第9話 懲りない夫と愛妾

 初夜のすっぽかしを、夜会で盛大に周知されたその夜。

 泣き言混じりの謝罪を受けて、初夜のやり直しをとシメオンに懇願されたが、疲れているからとラウラは丁寧にお断りした。

 やらかしの意味を深く考えもせず、母のようにいつくしんでくれた人だから大切なのだと平気で言い訳に来た愚かさを黙って受け容れてやれるほど、ラウラは人間ができていない。


「また日をあらためまして」

「あなたに恥をかかせてしまってすまない。あなたがお怒りになるのも仕方ない。けれどどうか、ゆるしてもらえないだろうか」


 毎度のことながら、言葉だけは丁寧で優し気だ。けれど何度も繰り返されれば、言葉が美しいだけむしろ白々しい。

 怒ってはいないと思っていたが、怒っているのかもしれない。

 嫉妬が原因ではなくて、ラウラを侮られる立場に置いたバカさ加減、それに愛妾をかばいながらラウラにもいい顔をする優柔不断さにだ。

 それくらいのことわかっているはずだと思っていたけれど、どうやらこの顔と言葉だけ美しい夫にはわかっていなかったらしい。

 説明するのも面倒なので、いつものとおり「お気になさらず」と言おうとして止める。

 言えば本当に気にしないでいそうだ。


「独りにしていただけますか」


 出ていけと、そういう意味だ。

 本当なら初夜をさっさと済ませて、ラウラの義務を果たすべきなのだろうが、とてもそんな気分にはなれない。

 追い出せばまたあの愛妾のところへ行くのかもしれないが、勝手にすればいい。

 正直なところ、顔も見たくないし声も聞きたくなかった。


「また……参ります」

 

 これでとりあえず今夜と明日くらいは大丈夫だ。

 そう安心していたのだが、甘かった。

 

 

 翌日の午後。

 王妃宮へ配属されたというメイドが十人ほど、挨拶にやってきた。

 ラウラの前に横一列に並んだ彼女らは、揃ってにやにやと薄ら笑いを浮かべている。

 見るからに不遜な態度を見とがめて、オルガがぴしゃりと言い放つ。


「その態度、その顔、いますぐ改めよ」

「わたくしが何をいたしましたか? この顔は生まれつきでございます。言いがかりをつけないでくださいな」


 反省した様子はまるでない。嘲るような薄笑いを隠しもせず、さらに言い添える。


「わたくしたちは、ベキュ伯爵夫人のお言いつけで参りました」

 

 ベキュ伯爵夫人、国王の愛妾の名を出せば、何も言い返せやしないと信じているようだ。王妃に対する敬意など微塵も感じられない。


「昨夜もまた不首尾に終わられたと聞いております。陛下はどちらにおいでだったのでしょうね。ご存知でしょうか?」


 その居場所の主こそが実質的な王妃だと嘲笑おうとした彼女は、次のあてこすりをと唇を開きかけそのまま凍り付くことになる。


「ひぃっっっ」


 声にならない悲鳴のすぐ後で、茶の髪がひと房、ぱさりと乾いた音をたてて床に落ちた。

 瞬時に抜かれた鋼の刃が彼女の喉元にある。


「豚が」


 ルトの低い声はいつにもまして無機質で、底冷えがするようだ。


「わ……わたくしは……ベキュ伯爵夫人に……」


 女が言いかけると、喉元の刃がすうと皮の上を滑る。真っ赤な血が一滴、女の白い襟元を染めた。


「死にたいのなら遠慮するな。続けろ」


 ルトの瞳の色が金色に変わっている。

 気のせいか。

 ラウラが確かめようとすると、視界を遮るように躍り出たテオがメイドの腕をひねり上げた。


「ひぃぃぃ」


 さらに混乱して悲鳴を上げる彼女の耳元で、テオが囁く。


「いいか、戻ってあのオバサンによく言っとけ。要らんお節介だ。次はないぞってな」


 捻り上げた腕を乱暴に解放されて、メイドは腰を抜かしてへたり込む。その様子を見ていた残りの九人も、皆がくがくと震えていた。


「王妃宮のメイドの心配をたかが乳母風情がするなどおこがましい。以後一切干渉を許さぬ。戻ってあの乳母にそう言いなさい」


 オルガが最後にぴしりと言い渡す。へらへら笑っていたはずの十人は、顔色を失くして我先に逃げて行った。

 

 

「ほうっておいてはくれなさそうね」


 やれやれとラウラは首を振る。

 寵愛による権勢を示そうと、あの愛妾が独り相撲をするなら勝手にすればいいと思っていた。相手にするだけバカらしいと。

 けれどこのままでは、ラウラの穏やかな暮らしが乱される。

 不本意だが相手にしてやらなくてはなるまい。


「王宮の暮らしの差配権、これを掌握するのが一番早いわ。王太后陛下にお目通りを願い出ます」


 使いたくはなかったが、叔母であり義母でもある王太后に助力を求めるしかない。金と人事権を掌握しなければ、あの愛妾はいつまでもあきらめずラウラにつっかかってくるだろうから。


「承知いたしました。いますぐに伺ってまいります」


 返事をするや否や、オルガは王太后に目通りの許可をとりに飛んで行った。




 王太后の離宮は、王宮から馬車で10分ほど離れた場所にある。

 人工的に整えられた小さな森を抜けて出た先にひらける湖のほとり、白い瀟洒な館が王太后の離宮だ。先王が亡くなった途端、待ちかねていたように王太后はそこへ移ったのだという。


「よう来てくれた」


 人払いした中庭にお茶のテーブルが用意されている。けして息子には見せない優しい表情で、王太后ウルリカはラウラを迎えてくれた。


「茶だけはノルリアンより美味しい。認めるのは悔しいが確かじゃ。飲んでみよ」


 奨められたルビーの色の茶は、熟れたブドウのような甘い香りがした。


「あの卑しい女、もう少し賢いかと思うておったに買いかぶりであったのう。懲りぬことじゃ」


 険しい表情で、ウルリカはいかにも嫌そうに口にする。


「あの女、元は零落した男爵家の娘であった。這い上がるために、曾祖父と言ってもよい年の老人と形だけの結婚をして今の爵位を手に入れたのじゃ。王子の乳母には、既婚者で夫の爵位が伯爵以上であることが条件だからの。そして望みどおり乳母になり、あのバカ息子をたぶらかして愛妾にまでなった。そして今の権勢じゃ」


 上昇志向の強い女なのだ。貴族とは名ばかりの貧家に生まれて、周囲からバカにされて生きることを受け容れず、そこからのし上がろうとした気概と才能には頭が下がる。そこまでの才覚がある女であるのなら、なおさら不思議なのだ。


「なぜ彼女はわたくしにあえて仕掛けてくるのでしょうか。わたくしには寵を争う気はありませんが、侮りを許すほど寛大ではありません。先に仕掛ければ、自分も無傷ではすみますまいに」

「そなたは賢い娘だが、人の心の機微には疎いの」


 王太后ウルリカはできの悪い生徒を見るように、苦笑する。


「よいか? そなたにはノルリアン王女という身分がある。そしてその美貌じゃ。加えてそなたは生まれた時からシメオンの婚約者で、今は王妃ぞ。あの女が望んだものを、そなたは皆持っているではないか。身の程知らずの卑しい女が妬まずにいられようか? 妬みは時として理性より強く人を動かすのだ」


 身分? 確かに王女だが、だからこそ愛妾のいる男に嫁がざるをえなかった。

 美貌? 今でこそだが、十二歳の時までバケモノと呼ばれて使用人にまでバカにされていた。

 王妃? 義務の方が多い地位だ。

 けれどなるほどと、納得した。見る者の立場によって、妬ましく思うパーツは違うのかもしれない。


 そこでハタと思い至る。

 王太后ウルリカだって、ラウラと同じものを持っているはずなのに。どうしてそんな妬むなどと、そんな感情の機微に敏いのだろうか。


「そなたは誰かを妬むことなくこれまで生きてきたと見えるの。エドラ様、ヴァスキア太王太后陛下のおかげだな」


 王太后ウルリカがほんの少しだけ悲し気に見えるのは、気のせいではないだろう。

 多分、ウルリカにも誰かを妬ましいと思った日があるのだと察した。


「まあそんなことはよい。そなたの用むきを片付けようぞ。おそらくは後宮における力を握りたいと、そういうことであろう?」


 お見通しだ。こくんと頷くと、ウルリカも頷き返す。


「わかった。明日にでも、王太后の名で王妃に全権を戻すように命じよう。もともとあれは王妃の握るべきものじゃ。わたくしが面倒がって放っておいたから、そなたにも迷惑をかけた」


 あっさり言い切ると、ウルリカは冷めた茶を淹れ換えさせると呼び鈴を鳴らした。

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