第5話 嫁いではみたものの

「明日には着いてしまうのね」


 マラークへ向かう船の上、穏やかな海原を眺めながら、ラウラは重い溜息をついた。

 二十歳になったら嫁ぐとは、幼い頃から言い聞かされてきたことだから覚悟はできていたつもりだ。けれどそれがに過ぎなかったと、今のラウラは知っている。

 船がマラークへ近づくと、どんよりと沈む気分は加速度的にひどくなる。


「もう10年以上続いてるんですってよ。そんなところへ後から入っていって、お互い気分がいいはずもないわ」


 婚約者であるマラーク王シメオンに、愛妾がいることは十二歳の時に知らされていた。

 愛妾ウラリー・ド・ベキュ伯爵夫人はシメオンの10歳年上で、乳母であったのだとか。

 彼女は乳を与えるためでなく、もっぱら教育係としての役を担ってきたらしい。初めての女を教えるのもその役目のひとつなのだそうだ。シメオンは彼女で初めての女を知り、そのまま愛妾にした。そして現在、彼女は王宮で最も影響力を持つ貴婦人である。


「行くの、止めたい」


 ため息といっしょに本音がこぼれ出る。


「お止めになりますか?」


 即座に弾んだ声が返ってくる。

 十五歳になったルトだ。八年前、彼は小さくて骨と皮ばかりの子供だった。傷だらけでほとんど口もきかず、ラウラの足下でぷるぷると震えていた。それが今や、ラウラを見下ろすほどの長身だ。ばば様付き騎士団長の鍛錬のおかげだろう。ほぼ青年と言っていい、均整のとれたしなやかな体つきをしている。

 右半身のひどい火傷の痕は騎士服の下に隠れていて、ほとんどの者はその傷を知らない。濃茶の短い髪に同じ色の瞳、ヴァスキアにはよくある色味をしているが、冷たくさえ見える整った美貌は彼の生まれがかなり高位の貴族なのだと、なんとなく教えてくれる。だから当然のことだが、ルトはかなり人気があった。もちろん恋人の候補として。

 けれど当の本人は八年前と変わらず無口で、人見知りには輪がかかっているかもしれない。どんなに言い寄られても、まるっきり反応せず女たちをがっかりさせている。

 ひとりラウラだけが例外で、ラウラにだけはかなりわかりやすく感情を出してくるのだ。

 

「ラウラ様がお望みなら、今すぐ船を停めさせます」


 本当にルトならやりかねない。マラークへの輿入れが決まってからというもの、ルトの機嫌は地を這うようにずっと低いままだ。

 ノルリアン王国がラウラの輿入れと引き換えに得た額は、ラウラも承知している。ノルリアンが向こう十年、無収入でもやってゆける額だ。

 だから逃げようがないと思っていた。

 けれど本当に嫌なら逃げても良いと言ってくれているようで、救われる思いがした。

 

「ありがとう、ルト。その時がきたらお願いするわ」

「俺は本気です」


 即座に短く返したルトの真剣な様子がおかしくて、重かった気分はすっかり軽くなっていた。

 



 翌日の昼過ぎ、船はマラーク王都に近い港に着いた。

 国王の代理としてアングラード侯爵が、出迎えてくれる。


「ノルリアンの王女殿下にご挨拶申し上げます。陛下の代理として、オリヴィエ・ド・アングラードが王都までご案内いたします」


 アングラード侯爵家はマラークの二大権門家のひとつだ。四十歳くらいだろうか。白に近いグレイの髪を、背の中ほどで束ねている。若くはないが、まず美しいと言っていい容姿だ。確か祖父がマラークの王子だったか。現在の国王には兄弟がいないので、王位継承権第二位を持っている。


「ラウラです。アングラード侯爵、よろしく頼みます」


 型どおりの挨拶の後、王宮からの迎えの馬車に乗せられる。まばゆい金の馬車は八頭立てで、ラウラと侍女のオルガ、それに護衛騎士二人だけのためにはいかにも贅沢だ。

 アングラード侯爵は別の馬車に乗り、ラウラの馬車の周りはマラーク近衛騎士団が警護する。

 王都バレーヌは大陸一栄えている都だ。豪華な宝飾品、家具、彫刻に絵画、織物に高級食材、それに酒。まるで一山いくらのジャガイモのように、高価な品々がありふれた存在としてそこかしこで取引されている。

 石造りの町並みは規格があるのだろう。どれも同じ店構えだった。店の間幅奥行まで、きっちり同じ。同じ型の積み木を組み合わせたように、規則的に並んでいる。

 馬車のとおる道は石畳で、これも区画整理されているのだろう。四台の馬車がゆうに並んで通れる幅がある。

 けれど……と、ラウラは眉を顰める。

 

「窓を閉めますか?」


 口元にハンカチをあてているラウラに、侍女のオルガがそっと伺ってくる。


「ひどい臭いですね」


 護衛騎士のテオも目をしばしばさせる。どうやら臭いが目にきているらしい。

 道端のそこかしこに、見たくもない汚物が転がっている。石畳の馬車道の表面は、雨も降っていないのにずしゃずしゃと濡れていた。つまりこれは、下水の整備ができていないのだ。


「ノルリアンでは以前、疫病が流行りましたからね。幸いと言っては不謹慎ですが、あれのおかげで上下水道がきっちり整備されたのは確かです」


 見た目は綺麗なのだ。けれどこの目にくる臭いは最悪だ。

 マラークほどの大国なら、上下水道整備にかかる費用くらいどうということはないだろうに。なぜ整備しないのか。

 

「まさか王宮もこうなのかしら」


 ぞっとした。こんな臭いの中で暮らすのは、かなりつらい。

 

「エドラ様が姫様のお輿入れの条件の中に、上下水道のある宮を与えることと入れておいででした。まさか約束を違えることはないと存じます」


 侍女のオルガもハンカチで口元を覆っている。それでもラウラを不安がらせないようにか、きっぱりと否定してくれた。

 エドラ、ラウラのばば様が交渉してくれたのなら、信じても良いように思う。今は亡きヴァスキアの、往年の繁栄を支えた方だ。ラウラの愚かな両親などより、ずっと頼りになる。

 王都の街並みが途切れる頃には吐き気をもよおす臭いもなくなって、代わりに木々の清々しい香りが馬車を満たしてくれた。

 王宮へ続く道の両脇に、整然と並べられた落葉樹の紅葉が美しかった。


「王女殿下、まもなく王宮へ到着いたします」


 馬車の窓近く、騎馬の騎士団長が告げてくる。

 ラウラはしゃんと背を伸ばし、口元をきゅっと引き結んだ。


「わかりました」


 

 


「遠路はるばる、よく来てくださった」


 王宮、謁見の間で初めて会った青年は、マラーク王族特有の白い髪に薄い青の瞳をしていた。しみひとつない白い肌にすっと通った鼻筋、切れ長だがやや目尻の下がった右の下に小さな泣きぼくろがある。ふせれば音のしそうな長いまつ毛はけぶるようだ。中性的な美貌のこの貴公子が、ラウラの婚約者シメオンだった。


「マラークの国王陛下にご挨拶申し上げます。ノルリアンの王女ラウラと申します」


 淑女の最敬礼は、ばば様から厳しく仕込まれたものだ。右足を斜めに引いて膝を曲げ、低く腰を落とす。体幹がしっかりしていないと、ぐらついて長くは姿勢を保てない。そのために筋力トレーニングまでさせられた。その甲斐あって、ラウラのカーテシーはとても優雅に美しい。

 ほうと、少し目を瞠るようにして国王シメオンは玉座から立ち上がる。階下で腰を落としたままのラウラの前に進み、手を差し出した。


「噂以上ですね。とても美しい。あなたは私の妻となる方です。ラウラと呼んでも?」

「おそれいります、陛下。御意のままに」


 手を取って立ち上がりながら、内心冗談ではないと思っていた。

 できれば王妃とか妃とか、肩書だけで呼んでもらいたい。既に十年以上側におく愛妾のいる男に、いかにも親し気な呼び方をされるのはぞっとしない。

 けれどノルリアンに出された支度金の額を思えば、名前呼びくらいは我慢すべきだと思い直す。

 


「国王陛下、先にすべきことがおありでしょう」


 玉座の隣に座る貴婦人が、冷ややかな声をかける。


「母に挨拶をさせぬおつもりか?」

「これは母上、大変失礼いたしました」


 振り返ることもなく、国王シメオンは目を伏せた。


「ラウラ、王太后陛下だ」


 あらためてラウラは腰を落とした。


「王太后陛下にご挨拶申し上げます。ラウラでございます」

「ようきやった。そなたはわたくしの姪。会えるのを楽しみにしておったぞ」


 シメオンにかけた声とは温度が違う。やわらかい優しい声で、ラウラに姿勢を戻すように言った。

 壇上にいる貴婦人は、なるほどノルリアンらしい姿をしている。銀色の髪に小作りの整った美貌、瞳の色だけはラウラと違う青だったが。


「慣れぬ土地、しきたりも何もかもノルリアンとは違う。いつでもわたくしの元へ来や」

「もったいないお言葉、王太后陛下に心よりお礼を申し上げます」


 王太后が後ろだてになってくれるだろうとは、ノルリアンのばば様からも聞かされていたが、こうも公然と初めての謁見の場で宣言されるとは。やはり国王と王太后の仲は、あまり良くないようだ。王太后は国王に、ラウラを粗末にするなと牽制したのだと察した。


「あなたにはもうひとり、会っていただきたい者がおります。後ほど、ご挨拶に伺わせます」


 ラウラの手をとって、シメオンは微笑んで見せる。

 艶な微笑だが少し下がった目尻のせいか、どこか愛嬌がある。だが言っていることはいただけない。

 誰が来るのか、想像はついた。

 到着したその日に、急いで会わないといけないのか。そこまで気を遣ってやるほどのことか。

 けれど会わない自由はなさそうだ。それなら明日が今日でも大した変わりはない。むしろ型通りの顔合わせを、さっさと済ませておいた方がいい。


「承りました」


 完璧な淑女の微笑を作って、ラウラはそう返事をした。

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