夕景、鑑賞、心残り 作:秋月渚

 窓の外で響く雨音をBGMにしながら、椅子に座って目を瞑る。ぐるぐると回るこの一週間の記憶を思い出しながら、私の意識はゆっくりと落ちていく。

 目を覚ましたときにはすでに雨は上がっており、ぎりぎり夕日が部屋を照らしていた。

「起きましたか、せんぱい」

「あきら……?」

「珍しいですね、せんぱいがこんな時間まで教室に残ってるなんて。全然部室に来てくれないから探しに来ちゃったんですよ?」

「それは、悪かったね」

 椅子に座ったまま寝たせいで体が固まってしまったのを伸ばしつつ、私はそっと彼女から目をそらす。

「せんぱい、雨がまた降りだす前に帰りませんか?」

「それもそうだね。ちょっと待ってて、荷物を準備するから」

 リュックに課題に必要な勉強道具を詰めて背負うと、彼女はすでに教室の外で私を待っていた。そのまま二人でゆっくりと誰もいなくなった廊下を歩く。私の足取りが重いのに対して彼女の足取りは軽いため、私たちの間には少しの距離ができていた。

「ねえ、せんぱい」

「ん、どしたの」

 一歩先を行く彼女の顔は見えない。いや、そうでなくても夕闇に支配されようとしている廊下の中では隣にいる相手の顔も怪しいのではないだろうか。

「この前保留って言われた答え、今くれませんか?」

「……」

「一週間、待ちました。わたし、結構いい子にしてたと思うんですよ」

 だから、と言って彼女は黙ってしまった。その背中が私の答えを強制しているように感じてしまい、あきらはそんな子じゃないのだ、と首を振る。

「確かに、いつまでも答えないのは誠実じゃないよなぁ」

「誠実じゃないせんぱいというのも悪くないですが、わたしが好きになったせんぱいはこういうときにビシッと決めてくれる人なので」

「私は、別にそんな人じゃないよ」

 むしろ逃げてばっかりだ、という言葉は流石に飲み込んだものの苦笑がこぼれる。それでも、と私は唇をなめる。

「まず、あきらからの好意は嬉しいよ。それは間違いじゃない」

「ふふ、正直なせんぱいですね」

「でも、ごめん」

「……」

「あきらのことをそういう対象で見れないとか、そういうことじゃなくてさ。でも、ごめん」

「……そっかぁ、フラれちゃったんですね、わたし」

「……その」

「謝るのはナシですよ、せんぱい。ここで謝ったら、わたしにとっては勿論のこと、わたしが好きになったせんぱいに対しても失礼です」

「そっか。うん、わかった」

 別に声が震えていたわけでもないし、肩を震わせたわけでもない。それなのに、一歩先を行く後輩の背中はどうしようもなく泣いているように見えた。その背中に手を伸ばそうとして、結局私は手をおろす。今の私にあきらを慰める資格など無いと、そう思ってしまったから。

「ねえ、せんぱい」

「今度は、なに?」

 ややぶっきらぼうに、けれどなるべく冷たく聞こえないように、と意識しつつ少しトーンを上げて彼女に問いかける。

 私のその問いかけの後、あきらはゆっくりとこちらを振り向いた。ただ、廊下に差し込んだ夜の闇は思っていたより深く、その顔はしっかりとは見えない。

「わたし、部活辞めますね」

「…………そ、っか」

 うん、仕方ないよね、という言葉が音にならないまま口からこぼれた。真面目に部室に来るのは私とあきらだけ、残りはみんな幽霊部員な私たちの部活において、私に告白してフラれたあきらが部活を辞めようとするのは、極めて自然なことだろう。私がその立場だったら、残ったって気まずいことこの上ないだろう。

 そんなことがだんだんと頭の中に積み上がるのを感じながら、私はあきらとの空虚な会話を続ける。

「退部って誰に連絡したらいいんですかね?」

「さ、さぁ。明日になったら顧問の先生に聞いとくよ」

「別に、気にしなくていいんですよ。せんぱいがあたしをフったことと、あたしが部活を辞めることは全然関係ないんですから」

「いや、うん、でもさ……」

「あたし、転校するんです」

「っ!」

「ええ、告白が成功しても、失敗しても、どっちにしたってあたしは部活を辞めてたんです。たまたま、伝えるのが同時になっちゃっただけで…………。いや、嘘です、ほんとは告白の答えを聞いたら転校することは伝えるつもりだったんですよ」

 ちょっと順番間違えちゃいましたけどね、というその声は笑っている。私もその声色に釣られて口を笑みの形にするが、うまく笑えているかは分からなかった。

 それからは特に会話もなく、昇降口まで来てしまった。暗がりで自分の靴箱を探していると、靴箱の向こうからあきらの声が聞こえてきた。

「じゃあせんぱい、これでお別れですね」

「いや、少なくともあと一回は会うでしょ。退部の連絡とかちゃんとしないとだし……」

「いえ、これでお別れです。最後にせんぱいと話せて、楽しかったですよ」

「ちょっと待って……」

「せんぱい、縺ゅj縺後→縺?#縺悶>縺セ縺励◆」

「は?」

 慌ててあきらがいるはずの隣の靴箱をのぞく。しかし、そこには薄暗い闇が広がっているだけで人の気配は一つもなかった。そのことに得体のしれない恐怖を覚えて、私は一歩後ずさる。そこで私は床に落ちていたプリントを踏みつけてバランスを崩し床に全身を強打しそうになり――意識を失った。

「――っは!」

 目を覚ますとそこは夕暮れの教室で、隣の席には私の顔をのぞくようにしてみているあきらの姿があった。

「おや、せんぱい、何か悪い夢でも見ましたか?」

「あき、ら?」

「なんですかその信じられないものを見たかのような目は。いくらせんぱいに寛容なわたしでも、ちょっと不機嫌になりますよ」

「いや、ちょっと悪い夢見てて、うん……」

「普段すました顔してわたしからの愛の言葉をスルーするせんぱいがどんな夢を見ていたのか気になります!」

「あきらだけには絶対教えない」

 どうやら雨音を聞きながら寝てしまったのは事実のようだが、そのあと目を覚ました夢を見ていたのだろう。どうにも具合の悪い夢だった、と残滓を追い出すように頭を振る。それもこれも一週間前にあきらが私に告白してきたのが悪いのだ、と心の中で文句を一通り並べて私は帰り支度を始める。

「雨がまた降りだす前に帰りましょうか」

「……そうだね。それがいいよ」

 夢の中と同じセリフに言いようのない不快感を覚えつつ私は立ち上がる。先程までとは違って、廊下にはまだ夕日が差し込んでいる。そんな些細な夢との違いに目を細めながら私はあきらに先立って歩いていく。

 後ろから彼女が歩いて来るのを足音で感じながら、私は一週間前のことを思い出す。

『せんぱい、わたしと付き合ってくれませんか? わたし、転校することになっちゃったんですよ。その前にせんぱいとの思い出をわたしにくれませんか?』

 唐突に告げられたその言葉の意味を、私はとっさには理解できなかった。二重の衝撃が私を襲ったせいで頭がうまく働かなかった。いつもはふざけた調子でかけられる言葉に、しっかりとした重みが乗っていたのもそれに拍車をかけていただろう。

『あはは、せんぱい、口ポカーンってしてます』

『そりゃ、そうでしょ。え、転校するの?』

『はい、親の都合で。……まあ本題はその前ですけど』

 その言葉に私は口をつぐんだ。わざと無視したのに、と頭が重くなるのを感じる。告白されるのは、嬉しい。けれども、彼女のことをそういう対象として見たことなんて一度もなくて、このままだったら何も考えられないままに流されそうだと感じてしまった私は震える声で『ほ、保留でお願い……』と答えたのだった。

 あきらはそんな私を少し悲しげな目で見つめた後、いつものようにニコリと笑って『仕方のないせんぱいですね』といたずらっぽく口にした。

 そして今しがた、私は夢の中で彼女の思いに対する答えを出した。あとはこの答えを彼女に伝えるだけで私の中にわだかまるこの問題は終わってしまうのだ。

「せんぱい」

「……ん、どしたの」

「一週間前の告白の答え、今くれませんか?」

 やっぱりか、と思いながら私は彼女の方を振り返る。廊下にはまだ夕日が差し込み、彼女の顔が見える。一文字に結ばれた唇の端が震え、意志の強そうな目がわずかに潤んでいるのがわかる。その顔を見て、私の中にあったはずの答えは砂のようにさらさらと崩れてしまった。

「……この一週間、あきらはいい子にしてたのかな」

「逃げないでください。わたしだって恥ずかしいんです」

「いや、私だって急に言われたらびっくりするんだよ?」

「でも、わたしが好きになったせんぱいならこういう時にビシッと決めてくれるので」

「…………期待が重いなぁ」

 ちゃんと断るつもりだった。もともと部室に来るのなんて私ぐらいで、あきらが来てからがイレギュラーだったんだと割り切ったつもりでいた。さっきの夢は、私の中の迷いを一つの形にしたものだったんだろう。

「それだけ好きなんです。わたし、ちゃんとせんぱいに対してモーションかけてたつもりだったんですけど」

「初対面で『せんぱいのこと好きになっちゃいました!』とか言ってたこと?」

「……ふふっ、そんなこともありましたね」

 強張っていたあきらの顔が少し和らぐ。それを見て、私も少し肩の力が抜ける。やっぱりあきらはそういう顔をしている方が似合うよ、なんて思いながらあえて視線を窓に向ける。まだ、窓越しに見える彼女の顔は確かな像を結ばない。

「あきら、ごめんね」

 その言葉は思ったよりもすっと口から出てきた。

「私はあきらの気持ちを受け止めきれる自信がないんだ。だから、ごめん」

 夢の中では、はっきりと言葉にすることがなかった理由もするりと滑り出た。

「わたし、そんなに重かったですか?」

「私にとっては、かな。私はやっぱり強くないからさ」

 いたずらっぽい声で言われたから、私も気持ち明るめに返す。

 後ろからの声が震えているかなんて、知らない。あきらの顔はまだ見えないし。

「あきらからの好意はとても嬉しいんだ。それは間違いじゃない。でも、うん」

「……」

 息遣いだけが聞こえる。不意に、振り返ってあきらのことを慰めた方がいいんじゃないか、なんて思ってしまう。でも、それはきっと違うだろう。

「せんぱい、結構ひどい人ですね」

「失望した?」

「それこそ、まさかですよ」

 そっか、と苦笑がこぼれる。これで彼女の好意が薄れたら、なんて思わなかったわけではないけれど、そうは上手くいかないらしい。

 少し離れた位置にいた気配が、私の後ろに移動する。そして背中にわずかな重さがかかる。その重みを感じながら、私は黒くなった窓からも逃げるように目を閉じる。

「すこしだけ、すこしだけでいいので」

「……うん」

 制服越しに感じられるはずがないのに、背中にじんわりと熱いものを感じる。

「せんぱい、すき、すき、だいすき……!」

「…………」

「でも、きらいだよぉ……」

 呪いのような、言葉だった。きらいと言われるより、すきだと言われる方が。

 きっとこの「すき」を私は一生引きずるんだろうなと、何の根拠もないままに思わされてしまった。多分、あきらに出会ってから今までで、一番堪えた一言だった。

 あきらが私の背中に頭を預けていた時間はそう長くなかった。私にとって呪いになったなんて一ミリも思ってなさそうな彼女は、あっさりと離れてしまった。背中にかかる重みがなくなったのを認識して、一呼吸おいてから目を開く。目の前のガラスの外は真っ暗になっていて、私の肩越しにあきらの姿が見える。

「……せんぱい」

「暗くなっちゃったし、帰ろっか」

「…………そうですね、遅くなるとお母さんが心配しちゃいます」

 あきらの気持ちを私は受け止めない。そういう判断を下したなら、最後まで貫かなくちゃ。だからあきらが泣いていても優しく慰めたりなんてしないし、言いたいことを察したらそれを言わせないようにしなくちゃ。

「せんぱいは、弱虫さんですね」

「そうだよ。だから逃げるんだ」

「でも、強い弱虫さんです」

「言葉遊びみたいだ」

「そうですよ」

 とててっ、と私の前に来たあきらの顔は、見えない。夕闇を過ぎて、夜が廊下に侵食してきているから。かろうじて見える彼女の口は、やや緩んでいるように見える。

 その横に見える細いきらめきは、見ないふりで。

 彼女の口が開く。

「せんぱいは」

「……」

「いえ、なんでもないです」

 階段を下りている間は、二人とも無言だった。何を話せばいいのか分からないという事実が、なによりも雄弁に私たちの間に横たわっていた。

 昇降口について彼女の姿が見えなくなってから、私はようやく私から声をかける。

「部室さ、あきらが使っていいよ。あきらにとっても、あそこは落ち着ける場所だったんでしょ? 私は私で別の場所でひっそりとやるからさ」

 だからあの部室を守ってくれ、と言いそうになって口を歪める。あきらは転校するというのに、在校生の自分が逃げて彼女に場所を明け渡すのか、と心の中の私が馬鹿にしたように呟く。

「わたし、転校しちゃうんですよ? そんな人に部室を使ってほしいなんて、せんぱいってほんと…………本当に……!」

 あーあ、泣かせちゃった。

 頭のどこかで冷静な私がそう言っているのが聞こえた、気がした。優しさのつもりじゃなくて、単なるお節介だと言い張ろうとしたけど、それもダメだった。

「部室は先輩の城じゃないですか。そんなところにわたしを置いておこうなんて、随分わたしのことを気に入ってくれてるみたいじゃないですか」

「あたりまえだよ。あきらは、大事な後輩だ」

 だから、とか付け加えるつもりなんてない。大事な後輩と、大切な恋人はきっと両立する関係性だ。だからこそ、私はこの関係だけしか大切にできなかったのだ。

 まあそれも、今となっては後の祭りなのかもしれないけれど。

「……わたし、部活辞めますね」

「……」

 そうなるよな、と私は口を歪めて嗤う。夢の中で言われたことを引きずっていたことに気が付いてしまったから。

「退部の手続きってどうすればいいんですかね」

「後で調べとくよ。分かったら連絡する」

「時間はギリギリですけど先生に聞きに行きます? 職員室すぐそこですし」

「あー、いや、私が明日聞いておくよ。遅くなったら悪いし」

「…………やっぱり、せんぱいは弱虫さんです。ズルいぐらいに」

 そうだよ、と認めようとして、自分の行動の至らなさに認めることすらできなくなってしまった。優しくしない、なんて言葉が薄っぺらすぎてどうしようもない。

「あきらは転校先で人気になれるかな」

「嫌味ですか?」

「優しくしてしまった分、嫌な奴をやろうかと」

「せんぱい、それは普通に最低です」

 そりゃそうだ、と私は声を殺して笑う。ある意味狙い通りの反応ではあったのだから文句の言いようもない。

「まったく、せんぱいにも困ったものです。こんな人だって知ってたらもっと付き合い方を考えたのに」

「好きにならなかった?」

「いえ、アプローチを変えていたと思います」

「……そう来るかぁ」

 その返しは想像していなかったので思わず間抜けな声が口から漏れる。

「ところでせんぱい」

「……今度は何かな?」

「縺?▽縺セ縺ァ蟇昴※繧九s縺ァ縺吶°?」

「…………あー、これそういうオチなのね」

 夢であることを自覚すると、私の体からすっと力が抜けて目の前が暗くなる。そしてすぐに浮かぶような感覚と共に、明かりの眩しさが瞼を照らした。

 眩しさを堪えながら目を開けると、少し離れたところからにやにやとこちらを見つめている笑顔があった。

「……なに?」

「いえ、幸せそうな寝顔だなぁって眺めてただけですよ?」

「……夢見が悪かったから何かされたのかと思ったんだけど」

「そんな! 昔のことを夢に見るのが悪夢だったと……はっ!」

 ……語るに落ちるとはこのことだろう。どうやら高校時代のことを夢に見たのは目の前のこいつが余計なことをしたのが原因のようだ。

「あんな気持ちになるのは過去一回だけで十分なんだよ……」

 寝起きで頭が回らないまま放ったそんな小さなつぶやきを、離れたところにいた彼女は聞き逃していなかったようで、その顔の笑顔を深くしながら私ににじり寄ってきた。

「せんぱい、今なんて言いました? ねえ今なんて言いました?」

「うざ……」

「そういう反応を返してくれるようになったのってある意味成長ですよねぇ」

「…………」

「まあ、二年も一緒に暮らしてるんですからそのぐらい気安くなってもらわないと困りますが」

「勝手に人ん家に押しかけてそのまま侵略してきたくせに……」

「でも追い出さなかったでしょ?」

 その言葉に私は思いっきり口の端を曲げる。自分でアプローチを変えると言っていたのは覚えていたけれど、まさかここまで押してくる方に舵を切るとは思わなかった。

 いや、それも言い訳だろうか、などと差し出されたコーヒーを受け取って口を付ける。うん、美味しい…………すっかり味覚も把握されてるんだもんなぁ。

「せーんぱい、どうしたんですか、そんな呆けた顔なんかしちゃって」

「誰のせいだっての」

「ふふ、わたしのせいだと言うのなら、それはそれで誇らしいですね。だってそれって、わたしがせんぱいのことを動かせてるってことですもんね」

 なぜかもっと笑顔になった彼女は、私にしなだれかかるようにして体重をかけてくる。気づけばここまでパーソナルスペースも侵略されていたのか、なんてくだらないことを考えながら、意識して体の力を抜いていく。

 これは現実だから、もう一度目を開けたって彼女が隣にいるはずだ。

 そのことに安心感を覚えてしまう私に心の中で苦笑して、私は目を閉じた。

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