創作活動にかんする覚書 作:奴

 高校一年生のときに母校の文芸部誌『望潮』の第六三号に触発されて小説を書きはじめてから、もう七年が経とうとしている。あまりに早い時の流れに驚かされるとともに、これまでいったい何を成し遂げてきたか、不安に思う。大学に現役で合格したこと、これはさいわいだ。大学でサークルに入り、ずいぶん楽しかったこと、これもさいわいだった。そのなかで、小説であれ研究書であれ、たくさんの読書をした。大局的に見ればけっしてよいとは言えない人生かも知れないが、読書のおかげで鈍行ながら進めたように思う。

 もっとも、小説に親しむようになった根源は、母である。中学時代、カフカの『変身』を薦められて読んだ、そのことが、私の将来をすくなからず決定したようだ。もとからいくらか読書愛好の気質は兆していたけれど、本格的に趣味となったのはそこからである。カフカは、『変身』に加え、『城』『審判』なども読んだ。それから漱石を読んだ。しだいに読みたいものへ無造作に手を伸ばすようになって、読書量はすこしずつだが増えた。もっと読まねばならぬと思った。乱読のなかで出会ったのが中上健次である。紀州・「路地」を舞台にした、ほとんど神話的な世界と、それと調和した文章が私を魅了した。また、文体という点で言えば、堀辰雄と福永武彦も私に影響を与えた。悲哀に満ちた文章が築く物語には、どことない死の影があった。こうやって枚挙すれば、敬する作家はなかなか尽きない。最後に一人ばかり挙げておくと、田中慎弥も私が尊敬する作家である。あれほど人間を粒立てて書ける作家は他にないように思う。

 しかしこうして読書遍歴をたどってみると、いきおい何に影響を受けてきたかも明瞭である。大学生の最初期までは日常一般のできごとに幻惑の態を加えて、夢現一体の浮遊感をつくろうとこころみた。これはカフカばかり読みつづけた高校時代を端緒にするにちがいない。大学年間は以降、文学の第一義を転向して自然主義を是とするに至るのも、読書習慣がカフカを離れて漱石や堀や福永に向かったからであろう。むろんその背景には、十九世紀フランス自然主義の大家であるゾラやモーパッサンの神髄を感得してのことがある。田中慎弥も「平凡な日常生活を描いておもしろいなら、それがいちばん技術的には高い」と見解を述べた。これも手伝ってのことではあるだろうが、私はできるかぎり事件の起こらない単純単調な生活を物語にするのが文学の最上級だと信じていたし、これからもそうだ。のちにも類似の話はするが、ドラマ性ある物語はおおかただれでも書ける。しかしドラマの調子がない、単なる日記一冊を脚本にとったような小説をおもしろくするのは一個の高度な芸当ではないか。自然主義はかならずしも平板と結びつかないとしても、あることをあるがまま表現しながら、それでもなお読むに値する文章は、常人の手になるものではない。とはいえ私の文章観にその手の思想が現れているわけではなく、ときにアイデア勝負の物語も幻惑第一の物語も書くし、それなりの手ごたえも感じている。『X星のシダ』『洗礼の痕』『一望できる生活』などはその手合いだ。

 さて、小説という虚構が現実を解体し、何ごとかを抽出すると理解したのは、大学生に入ってからである。むろんそれをいきなり判明に把捉したのではないが、高校生の最後の時期からすこしずつ、何かしら小説の持つ力を感じた。受験という、将来を決する一事を迎えて心配と希望とを抱えながら生き抜いたのは、小説が私に何ごとかを示していたからだ。

 ほんらい小説を書くことは、私にとってあくまでも表現欲求の解消に過ぎなかった。当然と言えばそれまでだが、巧く書くよりも何を書きたいか、胸に湧いたものをどこに押しやるか、というだけで、高校時代の作品たちは残された。思いついたものをひとまず紙面に起こすのが第一義となって私を突き動かしていた。観念や思想を虚構によって表明し、表現技法によって芸術の領域に押し上げたいと願うようになるには、大学二年生の時期を待たねばならない。しかしそれは同時に、小説をつうじて何ができるかという苦悩のはじまりでもある。私が創作という点で真に苦しんだのは――その内実は後述のとおりであるが――この時期以降であり、今もなおつづいている。

 高校三年生から大学一年生の夏にかけて、はじめての長編『夢見』(二〇一九年度初冬号下巻所収)を書き、秋には中編『知らない町』(二〇一九年度追い出し号一巻所収)まで完成させた。もっと美しい物語を生み出さねばならないと感じていた。無数の断片と二、三のわりに長い文章群は、ある程度は納得のいくものだが、もうひとつ不足感のある、とるに足らないものだった。断片については、単に発想力のなさに起因するかもしれない。ただ『夢見』は高校生の未熟な情動が色濃く出た不潔な作品だし、いかにもぎこちない気取りにあふれていた。『知らない町』は締め切りの都合上、当初の構想の六分の一ほどで切り上げて発表と相成った。それ以降、どこかで書き直そうとしながら、結局は次を書くほうが大事に思われて、手つかずだった。あの寸詰まりで投げ出したかっこうの作品はきっと清潔な物語になるはずだったが、惜しいことをした。大学一年生の冬にそれまでで最も長い作品となった『光』(二〇二〇年度新入生号所収)を書ききった。中高大が一貫になった女子校へ高等部から外部入試で入学した篠崎唯一(しのざき-ゆいいつ)を主人公に、高等部三年生の黒川朝美(くろかわ-あさみ)やその妹の彩(あや)、友人の長谷見優花(はせみ-ゆうか)との交流を描いた。これも『夢見』と同様に、むやみに性的な側面を強調しすぎた観がある。

 短編ないし掌編はできるかぎり物語のおもしろさを考えた。起承転結の形式を用いて読みやすくするか、あるいは順当に流れる物語の脈に一つの≪切り返し≫を用意して、読者を≪裏切る≫かのどちらかだ。一般に、厖大な量の文章をつうじて物語を形成する長編をフルマラソンに例えるばあいがあるが、すると短編はまさしく短距離走であり、スピードと爆発力が求められる。文体にリズムがあり、一、二万字程度のものであっても一気に淀みなく読めることが肝要である。できるかぎり簡明でなければならない。読む過程で物語世界に没入するために必要な情報は盛りこむが、余計な情報は極力入れないようにする。これには書き手の技量が問われる。

 より短いなかに物語を収める掌編は、なおさら技量を要する小説形態である。ただの一本調子だと、ある小説のごく一部を切り出した断片に終わってしまう。しかし凝ったものにしようと踏ん張ると、今度は多くのことが説明不足のままの意味不明な文章群になる。この微妙な調整を、先述の≪切り返し≫によって、短いなかにうまくまとめているものが、川端康成「化粧」(新潮社『掌の小説』所収)、綿矢りさ「おとな」(河出書房新社『憤死』所収)、田中慎弥「聞こえなかった声」(講談社『田中慎弥の掌劇場』所収)などである。私の掌編に≪切り返し≫が用いられているものはないように自覚している。別にこの技法がすべてではない。とはいえ、私の掌編はどうも断片にとどまっているものが多い。


 これから何を書いていくかはわからない。書きたいことはまだ残っている。書くべきことをすべて書ききったとも思えない。ふとすると次の案が浮かんで、物語にしないではいられなくなる。物語が浮かばなくなり、創作しようという意欲を失えば当然、書かなくなるだろう。もしくは、理想的な作品が完成すれば筆を擱く。そんなものが将来どれほど時間をかけても完成しないことは自覚している。というのも、文章を書き、何ごとかを表そうとすると、人はかならず自己の限界に臨むことになるからだ。言語の限界を迎えたとき、私は書きながらに絶望する。思考されたものごとをできるかぎり鮮明に描出しようと努めるほど、持ちあわせた観念がどれほど曖昧であるかが判明になる。崖の際の際に向かうほど、谷底の致死的な深さを覚知することと同じだ。ことばによって表現の極北に立とうとするとき、結局、表すべきことの半分も表せていないことに行きあたる。ほんらい、この故障を助けるのが譬喩である(そしてその最たる名手が村上春樹である)。感情・状態・景色・様態と何かを結びつけることで、そのあいだに隠された共通点をはじめて知り、われわれはその跳躍によってそこに描き出されたことがらが真に何であるかを理解する。譬喩表現の能力は、すなわちことばの能力である。アストラニェーニエ(※)によって読む者を立ちどまらせ、いったん、書かれてあることをつぶさに考えさせることが、伝えるためにはなくてはならない。

 ろくに表現できず、また譬喩の一つも思い浮かばないときが、われわれの限界である。言語の限界が世界認識の限界であり、それゆえ人間は言語を行使できなくなったそのときから、世界を見失っている。いわく言いがたい領域に、われわれは向き合い、沈黙する。それは、ただわれわれのこころに浮かび現れ、示される。それゆえ究極的には描出されえず、われわれは世界を掴みそこなう。

 われわれはこみいった感情の波のなかから、喜怒哀楽を抽出し、複雑な感情を一個ずつのことばに置換した。これは人間の成功である。しかし思いのほか乱暴だった。私が今抱いているそれは、怒りや悔しさや憎しみといったことばでは表せない何かだと、ときに思う。古い漢語の語句によってでもそれは表しがたいし、もっと他の言語ならなおさらだ――いや、外国語の単語が、実のところ何を表そうとしているか、われわれは知るよしもないのだが。書くべきことがらを、複雑な世界から切断・分離し、まさにこれだとわかったあとですら、これをどのことばでもって提示すべきか迷う。ことばを見失ったのか、それとも、世界を見失ったのか。魂は何ごとかを感知するが、理性が鈍感なあまり、それが言語のうちのどれなのかを把捉できないのだろうか。われわれの言語が欠陥だらけなのか。したがって根本的な問題は、責がわれわれの側にあるのか、言語の側にあるのかである。ただ一つ確実なことには、世界はあるようにしかない。表せるものだけが世界なのではなく、表しがたい何かまで含めて、世界だ。

 私は次のように信ずる。すなわち、この表現の限界の先にある世界の一部分こそが、小説で切り出すべきことがらであり、それゆえわれわれは究極のところ、つねにすでに、表現に失敗している。創作のもっとも恐ろしい瞬間はここにある。努力のすえ、とうとう努力のみでは超越できない壁を感じるとき、自己がいかに劣っているかを知る。この無力感は残酷なほど私を痛めつける。笞刑のごとく放たれる一撃ずつが、私の精神を確実に破却していく。小説を書いているときのほとんどは、快楽よりむしろ苦痛を感じているようだ。自己の限界によって苦痛を覚え、また苦痛によって限界を自覚する。すべての第一原因は自己の能力にあろう。私はみずからの持つ能力を呪って已まない。本来が不器用な人間である。その不器用さ、愚鈍さの出自がまさにこの力能という不可視の実体であるとすれば、他者に相対的な私の不完全性は、結局のところこの決定的な事実によるほかない。しかしもしこの実体に根差した不可能性に病理的原因があるばあい、私はいっさいの責任を病理的障害に帰することもできる。つまり私がしかじかのことを人よりうまくできないは、すべて脳構造上の理由によるのだと。知的・脳医学的に限界が定められているのなら、私はむしろそれに精神の安定を与り、腹をくくれる。ところが身心ともに健康だという前提があって、それから私の不如意の諸事があるのならば話が変わる。私の力能の不足がまったく私の本性的なものとなり、私ができないのは私のせいであることになる。このとき必然的に私は私であり、脳内物質の偏りが成す全体的不調によって生じる私の二重性は存在しない。平凡な理想で描かれる私と、現実の私のあいだにあるのは見かけの二重性のみとなり、私は今ある一個のほかではありえない。精神的・脳神経的な事由ならば、このさい薬でこの事態にいくらか敵うかもしれない。だが私自身が隅の隅まで健康で問題ないとなれば、私はもはや私以外ではありえず、私の限界は私のせいである。私は限界そのものであり、不可能性そのものとなる。

 生活の営みによって強調される限界が、はたして前述の二者のいずれであるかはいまだ判明でない。それゆえ私はその揺らぎのなかで限界を定めることなく、平たく言えば、まるきり無視して、活動している。だが、ひとたびこの二値のいずれかであるとわかるやいなや、自己が端的に同定される。そのとき捺される、私はしかじかであるという烙印が、今は恐ろしい。いや、仮に一個の事実に決されずとも、私がつねにすでに個人の能力として不可能であり、かつ人間に通底する原理として不可能である。その憾みを、私は絶えず抱いている。

 とはいえ、次のことも確実である。個々の生命は、あるようにあらねばならないという点において、生命の全体に対して責任がある。これはすなわち、総体的生命が個々人の生活に課す一個の要請である。われわれはあるようにあらねばならない。実-存在を、その射程の範囲内においてできるかぎり原-存在に合わせる必要がある。これは理想的な自分になるという俗なことばとは異なる。理想的な自分が原-存在と同一であるとはかぎらない。あらねばならない自分が、ありたい自分とは違っても無理でない。

 原-化は個的生命の義務である。原-化努力によってしか、個々の生命は生であることを承認されない。実-私を原-私に近づけてゆかなければ、私は私であることを認められない。では、こういった原-化はどのようにして成しうるのか。単に漸近行為と述べたところで、具体的な明言が避けられているからわかりようがない。私を私に据えてゆくとはどういった営みだろう。言ってしまえば、原-化は成功の積み重ねによってなしうる。一個ずつの成功が、そのつど実-私を原-私に近づける。ただ成功体験は各人によって異なる。それゆえ、個人はみずからの原-化のために、自己の成功の可能性について、つまりがみずからにおける成功が何であるかを、見定める必要がある。私のばあい、成功とは創作での成功を指す。みずから納得のいく物語をつくることが、私に要請された原-化条件である。だから私は書かねばならない。書いてゆかねば、私の生はいつまでも承認されないまま終わる。それはきっと虚しい。しかしときとしてまったく書けなくなるのだからままならない。その恐れはまさに、これまで語ってきた、私が一的に不可能かもしれないことへの恐怖だ。

 この恐怖と向き合い、身心のうちに溶かしていったのが、読書行為であり、物語である。「書く行為が祈り」ならば、読む行為も祈りである。深層心理の発露を期する意味で、書く行為が自己治療につながると言われる。物語や文のなかに自己との類似性や救いの文句を見出すことまでもが治療行為に等しいと私は思う。私の限界と関係なしに広がる無限の物語空間の永遠の語りは私を救う。それは、無数の物語が、読み手であると同時に書き手でもある私のライバルではなく、単に比較不可能な大いなる者として存するからだ。文章群は私に近いところにあって私自身の限界を浮き立たせるのでなく、かえって遠く離れているがゆえに限界を忘却せしめ、物語世界に引きこんでくれる。というのも、虚構としての物語は、まさしく虚構であるため、現実とは無関係で、現実に対して何らの責任も持たない文章群である。それゆえ読書によって物語世界へ没入し、現実を忘れる。このとき物語は現実のもつ現実性という根源的側面を解体し、われわれは現実世界にありながら虚構世界へ貫入することによって白昼夢のような幻惑状態に陥り、現実のわずらわしさを一時的に無視できる。このような事態はイーグルトンが以下のとおり述べる。


  何かを虚構的(フィクショナル)として扱うことは、なにより

  もまず、それについて考えたり感じたりすること、想像力を自

  由に羽ばたかせること、現実の陰鬱な致命的性格をヴァーチャ

  ルの名のもとに拒絶することである。文学作品は、現実的(ア

  クチュアル)なものに対して責任をもたないという意味で虚構

  といえるのだから、それは、こうした思弁的活動にはうってつ

  けの契機になりうる。文学作品は、現実の冷淡さに泰然自若の

  精神で対処でき、現実原則のやかましい要求に奴隷的に従うの

  ではなく、想像的な仮説を紡ぎだすのである。(テリー・イー

  グルトン『文学という出来事』大橋洋一訳, 平凡社, 2018,

  pp. 119-20, 括弧内はルビ)


 これはクロード・レヴィ=ストロースの『構造人類学』が指摘するシャーマンと病んだ女の話からもわかる。女は理不尽で鬱屈した社会に埋めこまれた社会-内-存在としての自己を解体するため、シャーマンに頼る。シャーマンが提示するのは魔術的世界と超自然的存在の織りなす一個の物語である。これは社会と乖離したものとして女を構造から切り離し、女がもたらす問いに対する一定の解決を与える。このとき女が求めているのはシャーマンの神話そのものではなく、自身の脱構造であり、一時的埋没である。

 これは読書のばあいである。翻って、ふたたび書き手のことを述べよう。創作行為についての私の所感である。

 小説は人間を描くという言明は不親切である。目的や動機としてはそうかもしれないが、実際に描けているのは、人間の一部分だけである。人間の非合理的な行為を、人間精神の深奥に立ち入って究明することは、虚構が現実を解体し、真理ないしもっともらしいことがらを引き出すための手段として有効である。ある一人の(存在しない)人間を描き出し、当人の行動を観察して、結論的にあることを導くときには、なるほど、その小説は人間を描いている。しかし人間はそう簡素なものでない。たいてい、人間心理のほんの断片だけをどうにか明らかにして、あるいは問題として提起して終わる。

 性愛や暴力を描くことで物語が生まれるという理解はたいへんまずい。というのも現実、そうではないからだ。たしかに性や暴力を題材にした物語はいくらでもあるし、いじめの描写を含む作品にしても数えきれないほどある。こうしたテーマがひじょうに危うい均衡の上に成り立っていることはよく知っておかなければならない。これらはある伝えたいことがらを効果的に伝達するための表現手段である。性と力が主題になり、それ自体を軸にするとき、えてしてその印象深さに頼ってしまう。すると性描写や暴力描写の鮮烈さだけが読後の印象に残って、その物語が結局のところ何であったかが記憶に残らなくなる。ドラマ性はあってもドラマにはなっていないだろう。いじめの場面を精緻に書くならば、そのシーンがその物語中で、何らかの役割を担っている必要がある。物語はその諸部分が合理的に連結し、その結果として何ごとかを述べていなければならない。

 また、私は次のことを信じる。すなわち哲学を同化とするならば、小説は異化である。より詳細にすると、以下のようである。哲学は、神、人間の行為、存在するということ、言語、関係性、等々、ここではとうてい列挙できぬ諸事の本質を捉えようとする。一口に言い表しがたいことがらや真理を、より簡単に一口でまとめ、いわく言いがたいものごとによって混迷する者を救済するのが哲学の仕事である。だから哲学は曖昧なもの、抽象的存在を概念的に同化し、うまく掴み取ろうとしている。対して、小説はむしろ、日常生活に存することがらを、虚構において通常ないかたちで表現することで、読む者を立ち止まらせようとする。ふだん見過ごしてよく思慮しないことがらがいくらか曲折した遠回しな言い方をされているのを読んで、読者ははじめてそれについてよく思考しはじめるのだ。これによって、読者は何ごとかを感じ取るだろう。遠くから近くに引き寄せるのが哲学で、近くにあるものを遠くに置くのが小説である。だから小説を書くことで、ハエをハエ取り壺のなかに追いたてなければならない。あえて紐を絡ませて、読者にほどかせなければならない。

 しかしつねにこのような権威的不均衡が発生しているわけではないことは強調されねばならない。作者・テクスト・読者の関係は階層構造としてではなく、三位一体の平等的三角関係として現れる。すなわち作者はテクストを提示することで読者に読みや解釈を促し、それによって端的には名声を得るとか、金銭を稼ぐとかいったことをするのだが、他方で読者はならびに批評家としてもはたらき、テクストが物語として成功しているかどうか、要するところおもしろいかどうかを判定する。このさい判定材料には、それ以前の物語が与えられることになる。読者は読みのいとなみにおいてテクストを導くが、このとき参照するのは、そのようないとなみによって先に方向づけをなされてきた諸テクストである。このいわば文学的循環は、単に同様の物語を反復させるのではなしに、むしろ時代と文化の変容に合わせて、すこしずつそのパラダイムを移していくこととなる。起承転結というレベルはともかく、好まれる物語の筋は、古代ローマ・ギリシアの時分から変わっているはずである。作者は、読者と往年の先輩方の営為にみずからの去就を決され、またみずからが生み出したものによって、将来の後輩の一挙手一投足を決するのである。このような事態は、われわれがある物語に触れたさいに、そのシナリオに対して不満足を感じるといった事実からわかる。われわれは物語の筋が悪いだの、もっとこういう場面展開ならいいだの批評する。この手の物語なら主人公はヒロインと結ばれるべきだとか、読者のご機嫌伺いで安いハッピー・エンドにするなら派手なバッド・エンドのほうがよいとか考える。これはわれわれがすでに受容してきた物語から筋を経験し、一定の価値観を得たためであり、そのためわれわれはシナリオにかんするコンヴェンションを再規定できるのである。現代社会での生活を描くときに、突然緑色の肌をした宇宙人が登場人物の友人として現れてはならないし、野球を題材にした物語でホームランを決めた打者がベースを左回りに周回してはいけないといった卑近なものがわかりやすいが、もっと大略的なもの、すなわち人物関係から生じるありうべき分岐選択もそうである。さんざん仲が悪かった嫁と姑が、次の瞬間――別に親戚の前で偽装するわけでもないのに――談笑してはならないし、最終的に本式に和解することはすくないだろう。貧しかった主人公が行きずりの男を助けて、幸福な人生に至るか否かは、作者なりの評価想定によって決まる。このとき、しばしば作者は読者の反応を考慮に入れるのである。

 こういう相互作用のようなものがあるのはもちろんだが、一方で自己認識という範囲では、多少の不均衡が見受けられる。というのも作者が読者を意識して書くだけではないのも、また事実である。私は小説を書きながら、ときに自己認識のために書いているように思う。それはいわば自己治療であり、自己の二重化であり、内面化のための開放という逆説である。つまり私はまずもって自分が結局のところ何であるかを把握するため、ほとんど無意識下で人物をつくり、そうやって現れた人間たちの行動を観察することで、私自身がどういう人間かを評価している。描写可能な人物は、自己自身あるいはこれまで関係を重ねてきた人間から抽出され、いっしょくたに煮こんでどろどろに溶かし、適当にすくいあげて汁椀についだ何ものかでしかない。生命というプールに人格を注ぎこんであるにすぎない。そしてそれら登場人物が、ほとんど私の意思に関係なく、シナリオなどなく、純粋に行動するのを、私が視点となりカメラとなり追うとき、私ははじめてその人物がいったいどういうたちの人間で、私自身のどの部分にあたるのかを発見する。私が私のままで、「私とはしかじかである」という記述をもとに自己認識するのではなく、むしろ自己を他者化し、あくまでも他人として観察して自己との共通点を見いだすことで、自己認識している。自己の他者化は、つまり自己の二重化であり、二重化された記号としての私に、今ここにあるほんらいの私が接近することで、私は今一度ひとつの私となる。自己の踏み越え=反復=貫入である。さらに言えば、自己認識の基本構造は内面化であるが、このために行うのは他者化であり、自己を通常以上に開放することであるから、内面化を開放によって行うという逆説的事態が生じる。私は作者であり、かつ登場人物であり、かつカメラである。自己認識のための自己の二重化は、最終的に自己の三重化(あるいは登場人物は複数あるのが通常だから、四重化、五重化、六重化……)となる。私は分裂し、私を踏み越える。こうした多重化は、質的に数を増やしはするものの、当然数的には一である。いわば、多重化した私が人体という一個のセルを共有しているのであり、あるいは複数の相異なる同系の他者が重なっている状態とも言えるだろう。私は私でありながら他者と化し、そのかぎりにおいて一なる多としていとなむ。私のうち、真なる私を自己に据えるならば、おおむね私において自己であるものの、全体に比して極小なあるとき、非自己に踏み越えする。自己と非自己は、私という容器において時空間的に接合しており、そのかぎりで貫時間同一性を保持しつつ揺らぎを許すことになる。しばしば精神は同一のセルのなかで揺らぐ。あるいはそれは、「私」とラベルづけ可能な非自己が自己に重なっている状態であり、非自己の一部分が自己のなかに貫入することで、われわれは一時的に自己を汎化する。私は私のかぎりにおいて存在するのではなく、いくつかのものごとの背景のうちにも存在する。私はものごとの第一原因として見出される。このさい、私は私でありながら、厳密には私ではない。私という範疇においての非自己としてふるまい、再度自己に帰っていくのだ。たいていこの帰巣、すなわち自己の一義化・セルの同居解消をなすとき、同時に非自己部分は私から分離することで非私として差異化されるから、ここではじめて私は私のうちに計上されていた非自己部分を自覚できる。このさい感じるのは、非自己の全体像ではなく、貫入部分であり、言い換えるに重なっていた部分である。切断されて手にしたこの部分の体積や表面積を求めることで、われわれは非自己部分が結局のところ全体としてどれだけであるかを知ることはできなくとも、その断片的情報を知れる。私の内側にあったことで差異として現出せず、それゆえ認識外にあった――というよりも認識主体そのものであって客体ではなかった――非自己的私が、手中に収まる。自己認識はこの段階においてなされる。メタ認知は他者化によってしかなされえない。自己は自己内部でのみ規定されうるものではない。自己を自己内部の何ごとかによって規定しようと試みると、差異が存せず、真に自己なるものの判別がつかなくなる。他者化という差異化をもってしなければ自己認識がありえないなら、われわれは「私である」ことを、その外に見出さねばならない。肯定神学と否定神学の別はともかく、内実ではなく外的関係によって自己規定せねばならない。この意味で自己認識は神話形成である。第一原因として汎化する自己は、いわば第一原因としての神とのアナロジーを含む。私は外部に存するもろもろのものごととの関係によってのみ、自己を表現できる。いわば私即自然として、われわれはたち現れる。創作が自己認識あるいはそれによる精神的自己治癒・自己投与の過程であるならば、そのかぎりで創作とは「私」という神話生成の過程である――作者は作品世界に対して全知全能の神として、というより真理値の付与者ないし真理値操作者として現前する。ここにおいて作者は、生活世界と虚構世界のあいだを創作をチャネルにして往来できるというかぎりでの二重生活者として、生活世界では造られた者でありながら、虚構世界では造物主になるのである。しかし国産みの過程は他者によって記述されるのではなく、結果的にみずから記すことになる。神話の記述は自身の創作によってなされうるからである。(つけくわえて述べるならば、シェリングとは異なるかたちで、私は私に対して存在する。というのも、私はこのように文学的に第一原因であると同時に、魂のレベルでも第一原因であるからである。私は自分が生まれた瞬間を知らないし、私が生まれる以前のことを経験的には知らない。くわえて、私は死を経験できない。すなわち私という持続は始端も終端もないあるがままのものであり、限界がわからないというかぎりにおいて無時的な永遠存在である。私の存在はもはや父母に由来せず、ただ私という意識のみに依拠することになる。この点で、すなわち自己の意識が生起するつど示される点で、私は存在論的にも自己の第一原因である。)

 このようなチャネルは読者にもある。まさしく読書を媒介として、読者は虚構に貫入し、生活世界からなかば分離した状態で読書を楽しむ。ここでは簡単のために、読書中はたいてい外界のありように影響されないことを仮定している。読者は読書中、何ものにも邪魔されることなく虚構に没入するとすれば、読者は現実から乖離し、一時的に虚構-内-存在になる。カメラになるのか、ある人物の視点に立つのか、それは文章の視点しだいだろう。とはいえ作者のように、登場人物のすべてとカメラへ自己を多重化し、セルの同居人を一時的に増やすことを読者はしない。せいぜいがカメラと焦点人物であり、物語上視点にならない人物にまで貫入することはない。この点で読者個人の多重化は数が限られている。何より読者は虚構世界を与えられたものとしてしか受容できないことが、作者との相違点である。読者は、当の虚構世界を所与の不完全な世界として受けとめる。そこで記述されていること、また明示的に記述されていることがらから推測可能なことだけを真理として獲得するほかでは、読者は不自由である。いわば読者は、作者がつくったジオラマを借りて、さまざまな角度から眺めてみたり、電車のおもちゃを走らせたりするだけが許されている。読者が鑑賞のみにもとづいて知れるのは、全体としてジオラマがそのような景色を構成しているか、そこにはどれほどの山があり、平野部があり、町があるのか、線路はどこを走り、電車はどういったものがあるのかといった平面的な情報ばかりである。ただ作者だけが、試行錯誤や個人的な思い入れや背景設定を知るのである。読者は、作者自身を映し出す鏡のような創作物で遊ぶことによって、そこに腹蔵されたことがらを読みとくだろう。しかし読者もまた多重化から自己認識をしうるのは事実である。生活世界から読書というチャネルを通じて虚構世界にやって来た読者は、セルにはめこまれた自己と登場人物を重ね合わせるか、カメラとなり文章をレールにして、文章に指示されたとおりに人物を映していく。このとき、単にカメラとして淡々と世界や人物を映すだけでは鑑賞にならないだろう。多少の多重化はするものである。すなわちみずから、レールに沿いながら焦点人物となる。登場人物のすべてと重なり合い、自己を膨らましてゆくことは可能ではあるが、そこまではしないのがふつうだろう。自己認識の構造は、両者のあいだで同じである。単に多重化の変数において作者のほうが多く、読者はそれよりはすくないという違いと、自己認識にあたり、作者はみずからまず世界を構築する手続があるが、読者は読むところから始めればよいという違いがある。多重化・差異化・非自己の自己化と私化した非自己の分離という過程は同じである。

 精神分析学的非対称性は解釈を生み、二次創作を生む。物語世界を不完全な世界として受容する以上、解釈の自由が事実上認められている。われわれは与えられた虚構世界をもとに、そこでは記述されなかった事態について、可能な事態として再記述できる。ある人物の言動の意味あいを付与することも、世界内では事実として提示されていない事態を事実として書き出すことができる。しかしこの副次的虚構世界での真理は、おおもとの虚構世界がもつ真理とは異なりうるし、また根源的世界の真理に優越するわけではない。ある二次創作上では恋人関係にあると記述された二人が、おおもとの世界でも恋人関係を築いているわけではないし、築くことになるとはかぎらない。好意的に言って、二次創作は当の作者の解釈であり、ありていに言えば妄想ないし虚言である。しばしばこういった副次的な、すなわち弱い真理は「電波を受信する」ことによって得られるが、それは原テクストが送信したものではなく、発想とか創案にすぎない。物語世界の真理をつかさどるのはおおもとの作者であり、この意味でそれは強いないしは頑強な真理である。二次創作におけるもろい真理は、これら根源的真理によって蹴散らされうる。それでもなおわれわれが二次創作をし、根源的世界に自分なりの世界を添えづけるのは、事実上の権利のためであり、創作によってしか解消されえない表現意欲のためである。

 二次創作(ないしより高次の創作)に、自己認識という側面はほぼない。みずからがどういったシナリオや設定を好むか、すなわちことばを崩せば「何が自分の性癖か」を知るというかぎりでの自己認識は可能だが、作者が行うようなもの、あるいは読者が行うようなものはほとんど得られない。読者という立場ですら、その世界の造物主ではないという理由から、自己認識はごく制限的にしかなされないはずである。読者の側に可能なのは、共感できるかどうか、どの人物が好ましいかといった程度で、それは作者に与えられたかぎりでしかできない自己認識である。作者がみずからの精神構造の発露として創作をするのに対し、読書行為にはそのような側面がない。生み出した世界は究極的には自分の内側に据えられるのに対し、読者はそれを与えられた世界として、自己の外側に置きつづけることしか許されないからである。与えられた虚構世界は読者の世界ではなく、作者の世界である。このばあい、二次創作(ないしより高次の創作)において、根源的世界に依拠して、すなわち権威を借りているものの、世界の再構築という点では、二次創作者は作者と読者の中間的存在として虚構-内-存在化可能ではないだろうか。そうではないというのが解答である。自己認識に究極的に必要なのは、みずから生み出した根源的虚構世界であり、他人のつくったものを借りたばあい、完全には自己と反りが合わないのだから、原作者ほどの完全な自己認識ははなからできないのである。作者は、この意味において、特権を持っているのであり、読者と二次創作者は、性格の相違を除いて、基本的には同じようにジオラマで遊ばせてもらっているにすぎない。自分の電車や人形を持ってきたかどうか、という差しかない。

 このようにして提示されたものは、いわば言語を弄した結果にすぎない。言語をおもちゃとするごっこ遊びがそのつど示す全体本性であり、粘土を好きなようにこねたすえにできあがった何ものかにすぎない。われわれは創作にさいして自己が分裂することを基本的には意識しないし、単なる没入状態のみをなかば自覚していることだろう。だとすればかかる言説はまったく意味をなさないのか。すくなくとも≪私においては≫なすというのが私の認識である。ハラミやハツやロースといったものを食べ、それを総じて「私は豚を食べた」と述べるように、私はみずからの精神を細かな性格や気質ごとに切り分け、それを各人物に仕立てあげるが、おのおのはすべて私である――というよりも、各部位が豚という全体に属するように、各人物は私という全体に属するのかもしれない。それゆえ先のとおりの多重化や自己認識が生じているわけである。しかし万人に相通じる原理とは言えないかもしれないのも実態だろう。私の創作態度の(できるかぎりの)客観的一般化である。

 さて、高校時代にほとんど衝動的にはじめた創作活動は七年も継続している。私の人生のおよそ三分の一が、創作をともなって進展したのだ。それがこの先もつづくかは、先述のとおり、意欲しだいでとしか目下言えない。すくなくとも読書だけはつづけるつもりだ。大学四年間の作品たちは、私を離れて今、足跡となった。


 

 謝辞を述べるために、くわえて紙幅を割くことも考えたが、感謝すべき人はあまりに多く、またここで謝辞を述べるだけのことをお前はしたのかと問われると、答えに窮する。私がこれまで成した創作活動はあまりに矮小で、ある地点にたどりついたとはとても言えないからだ。

 ただし、私にもっとも近い読者でありつづけ、同じ創作仲間として研鑽しあった、日立無紗さんには多くの点で助力いただいたと書いておかねばならない。率直な感想から重大な助言までさまざまな意見をいただいた。さらに、日立さんがこれまで発表した詩は、私に多くの影響をもたらした。彼女なしでは私の創作活動はこれほど精力的ではなかっただろう。ほんとうにありがとう。

 大学年間の作品はすべて九州大学文藝部から発表された。短編・長編の別なく大量に粗雑な作品を投稿する私に、歴代の編集係および校閲係の方々はたいへん手を焼いたにちがいない。結局のところ、作品はただ作者のみによるのではない。それを公開し、多くの者の目に触れさせるだけの機会と環境、またこれを用意する存在が、なくてはならない。紙面であれ、インターネット上であれ、作品公開までに要する編集・校閲作業の苦労は計り知れない。

 むろん、作品公開の場を用意してくれる存在のみならず、それを読む者がなければ、作品は成り立たない。その意味で、拙作をお読みいただいたすべての人にも感謝したい。

 最後に、学生らしいことを何一つせず、書籍代ばかりがかさむ愚息を二十二歳という年齢まで育て、児戯のような創作活動を生暖かい目で見守ってくれた家族には、格別の感謝を述べたい。空いた時間には本を読み、小説を書いていた私を、真に支えていたのは、家族にほかならない。たいへんお世話になりました。


 ※アストラニェーニエ oстранение は、ソ連ロシアの文芸批評家ヴィクトル・バリーサヴィチ・シクロフスキイの主張する表現技法。日常的に慣れ親しんだものごとを言語的に奇異で目新しい表現に変換することで、鑑賞の自動化を防ぎ、当のものごとについて鑑賞者に再考させる。これは文学理論上の方法論としての構造主義と結びつけられることがある。一般的には「異化」などと邦訳されるが、本文では別部の同化-異化の対比との混同を避けるため、これを採用しなかった。

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