鏡の楽園 作:皐月メイ

 「エレベーターで異世界に行く方法」というのをご存じだろうか? 少し前にネットのオカルト系掲示板で話題となったものだ。十階以上あるビルのエレベーターを決められた方法で操作すれば異世界へとつながるというもの。怪しいことこの上ないし、万が一真実だとしても、こちらの世界に戻る方法が書き込まれていない。こんなものを試そうと思い立つ奴はきっと、相当に酔狂な奴か、はたまた自殺願望持ちくらいだろう。

 斯く云う私は後者であった。学校に行けばストレスと醜い欲望の捌け口に使われ、家に帰ったところで誰も私を見てはくれない。これといった特技もなければ、目標も、夢も、何もない。

 では、なぜ生きているのかと問われれば、答えは至極簡単なこと。死ぬ勇気すら、私は持ち合わせていなかった。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌。死は常に恐怖を付き従えていた。そんな絶望色の日々の中、私は件の記事を見つけた。

 『異世界』。ここではない世界。こんな薄汚い世界じゃない別の世界。初めて見たときに「これだ」と思った。死ぬかもしれない、帰れないかもしれない、なんて脅しが子どもを危険な場所から遠ざけるための可愛らしい方便に思えた。私をこの世界に残酷に縛り付けていた死への恐怖が、忽然と姿を消した。

 

 幸か不幸か、私の住んでいるマンションはゆうに十階を超えている。そして平日の昼間はほぼ人を見かけない。つまり、この方法を試すのに最適なのだ。

 数日後、私の学校が創立記念日で休みとなった。はやる気持ちを抑え、昼の十時ごろにエレベーターへと乗り込んだ。決められた順番にエレベーターを操作する。異世界ってどんなところだろうか? アニメや漫画みたいにドラゴンがいて魔法のある世界? 逆に科学技術の発展した近未来な世界? はたまたゾンビなんかのいるパニック映画みたいな世界? 想像に胸を膨らませていると、5階に着いた。無機質な案内音声とともに扉が開くと、そこには季節にそぐわない純白のワンピースを着た女性が立っていた。

 彼女を見た瞬間、背中に嫌な汗が流れた。白いソンブレロに似た大きな帽子を深くかぶっているためその顔は見えないが、何故か私の方を見ているということだけは確信を持てた。しかし、この出どころ不明の奇妙な不快感よりも、未知なる新世界への期待の方が強かったらしく、震える手で一階のボタンを押した。静かな機械音とともに扉が閉まり、エレベーターは動き出した。


 成功した。成功してしまった。言い知れぬ達成感に浸っていると、不意に女が口を開いた。

 「戻れないわよ……」

 酷く悲しげな声だった。思わず、女の方へと向き直る。やはり顔は見えないが、先程までの不快感は消えていた。

 何と返したものかと考えて、この女と会話してはいけないことを思い出した。とはいえ無視する形になるのも寝覚めが悪いため、軽く会釈だけしておく。すると顔の見えぬ女は悲しそうに微笑んだ。


 突如、エレベーターの電気が消えた。階数を表示するランプだけが淡く光っていた。九と書かれたランプが消え、十のランプが点く。それもすぐに消え密室は完全なる闇に包まれた。

 それからややあって、エレベーターの扉が開いた。まず目についたのは青空だった。何もかもが嫌になるくらいの快晴。肌を刺す冬の風が吹きつけてくる。隣に居たはずの女性の姿はどこにも見当たらなかった。そこは、見慣れた屋上だった。


 結局、異世界に行く方法なんてデマだったのだろうか。だとしたら、先程までのは何だったのか。街を見渡す。何か違和感を覚えはするものの、それを言語化することは叶わない。喉に小骨の刺さるような、言い知れぬ違和感と不快感。十分ほど街を見渡したものの、最後までそれが何なのかわからずじまいだった。

 諦めてエレベーターへと乗り込む。自分の家のある階を選ぼうとして手が止まる。見慣れたはずのボタンに書かれた文字が全て左右反転していたのだ。

 慌ててエレベーターを降りてもう一度街を確認する。目につく看板は、全ての文字が左右反転しており、しかも右から左に書かれていた。よく見ると、街の風景も左右反転しているようだった。


 この奇妙な現実に唖然としているさなか、ポケットの中のスマホが鳴り始めた。見慣れぬ文字で表示された名前は私のことをイジメている主犯格の女。微塵も出たくはないが、出なかった時の方が怖いため泣く泣く電話を取る。

 「あ、繋がった。ちょっとエリ様? 遅刻するなら連絡くらいしてよ」

 とても馴れ馴れしい声が聞こえた。責められているものの、いつもの悪意が全く感じられない。どちらかと言えば親友にかけるような優しさや慈愛の籠った声に聞こえる。

 違和感が拭えない。人生で感じうる全ての違和感を煮詰めたような、怒涛の一日だ。頭がこれ以上の情報を受け入れてくれない。彼女には丁重にお断りを入れて電話を切る。ドタキャンした———ことになっているらしい私に対して、彼女は「仕方ないなぁ」という声色でもって返し、私の不参加を許可してくれた。今までは彼女の呼び出しに一秒でも遅れたら『お仕置き』が待っていたのに、お咎めなしなんて変な気分がする。


 その後、その日を情報収集に費やした結果、ここが私のもといた世界ではないということは確信できた。スマホからテレビまで、全ての文字が鏡写しだったのを見れば信じざるを得ないだろう。そしてその日付はちょうど1年前を指していた。

 また、ラインや電話の記録を見る限り、私があのイジメっ子たちグループのリーダーであるようだということも分かった。先程電話してきた彼女とのラインからは覚えのある内容が散見された。違うことがあるとすれば、私がそのイジメの主犯なのか対象なのか、だ。

 帰宅した両親はどちらも私のことを構い倒してきた。いつぶりかさえ思い出せない親子の団欒に少し泣きそうになった。それとともに、もとの世界の私は本当に両親から見放されていたのかと思うと酷く悲しい気持ちになったが、何故か涙は湧いてこなかった。

 

 夜、寝る前に最後の確認を済ませる。私はイジメっ子たちのリーダーで、彼女たちを裏から操る存在。表立って彼女たちと係わることはないが、彼女たちが動きやすいようにサポートして、場合によってはイジメの内容を考える。

 酷く胸糞の悪い話だ。正直やりたくない。でも、やらないと、次の目標が私になってしまう。それだけは嫌だ。もうあんな思いはしたくない。今の「イヌ」の子には申し訳ないと思うけど、でもわが身が一番かわいい。

 罪悪感に圧しつぶされそうになりながら、深い眠りへと落ちていった。



 翌朝、学校に着く。いつもの癖でとても早い時間に登校してしまった。体育倉庫には近寄る気にもなれず、教室で少し仮眠を取ろうと思ったのだが、三人の女子が黒板に写真を飾っているのが目についた。遠目に見えたその被写体は、私のただ一人の親友だった。

 女の私から見ても美しいと思える顔や所作に、均衡の取れた素晴らしいプロポーション。その上誰にでも優しく、スクールカーストなんて小さなものに囚われない芯の強ささえも持ち合わせている。神は二物を与えないなんて言葉を嘲笑うような存在。彼女はこの学校唯一の私の味方。そんな彼女が、今の「イヌ」だった。

 彼女の凌辱されている姿なんて見たくない。その一心で思わず黒板の写真を一枚剝がしてしまう。三人の女子たちはそんな私に厭らしい笑みを向けてくる。

 「どうですか? エリ様。今日の写真もうまく撮れてるでしょ?」

 ニタニタ、ニマニマと粘りつくような不愉快な視線と笑み。嫌悪感を表しそうになったが何とか心の中だけで留める。相手は私の言葉を待っている。しかし、イジメっ子の気持ちなんてわからない。こんな時、何と言えばいいのか、皆目見当もつかない。

 「まぁ、悪くないんじゃないの?」とそれらしいことを返す。それで正解だったのか、三人はその言葉に一層顔を歪めて笑った。気分が悪い。


 彼女は始業の数分前に教室へと現れた。その瞬間、クラスの雰囲気が変わった。隠しもしない男たちの醜い妄想が、見せつけるような女たちの醜い冷笑が、彼女一人に向けられる。同情と、憐れみと、思い出される恐怖と、色々な感情が入り混じる。私はどんな顔をしていたのだろうか。わからない。

 はたと、彼女と目が合う。あってしまった。彼女から見れば、諸悪の根源であるはずの私を見た彼女は———幸薄げに笑った。


 一日の学校生活で分かったことがある。私と彼女とは、この世界でも『オトモダチ』であった。正確には、彼女が一方的に私のことを味方だと考えているようだった。

 吐き気がする。胸糞が悪い。私は彼女をイジメさせ、しかし素知らぬふりをして彼女を支え、彼女を私に依存させる。もはや人間の所業ではない。胃の中のものがなくなる。食欲も起きない。ぐったりとしている私を、両親はこれでもかと心配してくれるが、その心配が余計に心をざわつかせる。両親の計らいで翌日の学校は休みになった。

 学校のことを忘れるために、買った覚えすらない少女漫画に手を伸ばしたものの、どれもこれも学園モノであり、精巧に作りこまれた世界観が現実の惨たらしさを一層際立たせるだけだった。胃のムカつきを紛らわせるように、私はふかふかのベッドへと身をうずめるのであった。


 ピリリリリリ、という無機質な音で目が覚める。寝過ぎからくる頭痛と倦怠感に顔を顰めながらスマホの画面を見る。彼女からの電話だった。未だ冴えない頭で電話を取る。


 「もっ……もしもし、エリさんっ?」

 電話越しの彼女の声を聞いて思考の靄が晴れていく。ここは今までいた世界ではないのだ。元の世界で私が彼女に電話をする時はどんな時だったか。思い出したくない記憶が次々と沸き起こる。

 「聞こえっ……聞こえていますか?」

 「え、えぇ……聞こえているわ……」

 彼女の問いかけに何とか返答する。苦痛を堪えるような、その中に混じる嬌声を隠すような、そんな声が聞こえてくる。電話の『建前は』体調不良で欠席した私を労わるものだった。その優しさが心を締め付ける。彼女の声の隙間から微かに漏れ聞こえてくるグチュグチュという水音と数人の男たちの冷笑がトラウマを刺激する。

 結局、弱い私は何もできなかった。愛想笑いをはりつけ、心の傷を隠して対応する。五分もしないうちに私の方が限界に達したため、多少強引に電話を切った。

 強く美しい彼女はある種私のあこがれだった。強くない彼女は美しくない。美しくない彼女はいらないのではないか。そんな疑念が去来する。エゴを押し付ける自分が一層嫌いになる。この感情は体に引っ張られているだけ。自分に言い聞かせる。何故だか流れ出した涙を止めることもできず、そのうちに私の意識は微睡の中に消えていった。



 幾日かが経った。鏡写しの文字に慣れてきたころには、この生活にも慣れ始めていた。イジメられる程に弱い彼女が悪い。何時しかそう思うようになってしまっていた。そんな自分が、ますます嫌いになった。

 私は依然として彼女の『オトモダチ』である。顔を合わせれば一言二言は言葉を交わすし、彼女が泣いていれば話を聞く。

 私は依然として彼女をイジメている。朝から送られてくる『今日やることリスト』に目を滑らせ、イジメられに行く彼女を貼り付けた笑みで見送る。


 さらにひと月ほどが経過した。未だ、違和感はぬぐえない。私にとって都合のいい世界。ならば何故、彼女がイジメられているのか。何故私はイジメっ子なのか。別に、私と彼女は親友で、イジメなんてない世界でもよかったではないか。


 その日、私はイジメっ子たちと映画を見に来ていた。彼女たちと行動するのは未だに慣れない。映画の内容は、遠く離れた場所に住む見ず知らずの男女の精神が入れ替わるところから始まるラブストーリーだった。見終わった後の感想会にて、他のみんなは黄色い声を上げていたが、私だけは思考の坩堝にはまっていた。違和感が大きくなったのだ。明瞭に言葉に出来ないものの、無視することのできない程に大きな違和感だ。


 「ところでエリ様、次のわんこの『しつけ』はどうする? 」


 この言葉で、最後のピースがはまった。はまってしまった。外れていて欲しい予想。外れていないと、私が保てない。

 それでも、嫌にしっくりくる。この仮説が正しくないとしたら、間違ってくれていたなら、色々な思いがぐちゃぐちゃに混ざる。思考が纏まらない。

 結局その日は気分がすぐれないということで早めに帰らせてもらった。


 

 翌日、早朝一番に登校した私は、体育倉庫で彼女を待った。先に来た男子たちにはご退場願って、私は彼女を待つ。一縷の望みに託して、彼女を——記憶の中の『彼女』を——嫌いになりたくないという思いを抱いて、私は待った。

 午前6時58分、昔の私と一緒の時間に彼女はここを訪れた。扉を開けるときの苦悶に満ちた絶望が手に取るようにわかる。だってその苦しみは、私も知っているから。


 「エリさん……どうしてここに? 」


 驚き、喜び、そして恐怖。そんな感情たちがない交ぜになった声を上げる彼女に、私は、たった1つの質問を投げかける。


「あなたは、私のことをどう思っているの? 」


 突然の質問に、彼女は混乱を極めたようだった。質問の意味を理解できないようだ。そもそも、ここに私がいること自体が理解できていないだろう。


 「お願い、あなたの口から聞きたいの」


 気付けば、私の声は震えていた。それを感じ取ったのか、彼女はおずおずと話しだした。


 「えっと……エリさんは私の、たったひとりの親友です。面の向かって言うのは恥ずかしいけど、友達の少ない私にも友達みたいに接してくれる、すごくかわいくて、すごく素敵で、すごくかっこいい、たったひとりの大切な、大切な親友です‼」


 彼女のこの言葉で、すべてを悟った。やっぱり、そうだったんだ。最後の希望が砕ける音がした。

 彼女の言葉を私は予想していた。予想というよりはもはや未来予知だろうか。彼女が何と言うのか、違うことを言ってくれという願いは、儚く散ってしまった。

 去年、朝からこの場所で、彼女が私を待っていたことがあった。私のこの質問は、その時彼女に聞かれたこと。そして彼女の答えは、昔私が答えた内容そのものだった。

 この世界は『楽園』なんかじゃない。イジメる側とイジメられる側が入れ替わっただけの、現実と地続きな世界だったのだ。

 前の世界の『彼女』と今の彼女は別人だろう。頭では理解しているのだが、心がそれを受け入れきれない。『彼女』への怒りが思考を染めていくようだ。そんな薄汚れた私は、こんなことしか言えなくなっていた。


 「……私にとってあなたは、大事なトモダチよ」


 それは、やはり聞き覚えのある、台本通りの言葉だった。



 スマホのスピーカーから淫靡な水音と羞恥や苦悶をごった煮にした嬌声が響く。画面の中では数人の男に囲まれた彼女が、絶望を湛えた可愛い顔で乱れ狂う。

 あぁ、そうか。『あなた』はこんな気持ちで『私』を見ていたのね。私も大好きよ。壊しちゃいたいくらい。

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