備忘録 作:俗物
人間の「個性」って何だろうか。更に言えば自分の「個性」って何だろうか。酒を飲みながら、だらだらと粋がりながら考えていてもわからない。恐らくツイッターでスペースやったって、ツイキャスで暴露配信したってわからないものだと思う。故に今回はこの『追い出し号』の紙幅を借りて自分の思考を整理しておきたい。来年また『追い出し号』を書くための備忘録的なものだ。あるいは作者が某少年漫画を読みながら「個性」とは何だろうと考えるにいたったということも付記しておく。せっかく好きな歌手がアニメ主題歌決まったと喜んだのに、歌手が表舞台から歌詞通りに居なくなってしまった。
さて、私が九州大学文芸部の『追い出し号』、これを書くのも五回目になる。それだけ自分がここに居続けたことの証明だ。一般的な大学生(適度に遊んで適当に単位を回収しテキトーに就職した人々)は四回しか書くことも無いであろうから、言うなればイレギュラーな存在だとも言えるのだ。
じゃあ、それが「個性」なのかと言われると心許ない。というか、こんなのを「個性」だなんだって言ってたら空しすぎるだろう。自分には「個性」が無いのかもしれない。そう、感情をとっくに失ってしまった……これじゃあ、ネットのコピペみたいだ。
今の自分はとある分野を勉強し続けている。だが、そこでは「個性」と言えるようなものはない。他には何があるだろうか。酒好き、競馬好き、こんなものが「個性」なのだろうか。テンプレのような底辺大学生の完成形という意味では「個性」かもしれないが、そこにポジティブな要素を見出すことは出来やしない。
だが果たして、読者諸氏に置かれましても、自分自身で自慢できるような「個性」を持っているのだろうか。こんな風に書いていれば、きっとどこかの心優しい方は「あなたにはこんな素晴らしいところがある!」などと言葉を投げかけてくれるのだろうか。ただそうだとしても『山月記』の李徴のような臆病な自尊心と尊大な羞恥心を拗らせた俗物には受け入れがたいものだ。だが、一方で俗物は承認欲求を肥大化させる。李徴にもそれは有ったものだと思うけれど、これを拗らせた人間の末路は見るに堪えないものだろう。もしかすると、私も来年の今頃には虎のコスプレをしているかもしれない。決して某関西球団のマスコットのコスプレではないし、マスコットならペンギン(燕)の方が好きだ。話は逸れたが、いずれにしてもネガティブな「個性」ならば持っていてもいなくても一緒だ。ここでは、自分の持っている(公開可能な範囲の)「個性」でも晒していこうか。
私にある「個性」といえば、自分を奮い立たせる強いエネルギーだ。これは昔もどこかで書いたような気はするが、劣等感と嫉妬、そして空っぽの復讐心である。小説やら詩歌やら雑文やらを書くような人間にとっては当たり前かもしれないことである。昔の自分は明智光秀が好きだった。子ども向けの明智光秀の伝記を繰り返し読んだ記憶がある。今の自分からすれば「実証的でない」などと突っ込んでしまうのかもしれない(それは野暮ってやつか)が、非常に面白かった記憶がある。心優しい光秀が悪逆非道の信長を打ち倒す、分かりやすい勧善懲悪の物語だ。ある意味で正義のヒーローだとも言える。もしかすれば光秀は時代と場所さえ合えば、雄英学園のヒーロー科に通っていたかもしれない。ただ、一般的には光秀は英雄である信長を裏切ったヴィランだ。とあるゲームに至ってはヤンデレ・サイコパスの死神のような造形をされる。尤もそのゲームだと本多忠勝はガ〇ダムだし、長宗我部元親は海賊王だし、ザビエルや大友宗麟はカルト教団の教祖と継承者になっているが。こうした光秀のイメージに対して、自分はどこかで違和感を抱いていたのだ。それはどこかで、ただただしんどかった幼少期の自分と重ね合わせる所があったのだと思う。劣等感と嫉妬、復讐心という、今考えれば痛いイキリ陰キャになるだけの素養を持っていたのだ。
こう言うと、光秀がイキリ陰キャだったように聞こえるかもしれない。実際の明智光秀がどのような人物であったかと聞かれても答えようがない。だが、自分の中でどんな人物だったかを想像するくらいは許してほしい。あくまで文藝部員たる私にはあの伝記やら、前述の某ゲームと異なる某ゲーム(CV:緑川さん)やら大河ドラマから受ける印象しかない。その中ではどうしてもあの温和であり尚且つ陰湿でインテリを気取った理想家で策略家であるという明智光秀のイメージが強いのだ。おっと、色んな媒体での描写を取り込んだら、鵺のようになってしまった。あるいは中国神話の麒麟の様だ。
いずれにしてもこうして築き上げられたイメージはどれも本当でどれも嘘だし、そのどれも払拭するには困難だ。それは自己意識だって同じ話だと私は思うのだ。つまり、幼少期に社会生活に適合するために必要な素材を得られなかった人間は、なかなか治ることはない。学力やら体力を始め、コミュニケーション能力にしたってそうだし、常識だってそうだろう、それが親からの愛だなんてものなら猶更だ。周囲の人間からの適度な承認を得ることが出来なかった人間は、なかなか治ることはない。恐らく人間の心っていうものはコップみたいなもので、それを成長の過程で組み上げていくのだろうけど、きっと作る段階で素材が入手できずに完成できなかった場合は手遅れなのかもしれない。それを後から周囲の人間がこねくり回してしまうなんてナンセンスなのだ。そんなことをして他人のコップを取り上げようとしても、壊れかけのコップが粉々になるだけだ。コップを壊された人間はその記憶を失うことはない。壊した後に悔いても遅すぎる。
自分は完成できなかったコップを無理やり作り上げた。そしたら、何か「個性」は陶芸家の湯飲みのような変な形になった。いやあるいは、常に立っていられない、盃を持ち続けなければいけないアルハラ盃とでも言おうか。なお、高知には「可杯」というそういったものがあるらしい。まあ、普段から使うものではなくお座敷遊び用らしいけれど。話を戻すと、私のコップは誰かに支えてもらいながらじゃないと用をなさないということだ。そのくせして、暗い感情は酒のようにどんどんと溜まっていく。その酒を飲みほしながらエネルギーとして生きてきた。
こういった風に生きてきた自分を客観的に見ると「痛い」と思うのは普通じゃないだろうか。そしてそれを今も厚顔無恥のまま書き連ねていることも。でも、こうやって「痛い」と見なすことは強者の特権じゃないかなと感じる。幼少期に得るべきものを得られなかった人に対し、得るべきものを満足いくように手に入れた人間が、侮蔑したりあるいは同情したりしているっていうのはあまりにもグロテスクな情景じゃないか。そうやって過ごしてこざるを得なかった人々はどうしろってんだ。親ガチャだなんだってのはこの手合いだろうがよ。綺麗ごとをいくら抜かしても救われない。それが不条理である。「誰か周りの人を頼っていれば……」、奈良の銃撃の後もどこかの飛び降りの後もそんな空虚な言葉がテレビから聞こえてきた。それすら頼れないからこそ、こんなことが起きるんだってのに。ああ、猶付け加えておくと、俺はあの一件を正当化するつもりは毛頭ない。ただカルト教団の二世に生まれたのが不条理なら、演説中に撃たれるのも不条理だろうと思うだけ。
今までの俺ならここから社会だの何だのってのに噛みついていた。どこかの漫才王者みたいに。でも、今はあまりそんな気持ちにすらならない。それは心のどこかで諦念を抱いているからかもしれない。つまり、これから何をどうしていくにしても、今の俺は遅すぎるんだ。それは自分が今までいろんな迷惑を掛けてきたことへの罪悪感かもしれないし、出来なかった(あるいはしなかった)ことへの後悔かもしれない。
たぶん、こうした後悔ってのは指数関数的に増えていくものだろう。そうして、後から泣き言を繰り返していく。それでもって、また似たようなことをやらかしていく。コミュニケーションを取りたくても取れないっていうのもそういうこと。でも、いつか踏ん切りをつけていかないといけない。今の自分はまだその段階じゃないけど、読者諸氏においては既に越えたり、今越えている最中だったりするかもしれない。そうやって人間はコップを作っていくんだ。
だが、仮に不条理によってコップが壊されてしまったり、完成しなかったりしても新たに作り直すことはできる。それは次元が異なるような場所でかもしれないが、きっとできるんだと思う。俺はそう信じている。このような雑文を俺はどんな立場で書いているのか、最早わからないけれどそれでもいいや。こうやって開き直って俺は来年度以降に向けて生きていくしコップを作り上げていくつもりだ。読んでいる人間もそうあってくれればいいなと思う。この文章はまたいつか読み返す時まで寝かしておくし、そうしておいてほしい。
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