見回して、「開けるぞ」と緊張した声をかける。


 ずずっ……。

 長く使われなかった扉はさび付いていて、重いどころの話ではない。境目の際に刃物を入れて、ようやく押し開ける。

 ひんやりと乾いた食糧庫の空気が流れ込んでくる。

 

「で……んか、殿下でいらっしゃいますか?」


 掠れた声がこわごわと。

 息をつめてこちらを見つめてくるいくつもの目がある。

 粗末な生成りのシャツにズボン、あるいは前掛けをしたスカートの人々が、20人ほど集まっていた。


「城に仕える者か?」


 エカルトを背にかばったテオバルトが、代わりに尋ねる。まだ敵か味方かわからない。


「閣下にここで待てと命じられました。わたくしたちは皆、昔から宰相閣下にお仕えしていた者です。殿下がおいでになるはずだから、そうしたらここから逃げよと」


 皆やせ細り、栄養不足なのだろう。顔色が悪い。それでも濃い茶の瞳には活力があって、とてもマラークの騎士が化けているとは思えなかった。


「エカルトだ。皆、ケガはないか」


 テオバルトの制止を払って、エカルトが彼らの前に立つ。

 黒い髪に黄金の瞳、穢れを払う覇気が辺りを染める。

 

「王太子殿下、よくご無事でお戻りくださいました」


 人々は口々に言いながら、目元を手や袖で拭った。


「皆を外へ。ブラウンフェルスのもとへ送りとどけよ」


 エカルトの指示で二名の護衛がつけられる。通路へ誘われた彼らは、「どうぞご無事で」とそれぞれ口にしながら振り返り振り返り消えていった。

 ここで待てと指示したハーケの姿がないことが気にかかったが、今は少しでも早くに城を制圧することが優先だ。

 

「城門を開く。ここをつっきって出るぞ」


 ガチャリと装備を鳴らして、テオバルトが剣を抜いた。

 半数が彼の後に続く。残る半数は、エカルトの指揮でマラーク騎士団の本営をつくことになっていた。

 

 一時間後、城門は開き外側からエカルトの騎士団が城内へ攻め入る。

 それから間もなく、マラーク軍は白旗を揚げた。

 けれどそれに従わなかった者がひとりいて、彼女はヒステリーを起こしたあげく、自らの居室に火を放つ。


「下賤の者どもにくれてやるくらいなら、わたくしの手で燃やしてやるわ」


 美しい衣装や靴、リボンにパラソル、手袋に宝石。

 好きなだけ集めた衣装部屋に火を放った。続いてその次の間、さらにその続きの間にも。

 王城の西の棟全部が彼女のために用意されたものだ。そのすべてを燃やし尽くしてやろうと。

 お気に入りのあれこれ、彼女が身に着けたそれらを、下品なヴァスキア騎士が手にするなど汚らわしい。

 焼けたものはまた夫に強請ればいいだけだ。年齢こそいっているが、姿かたちはまずまずのあの夫は年若く美しい彼女に惚れぬいている。いくらでも欲しいだけ買い与えてくれるはず。

 侍女に言いつけて放った火はたちまち大きくなって、西棟全部に拡がってゆく。

 そろそろ逃げ出そうとしたところを、ヴァスキアの騎士につかまった。


「お放し! わたくしを誰だと思っているの?」


 あて身をくらわされ気を失う寸前、夫の姿を見た。眉を寄せ、呆れバカにしたあんな表情をこの美しい自分に向けるはずはないのに。

 

「つくづく愚かな女だ。反吐がでる」


 彼女の夫、エルケ侯爵、彼女のおかげで総督の地位にある男は、目の前でそう吐き捨てた。



 火の手が上がる西棟に、エカルトは駆けつける。

 夜の闇を赤々と不吉に照らし、空を焦がす勢いだ。


「申し訳ございません、殿下」


 目の前に跪く男には見覚えがあった。灰色の艶のない髪、まっすぐに伸びた背筋、両膝をついての跪礼がすこしも仰々しく見えないほどに美しいのにも。記憶の中にあるあの男は、神の前でだけ両膝をついていた。あの愚かな父国王、その妻である王妃にも、彼は一度もその礼をとったことはない。


「ハーケか」

「さようでございます、殿下。ご無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます」


 今ならわかる。この男が勝たせてくれたのだ。

 長い年月、敵の中に残りただひとり奮戦していた。裏切者の汚名をあえてかぶり、敵の女を妻にしてまで。


「苦労をかけた」

「なんのことでございましょう。わたくしはヴァスキアの裏切者でございます。極刑が当然の身。覚悟はとうにできております」


 ヴァスキア滅亡後、ハーケがしてきたことの真実を知る者はごく少ない。ヴァスキアの民のほとんどは、元宰相でありながら敵にしっぽを振った裏切者と蔑み罵っている。

 その名誉を回復したいとエカルトは望むが、ハーケは頑なに首を振る。


「殿下はおわかりのはずです。この11年占領下の酷政に耐えた民の恨みに、犯人であるわたくしを赦せばどうなるか。けしてなりません」


 遠い昔、学問の師であった頃のままだ。こうなると「わかった」というまで譲ってくれない。

 けれど一番の功臣を、このまま処刑することなどできない。できるはずはない。

 困り果てて天を仰いだ。

 満天に煌めく星々が美しく、銀色の帯を作って豊かに横断している。


 ちらりと、星が動いた? 気のせいかと目を凝らす。

 確かに白い星は、こちらに近づいていた。

 猛然と、すごいスピードで。


「あれは白い飛竜か。まさか……」

 

 あれらが戦場に来るはずがない。マラークの神獣である飛竜の姿は、マラーク人でさえ見た者は少ない。

 ぐんぐん近くなる竜の背に、信じられない人の姿をエカルトは認めた。

 胸がどくんと跳ねあがる。

 どくんどくんと心臓の鼓動が速くなり、ついにはたまらず駆け寄った。

 銀色の長い髪を風になぶらせたあの姿、忘れたことなど一日もない。彼の命よりも大切な、この世でただ一人の最愛の人。


「ラウラ!」


 名を呼ぶと同時に、抱きしめた。

 なぜここにいる。どうして来たのか。こんな危ない場所に。

 聞きたい事、責めなければならないことは頭から吹き飛んで、ただ愛しくて嬉しくて幸せだった。

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