第10話 アングラード侯爵
翌朝、王太后からの命を受けて、後宮の財務と人事に関する資料一切の引き渡しがあった。
ベキュ伯爵夫人は最後まで抵抗したが、王太后付きの近衛騎士と侍女が監視する中では隠しようもない。ラウラの代理としてオルガがそれらを受け取った。頭を低く垂れ、丁重なお礼とともに。
「まだ隠しているものがあると思いますが」
ラウラの元に戻って来たオルガは、あの女なら十分考えられると眉を寄せている。
「多分ね。けれどもう今後入って来るものはないのだから、この先減ってゆくだけだわ」
引き継いだ帳簿や記録に目を通しながら、ラウラは支出の多さ、中でも増改築費や工芸品、美術品に偏ったそれに驚いている。
「なんなのこれは。こんな頻繁に増改築が必要なの?」
マラークがいくら大国だからとはいえ、ここ数か月だけでノルリアンの国家予算に匹敵するほどの額を使っている。
「いったい何をどうしたら、こんな額になるの?」
壁紙の張替え、天井の飾り絵、アルコーブの付け替えに窓枠の取り換え。まだまだ続くそれらの額は、工事費は別に計上されているから現物そのものの価格のはずだ。窓枠の飾りひとつが、ラウラの首飾りひとつに相当する。確かにその首飾りは小さなものだ。けれどそう粗末なものではないのにだ。
輿入れして初めて目にした王都バレーヌの街を思い出す。賑やかではあったが、あのひどい臭気に目が痛くなった。
マラークほどの大国が、上下水道整備の費用が出せないとは考えにくくて不思議に思ったものだ。
なるほど、ここでは芸術品だとか建築物だとか内装だとか、そんなものにこそ価値があって支出先の優先順位もそれにならうということか。
民の暮らしなど、気にしたこともないのだろう。
隣国であるノルリアンや旧ヴァスキアを震撼させた疫病も、マラークに火の粉がふりかからぬうちは知らん顔でいられると。
愛妾の独断でこんな勝手が通るはずはないから、シメオンが認めていると考えるべきだろう。
救いようのない為政者だ。
ぽいと資料を投げるようにして机上に戻す。
情報はないよりあった方が良いのは確かだが、知ったがゆえに気分の悪くなることもある。
形式上のとはいえいちおう夫だ。それがこんなに愚か者だと知るのは、気分のいいものではない。
「アングラード侯爵が、謁見の間に入りました」
遠慮がちなオルガの知らせに、もうそんな時間かと時計を見れば既に午後1時を少し回っていた。
王妃の謁見の時間だ。
これも公務の一環だから、よほどのことがない限り希望する者には会うようにしている。二大権門家当主のバルト侯爵とアングラード侯爵のうち、ラウラが先に会うことにしたのはアングラード侯爵だった。
「わかりました」
お召し替えをと言われて、ラウラは首を振った。
「日に5回もの着替えなど、なんの意味があるの。夜会やあらたまった儀礼祭典でもあるまいし」
陽のあるうちに、肩や胸、腕を出すのははしたないとされる。だから昼間には首までしっかり覆う高襟の長袖のドレスを着るのだが、それならば控えめで慎み深いとされる昼間のドレスで一日過ごせば良い。
夜会やあらたまった行事のある時には、その時々に応じた衣装が必要で、それを否定する気はまるでない。行事にはそれなりの格式があるし、衣装はその格式を尊重していると表す道具でもある。日々の暮らしに、その格式は必要か? これまでさんざんやりたい放題だった後宮の金遣いを、ラウラは引き締めるつもりだ。衣装替えをしないのは、その意思表示でもある。
「このままで行くわ」
王妃宮の一階奥に、70平方メートルほどの部屋がある。王妃の紋章であるツタ薔薇のタペストリーはそれなりに堂々たる威厳に満ちて豪華なものだが、後は椅子とテーブルが置かれているだけの質素な部屋だ。
過剰な飾りを嫌う女主人の意を汲んで、オルガがそのようにしてくれた。サロン風のフラットな造りにしたのは、特にラウラの希望によるものだった。
ラウラがそこへ足を踏み入れると、扉近くに立つアングラード侯爵が頭を下げていた。
「拝謁の栄に浴し、光栄の極みでございます」
「アングラード侯爵、元気そうで何よりです」
楽にせよと、椅子を勧める。
「それで、今日はなにか?」
「はい。お許しを得て、申し上げます。陛下の宮の、使用人をわたくしどもでお世話させていただきたいと」
せんだって愛妾の息のかかったメイドを追い出して以降、特に補充もしていない。どこの紐つきともわからない者を身近にはおけないからだ。だが質素倹約に努めるラウラにあっても、宮の管理をオルガ一人で賄うことはできないことくらい承知していた。いずれどこかから、危険要素のできるだけ少ない人物を雇い入れなければならない。
「陛下には、ノルリアンからお呼び寄せになるおつもりでしょうか」
「いいえ」
ばば様に言えば気の利いた信頼できる者を送ってくれるだろうが、この宮に必要な数をとなると難しい。それに身内ばかりで固めるのはあまり良いことではない。ものの視方が偏るし、マラークの貴族たちとの間に要らぬ壁を作ってしまう。
「補充するとなれば、マラークのしっかりした者をと思っています」
「補充するとなれば……、でございますか」
ラウラの言葉をオウム返しにして、アングラート侯爵は口元にふっと笑いをためた。
「アングラード侯爵にはなにか気になりましたか?」
「これは失礼を。まるで
どきりとした。
王妃宮には長くいたくない。政略結婚は王族の務めだから仕方ない。けれどあの愚かな夫の寵を愛妾と争うなど、冗談ではないのだ。とても不快だがなすべきことをなして跡継ぎを作るか、いっそこのまま清らかな身体で三年を過ごし神殿にかけこむかして、とにかく王宮から去りたいと思う。その本音がこぼれてしまったようだ。
アングラード侯爵の青灰色の瞳が、探るように慎重にラウラを見つめている。それがラウラに冷静さを取り戻させた。
まだ相手の正体がわからないうちに、こちらの手のうちをみせるわけにはゆかない。
「ひとつ聞きたいことがあるのですが」
「わたくしにわかることでしょうか」
「マラークの、というより王宮の習いについてです。ここでは宮の増改築を、頻繁にするものなのでしょうか?」
青灰色の瞳が、ほう……と面白そうに輝いた。
「現王の御代では、そのようでございますね。先王は荒々しいご気性でしたから、修繕はたびたび必要でしたが増改築などとはあまり聞いたことがございません」
「では窓枠ひとつ鍵ひとつが宝飾品並みの額であるのも、現王の御代では普通のことだと?」
アングラード侯爵は、マラーク王国における二大権門のひとつだ。ノルリアンから嫁いできたラウラには、手を結んで損はない相手である。だが誰とでも手を組めるわけではない。相手が夫シメオンのような愚か者であれば、むしろラウラの足を引っ張るだけだ。
ラウラの知る限り、バルト侯爵はベキュ伯爵夫人の後援者だ。高価な芸術品を彼女経由でシメオンに献上したり、彼女の人脈作りに多大な影響を与えている。一方アングラード侯爵は、王太后ウルリカと親しい。侯爵自身はマラークの始祖グイヴェル神への信仰篤く、公明正大でやや融通の利かない昔気質の貴族だという。旧ヴァスキアの辺境伯の娘を妻にしたが、侯爵が三十歳の時に死別している。
「普通のことでございます。とても残念なことではございますが……」
「そう。残念と思うのですね」
「はい」
「では問いましょう。わたくしは王宮の暮らしにかかる費用を今の半分にします。侯爵は賛成してくれますか?」
「まことに結構なことと存じます。お心に沿うよう務めさせていただきます。喜んで」
ラウラは初めて微笑する。満足する答えだったから。
「明日にでも、必要と思われる数の人員を推薦してください。詳細はわたくしの侍女と詰めるように」
王妃宮の人員不足は、とりあえず解決した。
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