やがて消える  作:奴

 彼女に会うために喫茶店に入ったわけではないけれど、彼女はたまたま一人でそこにいたし、たまたまぼくのことを知っていた。そのころ小説家として中堅の域に入りつつあったぼくからすれば、すでに十分すぎるほどの名声を得ている女優に認知されている――つまりがぼくの読者である――というのはこれ以上ない名誉だった。

 ぼくは店に入ってすぐに彼女の姿を目にとめた。どこにでもいるわけではないけれど、どこかにはかならずいて、人生の道筋できっと一度はすれ違って袖を振りあうだけの縁のあるタイプの目鼻立ちをした女性だ。彼女は稀代の美女ではなかった。けれどかわいらしい系統の美人だった――肩にかかるかどうかの艶のある黒髪、東南アジア人の父と日本人の母を持つというきめの細かい浅黒い肌、そして、いささか魚顔ふうの相貌。彼女の立ち姿はいつでも、彼女がしばしば演じている種類の配役を想起させた。あるときは大学の同級生、あるときはひったくりの被害者、あるときは勉強熱心な新入社員というように。けなげで、利発そうで、暖かみがあって、人に元気を与える一方、どことなく不幸の影があって、つかみ取るべき幸福はたしかにつかみ取るのだが、ほんのすこしだけ憂き目に遭う人間だ。彼女は元来その手の雰囲気を香水のようにふわりと放っており、同業者や監督や脚本家といった人が一目見れば、直感的に何か役柄を当てはめてしまうのだ。

 ぼくは当時、女優としての彼女に好感を抱いていた。決して主演を務めるタイプではなかったが、ドラマを見ていると印象に残る演者だった。まったくの一視聴者として、彼女が出演する作品は自然と見ていた。

 彼女はぼくに相席を促した。断る理由もないから応じて、店員に紅茶を頼んだ。

 「この前文芸誌に出してた短篇、すごくおもしろかったです」

 「ありがとうございます」とぼくはすなおに喜んだ。しかし物書きとしての生来が順風満帆ではなく、自分の作品を率直に褒められる経験を持たないだけに、それから褒めてくれたのが彼女であっただけに、ぼくはすこしとまどっていた。するといったい何を口にすればいいかわからず、落ち着かなかった。

 「ぼくもあなたの演技がすごく好きで、まるで最初からその役回りで生まれついていたかんじというか……いえ、決して悪い意味ではないんです」

 「言いたいことはわかるような気がします」彼女はほほえんだ。「つまり、その、まるで演じているんじゃないみたい、っていうことですよね。私のはずなのに私じゃない誰か、みたいな」

 彼女が演じ手として目指しているのはそこだった。「誰々が演技している」という観がなくて、純粋にそこに配役そのままの人が現れているという境地を、彼女は目標にしているという。言い換えれば、画面上に彼女が映ったとき、見る人が「彼女だ」とすこしも思わずに見入ってしまうのがいいのだった。たとえ彼女目的で見はじめたとしても、いったいどこで登場したかわからないくらい、役に溶けこんでしまいたいのだという。

 「すごく興味深くて、その話、もっと聞きたいんですけど、お時間いいですか?」

 ぼくの依願に彼女はごく純粋な笑みを浮かべた。

 「いつか誰かに話したいと思っていたんです。もちろん誰でもいいわけではないにしても、誰かに。大好きな作家さんにめぐり会える機会なんてまずないんだから、ここで木島さんに話しておきたいんです。撮影終わりで、今日は夜まで暇なんです」

 だから木島さんさえよければ、と彼女は言う。もちろんぼくは承諾した。



 彼女の話を、ぼくなりにまとめていこう。彼女の話ぶりはずいぶんわかりやすかったし、要約する必要もないくらいだった。つけたしのために話の腰を折ることがなく、先に話したことだけで次の話をしているのでもあったし、あるいはのちに必要な情報をあらかじめ小出しにしているのでもあった。彼女の言うことをそのまま書き出していけば、多少砕けたことばづかいではあったものの、演技論にもなるし個人史にもなるだろう。概要を把握するための質問はいらなかった。ぼくはただ話に耳を傾けていればよかった。

 そうしてそれは明らかになった。「自己をなくし、ただ与えられた役という人格だけを持った人として演じる」とはどういうことなのかが。

 彼女がはじめて役者となったのは大学の演劇部だった。もの珍しさで入ったそこで、彼女は稟性の才能でもって、誰をも驚かすような演技をしてみせた。恒例となっている秋の新入生発表だった。例年、同じ脚本を使って一年生が披露する。彼女はそのとき主役を演じて、みごとにやりきってみせた。先輩たちは舌を巻いた。練習を見ているかぎり、たしかに初心者にしてはずいぶん上手だったから注目してはいたものの、これほどのできばえになるとは誰も予想していなかった。いわば才能が彼女を導き、この場にめぐり会わせたというかんじだった。

 彼女の技力に惹かれた先輩たちは、さっそく彼女を主役にする公演を立案したし、その部にかつて在籍していて、今は個人で劇団をたちあげた人が、彼女を今からでも劇団に引きこみたいと画策した。陳腐な言いかただが、彼女は引っぱりだこだったのだ。同期生も嫉妬をする余力なんてなかった。ただ圧巻し、引きこまれた。彼女は天賦の才を開花させたのだ。みな見逃さないわけがなかった。

 しかしすべてのはじまりである新入生発表は、彼女自身にとってはまぐれも同然だった。先輩からの指導があり、たしかに理論的な勉強もしていたとはいえ、年月で言えば素人がすこしうまくなった程度のものだった。彼女はすばらしい演技をしたが、それは座学と実践の賜物というよりも、みずからの内なる技能が偶然生み出したものにすぎなかった。

 だからはっきり言って、それ以降の彼女は、最初の奇跡のような演技ほどではなかった。たしかに演劇をはじめて一年前後の人間にしてはずいぶんうまいのだが、それを裏打ちするものが弱かった。つまり彼女には経験が不足しており、自分なりの哲学がなかった。ふつう、何ごとかを習熟していく過程において、人は自分のしたことと、他人がなしてきたことを取りこみ、自分のものにする時間が必要である。そしてそのときには、なぜそのようにしたら成功するかを、明瞭なことばで表現できなければならない。それを再現するにあたって、曖昧な感覚だけでは完全には復元できないからだ。「前はこういうかんじだった気がする」というだけでは、同じパフォーマンスをくりかえすことはできない。一般論を知り、自己の経験を培い、一個の理論を確立することで、ようやく再現性のあるふるまいができるわけだ。しかし彼女にはそれがなかった。彼女はみずからの天稟に導かれてどうにかやりきっていた。それは先輩たちからすれば明らかなことだった。

 それがなにをもってそのようになるのかというのは、つまり因果とか原理とかメカニズムだ。彼女がそのようなものを自己の根底に見出し、それに従って演技にとりくめば、彼女はきっと自己の才能を飼い慣らし、その力をあるかぎり発揮できるだろう。彼女はこの課題に大学生のあいだ向きあいつづけた。その結果、とうとう見つけたのが「溶けこむ力」だった。

 大学卒業後、両親をたびたび公演に招待することで説得した彼女は、数年のうちに実にならなければ諦めることを条件にして俳優の道に進んだ。というのも大学時代の終盤、彼女はかかる原理をみずからのうちに洞観して以来、例の劇団でも指折りの演者に成長し、ほんの端役ながら深夜ドラマにも出演するようになっていたからだ。すでに自己の才能を見過ごすわけにはいかないだけの位置に到達していた。あとはなかばみずからの意志するほうへ、なかば才能の導くほうへと進むだけだった。だとすれば彼女の行く手はむろん演者の一路である。彼女はできることとしたいことが一致している人間だった。より正確には、≪結果的にそうなった≫のだが、だとしても俳優業を選んだことで彼女はきわめて幸福だった。彼女は演じることに喜びを覚えていた。

 ともなればしだいにただ演じるのではなく、以下にして演じるかを窮理する気勢も現われる。そこで彼女が得たのがすでにくりかえし触れていたあの力能なわけである。彼女は舞台に立つたび、あるいはカメラに映されるたび、自己意識を失いながら演技していることに気がついた。というのは八割方その瞬間の感覚を失くし、ほとんどまったく役の人格に転換しているのだった。そのあいだの記憶は水底から天を仰ぐようにおぼろながら感取されてあるのだが、しかし具体的なことは何も覚えていないのだった。彼女は徹底的に役に入りこむ結果として、別な人格になりかわって行動していた。その意味では失心状態にあるわけだし、別様に言えば何ものかを降臨させているのでもあった。秘術でもって口寄せをするシャーマンとは過程が違うとしても、おおかたそのようなものだ。彼女はなるべき役柄にほとんど完全になりこむことで演じている。

 しかしこれは根源的な力がそうしてくれる面はあるにせよ、基本的には彼女自身が統御することで発揮される。彼女はこの力を十全に利用するため、ぜひ例の課題を解決せねばならなかった。

 「でもそれってかなり大変なことですよね」とぼくはさしはさんだ。いわば自己でない自己を統制し、うまく動かすためにはどうすればいいのだろう? たぶんそれは精神医学的な作業だし、その統制するところの自分が身を潜めている状態なのだから、耳にするかぎりはたいへんな仕事だ。

 「ほんとに大変でした。そこにいるのはたしかに私なのに、なぜか私じゃないみたいにするの、今でもできてるかわからないんです」と彼女は言う。「ふつうみなさん、ドラマを見るときって、やっぱり俳優で見ますよね。俳優の誰と誰がこのドラマでは刑事とその部下で、とか。そうするとどうしても配役で覚えるというより、俳優で覚えちゃうんです。あの俳優が何をしていた、とか。私、それが嫌なんです。そこにあるのは物語なのに、覚えてるのは誰が演じてたかだけなのは嫌で、ちゃんと、こういう話で、こういう登場人物が魅力的だったっていう、そこで記憶してほしいんです。だから私が私のままじゃだめで、ちゃんとその役の人物そのものにならないとほんとうに人の心に訴えるものにはならないんです」

 彼女はそうやってふだんから「私」を消失させる訓練を行った。誤解を許して簡単にすれば、それは気配を消すということだった。演じるものなしにただ自己を失せば残るものは何もない。肉体は抜け殻の容器となり、生ける者の放つ気配はまずありえない。われわれは目の前にいる彼女にすら気づかなくなるかもしれない。いや、気づかないというより、意識の外にあるから、たとえ視界には確実に入っているとしても、目の端に映るものに対するように無頓着になるだろう。ときとして眼前にあるものをいつまでも探しさがしするように、彼女はどういうわけか形となって現れてくれない。それはいわば輪郭が曖昧になってごく薄らいだ影としてそこに在るのであり、単純な存在とは別なしかたでそこに在るということである。彼女は存在の揺らぎとして、そのときそこに在るだろう。

 このような事態を実践するのは簡単ではないが、彼女が第一に利用したのはこれまでの感覚だった。というのも言語に換えられたのはここまでで、実際どうやって自己を消せるかは結局のところ自分のありかたしだいというかんじだった。それは理論でもって容易に継承できるものではなく、多年にわたる不断の努力によっていつか個人的に獲得できる能力のようなものだった。だから、自動車の運転のように結局は多くの人ができるようになるといったものではなく、むしろかなり人を選ぶ種類の職人芸だったし、その意味ではまさしく才能だった。彼女は自己を操縦せねばならなかった。それもきわめて上手に。

 そういうわけで、彼女はまず役に入りこむときの感覚を使って、何かの役になるというわけでなくただ単に集中してみることにした。たとえば友人と待ち合わせしているとき、その感覚に入りこみながら、友人が待つ街路の銅像へ近づいていく。ふだんしない服装にしたのでもなく、人ごみをなるべく見つからぬようゆっくり歩くのでもなく、いつもどおりの服を着て、いつもどおりの歩みでまっすぐ友人のもとへ向かった。ただ違うのは、つとめて自己を消しているというこの一点だけだった。

 しかしそう簡単にいくわけでもなかった。思いのほか早くに友人から気づかれ、かえって彼女が放つ独特の雰囲気に心配されてしまった。それまでは没入先があり、みずからの魂を容器からはずしたあとの代わりがかならずあった。なりかわる別の人格が決まっていた。けれども今回はその先に何もなく、彼女はただ無になるほかないから、厳密には演技と異なることをしていた。だから演技で用いる原理とは多少異なった。

 それからも幾度となくこの練習をくりかえした。それは演技のさいの没入をより意識的に行うための練習であったが、彼女はしだいに自己を消すことそのものに固執するようになった。手段が目的にすりかわったのだ。彼女は自分が透明になるという理屈では測れない力能の悪魔的な蠱惑に侵されて、それを演技に活かすことよりも、それ自体をつかみ取ることに飢えた。

 「演技はたしかに実践の場ではありました。本番もそうですが、楽屋にいるとき、外であってもほかの方やスタッフの方といっしょにいるときもそうです。町を歩いているときは誰も私に用があるわけじゃありませんが、撮影のときは私に用がある人もいますし、話しかけられることは断然多いです」

 「でもほとんど我を忘れている状態なんですよね?」とぼくは尋ねた。

 「そこをコントロールするのがいちばんの課題です。はたから見るかぎりはまったく気配が消えていて、でも同時に私のうちにはちゃんと私がいるというぐあいが欲しいので、その微妙なところをつくるのに苦労しました」

 「では完全に意識がなくなっていて、別の人格が自分の体を動かしているというかんじではない?」

 「そうなんです……もともとは記憶がほとんどないくらいだったので、困ることも多かったんですが、大学を卒業してから、ドラマや劇への出演が増えるにつれて、しだいに私と私でない別者との両立ができるようになってきました」

 そのなかで彼女の実践はいささか過激にもなってきた。当初は単にその消失状態のできをたしかめるために、友人との待ち合わせや撮影のとき、単純に「意識的に無意識になる」というなかば矛盾した行為に挑戦していた。しかししだいに手ごたえを感じると、ただそこに在るということを認知されていないと実感するだけでは飽き足らず、どれだけのことをしても気づかれないままなのか、あるいはどれだけのことをしたらようやく気づかれるのかが気にかかり、その境界を探りはじめた。それでも最初は、いわばその状態の程度を確認するくらいなもので、スタッフに話しかけてみるとか、あえて音を出してみるとかそのくらいだった。

 「話しかけてもしばらく無反応のときがほとんどでした。とくに最近は肩を揺さぶらないと気づかれないくらいになってきたんです。いくら音を出しても誰も反応しなくなったんです。私の姿だけじゃなくって、私の行為とか、私の行為の結果生じるものまで形を失って、誰もが自然と見過ごしてしまうようなものになったんです。だから多少声を出すくらいじゃ誰もわからないし、大きな楽屋に人が集まってるときに室内を走りまわっても誰も何も言わないこともしょっちゅうです」

 それはほとんど超能力と言ってよかった。誰も彼も不思議なほど気がつかず、まるで透明人間の物語を演じるように他者は彼女を無視した。いや、そもそもがまったく認識できていなかった。彼女が極限の集中でもって我が身を虚ろのはざまに落としこむとき、人は彼女を絶対に観測できず、それゆえ彼女の存在はほんとうに揺らいでいた。はなからそんな人は存在しなかったと言えるほどに彼女はあっさりと姿をくらまし、そして消失それ自体にすら気づきようがなかった。彼女が目の前にいるのがわからず、いつまでもいない、いないと探しつづける人もいたという。

 「この境地までたどり着くと、あとはチキンレースというか、どこまでのことをしてもばれないかの挑戦になっちゃうんです。あ、いや、いつもやってるというわけじゃないんですけど。ときどき試してるんです。ケータリングをまるまる取ってみるとか、他人のかばんから財布を取りだしてみるとか、廊下を行き来する人がいる前で男子トイレに入ってみるとか。大御所の方の前を通るときにまったく挨拶せずに通り過ぎてみるとかもやってみました。明らかに私が通ったのはわかってるような状況なのに、まったく気づかれなくて、あとで正式に挨拶に行ったときにもそのことはまったく触れられなかったので、ほんとうに認知されてなかったんだと思いました」

 一度だけもっと大胆なことをしたと彼女は話した。というのは、やはりスタッフも演者も混じっている大きな楽屋で、突然着替えてみたという。もちろんその前に状態のしあがりをたしかめはしたが、彼女は服を一気に脱いで下着だけになってみせた。もしその姿が露見すれば注目や騒動は免れないだろうし、俳優業に傷がついてもおかしくなかった。

 「あのときはほんとうに自分を消すことにこだわってて、行きすぎたことをしてました」と彼女はいささか声の調子を落とす。

 「でも」と彼女は声に熱を戻す。「その域に達してからは、前よりも監督やほかの方から褒められることが増えました。『こんなこと言うと変かもしれなけど、ぜんぜんあなたがそこにいるかんじがしなかった』って。『いい意味で誰が演じてるのかがわからなかった』って。私は自分をコントロールしていながら、完全に私じゃない役柄になりきっていたんです。それを聞いたときの達成感はすごくて。役者とかではない友だちにも、『ごめんだけど、ほんとうに出てた?』って聞かれて。もう一回見返したらちゃんとそこそこ登場する役で出てたので、『なんで気がつかなかったのかわからない』と言われました。願ってたところまで到達したんです」

 たしかにどれだけじっくりドラマを見ていても、どれが彼女なのかわからないときがあった。メイクなどでまったくの別人の相貌になっているからではなく、彼女が「自己喪失」しているからだ。ほんらいの彼女という人間は姿を消し、そこにはただ配役の人格だけが浮きたっていた。

 「だから、今はなかなか集中しづらいから無理かもしれないですけど、がんばれば話の途中で消えちゃうなんてこともできると思ってます。『自分は今まで一人で何をしていたんだろう』って思わせられるかもしれません」

 ですから、仮定の話ですけど、と彼女は声を小さくした。仮にですけど、たとえば街なかで人を思いっきり蹴ったり、店で物を盗んだり、それこそ裸で街を歩いちゃうなんてこともたぶんできると思うんです。それはさすがにやりすぎだとは思いますけど。だから、もっと言えば、人を殺しても、ばれない、みたいな……。そういうこともできますよね、きっと。



 そのときはもうしばらく何ごとか話をして、ぼくは彼女と別れた。半信半疑で聞いていたけれど、小説家の性分もあいまってしんけんに耳を傾けていた。彼女は言ってしまえば気持ちしだいで透明人間になれるのだ。

 ぼくは喫茶店を出て、そこですぐに彼女のうしろ姿を見送りながら、次の瞬間には道端で姿をくらますのではないかと思って、彼女の背中をいつまでも見つめていた。結局は曲がり角を行くまで彼女の姿はそこに在りつづけた。ぼくはたしかに彼女を認識することができた。

 でもそれきりだ。ぼくはもう彼女には会わなかった。それ以降、何度か彼女が出演するドラマを見たけれど、放送されているものを見ても彼女がいたかどうかまるきりわからず、録画を見返してようやく発見した。だがそれはほんの端役だからわからなかったというのではなく、何度もカメラに大映しになってるはずの、一目見て知れるはずの彼女を彼女と知れないということだ。彼女はあのことばどおり、確実に「気配を消し」ていた。彼女が出演すると知らずに見たドラマで、どうも印象的な登場人物がいたなと思って配役を調べると彼女だったということもある。それくらい彼女は溶けこんでいた。

 しかしいくつかのドラマ以降、ぼくは彼女をテレビのなかに見ることはなかった。どのドラマにも彼女は登場していなかった。それは気がつかなかったという意味ではないと思う。芸能雑誌を読んでみたけれど、彼女はそもそも、ある時期を境に役者としての第一線から退いていた。しかしそのことが明確に記事になっていたのではない。あるところから突然、彼女はどのドラマにも演劇にも登場しなくなり、そしてそのことすら明らかになっていないというふうに、彼女と近しかった(らしい)俳優がこれまでどおり出ていた。ただ彼女だけが、夜明けの星のように消えた。最初からいなかったかのように、ただ静かに、ふっと消えて、あとには太陽だとか雲だとか青い空だとかが一帯を埋めた。そうして彼女の残響はすこしもなかった。存在感の余韻がないというのは不気味だった。誰もが、いなくなったことにすら気がつかなかった。ぼくがそれに自覚的になれたのは奇跡だ。

 そういう自己の無意識に意識的になるということを誰もできないし、それこそが彼女の目指していた境地だったから、彼女は永久に世界からいなくなった。水面に浮かぶ泡よりもずっと希薄で、誰の印象にも残らなかった。ぼくがこうして彼女を覚えているのは、くりかえしそのときの会話を思いだし、一度覚えているかぎりをノートに書きだしていたからだ。しかしそれでも、最初はそこに書かれてあるのが自分の単純な創案かもしれないといぶかしく感じてならなかった。ノートを読んで、おぼろながら残存していた記憶と照合しても、別の記憶と自分の創作アイデアとが混ざりあい、まちがった記憶ができあがっているのかもしれないと信じきれなかった。でもずっと昔の芸能雑誌を古書店で見つけてわかった。≪彼女はたしかに存在したのだ≫

 一時期はあれだけテレビに出ていたし、大学時代は天才という立ち位置だった彼女を覚えている人はもうぼく以外いないだろう。そういう意味では、彼女は本意を達成して、完全に自己を消失させてしまったのかもしれない。別の人格で生きているのか、完全な「意識的無意識」に陥って、誰からも知られないまま現在という時空間に生じた割れめのなかに生きているのか。それは誰にもわかりえないけれど、とにかく≪彼女は在った≫とだけ、最後に記しておく。

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