第29話 最後の務め

「近衛! 誰がこの女を通していいと言ったの? すぐ追い出しなさい」


 離宮から逃げ出してきたばかりなのだろう。乱れた髪に着衣、化粧をする間もなかったのか疲れた肌をした愛妾が、金切り声で叫んだ。

 この女とは、ラウラのことらしい。

 いい度胸だ。もう最低限の礼儀さえ取り繕う気もないようだ。


 国王の執務室だ。

 ここに愛妾が入っている方がおかしいのだが、彼女はその腕にシメオンをしっかり抱きしめて、悪鬼のような形相でラウラを睨んでいた。


「いまさらなんの用? 陛下はわたくしがお守りする。なんの役にも立たない王族の女が出る幕じゃない」


 情けなくも女の腕に抱かれたシメオンは、青い顔をしてブルブル震えている。


「近衛、陛下とお話しすべきことがあります。煩い愛玩動物ペットを外に出してもらえますか」


 邪魔さえしなければいてもいいのだけれど、ことここに至ってまだ状況がわかっていないらしい。一時的にでも身柄を拘束するしかない。

 本来近衛騎士は王族を護るものだ。だから今の場合、どちらの命令を聞くべきかなど考えるまでもない。


愛玩動物ペットですって? おまえこそ役立たずのごく潰しのくせに!」


 自尊心を傷つけられてよほど腹が立ったのだろう。シメオンの側を離れて、ラウラに掴みかかる。

 長い爪でその頬をひっかけようとした瞬間。


 肉に爪が食い込む間合いだった。ラウラは衝撃を覚悟する。けれど痛みはなかった。

 オルガの頬に愛妾の長い爪は食い込んで、二筋の長い傷を作る。鮮血がぽとりと、赤い絨毯の上に黒いシミを作った。

 そのシミの隣りに、愛妾は腹ばいに押さえつけられている。

 オルガの小剣がその喉元にあてられて、命令があればすぐにかき切れる。

 さすがに愛妾も声が出せないようで、おそらく本能的なものだろうが涙をにじませてブルブル震えている。


「どういたしましょう、王妃陛下。王族に手をかけようとしたのです。始末してよろしいですね?」

 

 冷たい声のオルガに、シメオンが弱い声をあげた。


「やめよ」


 それでもオルガは剣を離さない。オルガの主人はラウラであって、シメオンではないからだ。


愛玩動物ペットを虐めてはだめよ、オルガ。愛玩動物ペットがバカなのは主人が悪いの。躾のされていない愛玩動物ペットは不幸なのよ?」


 躾ができていないから自らを人間だと勘違いしていると、ラウラは続けた。どう頑張っても愛玩動物ペットなのだから、人間にはなれない。主人がバカだから勘違いしたと。


「その点、陛下にもおおいに責任がおありですね」


 今も、ラウラを傷つけようとした愛玩動物ペットをかばうのだ。優先順位を間違えるから増長する。


「泣いたりして騒がれると面倒だから、何か口にかませて地下牢へつないでおいて」


 本当のところ、ラウラはもうマラークの王族ではない。今日の今日、婚姻無効の証明書をとったばかりだ。だから決まりどおりでいけば、近衛に命令する資格はないのだ。

 けれどまだ誰もそれを知らないから、ラウラは王妃のフリを続けることにした。

 時間がない。

 明日の朝までに片付けてしまわなければ、今目の前で震えるシメオンには耐えがたい屈辱が待っている。


「さあ、陛下。あまり時間がありません。早速始めましょう」


 執務机の椅子に縮こまるシメオンを見下ろして、ラウラは口を開いた。



 

 叛乱が起きたこと、その原因が先王と今の王の治世にあること、中でもシメオンと愛妾は民衆から殺したいほど恨まれていることを説明する。


「陛下はご自身でお考えになるべきでした。情に引きずられてお金を出す前に、理はどこにあるのか。それが国王の務めです」

「あなたは知っていたのか?」


 青ざめた唇を震わせながら、信じられないとシメオンは小さく言う。


「あなたは私の妻なのに……。知っていて黙っておいでだったのですか」

「お尋ねになればお答えしたでしょう。それはわたくしだけでなく、宰相も大臣も皆同じです。ですが陛下はお尋ねにはなりませんでした」


 そもそも教えてくれなかったと、その言葉が出る時点で為政者失格だ。

 シメオンは最初から国王になどなるべきではなかった。それだけの器量はない。

 思えば彼も気の毒と言えば気の毒だ。器量も才能もないのに、王妃から生まれた男子だからと王太子から国王になった。もしもう少し緩やかな世襲制であれば、シメオンもこんな愚かな王にならずにすんだだろうに。


「今はもう、そんなことを話している時ではありません。陛下、どうぞご退位ください」


 今日のために作っておいた退位宣言書を、シメオンの目の前に出した。

 国王の宣言書に使われる上質の厚紙には、金の縁取りがある。

 シメオンの署名と玉璽さえあれば、完成する。

 これで現国王シメオンは、王位の重責から解放されるのだ。


「ご署名を」


 促されてシメオンは首を振った。

 白い髪がさらりと揺れて、青白い頬にふりかかる。

 こんな時でも容貌だけは美しいと、ラウラは内心で笑った。

 母である王太后ウルリカによく似た作りは、中性的で妖しげだ。震えて青ざめる様子でさえ、危うく色っぽく見える。

 けれど国王としてはダメだ。

 この男をこれ以上、玉座においておくわけにはゆかない。そして去らせるのであれば、力づくではなくせめて自ら退位させてやりたい。


「あなたはついてきてくださるのでしょう?」


 縋りつかれてラウラは首を振った。


「いいえ、陛下。わたくしは既に陛下の妃ではございませんから」


 三年だ。このセリフを言うために、三年待った。

 ようやく得た自由の証を、ラウラは元夫のシメオンの前に出す。


「最後の務めとして、わたくしがアングラード侯爵に陛下の退位宣言書をお持ちいたします。陛下のお身の安全のために、ぜひとも今ご署名ください」


 泣きそうな表情をしたシメオンは、すべてあきらめたように肩を落とす。

 ようやくペンをとり、のろのろと署名した。

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