メディタチオン 作:奴

 日曜日とはいえ部活動が再開したせいか大学の食堂は盛況だった。夏の盛りで、日射が熱気をつくった。その季節特有の湿った暑気はそれが一塊の柔らかい重力だというようにぼくの体にのしかかった。うまく歩けないのはこの塊のような暑さのせいだと思った。

 ハーフ・パンツにポロシャツというかっこうの男女混じった一団が並んでいる。みな一様に日に焼けて、肉体は健康的に締まっていた。談笑の声に若い力がにじんでいた。そのことばにまで強い重力が備わっているようで、ぼくはそれに圧せられるようにして、定食レーンにできた列のそばを抜けた。丼レーンや麺料理レーンなら空いているのではと見立てたからであったが、そこにもおそらく同じであろう部活動の一群が列をなしていた。どういうわけか汗のにおいはまるでしなかった。

 「無理だ」とぼくは背後をついてくる女に向いた。「コンビニにする?」

 「やけんゆったじゃん。コンビニも同じやろ」

 もういい、と女は定食レーンに並んだ。食堂の入口に近い側にあるので、列は外まで伸びそうなほどだった。

 ここ数年の新型肺炎のせいで、部活動はまるきり制限されていたのだが、とうとう従来の生活を持続するほうへ転換されたから、流行がそう収まらないうちから、人はかように例年の生活に復した。しかしすでに防疫の意識があるので、行列・人ごみなどは無性に忌避されるのだった。ひとたび変化した認識はいっこう動かず、つまりがもうこの衛生観念は覆りようがなかった。しかるにぼくと彼女とは昼を優先して、テニス部ともバレー部とも何とも知れない人びとの最後尾に列した。何だかあってまるで動かぬ列の後方で、ぼくは女と向かい合って話した。

 「試験とかレポート何個ある?」

 「試験が六つ」と女は数える一瞬間もなく答えた。

 大変だね、とぼくが言うと女は舌打ちしてからあいづちを打った。「うん。で、おまえは?」

 「試験は二つで、レポートは五個ある」

 「へえ、そんだけ。楽でいいね。私、試験全部きついんだけど」

 女は何であれ原因はつねにすでにすぐそばにあるものだというようにぼくを睨み、「どうすんの?」とぼくの落ち度かのごとくいらだつ。履修中止の期間は過ぎていたし、女が進級するために単位は落とせなかった。

 行列がいっこう進まず渋滞していたのは白米不足のせいであった。どうにか新たに調達したとみえて、いささか退屈げだった一団は次々に注文した。女の目は、いい成績を出せるはずもない不得意な分野の講義をとって進級を占わねばならなくなったのは、この部活組のせいかもしれないと気づいたかのように彼らを注意深く観察した。太い眉が寄っていた。マスクの下では唇をとがらせているはずだった。

 「雨も降んないしさあ」女は脈絡もなしにぼくに話した。新しい責任をぼくに課すかのようだった。

 「そのせいか蝉も何もすくない気がするね」

 「蝉はべつに――」女は冷笑した。それからだんだんに語気を強めた。「べつにいいけどさ、虫なんて、いないほうがいいし、私は。けど梅雨のない夏ってなんか嫌じゃない?」

 「たしかにそうかも」

 「ここ数日だけとくべつ暑いだけで、そのうちまた春に戻る気がするもん。まだ夏じゃないみたいな」

 「エアコンつけてないもんね」とぼくは言った。

 すこし間を置いて、「は? おまえが?」女はいくぶん唖然の気味だった。

 「うん」

 「それは――それは、なんで。ばかだね。ばかみたい」

 女はにわかにマスクに閉ざされても目にわかるほどの笑みを浮かべた。

 「だっておまえの部屋、風通しわるいじゃん。三十度とかなるでしょ。それでもエアコンつけないの?」

 「つけないね」

 「へえ、ばかじゃん。きもちわる」女は実にうれしそうだった。

 「環境保全みたいな?」

 「そうでもないけど」とぼくは言った。「ただなんとなくつけてないだけで」

 ぼくたちの手番になって、ぼくはからあげ定食を注文した。女は日替わり定食のAを注文した。



 この女というのは、だいたいがぼくとは学部が違うのだが、一年次のドイツ語の講義で隣り合ったのが契機でときどき落ち合って食事に行く仲になっていた。まず女――松口千春が三回目の講義のあとで、今度出す課題は何があるかとぼくに尋ねた。それからぼくが五回目の講義で彼女から辞書を借りた。その借りを理由に松口千春は昼をおごれと言い、ぼくは応じた。

 松口千春の態度が表向きのものをかなぐり捨てて根本的な癇癪がちの性格にすげ変わったのは、ドイツ語の試験勉強を二時間ほど二人でしたときからだった。講義棟の一角にコミュニティ・スペースがあって、勉強でも、読書でも、ちょっとしたミーティングでも何でもできた。ただ換気がなっておらず、また夏は冷房の利きが悪いのが難点だった。それを知らないぼくたちは辞書やプリントや、売店で買ったサンドイッチを抱えてそこの隅のテーブルに向かい合って座った。松口千春は道中、暑い暑いと言ってそればかりだった。アディダスのスニーカー、それからブルー・ジーンズにベージュのティーシャツというかっこうの彼女は、穏やかな表情をしているかぎりでは潑溂としてきれいだった。

 テーブルについたぼくたちは現在形の変化の確認から入った。ある動詞を例にとり、一方が人称代名詞を言うと、もう一方はそれに合う変化をさせたどうしで答える。ichと来ればliebe、duと来ればliebstと返す、というふうにである。それから教科書で出てきた単語を読み合って、意味は何、つづりはどう、とたがいにたしかめた。ぼくは単語が怪しかったし、松口千春は名詞の格変化が苦手だった。発音だけは二人ともできるのだった。

 だんだんに、その空間が不快ななまぬるさをしていることに気づいた。人はそういなかったが、むやみに広いそのスペースの天井にいくつかある空調機器はまるで風を送っていなかった。ゴウン・ゴウンという音をたててはいた。ただそれだけだった。松口千春はまだわりに静かで、名詞の格変化の表を睨んでいた。額に汗がにじんでいた。サンドイッチを食べるのにマスクをはずすので、彼女の口元は見えていた。はっきり口紅がしてあった。

 ひととおり見なおしが終わると、ぼくたちは教科書の章末問題を解いて、たがいの解答を採点した。それである程度の点数が取れていれば、きっと試験本番も問題ないであろう。

 しかし松口千春は半分もできなかった。

 ぼくがほとんど赤ペンで撥ねられている答案を返すと、松口千春は、クレジット・カードの明細を見てはじめて存外金を使いこんでいると知ったように顔をしかめた。それから身に覚えのない決済がないかたしかめるように問題を一個ずつ見返した。全部彼女が買ったものばかりだ。覚えまちがえで全滅している問題群などもあった。つまりが単に勉強がうまくいっていなかったせいで彼女はこの模擬テストでひどい点数をとったのだ。

 「なんでまちがえたのか、一個いっこ見返して解きなおしたらいい勉強になるよ」

 九割がた正解していたぼくは細かい部分の確認や単語の復習にとり組んだ。彼女のために冷たい飲みものを買ってやった。

 ささいなぼやきはともかく、当初はおおむねおとなしく教科書などに向かい合っていたのだが、松口千春はしだいにいらだちを隠せなくなり、つややかな濃い茶髪をかきむしりだした。最初はかならず柔和でまじめな顔に戻っていた表情は、始終、唇をとがらせ、眉をいっそうきゅっと寄せていた。サンドイッチを食べたきりマスクはつけないままだった。

 ときどきうなり声をつくったり、辞書を開くとき舌打ちしたりの彼女は、ペンを教科書の上に乱暴に置いた。単語表を眺めながら、消しゴムでテーブルをタン・タンとたたいた。それは気楽なくらいの小さな音だったが、格変化を見に戻るたびに激しくなり、すこし離れたテーブルの二、三人がけげんそうに一瞥するほどになった。それでぼくはそれとなし注意した。すると教科書から顔を上げて、「うざ」と言った。松口千春は消しゴムを辞書の壁に投げつけた。

 「暑いんだけど、ここ」

 「エアコンぜんぜんだね」

 「ドイツ語いっちょんわからんしさあ」と語気を強めた。雫の大量についたペットボトルを取って、ぼくの買ったそのソーダを飲んだ。「ああもう手濡れるんだけど」

 ふつうこういうそぶりには、いささか冗談めいたふうがあるものだが、このときの松口千春は本式に怒りをあらわにしていて、すこしもおどけなかった。たいていは多少、笑みをつくってみせるはずだが、彼女は眉をひそめたきり、白い額に横しわを重ねたきり、紅い唇をゆがませたきり、不愉快な気分を隠さなかった。わざとらしく音をたて、敵対的な視線を向けた。いらいらしてしょうがないから何とかしてくれ、ということだった。ただぼくにはうまい方途などなくて、もう自分の勉強も済んだから、とにかく何か話そうと思った。松口千春は脚を組み、よくくしけずられていたはずの髪に右手の爪を立てた。毛髪が五本も十本も、その流れから跳ねあがっていた。ふいに目が合った。

 「なに」と彼女はかすれた声で問うた。

 「ううん、ぜんぜん」

 もう帰るから、と彼女は自分の荷物を乱雑にまとめて胸に抱き、右手にソーダを持ってふいに帰っていった。

 テストはむろん、さんざんだった。

 それから会うたび、松口千春のぼくに対する態度はごく粗雑なものに転じた。はじめは静かで、よくほほえむ印象だった。今や八の字の太眉や、凝然とねめつける目ばかりが思い浮かぶ。しかしなぜだか、その試験勉強を機にぼくたちは仲を深めたらしかった。彼女はもう優しげな笑みなど見せなくなったが、かわりに不満そうな顔とつっけんどんなふるまいが終始あった。心を許せばこそ生来の気質がおのずと出てきたと解釈できた。すると快く感じることすらあった。彼女はつねに何かに対して怒っていて、その原因の一端がぼくにあると言いたげだった。そしてその怒りをいくらか抑えつつ、とはいえその一部をぼくにぶつけているのだった。



 学部が違うという理由は基礎教養を主として受ける一年生のあいだはごく些末なはずだが、とはいえぼくはほかの講義で松口千春の顔を見た記憶が全然なかった。それでドイツ語の試験が終わって、何か生命の尊厳を奪うような劇的な暑さにうんざりして、売店の裏の飲食スペースでアイス・コーヒーを飲んでいるときだった。ぼくは松口千春に前期の履修組みを見せてもらった。彼女のいらだち癖にぼくはこのときまだ慣れていなかった。その濃く冷たいコーヒーを飲んで松口千春は「うもねー」とセンター・パートの髪の下に見える白い額にしわを寄せた。つまりがまずいということなのだが、コーヒーと同じ色の眉毛を八の字にした松口千春は、ぼくがうまそうにコーヒーで涼をとるのに信じられないという顔をした。

 「こげなん飲んでおいしそうな顔するのやめたほうがいいと思うよ」と言った。

 「冷たいから好きなんだ」

 「冷たい、ああ、ね」彼女はへらへらした。「そうだね。うん、冷たいね」

 松口千春の子どもを見るような憐愍の目はぼくにすぐわかった。

 しかし本当に暑かった。暑気が体の内側まで浸透してぐらぐら煮たたせるような暑さだった。アイス・コーヒーでいくぶん汗は引いたけれど、それだけだった。

 ぼくはスマートフォンで日課表を見せてもらった。一つひとつ見ていくと、うまいぐあいにぼくが履修しなかった講義ばかりだった。そのなかには法学部の専門講義がいくつかあった。

 「後期もドイツ語とんなきゃいけないの嫌なんだけど」

 それはぼくに強制されて履修するのだという口ぶりだった。

 「五単位だよね。あと四つ」

 「てかなんで二年生になっても二外やんの?」

 さあ、と頭を振ると、松口千春はため息をついた。プラスチックのカップの底に残ったコーヒーを彼女は飲もうともしなかった。

 「まあさあ、どうせどれとっても大してできないんだろうけどさ。そもそも法学部にドイツ語いる?」

 「ワイマール憲法とか研究するならいるのかも」とぼくは言った。

 「やんないし。就職します、ふつうに」

 ぼくがカップに残った氷を食べているのに、松口千春は鼻で笑った。

 「なんか、下品」

 彼女はテーブルに肘をついて手を合わせていた。勉強会のときとは違って、彼女はそのとき、ほんのり柄の入った黒いロング・プリーツ・スカートに、七分丈でいささかサイズの大きい白いティーシャツを着ていた。だからして脚は組まれずにスカートのなかでぴったりそろえられていた。やはり前髪をまんなかで分けているので、でこも眉もよく見えた。

 松口千春はおりおり爪を点検した。そうして次にぼくを見た。それから背筋を伸ばし、こころもち顔を後ろにそらして無理に見下ろすようなかっこうをつくると、「後期、何かいっしょのやつとろっか」なぜだか得意げだった。

 「何か文系科目?」

 「それは何でもいいけど」と松口千春は言った。「ドイツ語みたいにさ、レポートでも試験でも助けあえるやつあったらいいじゃん。過去問みたいなのもらったら共有したりさ」

 それゆえ、ぼくたちのやりとりはドイツ語という媒介なしに持続した。一年後期の履修組みのさい、この話を端緒にして、二人で文化人類学入門と政治経済史入門をとった。前者はレポートが、後者は試験があった。ぼくたちはその試験の勉強をまた二人でやった。

 とはいえ、彼女のほうは政治経済史入門を履修している友人を見つけたらしい。ぼくが寝坊して、遅れて講義室に入ると、松口千春はその友人と中央あたりの席にいた。ぼくは体をかがめながら後方の席についた。講義中、まじめにノートをとっていた二人は、講義が終わると、すぐにはそこを出ず、ざわめきのなかでしばらく何か話していた。そのときの松口千春は、ぼくに対するのとは違って、ずいぶん笑顔を見せていた。しかしぼくはそれに虚しさを感じるのでもなく、彼女の友人に妬ましく思うのでもなかった。彼女がぼくに以前のような優しい顔を向けてくれないことは、ぼくのためにはとりたてたことではなかった。つまりが彼女の笑顔は実のところ、ぼくにはどうでもよかった。しかし、これも確実だが、ぼくは彼女の横柄というか不機嫌を潜めもしない態度を好いている心持もなかった。彼女が腹を立てて筆記具などをぞんざいに扱ったとき、ぼくはたしかに不愉快に感じていた。当初のやりとりで彼女がほほえんでくれたとき、ぼくはやはりたしかによい印象を覚えた。しかるにかようの事情があるにせよ、ぼくは自身を前にした松口千春から笑顔が絶え、かわりにいらだった表情ばかりになったのには不満がなかった。

 松口千春は、すくなくとも試験勉強はぼくとした。彼女は寮に住んでいて、寮内へ部外者が入ることはできなかったので、ぼくの住んでいたアパートメントの一階の談話室で、試験で問われそうな問題を出しあった。もとより法学部であるだけ、松口千春のほうが興味関心も知識も持ちあわせていた。井上準之助の経済方面の手腕や、その後の血盟団事件までの過程、独占禁止法と入札談合の実情など、ずいぶん詳しく知っていた。対してぼくは暗記が苦手でなかなか体系的に理解できなかった。井上日召と北一輝と大川周明をまぜこぜに覚えて直らなかったし、カルテルとトラストとコンツェルンの違いはまるで把握できなかった。それで松口千春はまたにやにやと口元に笑みを含ませながら、背筋を立てて胸を張り、頭をそらし、見下ろすような姿勢をした。

 「ぜんぜんできないね。難しい?」

 松口千春は誇るような顔のまま、くり返し解説してくれた。彼女からすれば試験ははなから恐れるものではなかったようだった。

 一年生はこのようにして過ぎた。ぼくと松口千春とは講義によって巡り会い、講義によって交友を保っていた。

 後期のドイツ語はずいぶん骨だった。前期でもひどい成績ながらどうにか単位だけはとったという松口千春は、後期はなおのこと苦しみ、二人で勉強しながらとうとう意気消沈した。それでそのときはじめて、ぼくを「おまえ」と呼んだ。それまで「ねえ」とか「藤坂くん」とか呼んでいたところにこう呼ばれたのでぼくはさすがに驚きあきれた。

 「おまえは結局できるじゃん、ドイツ語。文法とかもできて、和文独訳も独文和訳もどっちもできるし。私はできらんのやけん困っちょるんよ。ほんと落単したらどげえしよ……」

 ぼくは慰めかたというものを知らなかった。そのときもぼくの住まうアパートメントの談話室を使っていた。松口千春はテーブルに突っ伏して、靴底で床をタンタンたたいた。

 「どうすん。おまえがどげえかしてよ」と彼女はふだんになく弱々しい声を漏らした。

 ぼくはなかば驚いて、またなかばいらだって呆然としていた。それで思わず松口千春と四、五秒ばかり視線を合わせたまま沈黙した。そのころはもう二月のもっとも寒い時分だったが、まさに風のない乾いた冬のようにぼくらは黙していた。彼女の唇はただ結ばれていたところからだんだんに従来のごとくとがった。ただ眉は平たく沈んでいた。

 「今日はもうここまでにしておこう」とぼくはようやく口を開いた。「根詰めてもしょうがないし、すこしずつやればきっとどうにかなるよ」

 松口千春は舌打ちした。眉間にしわができた。

 講義のあとや試験期間のほかでは彼女にまるきり会わなかったので、一年生のあいだの松口千春にかんする記憶はみな、ドイツ語だの戦後日本経済だの部族間交易だのの味がした。春休みに彼女を思い返すたび、ぼくはよく単位を一つも落とさずにやり過ごしたものと感嘆した。彼女にそのあたりの事情を尋ねるのは忍びなくて、こちらから聞かないことにしていたが、三月のはじめにドイツ語の成績が出てすぐ、松口千春は次のようなメッセージを送ってきた(ぼくたちはあるときすでに連絡先を交換していた)。

 「ドイツ語Cだった

  進級条件的にほんとに落とせなかったから助かった

  勉強つきあってくれてありがとう

  来年度のドイツ語もよろしくお願いします」

 単位がとれてよかった、こちらこそよろしく、とぼくは返信した。



 しかしぼくは不機嫌な女性というものを母親以外では知らなかったので、松口千春という人は新鮮でかつ扱いがたい存在とぼくの目に映じた。高校時代までに、相手を怒らせるほど顔を突き合わせて話す女性は、というよりそうした友人は、一人もなかったように思う。ぼくは途方に暮れて、彼女を見た。

 別に同じサークルに入っていたのでもないから、ぼくたちのあいだに二人でどこかへ遊びに行く義理はなかった。ただ講義と試験勉強とによってとりもたれてある仲だった。だからして長期休みとなれば疎遠になり、メッセージのやりとりもなかった。新年の挨拶も交わされなかった。

 年が明けてまたドイツ語の講義などで顔を合わせると、松口千春はもとのとおりにふるまった。一人でいるときにはごく平々としているが、ぼくを見るとじきに慊い顔になった。ぼくはその表情にかえって安心感を覚えた。自分が優位になったと感じるほかでは松口千春はまるで笑みを見せず、浮かない顔でぼくと話をした。そこに不安の観はない。ただ凪いでいた。何か忍びがたい辛苦のせいでそうした表情になるというのでなしに、彼女は本来的にすこし悲哀を帯びているのだろう。おりおり、講義後に昼を食べに二人で食堂へ行った。横並びに席に座って、ぽつぽつ話した。だいたいがたがい沈黙していたが、すくなくとも彼女はそれを嫌がるふうではなかった。彼女は同じ顔で白米を食べ、汁をすすった。

 ぼくは松口千春との間合いを測りかねたまま、とうとう食堂へ行くだけの仲になった。ふだんの会話など講義にかんすることばかりで、ときおりぼくから故郷の話など口にすることもあるが、彼女はだから何だというふうにことばすくなになった。それに彼女も自分の身辺的な話はいっこう打ち明けたがらなかった。したがってぼくたちには世間的な話は持ち上がらず、講義のことをいくらか話せばじきにことばは交わされなくなった。だからしてぼくは松口千春を、勉強や食事をともにするより深くは通じ合えぬものと解していた。それに決してつねづね感染防止の間仕切りに面して横並びになるわけでなくて、彼女は講義が終わると友人のほうへはや駆け寄って睦まじげに話すこともあるのだから、月に一度か二度という機会だった。ぼくは「おまえ、ごはんは?」と講義終わりに誘われるのをいくぶんか心待ちにしていた。たいていは何もなく別れるのだが。

 そういうわけだから、二年生の夏(ぼくたちの微妙な関係はつづいていた)ミスター・ドーナツに行って限定品を食べないかと誘われたときには、どうも理由がもうひとつわからなかった。そういった用事は、すくなくとも講義をいっしょに受けたりおりおり昼ごはんを二人で食べるだけの間柄の人とよりは、むしろ講義のあとで一段高い声色で矢継ぎばやに会話するたぐいの同性の友人と行くべきだからだ。そのようすを写真で撮ってSNSに投稿すれば、ひとつの文脈にもなるし生活にもなる。

 松口千春は講義が終わってすぐに、横に座っているぼくへこの話をした。ドーナツ食べ行かん、と。

 「いいけど」とぼくは言った。「ほかにだれかいないの?」

 「いないけど。なに、いいじゃん別に」

 彼女は今にも椅子を蹴って声を荒げそうに見えた。そのわずかな間に、彼女は「は?」と怒りをあらわにした。

 「いいよ。行こう。いつにするの?」

 「平日だと思うけど。おまえ午前休のときないの?」

 「水曜日なら空いてる」

 「水曜日?」松口千春はこの「水曜日」というぼくの返事にすら不満げに反応した。「じゃあ水曜日。開店してすぐ行くから」

 


 午前十時に甘いドーナツを食べるのはまるでない経験だったから、いったい何であろうとぼくは松口千春を待った。船ケ島のイオンはちょうどぼくの家と彼女の住む寮とのあいだほどにあった。

 開店待ちの群れがあって、噂話をしていた。近所の老人連は何々さんのところの娘さんが離婚してこっちに戻ってきたのだとか、何々さんはどうも老人ホームに入ったらしくて見かけなくなったなど話す。大学生が一人でイオンの開店を待つのはずいぶんおかしいことに思えて、ぼくは近くの公園で松口千春を待った。

 そのころの彼女は前に比べれば多少楽なかっこうを選んでした。その日もぴっちりした黒いトラック・パンツに、家紋みたいな柄が胸にプリントされた白いティーシャツというかっこうで、厚底のダッド・スニーカーや黒いキャップをしていた。一年次からすればまったく違う印象を与えた。その姿態であいかわらず眉をひそめ、聞き返すときには「は? なに」と言うのだから、ぼくはよけい彼女を怒らせているのだと不安に思った。けれどもそれが尋常の松口千春だった。

 「くそ暑いんだけど」キャップと黒いマスクのあいだに見える目はふだんより鋭く見えた。松口千春はマスクをはずして、手で顔を仰いだ。当初、髪は肩にかかるかどうかというくらいだったが、今ではさらに長くなっていた。しかし髪の話をするほどぼくらは親しくなかった。ぼくの理解としてはそうだった。

 大学生はみな一遍は行くという船ケ島イオンに二人で向かった。

 「荷物それだけ?」とぼくは言った。彼女は肩からサコッシュをかけているだけだった。

 松口千春は応じた。マスクの上に鼻が出ていた。「法学部はさ、なんか一人ひとりロッカーが割り当てられるんだよね。小さいやつ」

 「六法入れみたいな?」

 「やと思うよ、あんなの持ち運べんし。そこに荷物置いてるけん、こんまま大学行くわ」

 ぼくらは公園を出て、ちょっとした住宅街の太い道路を横切った。往来はまるでなかった。もう通勤通学の時間でなかったし、犬の散歩などももうすこし早い時間にするのがふつうだった。イオンに向かう通りは車通りが多かった。

 「三限なにあんの」と彼女は言った。

 「芸術文化論入門」

 「あれしんけん楽やっち聞いたけど、ほんと?」

 「うん。出席と、講義で出てきた絵に対する感想だけ」

 「ふうん。まあ私は行政法あるけど」

 開店待ちの老人たちは倍くらいに増えていた。

 「二年生からもう専門の講義みたいなの本格的にあるんだね」

 「うん。おまえは? ないのなんか」

 「あるっていうか、もう研究室に入ったからね」

 「研究室? なんかよだきそう」

 そうでもない、とぼくは言った。

 イオンが開くのと同時にミスター・ドーナツも開店するので、ぼくたちは大股で向かった。食料品売り場はぼくらのためにつくられた虚構のように人がいなかった。商品だけが平生のとおり陳列されてあった。専門店はまだ開店していず、暗かった。そうしたもののあいだを通り抜けて、ぼくと松口千春は足早にドーナツを食べに向かった。彼女の脚はずいぶん長く見えた。

 「ああもう遠いんだけどミスド」と彼女はうなった。

 開店と同時に入ったおかげで、松口千春が食べたがっていたものはまるで手つかずだった。ぼくたちがその日最初の客だった。

 松口千春は三種類ある限定品を一つずつ買った。「二人で半分こするから」

 ぼくたちは奥まった壁際の席で差し向いに座った。

 夏の限定品というのはチョコレート仕立てのものばかりだった。一つはチョコレート生地の上に二種類のチョコレート・ソースがかけられその上にナッツがまぶされていた。一つはチョコレート生地のオールドファッション・ドーナツにストロベリー・ソースがかかっているものだった。松口千春はこの二つをそれぞれ半分に割り、ぼくにくれた。そのストロベリー・ソースが何かの拍子に溶け出たかのように爪は桃色に透けてきれいだった。もう一つは上下に分かれている四角なコーヒー混じりのクッキー生地のあいだにチョコレート・ムースがはさまってあるもので、これはちょっとドーナツというよりケーキじみていた。これをうまく分けるのはずいぶん骨折りの作業だった。

 「これおまえできる?」松口千春はその方形のドーナツを空にかざして眺めまわしながらぼくに問うた。

 彼女に渡されて、ぼくも同じようにドーナツの上下左右を見回してみた。とうていきれいなかたちで等分できる代物ではなかった。

 「食べたかったんじゃないの? 一人で食べなよ」ぼくが言うと、松口千春は「ああ、まあ、そっか」とぼくの手から小さなケーキと言うべきものを取り、すぐに食べた。それから彼女は黙って口いっぱいに頬張るので、ぼくも彼女に分け与えられたものを食べた。

 ぼくらのあいだに会話はまるで起こらず、何より開店したばかりの平日とあって客はまるでいなかった。平日の午前に大学生二人が朝食代わりのドーナツを分けあうとはどういうことだろう。ぼくは口の渇きを覚えて、いっしょに注文したアイス・コーヒーを飲んだ。たしかに売店のコーヒーはそううまいものでもないのかもしれない。松口千春はアイス・ティーを選んでいた。

 「おいしいね」ぼくが言った。

 すると松口千春はぴたりと咀嚼を止めてぼくを見た。水のなかに砂糖が溶けてゆくのを待つように、ぼくのことばが結局のところ何を言い表したいか探るふうだった。何だか果てしなく長い時間が過ぎたようでもあったが、眠り・目覚めたように次の瞬間に彼女は「ああ、うん」とけげんな目で返事した。それが何の話題になるのだという顔だった。

 「だからなに?」と彼女は言った。あとは死ぬだけだというような柔らかいささやき声だった。

 「なんでもない」とぼくは言った。「ただ今まで限定品なんて食べたことなかったから」

 それから松口千春はおりおりぼくの挙動をねめつけ観察した。それきりぼくはまた黙った。だからしてぼくは彼女が口を開くまでなるたけ彼女から目をそらしていた。窓際の席をまたいで見える広い駐車場には白い太陽光線が渡り、その隙間のない明るさに夏の暑さが感じられた。外へ出ようという気にはなれなかった。

 「ねえ」と松口千春がぼくを呼んだ。「おまえって何かサークルに入ってるの?」

 それが何かぼくの決定的な過失に踏み入るような言いぶりだったので、ぼくは淀みよどみ答えた。

 「文芸部? っちことは小説とか書くん?」

 「うん。書いてはいる」

 「ふうん。小説かあ」

 ぼくが文芸部に所属して、小説を書いていることに、彼女がいくぶん興味を持ったのはぼくには意想外だった。彼女の声色はたしかにふだんよりいくらか弾んでいたし、すくなくともぼくの前では、興味のないことに対してそういう種類の装いをするたちの人ではなかった。彼女がそこに特別の感興を抱いたのはまちがいなかった。とはいえなぜかはそのとき知れなかった。

 「小説ってなに、どういうの書くの」

 「純文学っぽいもの」そういう理由からぼくは当惑の気味でことばを返した。

 「純文学――」松口千春はアイス・ティーに口をつけた。「へえ、なんか古風なやつ? 文豪っていうか」

 だいたいそうだ、とぼくは言った。そういうつもりで書いている。

 「おまえのやつどっかで見れたりしないの。やっぱり部誌みたいなのつくるわけ?」と彼女は詰問かげんに言った。

 「今こういう時世だから、ネットでも公開するようになったよ」

 「ああじゃあ、調べたら出てくるんだ」

 ぼくはうなずいた。調べてみよ、と言って、松口千春は最後のドーナツ(オールドファッション)を食べはじめた。ぼくはもう食べ終えていた。

 「いやあでもあってよかった。やっぱおいしいわ」と彼女は言った。

 それでぼくらは店をあとにした。まだ人がまばらなイオンのなかを抜けた。食料品売り場で飲みものを買ってから大学行のバスが来る停車場に向かった。

 「このあと講義に出ないけんの?」ぼくに無理強いされているかのようだった。

 「暑いのが嫌だね」

 舌打ちして、「は? わかってんだから言わんでよ、そういうの」

 停車場は光を遮ってはいたが、ぼくらは結局熱気に呑まれてずいぶん不快だった。涼しかった店内から出てきてしばらくは問題なかったが、しだいに汗をかいた。日はいっさいを貫いて地の底まで照らすようにまぶしかった。停車場の屋根の下でもぼくらは目がくらむようだった。舌にわずかあるドーナツの余韻はもう乾こうとしていたし、胃の腑からおりおり昇る甘いにおいはわずらわしかった。松口千春はだんだんに不愉快げな態度を見せだした。マスクの上部をつまんで口もとをすこし見せていた。

 「ねえハンディ・ファンみたいなの持ってないの?」

 「持ってない」

 持ってくるよう頼まれていたものをぼくが忘れたのだというふうに彼女はいらだった。また舌打ちした。「ふざけんなよほんと……」

 バスのなかはずいぶん涼しかった。そのせいでかえって体が冷えるようでもあった。松口千春は白い腕をさすっていた。

 その時分は午後の講義に出る学生がもう大学に向かうころで、バスはおおかた席が埋まるくらいだった。ぼくは松口千春と並んで座っていた。彼女は通路側に座ったが、じきに目を閉じ、その狭いなかに足を組んで、身を縮こませた。腕は抱えているというかんじだった。バスはそのうち走りだした。

 そのころ車内というのは容易に会話ができる場所ではなくなっていた。もとより電車だのバスだの車内はなるたけ静かにしておくのが穏当といえばそうだが、にしても狭い空間で顔を突き合せて話すのははばかられた。何にせよ彼女は目をつむっていたし、ぼくは景色を見ていた。バスは町なかを通って大通りに出ると、まっすぐ大学へ向かった。だんだんに高い建物がなくなり、田畑が増えてくる。それまでしばらく剥き出しの大地が広がっていたが、夏もすこし経って稲の植えつけが済んでいたから、大学周辺は青々していた。バスは田んぼのあいだの一条の道を走った。

 「ねえ」松口千春はごく小さな声でぼくを呼んだ。「小説書いてるんだよね」

 ぼくは正面を向いたままで肯った。

 それからいっとき沈黙があった。

 「私も詩書いてるんだよね」ふと見やるととうに目を開けていた。

 しかしぼくはそれきりどう言うべきか探りかねて、ぜんぜん返事できなかった。松口千春はまずもって自己にかんする諸事を穿鑿されたくない人である。ぼくはいまだ彼女の出身も身長もきょうだいの数も何も知らなかった。彼女は自己を開示することを極度に嫌っていた。だからしてぼくが彼女に何か個人的なことがらについて尋ねたことはただ一度きりだ――それが具体的に何の話だったかちょっとはっきりしないが。松口千春はぼくの質問にふだんにない嫌悪のふうを見せた。いや、ふだんからたしかに眉を八の字に曲げていたのだが、そのときは平生の不平顔にない明瞭な意思がこもっていた。「なんでそれ教えんといけんの?」と低く小さい声で鋭く問うたので、ぼくはすなおに謝るほかなかった。その日の彼女はそれきり始終不機嫌で、ぼくの挙動に逐一文句を言った。

 そういうわけで、松口千春からかように自己の身辺を打ち明けられるのはぜんぜん予期しないことで、それゆえぼくは応対のしかたをまるきり選びえなかった。まず沈黙した。「そうなんだ」と何か無難じみた返事をするのは彼女をよけいに怒らせると心得ていたから。

 それで「どういうときに思いつくの?」と尋ねてから、これも結局彼女の個人的深奥の淵に立つことになると気づいた。だが彼女はバスのなかだからというのでなしに穏和だった。

 んん、と松口千春は考えながらにまた腕をさすり上体を起こした。「ほんとに、ふとしたときやけん、ごはんつくってるときもあるし、お風呂入ってるときもあるし、寝る前にぼんやりしてるときもそう。あとはいらいらしてるときとか」

 彼女はそれをささやきかげんにぼくに教えてくれた。ぼくはそこに何か官能的な響きを感じないではいられなかった。彼女はみずから自分の心的内奥の横壁を照らしたのだった。ぼくは手をあて、質感を知り、壁の暗く見えないつづきを想像することができた。

 彼女はそのときぼくのほうを凝然と見ていた。それでぼくも見返して、黙したまま目線が重なるばかりの時間がバスのエンジンの音の波間につづいた。ぼくらの顔のあいだにはほとんど距離がなかった。すくなくともふだんのぼくらには経験のない間合いだった。

 耐えかねて、正面に向きなおって、「お昼どうするの」とぼくは言った。

 松口千春はいっとき固まっていた。「は?」と目をうち開いて、「さっき食べたじゃん」

 「ドーナツ?」

 「うん。――は? まだ食べるの?」

 ぼくは実質的に一つ分しか食べていないからと答えても、彼女はそれほど納得しなかった。



 しかしぼくと松口千春とはおりおり出かける仲にすり替わったし、創作をしているという点でぼくらは一個の共通点を得た。

 あるときに彼女は突然数編の詩を送ってきた。ぼくのインターネット公開された小説を読んだからだと彼女は説明した。そういうものかと思った。彼女はいくつかに分かれたメッセージでぼくの小説の感想を言った。当人の印象と文面とはいささか乖離するようだと言った。だとしたら私の書いたものからも何かしら違った印象を受けるかもしれない。とはいえ私が書いたことにはまちがいない。

 松口千春の詩はたしかにいくらか彼女の印象を新しくするところがあったが、おおむね彼女の雰囲気が残されていた。それはどうも彼女の心的空間の一室に案内されたようだった。ここが私の部屋だと招き入れられて入口から見回したぐあいに、ぼくは彼女の一部分を把握した。彼女の慊い顔つきは根がそうできているからかもしれなかった。つまりが彼女はほんとうにあらゆることが慊なくてそういう表情をしているみたいだった。彼女の詩には濃やかな怒りや嘆きが塗抹されてあった。ぼくはその三、四編を読んで、それがあまりに肉薄なせいで、彼女の血を飲んでいるように思った。

 ぼくも感想を送った。松口千春流に言えば「読んだから」だが、どういうことばをもってすればいいか考えあぐねた。それでこう書いた。「たしかにぼくの書いたものには実際のぼくの感じが見出せないかもしれない。でもそういう感想をもらったのははじめてだ。とはいえ、正直なところ、感想をもらうこと自体めったにないから、すなおにうれしい。反対に松口さん(とぼくはつねづね彼女を呼んでいた)の詩には、どこか松口さんの影のようなものを感じる」。内容については何とも言わなかった。詩の評価法がわからないのも一つだった。

 松口千春は「ありがとう」とじきに返信した。ほんとうはだれかに見せるつもりなんてなかったけど。

 彼女はメッセージの上ではずいぶん穏やかだった。ふだんなら激した調子で何ごとかを口走るところでも、実に柔和なことばを使った。だからぼくたちは、面と向かうよりメッセージ上でうまくやっていたように思う。彼女は、約束を取り交わしたさいには落ち合う時刻や場所やその日の予定などをずいぶん詳しく書いて送ってきた。いっさい終わって自宅に戻ったころ、松口千春は「今日はありがとう」と送ることがあった。その律儀な部分も含めて松口千春であろう。顔を合わせて話すときの癇癪ぎみの口ぶりも彼女の実際であれば、文面に去来する優しげな部分も彼女の本質だ。ぼくは松口千春の二面とそれぞれ交信していることになる。

 しかし仮にそうだとしても、つまりぼくが彼女の内部に導かれ、いくらか精神的諸部分を理解することができたにせよ、ぼくはまだ彼女を杳として知れない人間のように見ていた。爾来彼女はいくぶんかぼくに自己を打ち明ける機会があり、そのたびぼくは喜ばしく思ったし、そのたびぼくたちは睦まじくなったようだったが、しかしなおおぼろな像だけがぼくに残されてあった。

 二年生という時期はぼくたちがじりじりと距離を縮めてゆくのに消費されていった。ぼくたちは繁く会うようになった。たがい気になっている食事処を見つけては二人で試しに行きもした。できたばかりの中華料理屋とか、路地の奥まったところにあるカレー屋だとか、営業しているかも怪しいラーメン屋だとか。それからぼくたちは映画を見に行ったり、どちらかの買い物につきあったりした。今日の晩に何をつくったらいいだろうとスーパーマーケットの棚の前でいっとき立ちつくしもした。ぼくはその荷物を半分持って彼女の家まで運んでやった。それではじめて彼女の寮の前まで行った。

 そういううちにぼくは彼女の呼びかたを「松口さん」から「千春」に変えることになった。「別に千春でも何でもいいよ」と彼女は言った。それが書店で彼女に薦められて蜂飼耳や井戸川射子の詩集を手に書架に向っているときだったので、最初ぼくは何の話かわからなかった。珍しくぼくは聞き返した。

 「いや、だから」と松口千春は舌打ちした。「呼びかた。いつまでも松口さんじゃなくっていいって。千春でいいから」

 そのなかば強引な頼みをきっかけにぼくは彼女を千春と呼びだした。



 だとすれば彼女を千春と呼ぶ習慣がついてから半年になるかどうかである。ぼくらはもう三年生の夏を迎え、就職だの進学だの考える時期にさしかかっている。いや、気の早い人間は一年生の夏からもう何かしら取り組むというから、いまだ何の考えも持たないぼく(と松口千春)はかえって遅いほうかもしれない。

 三年生にもなればもはやそろって同じ講義を受けるなどほとんどないのだが、それにしてもぼくたちの関係はつづいた。ぼくらはどちらにしても酒を嗜むタイプでなかったから、居酒屋であれ自宅であれ飲み会のようなものはぜんぜんしなかった。だいたい家に上がる経験もまるで持たなかった。彼女はあいかわらず寮に住んでいて、もとよりぼくは入りようもないのもあるが、彼女にしたってだいたいが一人の時間を好んだ。

 創作にまつわる話をおりおりするようにぼくらの関係は変じた。松口千春は詩を書くたびにぼくにメッセージで送り、感想を求めた。ぼくはできるかぎり一言付してみようと試みた。だが詩の鑑賞はぼくの知るところでないし、怨念を煎じ詰めたような文字列は情趣を催すよりも共感を誘うものであった。彼女の抒情に心を沿わせ、彼女の脈のとおり自分の心臓を動かした。それは松口千春の詩のうえでのことばづかいをすれば「ぼくを彼女に重ねる」となり「位相をあわせて増幅する」となるだろうが、つまりが彼女のつくるリズムにしたがいわが身を揺らすのだ。すると松口千春はぼくが想像する以上にずっと精神的な動揺の多い人だと判じられた。彼女のつくる詩はいずれにしても不安や怒りや失望があった。羨望や劣等感にまみれていた。それだけ一編ずつものしてゆくときには、かならずさらなる重荷を背負うはずだった。心情をかたちにするほど自己に直面することになるのだから、よけいに不安定になっておかしくなかった。ぼくは彼女の詩を読み、彼女のつくる流れに身を任せると、実際に体を激しく動かしたかのような息切れの感覚を持った。心臓が痛んだ。

 いくらか彼女の核のような部分に触れてあるのかもわからないとぼくは思った。彼女の詩を読んでいくたび、彼女の心的内奥にある部屋を一つひとつ見てまわっているのだった。ぼくはしだいに彼女の構造を理解した。いぜん個人的な話はいっこう打ち明けないけれど、ぼくには何か彼女の決定的な部分を手にしたという感触があった。けれどもそれは二人の仲がいっそう深まり、ちょっとした結束が生まれたというだけのもので、ぼくらの関係が特別なものに昇華したとはいえなかった。ぼくたちはよい友人だった。すくなくともぼくはそう思う。

 ぼくと松口千春は夏の長期休暇に大学で顔を合わせた。彼女は長い帰省でしばらくこちらに戻らないから、その前に一度食事にでも行こうとなったのだ。彼女はその旨を帰省の二日前になって連絡してきた。ぼくはちょうど大学にいた。あるレポートを終わらせて、大学構内にある提出箱へ提出しに来ていた。

 「今大学にいる」と電話向こうの松口千春にぼくは言った。「すぐになら学食だけど、でも夜のほうがいいかな」

 ぼくは以前に二人で行った古い定食屋を案に挙げたが、彼女は夜に外に出たくないと言った。「でもそっか。休みの日でも部活の人で多いんだっけ?」

 「どうだろう。だいじょうぶだと思うけど」とぼくは言った。

 それで結局、ぼくはそのまま大学で彼女を待ち、二人で食堂に向かった。すると彼女が危ぶむとおりに混んでいたので、彼女はぼくに不平を言い、あの慊い顔をしたのだった。

 この表情をあと一年半は見るのだろう。ぼくはそうなるよう願っている。

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