ダークアフターダーク 作:マドモアゼルまさゆき

 そのとき塾長は部屋の隅でスクワットをしており、僕は彼の逞しく躍動する二つの肩をぼんやり見つめていた。禿げた白髪の老人は、両手に握り混んだ、パンをこねる棒をちょっとだけ伸ばしたような棒を首の後ろにあてがって、腰を上下にくねらせている。

 ふん、ふん、ふん。

 ふん、ふん、ふん。

 自習室では塾長の鼻息が規則正しいビートを刻んでいるだけで、他の物音は一切ない。強いて言うならさきほどまで、僕の鉛筆がかりかりかりかりノートの上を走っていたのだけど、今はぴたりと手が止まっている。

 塾長の赤黒い横顔をぼんやり見ていると、そのチンチラみたいな目がメガネ越しに僕を見た。彼はゴリラの顔を万力で潰したようなな精悍な強面を所有しているのだが目だけは異様に可愛らしかった。

「ちゃんとやれ」

 彼は、僕の手が疲れた老人のようにノートの上でたち止まってるのをみてそういった。塾長の言葉遣いは、いつも全体的に乱暴だったが、声色は微妙なユーモアを孕んでいて、こっちを妙に気の抜けた気分にさせた。

「あ、はい」

「ふんふんふん」

「でも、塾長。視界のすみで動くのが気になるんですよ」

 僕が文句を言うと、塾長は「え?」と聞き返した。

「なんか、すみっこでものがぺこぺこしてるのって気になりませんか? 僕だけ?」

「お前だけだろ」と塾長。塾長は二つの机の間に手をついて、腕の力で体を浮き沈みさせた。次の種目は懸垂らしい。

 自習室には塾長が使用しているもの以外にも空の机がやまほどあった。というか、僕が座っている席以外すべてもぬけの殻だった。机と机の隙間の数を僕は数えた。30人弱のアスリートがこの部屋で一斉に懸垂することが可能っぽい。僕は周りを見回して塾長に尋ねた。

「なんでこんなに少ないんですかね、塾生」

「みんな部活をやってるんだろ。逆にこの時間にお前がいるのが、俺には不思議だ」

「帰宅部ですもの」

 自慢にならないことを自慢げに言うときの侘しさったらない。塾長の目が悪ふざけを思い付いた子どもの目になったのに僕は気づいた。

「じゃなくてよ。友達と遊んだりしないのか。友達と」

 僕は不意に憂うつになった。口を閉ざした僕を見た塾長は、わざとらしく、「やや、しまった」と言う顔をした。この人は、時折こうしてたちがわるい。たちわろし。

「すまん、配慮が足りていなかったな」

「友達いないんですよ」

「かわいそうにな」

「どうやったら友達ってできるんですかね」

「さーな」

「やっぱり会話、会話が大事なんですかね。だってしゃべらないことには友達にはなれないからでも僕緊張すると壊れたタイプライターみたいになるんですよ、言葉が出てこないんです選びがたいんです。でもしゃべれないと友達できないし、どうしたらいいんですかね」

 僕は常日頃熱心に取り組んでいる議題を取り上げた。塾長は、俺に聞くなや、とだけ言って、カップに入ったコーヒーを飲み下した。

「俺はそんなつまらないことは教えられん」

「なんで。塾長も友達いたことないからですか?」

「俺はお前の相談相手にはならん。学校の先生じゃないからな。そういうことは進路指導の先生とか、保健室の先生とか、そういうやつにきけ」

 塾長は塾講教師と学校教師について、謎の棲み分けを心がけているらしかった。

「でも、僕の先生であることに変わりないじゃないんですか」

「俺とお前をつないでいるのは、月に俺の口座に振り込まれる五万円だけだ」

 勘違いしないでよね、と言うと、塾長は僕のリュックから覗く「绫鹰」のボトルを引っ張り出して、「水出し」とか「玉露」とか良さげな言葉を信用するなという話を始め、しまいには、この科学世紀に蔓延している「天然」というポジティブワードの恐ろしさについて語り出したのだった。いロはすの出どころだとか、天然由来の成分のいかがわしさについて、日がくれかけるまで、滔々としゃべった。僕は彼の口がパクパクうごくのをじっと見ていた。


 僕の口は常日頃からからに乾いている。

 それは単に水分補給を怠っているからという理由に加えて僕が生活のなかでほとんど会話を嗜まないためだった。僕の所有する発声器官は、朝ベッドの上で「ふわわあ」と欠伸の残滓のために使用され、家族との最低限の挨拶に用いられ、それから健康観察のかすれた「はい」のために使用される。その他の時間は、存分に休養を与えてやっている。

 しかし、塾にいるとき、塾長と話すとき、僕の口は達者に動いた。あの空間に身を浸すときに限っては、むやみに喉から言葉という言葉が競り上がってくるのだ。その言葉たちは家庭生活や学校生活で溜まりに溜まった怨念ともいうべきものだった。僕が垂れ流しにする低質な情報を、塾長は八割方聞き流して、のこり二割の言葉に関してはその尻を捕まえて自分のやりたい議論に持っていった。塾長と僕とでは人並みの会話は成立しなかった。お互い、意志すらもやりとりすることはなかった。しかし、僕にとっては少なくともそれでよかった。それでこそよかったのだ。塾長は僕にぴったりの人間で、塾は僕にとってのセーフゾーンだったのだ。

 中学生の残りの時間も、高校生になっても、この塾を僕の安息の地としていこう。手前勝手に僕はそう考えていた。

 その矢先、悪い知らせが突然やってきた。

「この塾、来月から閉めるから」

 中二の秋口に、塾長から帰り際に軽い口調で塾の閉校を告げられていたときの僕の気持ちは如何とも表現し難い。頭をがつんと殴られた衝撃。第二の心臓が押し潰されたような。ショック! いやいや。僕の所有する名だたるレトリックたちを駆使したとて書き表すことができない。

 それからというもの、塾と塾長を失った僕の口は、さらに一層日増しに乾いていった。口腔の皮相は、太陽が凄まじく照りつけるサハラ砂漠の表土と化した。言葉を発散する無二の機会を失った僕の口を癒すのは、学校生活でも、家庭生活でも愛飲していた玉露水出し天然緑茶の王様あやたけのみだった。クラスメイトや家族に遠巻きに巻かれるなか、僕の頭の中では無為無数の言葉たちが、浮いては沈み浮いては沈みを繰り返していった。

 もし僕の内部で繰り広げられている葛藤を人が知ったなら、誰も彼もがちょっと小馬鹿にした感じで、今の僕の状況に軽やかな茶々を入れるだろう。普通にしゃべればいいじゃん。なんでそんなにむずかしいこと考えてるの? ひとと喋れないとこの先、生きてゆけないよ。

 もし誰かがそんなことを言ってきたら、僕の窮屈な心の中にいる小さな僕がむくりと背を伸ばして、それに対する反駁を騒々しく捲し立てることだろう。たとえばこんな感じ。

「あんたにはわからんだろうが、僕にとっては普通にしゃべることはこわいことなのだ。僕がクラスメイトと喋ろうと思ったら、脳みそをぐちぐちかきまぜながら、ぶっ壊れたタイプライターみたいな遅々とした速度でしゃべる他ない! 僕がまともに喋れるのは、世界で唯一塾長だけだった! それは、彼が言っていた通り、僕と塾長がお月謝でつながる関係だったからだ。僕と塾長の間をとりもつ運命の糸はほっそりとやつれてた。切れてるのになんか絶妙な加減で繋がってた。真面目に話す必要もなく、真剣に聞く必要もない。ただ情なき情報を垂れ流し合うだけの関係が僕にはとてもオアシスだったのだ! わかったかこのあんぽんたん」

 実際の僕は押し黙って微苦笑を浮かべるだけだろう。多言を弄しても虚しいだけなのを知っているからではない。心の舌はのべつまくなしに動いても現実の舌は思い通りにいかないのだ。

 ともかく、荒涼たる日常生活においてオアシスともいうべき塾&塾長との関係を完全に失って、僕はダークな気分であった。なんといったらいいのか、胸ふたがる哀切にひたすら動揺している。ああ、なんということだ、と悲劇的に嘆きたい。僕には自分が晴れやかな気持ちで砂漠を生きることができるとは思えない。しかし、熱放射用のクソデカ耳も、小さな体も所有していない僕は、水に飢えたラクダみたいに、とぼとぼ砂の上を歩いていかねばならないのだ。炎帝かんかん。熱風じりじり。煮えつくような大地の上を、舌をべえーって出しながら、自分のなかの不用意でお粗末な言葉たちが外の世界にこぼれ出さぬようににきっちり体をかかえて生きていかねばならないのだ。まさに運命は決した。神は僕を窓から放り投げてしまった。僕のなかの全僕がそのように断定し、落胆していた。


 ところが神は僕を決して見放さなかったのである。

 僕は、後日思いもよらぬ形で再び心のセーフゾーンを獲得するに至った。そこは、毎日通い詰める学校のはしっこもはしっこ。一階の階段の裏側に存在する奇妙な雰囲気を持つ空間。用途不明のガラクタたちが暫定的に放置されている謎領域。昼休みを孤独な放浪にあてがった僕は、偶然そこにたどり着いたのだ。普段は、黄色と黒の警告色で染められた長い棒が、いかにも「入ってはなりません」と通せんぼしていたが、その時に限って、どこかへ消えていた。あの長い棒が消えただけで「入るな」のルールが消えたわけではなかったのだが、僕はなんだか立ち入りを許可された気がした。

 ずっくずっくと上履きが音を立て、きづけば僕は階段の裏の奇妙なスペースにすっかり身を収めていた。

 「あらら」

 僕は驚きの掠れ声をあげた。

 階段の裏の壁に、小さな扉があった。扉というよりも、小窓といった方がいい気がする。僕が身を屈めてようやく入れるくらいの大きさだった。扉には、外側から鍵がかけられるみたいだったが、取手を持つと抵抗なく開いた。なにやら眩い光が漏れ出してくるのである。鍵がかかっていないからと言って中に侵入していいはずはなかったのだが、僕はなんだか立ち入りを許可された気がした。

 身をかがめて窓をくぐりぬけた。普段体を積極的に使っていないせいかどこかの骨の軋む音がした。体を完全に潜り通すと僕は立ち上がった。頭のそばに天井があったが、ぶつけるには至らなかった。僕は身を低くして自分が侵入した謎の空間を見回した。

「……」

 ごくり。小さな喉が勝手に震えて、ろくに出もしない唾を空気と一緒に飲み込んだ。

 僕を出迎えたのは四畳半ほどの立方体の真っ白空間だった。壁面と床が磨かれていたようにつるつるぴかぴか眩いていていた。この時の僕はそれについては違和感を感じなかったが、よく考えると奇妙なことである。なぜなら、部屋には光源の類が一切なかったのに、僕の目はその部屋のあらゆる場所の様子を捉えていたのだから。

 僕はその場に座り込んでまず最初に床を触ってみた。手触りもツルツルである。シルクからキメという概念を引き算したような摩擦係数の低さを感じた。こんなに摩擦が少ないのに、床に顔を近づけても自分の顔が写ったりしないのが奇妙だった。

 僕はそこから、自分を六方より覆いこむ面々を端から端まで撫で回してみた。目立った凹凸はない。部屋を一瞬出て今度は巻尺とボールを持ってきた。巻尺で空間の辺長を計測すると、どこもかしこもピッタリ2.7メートルであった。ボールを地面に置くとボールは静止して動かなくなり、壁面を転がすとボールは壁面にピッタリ沿うように運動した。

 僕はふん、と鼻息を荒くした。

 この世界には、完璧な図形は存在しないという理屈を聞いたことがある。僕たちの目の前に認識できる形で現れる図形はどんな図形であっても、細かく分析すればガタガタした点の集合体でしかないためだ。この屁理屈に従えば、ミクロとマクロの不一致ゆえに目をつぶり続けた先人たちはこの世界を出来損ないの図形たちで埋め尽くしてきたことになる。

 僕はこの空間をぜひ超高倍率顕微鏡で観察してみたいと思う。そして理想的な幾何がここに実現されていることを確認したい。原子のはざままで見通せるような魔法みたいなレンズが手元にあれば、いいのにと思った。

 ひとしきり部屋の中を見て、実験を繰り返していると急激に疲れてきた。当然といえば当然だった。僕には人並みの体力がない。思えば、未だかつてこんなに興奮した経験もないし、活動した経験もなかった。

 自分が普通の物理世界とは異なる世界にやってきてしまったのだ、と手前勝手に結論づけた僕は床にぺたりとひざまずき、押し寄せる怠惰にまかせて横になった。横になった瞬間、めまいのように、頭がぐるりとひっくり返るような感覚に襲われた。僕はその異様な感覚に争うことなく、大人しく目を瞑った。

 

 覚醒と同時にとんでもない「しまった感」が僕の胸の底から込み上げてきた。僕は過剰な俊敏さで身を起こすと、あたりを見回して時計を探した。いまは何時だろう。体のシャッキリ具合からして、少なくとも数分眠っていたわけではなさそうな感じがした。もちろん、時間を知りたいと思ってあたりを見回してもその真っ白い空間に時刻を示す機械は存在しなかった。僕の手元にあるのは、ボールとメジャーと購買前の自販機で購入した绫鹰一本である。

 いや。

 僕はもう一つ自分のそばに転がっているのに気づいた。その物品は少なくとも眠りに入る前までは存在しなかったはずのものだった。

 僕は彼女をつんとつついてみた。彼女は微動だにしない。目を閉じて、胸をおだやかに上下させているところを見ると僕と同じで睡魔に敗北したものとみられる。昆布みたいに真っ黒の髪の毛。グレーの鼈甲斑のメガネ。そして、僕の学校の女子用制服。

「あれれ」

 僕は、飛び退くように後ずさった。知覚と認識の断裂をまざまざと見せつけられると同時に、うわずった声で滑稽な文言を叫んだ。

「これ、ひ、ひと! ひとだ」

 絶海の孤島で自分と同じく遭難の運命を辿った人間を見つけたロビンソンクルーソーよろしく、僕の声は驚嘆を帯びて部屋中に響き渡った。目の前の女の子はうむむ、とうなりながら目を開けると、僕を見るなり

「あー!」

 と叫んで人差し指を突き立てた。僕は思わず身をすくませたが、冷静になって少女の手の示す方向に目をやった。彼女の指は正確には僕の体ではなく僕の手元にある绫鹰を指示していた。

 彼女は僕の手から绫鹰を放ったくるとラベルを指差して、「水出し」とか「玉露」とかやたらめたら情感を刺激する言葉を信用するなという話を始め、しまいには、この科学世紀に蔓延している「天然」というポジティブワードの恐ろしさについて語り出したのだった。いろはすの出どころだとか、天然由来の成分のいかがわしさについて、日がくれるまで、滔々と語ってくれたのである。

 僕はデジャヴとともに、言いようのない歓喜を覚えた。

 この女の子、ちょっと塾長に似てる!


 そんなこんなで僕は塾と塾長に代替する第二のセーフゾーンを発見した。真っ白の四畳半世界と浪川和子というメガネの女の子であった。

「ここは、もともとあたしの場所なの」

 ひとしきり喋ったあと、浪川女史は落ち着き払って言った。彼女の容貌については紙面に書き表すことはできない。彼女の表情は全体的にギクシャクしていた。幼さと大人っぽさ、凛々しさと気弱さが流動的に切り替わり、時折男と女も入れ替わった。僕はこの子の顔というものを真に掴み切ることができなかった。彼女は仏にも悪魔にもなれそうだと思ったが、それはいい過ぎかもしれない。

「ここでベンキョしようと思ってきたの。そしたらあんたがここで寝てた。だから隣で寝たの」

「なんで寝てたの」

「あんたを起こす気にならなかったんだよ。だからあたしも一緒に眠ることにした」

「なんだかここは落ち着くよ。だからすごく眠くなる」

「わたしたち、二ミリくらいズレてる気がしない?」

 浪川の言葉を聞いて、僕は绫鹰を飲み干した。

「なにがずれてるって?」

「相性かな。わかんないけど、とにかく二ミリメートルくらいずれてる」

「大したことなさそうじゃない」

「二ミリは大きいわ」

「いまが何時かわかる?」

 浪川は得意げに笑うとポケットからケータイを取り出した。僕はそのメタル感漂う重厚な文明利器とはっとさせられる。

「中学生のくせにケータイなんか持ってるのか」

「普通よう」

 彼女はぱかりと画面を開いて、それから、顔をしかめて蓋を閉じた。

「どうしたの」

「ここ、携帯使えないんだった」

「そうなの」

「そうよ。でも時間はわかるわよ。この部屋に入ったのは昼休みだったから、今もきっと昼休みだと思う」

「待て待て」

 僕は彼女のヘンテコな理屈に口を出した。

「君は自分がどのくらい寝てたかわかるの?」

「どのくらい寝てたかなんてわかんないわよ。この部屋でどのくらい寝てたかなんて関係ないわよ」

 僕がまゆをひそめるのを女の子はいたずらっ子の笑みで眺めた。ひとしきり満足したのか、人差し指をにゅっと突き立てて、こう言った。

「いい? 君は初心者だからあたしがショー劇的事実を教えてあげるね」

「なに、なんだよ」

 彼女の次の言葉は俄に信じられない話だった。

「この部屋に何時間いたって、現実の世界では1分もたたないのよ。時間が、とまるのよ。この部屋にいる間は時間が、とまるのよ」

 女の子はふん、と鼻息荒くいった。

「あたしはこの部屋を、真っ白な時間的セーフゾーンと呼んでいる」

「……ば、か、な」

 僕はその三文字を的確に発音した。しかしながら、女の子の口調に、僕をからかっているような感じは見受けられなかった。

 そのとき僕の脳裏にこの部屋で観測されたいくつかの奇怪極まる物理現象たちの姿が閃いた。そうだ。この空間は特別な物理で動くのだった。もしかしたら、時間がどうこうというのもあるかもしれない。

「検証せねば」  

 僕は、飛び上がるように立ち上がると、彼女の言葉を確かめるべく小窓をくぐり抜け、階段の裏に飛び出した。振り返ると、部屋の内外を取り仕切る小窓からは、女の子の顔が楽しげにのぞいている。僕は、なぜか悔しくなって廊下を走り出す。

 最寄りの教室にちょっと顔を覗かせて、中の様子を見た。机の山が、教室の後ろに退けられ、開けたスペースで男の子たちが相撲をとっている。壁にかけられている時計を見ると、まだ昼休みの中頃だった。

 相撲をとってる男の子たちと一瞬目があうと、僕は俊敏な動きで首を引っ込め、女の子が待つ真っ白い小部屋に舞い戻った。

 息を切らして言葉も紡げぬ僕に対して女の子は、わかった? と聞いてくる。女の子は、床の上で胡座をかいて、僕の帰りを待っていたようだった。手持ち無沙汰だったのか、僕の持ち込んだボールをポンポンついて遊んでいた。

「あんたのことを寝ずに待っていたんだからね」

「……寝ずに?」

「そうよ」

「また眠りそうになった?」

 彼女ははわんわとあくびをした。

「ここにいると落ち着くからついうとうとするの」

「不思議な部屋だ」

「時計動いてないのわかった?」

「動いてないかはわかんなかったけど、君のいう通りまだ昼休みだ。あんなに寝てあんなに喋ったのに、全然時間が進んでない」

「素敵な部屋でしょ。中間テストの勉強がいっぱいできるわ」

「そんなことのために使ってるの」

「そんなこととはひどいわ。あたしバカだから人の100倍勉強しないと普通の人になれないって先生に言われるの」

「そんなにバカなのか」

「たぶん?」

 彼女は首を傾げた。僕は不思議だった。こんなに立派なメガネをつけてるのに、勉強ができないのは不思議というほかない。一体彼女の視力はなにに使われたのか。

「でも先生はバカでも良いって言うわ」

「そんなバカな」

「その先生、あたしは嫌いなんだけどね」

「先生っていうのはこの学校の先生?」

 彼女はきょとんとした。

「そうよ。数学の田中先生。学校以外に先生なんているの?」

「病院の先生とか……塾の先生とか」

「なるほど」

 僕と彼女は両手を床について、そろって天井を見上げた。僕たちの間を静かな時間が漂った。

「あんた、これからもここにきたい?」

 浪川は僕に聞いた。

「きみの許可がいるの?」

「そりゃあいるでしょ、あたしが最初に見つけたのよ」

「うーん、来たいかも」

「勉強は得意?」

「苦手ではないかも。塾行ってたし」

「じゃあ、あたしにここで無限時間ティーチしてよ」

 浪川は驚くべき提案をした。

 僕は迷う。

 迷った挙句、承諾した。

 塾長がやってたみたいに人に何かを教えてみたかったからだ。


 放課後、ブラスバンドの人たちに追い立てられるように教室を後にした僕は、浪川と約束した時刻に白い部屋へと向かった。階段の裏に回り込む際には、決して人に見られていないことを入念に確認した。

 部屋の中ではすでに浪川は勉強の支度を始めていた。どこから持ってきたのか、扇風機の空箱を横倒しにして、その上に筆記用具、参考書等を展開している。

「いいねえ、やる気だねえ」

 僕は塾長のモノマネをしたが、もちろん目の前の彼女には通じるよしはなかった。

「ここを教えてちょうだいな、せんせ」

「まかせろい」

 しかし、結論から言うと、浪川に教育を施すのは容易なことではなかった。なぜかというと、当初はやる気に満ち満ちていたはずの彼女の集中は、凄まじい速度で散逸し、勉強を教えているはずが、反対に彼女からどうでもいい雑学を教わるはめになったのだ。具体的な事例を挙げると、「織田信長」の話が「ストロベリーの茶色いつぶつぶ」の話になったり、「三平方の定理」の話が「夏にべこってへこんだ飲料缶の中で一体何が起こっているのか」という話になったりした。彼女の話ぶりはこちらの恐怖と興味を執拗に煽ってくるため、中断させるというアイデアをしばしば失念した。ああ、ストロベリーのもけもけがこうしてこんなことになり、そんな悍ましいことになっているとは、今夜はどうも眠れる気がしない。

 部屋の中で数時間が過ぎても、学習の進捗は著しく停滞していた。

「だからあ、高さの二乗と底辺の二乗の足し算があ、斜辺の二乗になるんです」

 僕は2時間前から同じ文句をひたすら繰り返していた。こんなに繰り返し強調しながら同じ文言を述べていると、他愛もない公理が、自分のレゾンデートルに関わる重大なテーマであるような錯覚に陥ってくる。

「喉乾いたあ」

 僕の力説を右耳から左耳に通過させながら、消しゴムからいくつもの練り消し人形を創出していた浪川が、突然喉を押さえて僕に目配せした。浪川は僕の抱えていた绫鹰を鷹のような足捌きで蹴り上げて、両手にキャッチした。その後まるでためらいもなく、コップいっぱい分ほど残っていた緑色の液体を飲み干した。

「ああああああ」

 僕は叫んだ。

「僕も喉乾いてるのにー」

「買ってきたらいいのではないかね」

「そんな力は残ってない」

 僕は床に両手を広げて横になった。

「喋りすぎた」

「喋り過ぎて喋り筋が疲れたのかね」

 浪川も、はあーと息を吸い込みながら床に倒れ込んだ。「うっ」背中をしたたかにぶつけたらしかった。

「大丈夫」

「大丈夫だとも」

 浪川はごろごろしながら僕のそばに寄ってきた。

「眠ったら、喋り筋も復活するよ。超回復っていうのがあってね、知ってる?」

「知らないや」

 僕は首を振ろうとしたが、億劫だったからやめた。

「なに、それは」

「簡単にいうと、ずたずたになった筋肉を休ませてあげると、強くなるっていうやつ。あんたの喋り筋、明日にはめちゃめちゃ強くなってるよ」

「へえ、それはすばらしい。君は勉強のことはわからないけど、そういうくだらないことはよく知ってるね」

 横倒しになった彼女の片眉が自信ありげに動いた。メガネのフレームがちょっと下がった。

「これは学校で習うのよ」

「どんな科目だよ」

「保健体育」

「あーなるほど」

「あたし、保健体育だけは得意なの」

 僕は得意げな表情をする彼女からそっと視線を外した。

「そーいうやついるよな。僕はそーいうやつは嫌いだ」

「あたしも嫌いな人いるよ」

「田中先生だろ。数学の」

「君のことも同じくらい嫌いだよ」

 彼女はニッと笑って言った。僕は絶句した。

「冗談だよ、傷ついた?」

 それから、僕たちは、より他愛もない話をした。話の他愛のなさっぷりにどんどん磨きがかかっていき、最終的にはたあいをたわいって読むと可愛いよね、みたいな、たわいのなさに紐づけられた摩擦係数がゼロになるくらいまで、僕たちの会話は実に延々と続いた。


 体の痛みに耐えながら身を起こすと、隣で僕と同じく眠っていた浪川の姿は見えなくなっていた。机代わりにしていた段ボールの箱も、筆記用具ももちろんない。あるのは、僕が部屋に持ち込んだボールとメジャーだけだった。僕は妙な錯覚に陥った。浪川にあって、勉強を教えていた時間が、まるまるすっぽぬけたような錯覚だ。僕はこの部屋に侵入し、計量にいそしんだ挙句、疲れ果てて泥のように眠り、存在しない少女の夢を見て、たった今目覚めただけではないかと、そんな不安が胸に舞い起こった。

 しかし、その不安は即座に霧散した。床の上に置き手紙があった。汚いコピー用紙にこれまた汚い文字で「また勉強教えてね」とあった。僕は「2度と教えるものか」と思いながらその紙切れを12回くらい谷折りして大事に胸ポケットに押し込んだ。

 部屋をくぐって外に出ると、まだ夕方だった。吹奏楽部の曲目「酒とバラのオカマ」は変わっていないのでやっぱりあの部屋の中にいるときは、外の時間は止まっているのだなあとしみじみと確認した。

 下駄箱で靴を履き替える途中、そばの廊下でなにやら話し声が聞こえてきた。

「なあ、お前。勘弁してくれよ。もう、俺たち付き合って三年になるじゃないか。親にも紹介するって言っちゃったんだよ。頼むよ、なあ、おい」

 とても興味深い痴話喧嘩の匂いがした。野次馬根性を発動した僕は、抜き足差し足で下駄箱の端の方まで移動して、頭半分だけ廊下に突き出した。壁にもたれるようにして、誰かと電話している男は、数学の田中先生だった。彼はその凛々しい眉毛を弱々しげに歪めながら、通話相手と口論しているようだった。

「なあ、公江。頼むよ、考え直してくれよう」

 プツッと音の切れるのがこちらにも聞こえてきた。田中先生は、ものすごい力量で舌を打った。舌先に地雷を埋め込んであるんじゃないか、そう思わせるくらい達者な舌打ちであった。僕は、彼の表情を盗み見ると、思わず体が震えるのがわかった。すかさず首を引っ込めて、昇降口へ走り出した。田中先生、恨み辛みがべっとりと張り付いた、めちゃくちゃに怖い顔をしていた。

 その翌日、お昼休みになると僕は淡い期待を込めて、あの階段裏の小さな窓をくぐった。しかしながら、そこには彼女の姿はなかった。落胆しつつも、腰を落ち着けて長い息を吐いていると、浪川がひょっこり顔を覗かせた。

「あ、いたわね」

「いたとも」

 僕はさまざまな感情をひた隠しにしてそう答えた。彼女は大きめのカバンを持って部屋に入ってきた。彼女はカバンを床におろすとふーと一息ついた。重そうなアウトドア〜なカバンだった。浪川はそろりとジッパーを開けると、中から何かを取り出して床にことりと置いた。僕には床に置かれたそれが、品の良い急須と二つのお茶碗にしか見えなかった。彼女は水筒の蓋をきゅっとあけるとかぽかぽと急須に注ぎ入れ、くるくる回した。

「なんだこれは」

「茶葉は入ってるわ」

「ふうん」

「お茶、好きじゃないの」

「え、なんで」

「绫鹰飲んでたじゃない」

「そうだけども」

「好きじゃないの」

「好きです」

 全く正直に答えると、よかったと彼女はにっこりした。

「今日はあんたと一緒にお茶をしばこうと思って、家から茶道具を持ってきたの」

「はあ」

 僕はかろうじて生返事を返すばかりだった。だって、そうだろう。中学生なんだから、もっと、ゲームとか、漫画とかを嗜んでいるのが普通じゃないの?

 でも、そのどうしようもなく普通っぽくないのが良いと思った。すごい塾長っぽさを感じたからだ。まったく、彼女はことごとく塾長である。

 しかし、このままでは目の前の彼女が延々と急須を回しているのを見つめるだけになってしまうため、僕はお茶碗を彼女に差し出した。彼女は、はっとしたように、二つのお茶碗に代わりばんこに緑露を注いだ。こぽこぽこぽこぽ。耳の奥が浄化されるような長閑な音が真っ白の部屋に小さく響いた。

 猫舌なので、ちょびちょび口をつけて飲む。優しい苦味と程よい甘さが心の中のがらんどうに染み渡っていくようであった。

 その僕の横で浪川はぐびっと一息に飲み干した。

「うまい、もういっぱい」

 その姿を見ているうちに、心に湧き立ちかけた雅が錆び錆びになっていくのがわかった。

「うまい、もういっぱい」「うまい、もいっぱい」「もういっぱい」「もいっぱい」「いっぱい」僕たちは延々とイギリス人のように緑茶を貪り食った。僕たちは次第に、ただただ、お茶をしばく、トイレの近い中学生になっていった。

「ああ、食った食った」

 たぷたぷになったお腹を押さえて、浪川は横に転がった。お腹を抑えたら、ぴゅーっと漫画みたいに噴水しないか興味を惹かれたが、やめておいた。

「そういえば」

 同じように床に横になった僕は彼女に喋った。

「昨日、鈴木先生が」

「だれよ」

「あ、間違えた田中先生が、廊下で電話してた」

「へえ、だれと」

「多分彼女」

「……彼女?」

「うん」

「どんな話してたの?」

「痴話喧嘩。そのあと、結構怖い顔してた」

「ふうん。つまらない話ね」

 彼女は低い声でつぶやいた。彼女の感想は、分からなかった。

「あなた、それを面白いと思うわけ?」

「面白いだろ。あの田中先生がさ」

 二ミリだなあと彼女はぼやいた。僕には彼女が言っていることが理解できない。

「それなら、ゾウの耳の裏に広がる悍ましい世界の話でもした方がましだわ」

「そいつはすまない」

 僕は彼女の機嫌を損ねてしまったのを感じて、謝った。

「ぜひ、その世界のことを聞かせて欲しいんだが」

 僕は言いかけて、口を閉ざした。

 かのじょが起き上がり、ちゃかちゃかと茶道具をリュックに収め始めたからだ。

「またの機会にね」

「あれれ」

「またの機会にね」

 彼女は同じことをもう一回言った。

 それから、リュックを担ぐと

「昼休みが終わっちゃうから、あたし戻るね」

 と納得しがたい発言をして部屋を出ていった。この部屋にいる限り、昼休みが終わることなんでないのに。彼女は部屋を出た直後、窓をぴしゃりとしめて僕を怯えさせた。

 部屋は静かになった。

 首を傾げて、「あれれ〜」としきりにつぶやいているうちに、彼女の機嫌を損ねた理由に思い当たった。そういえば彼女は田中先生のことを嫌いだと言っていた。僕は彼女に彼女が嫌いな人の話をしてしまい、彼女はそのため機嫌が悪くなったのだとそう理解した。

 その時点の僕はその程度の理解しかできなかった。


 さらに翌日、僕は仄かな期待を抱いて階段の裏の小窓をくぐると、もうすでに浪川が寝転がっていた。

 浪川は、小窓をくぐりぬけた僕を一瞥するとぱあっと顔を輝かせた。

「来ましたね!」

 彼女の僕への反応を含めて胸のうちにいろんな疑問符が飛び交っていたが、僕はすべてを飲み下して、「ああ、来たとも」とだけ言った。

 床に腰を落ち着けた僕に向かって

「君は世界で一番しょうもない言葉ってなんだと思いますか?」

 と彼女は聞いた。

「XXX」

 僕は答えた。浪川は首を振った。

「違いますよー」

「じゃあXX」

 彼女は首を振った。

「物事のしょうもなさ加減がわかってないね、君は」

「しょうもないものって、なんなの?」

「しょうもないってしようもないことよ。どうしようもない、みたいな。そういうしようでございます、みたいな。とにかくみんなからことごとくあきらめられあきれはてられみさげはてられてるもののことよ」

「XXXXXXXXXXXXXX」

「違います」

 彼女は、誤答を繰り返す僕をことごとくあきらめあきれはてみさげはてたような目つきで見た。それからリュックを弄り出し、中からノートと筆記用具を取り出した。

「勉強教えてくれたら教えてあげよう」

「別にしりたくないけど。それに君、勉強教えても、真面目にやらないだろう」

「今日はちゃんとするもん。今日は私、機嫌いいからね」

「なんで機嫌いいんだよ」

「わかんないけどお」

 彼女はノートを広げ問題を解き始める。かと思うとピタリとペンを止め手をたかだかと揚げた。

「はい、ここ。わかりません」

「どこ?」

「電車の中に振り子が吊られてるやつがわかんない。この慣性力ってのはなにもんなのよ」

 彼女はノートを広げて図を見せた。僕はそれに関してはとてもわかりやすい説明ができる。僕は塾長がやってたように、ノートのうえで意味もなくペン先を動かした。

「観測する場所によって、運動の様子が変わって見えるんだ。電車の外で立ってる人から見ると、振り子は電車と一緒に運動しているように見えるけど、ある加速度で運動する電車の中にいる人から見ると、振り子は止まってるように見える」

「そんなのは当たり前でしょ」

「でも、おかしいと思わない?」

「なにが」

「振り子は止まってるんだ。止まってるってことは振り子にかかってる力がうちけしあっているってことだ。けれども振り子には糸を引っ張る力と重力しかかかってない」

「たしかに? へんかも?」

 彼女はいまいちわかっていそうでわかっていないような顔をする。

「そこで、力の釣り合いをとるための、言い訳的な感じで慣性力というものを導入して……」

 僕はそこで言葉を詰まらせた。たった今、僕の脳になにやら小さい電撃のような信号が閃いたのだ。浪川は僕の顔を覗き込んだ。

「だいじょぶー?」

「ああ、うむ。だいじょぶ。えっとどこまで話したっけ?」

「うーん、どこまでだっけ」

 彼女は首を捻った。僕は落胆した。

「えーまじかよーこいつー」

「きゃっきゃ」

「きゃっきゃって笑う人ほんとにいるんだね」

「うきゃっきゃ」

 物忘れの激しい彼女のために、僕はまたしても同じ文言を何度も何度も繰り返し唱え続ける羽目になった。


 「世界で一番しょうもないもの」を浪川から聞きそびれていたことに気づいたのは夕飯の最中だった。僕は勉強を教えてやったのに。別にめちゃくちゃ知りたいわけではなかったけど。それでもなんだか損した気持ちがあった。

 食卓は明るかったが僕の周りだけ電気が消えていた。おじさんとおばさんとおねえさんは同じご飯を食べていて、僕一人が違うご飯を食べていた。僕はアレルギーをたくさん持っているので、みんなと同じご飯は食べられない。

 みんなはテレビの生放送に夢中になっていた。テレビには黄色系の色でデザインされた枠が表示されていて、その枠の中で、一人の男が顔に汗を張り付けながら走っていた。男の周りを数多の声援とカメラが囲い込んでいた。男の顔には苦痛が無数の皺としてこれでもかというほど刻まれていたけれど、瞳は不思議と清々しく、生きる実感に煌めいていた。

 その彼の瞳を僕はゾンビみたいな虚な目で見ていた。

「うおおおおおおおお」

 そのとき、テレビの中から驚くべき大音声が鳴り響いた。知覚過敏のおばさんはすかさず耳を塞いでテレビの音量を下げた。何事だろうとテレビの中をのぞくと、疾走する男の後方から、どういうわけか田中先生が走ってきた。浅黒い立派な脚で地面を捕らえ、活力にあふれた見事な姿勢で主役の男を追い抜いた。観衆はどよめき、混乱にあふれ、画面右上の四角い小窓から覗く司会者の顔も戸惑いに満ちて、瞳はあちらこちらに助けをもとめるようにゆらゆら揺れ動いてる。

 田中先生は緩やかに速度を落として、メインランナーと並走した。スタッフたちが彼の腕をつかもうと必死になる中、田中先生の顔つきも決死の覚悟に満ちていた。メインカメラを覗き込むと、「わぎゃぎゃあ」と意味不明なことを叫び、結果として全国のお茶の間に彼の顔が放映されることになった。

 まことに奇奇としたこの事件は、結果として、田中先生に一日の刑事的勾留を与えた。

 

 田中先生が全国放映されてから、二日経ったあと、僕は連休明けの苦しみを重く引きずりながらいつもの通り学校へ向かった。校門の脇に一台パトカーが停まっていた。僕の野次馬根性が発揮されるかと思いきや、パトカーの影に警官たちと田中先生の姿があるのを見つけるとそこで僕の興味は潰えた。田中先生が起こした意味不明な画面映り込み事件は、男性教師の歪んだ承認欲求がどげちゃらこげちゃら的なまとめをされて新聞の三面に記載されていた。

 それはともかくとして僕は多大なる期待を抱きながら今日も今日とて階段の裏手のセーフルームに向かった。白い小窓は開きっぱなしになっていた。中を除くと簡素な椅子に座った浪川女史が新聞を読んでいた。部屋中には香り高いコーヒーの匂いが充満していた。僕は、地べたに尻もちをついて座り、浪川の読んでいる新聞を裏から眺めた。僕は文字を読むのがあまり得意でない。どうしても頭から意味を捕まえていくことが苦手なのだ。教科書の文字も、印刷機の往復スキャンみたいに視線を左右に動かして何度も読み直す必要があった。

 僕は活字の渦中に見知った名前があるのに気づいた。「郡山公江」。この郡山という苗字は存じ上げないけれども、公江という名前には聞き覚えがある。どこで聞いたのだろう。僕は眉根を顰めて新聞の内容を読んでみた。


 「身元は郡山公江さん(24)だと判明」「〇〇町在住の」「高層マンションにて発見された」「遺体は刃物のようなもので切り付けた跡が見られ」「警察は怨恨による犯行として捜査を続行している」


 繋げて意味を把握すると、郡山公江さんが殺されてお亡くなりになったらしい。僕は心の中で手を合わせ目を閉じた。アーメン。それにしても聞き覚えのある名前である気がする。

「郡山公江」

 そう呟くと、なぜか浪川の肩がぴくりと震えた。新聞から顔をあげると、僕をにらむように言った。

「あらら、いたのね」

「いたのだよ」

 僕はおどけて言った。

 彼女は新聞を畳んでぽいと床に投げ捨てた。

「何を読んでたの?」

「四コマ漫画よ」

 彼女はそっけない返事。それからやや間があって、

「あなたは何を読んでいたの?」

「郡山公江さんがお亡くなりになったニュース」

「ふうん」

 彼女は気のない返事。

「なんか、心ここに在らずと言った感じだね」

 僕は彼女に言った。

「そう、あたしはいつもこんな感じだけども」

 そうはいいつつも浪川の目はどこか一点を見据えていて、今日はちっとも僕の方を向いてくれなかった。

 僕はなんだか、面白くない気持ちで浪川の隣に座っていた。時折、思いついたことを浪川に振ってみたけど、彼女はそれにひとことふたこと短い言葉を返すだけだった。

 僕の口は、次第に重くなっていった。

「喋り筋が……超回復」

 僕は最後にそう言い残して、床にごろんと横になりコロコロ転がった。浪川はこちらを見ようともしなかった。



「やっほー、あたし、米倉涼子!」

 校門の近くで僕は声をかけられた。耳元で突然大きな声を出されるので僕の体は二倍くらい縮こまった。陽気な声の持ち主は、僕の背の一・五倍はあると思われる大人のお姉さんだった。ちなみに横幅も僕の三倍ほどはあった。かなり、大柄である。ライトグリーンのTシャツに描かれた真っ白い犬の顔が、横に引きちぎられそうになっている。しかし、今の僕にその犬を憐れんでいる心の余裕はなかった。ライトグリーンの横綱級怪人物を目の前にして僕は言葉を発することができなくなってしまった。

「な、な。あ。あ。ろ。ろ。」

「もしかして君、知らない人と喋ると壊れたタイプライターみたいになるタイプ?」

「お、お、お、おー」

 お姉さんがずいっと顔を近づけてくる。熊みたいな大きな目玉がこちらを見据える。ろくに寝ていないのか、目元には多重の隈が出来上がっており、眼球の表面にも無数の血管が浮き上がっていた。

「どうやったら人とうまく喋れるか、聞きたい?」

 お姉さんは自己啓発系の漫画に出てくる妖精キャラみたいなことを喋った。

「げ、ご、ぶ、げ、ぶ」

「おーけー、わかった。取材に答えてくれたら、教えちゃるよ」

 取材? 頭の中で疑問符が浮かんだ。でも、狼狽した僕の頭は細かいことを考えるのをやめていた。とにかくお姉さんは、巨大なヒグマで、僕はその鋭い爪に捕まったシャケだった。僕はその北海道のような雄大な巨躯を所有する米倉涼子という女性に引きずられて、なすすべくもなく彼女の車に引き摺られていった。


 自動車に無理やり押し込まれ、シートベルトを装着させられると、お姉さんは目的地も告げずに車を発進させた。人の車の匂いは苦手だ。道もがたがたしてる。クラクラしながら窓の外を見ると、もうすでに山道を走り抜けていた。

「お、お、お、おかね」

「お、どうした」

「おかね、ないです」

 僕は喋った。僕を誘拐しても身代金を払えないぞ、という旨のことを。

「だいじょぶだいじょぶ」とお姉さんはそう言った。なにが大丈夫だというんだろう。僕はぐるぐる回る胃を抱え込んで、座席にうずくまった。

 不安なガタガタ道をぎりぎりの馬力で踏み越えて、車は人気のない林道へと乗り込んだ。やがて焦げ茶色の落ち葉ひしめく開けた空間に乗り込み、車は停止。僕は一刻も早く新鮮な空気を取り入れたいがために一目散に車のドアを開けた。車から脱出した僕は地面にはいつくばっておえおえした。おえおえしている僕の背中をお姉さんがとんとんしてくれて、不思議とこの人そんなに悪い人じゃないんじゃないんかと心のどこかで思ってしまう。でも、この女の人が僕を拉致した挙句山奥で僕をおえおえさせた張本人であることは揺り動かしがたい真実なので、僕の脳は混乱していた。

 僕は顔をあげて自分がどこにやってきたのかを把握する。この空間には、やせほそった裸の樹木以外には何もなかった。強いて言うなれば開けた土地の奥の方に、地面に埋め込まれた大きめの岩みたいな、小屋が立っているのみであった。

 僕はその小屋の中に瞬く間に放り込まれ、机に座らされ、暖かいコーヒーを与えられた。僕が、すいませんコーヒー飲めないのでココアにしてくれませんかという旨を伝えると、その要求は通った。お姉さんは冷蔵庫から冷えたサンドイッチも出してくれた。先ほど胃の中を空にしたばかりの僕は皿を控えめに退けた。

 暖かいココアをずじりと飲むと、なんとなく落ち着いてきた。この狭い木造りの空間は、樹木のいい匂いがしてなんだか落ち着いてくる。ここも僕のセーフルームみたいだ。

 僕はお姉さんに「どこから電気が来てるんですか」と聞いた。

「あ、冷蔵庫? どこだろうね。電気業者に聞かないとわからないね」とお姉さんは言った。

「ここ、いい場所だろ」

「塾に似てます」

「塾? ふうん。君中学生なのに塾行ってるんだ、えらいね」

「もう、潰れちゃったんだけど」

「あたしの兄もこの町で先生やってるのよ、潰しちゃったんだけど」

「へえ」

「堅物で孤独気質で、ゴリラを万力で潰したような顔をしてて、目はチンチラみたいなやつよ。あたしはもう何年も顔を合わせてないけどね」

 彼女はちりちりの髪の毛をいじって言った。

「仲悪いんですか」

「いや、向こうが一方的に嫌ってるのよ」

「へえ」

 そんな取り止めもない話をしていると、

「あ、そうだ。あたしあんたに取材するのだったわ」

「取材?」

「あたし、フリーのライターなの」

 僕は一瞬で身を固くした。同時に僕の心の中に生息する小さな塾長が首をもたげた。フリーとライターの掛け算がひとまずいかがわしい肩書きに違いない旨を僕に向かって教授してくる。

「あたし、フリーのオカルトライターなの」

 僕は一層戦慄した。僕のうちなる塾長がフリーライターとオカルトの掛け算が究極的にいかがわしい肩書きであることを告げていた。

「今は、超能力の特集を組んでいてね。」

「はあ」

「あたしは瞬間移動の記事を書こうと思って」

「はあ」

「なによう」

 米倉涼子は、眉をひそめた。

「あんた、中二でしょ。この手の話を食い物にして生きてるんじゃないの」

「僕はすくなくとも、あんまりあんまりです」

「そう。でも、いいわ。あんたを取材してるのは、あんたがあそこの生徒だから。その中でもっとも浮かない面をしており、もっともはみ出しものの気配がしてもっとも乾きものっぽい風貌だったからよ」

 女は続けた。

「数学の田中先生って知ってるわよね」

 また出たー。田中先生。

「田中先生がどうしたんです」

「田中先生が、二十五時間テレビのマラソンに映り込む事件があったでしょう。全国的に取り上げられた事件よ。彼はメディアの論評にさらされ、警察の抑留を一日受け、出所したはいいけど、今日学校で三ヶ月の自宅謹慎を命じられた、時の人であり、大迷惑モンであり、情熱的なマラソンランナーでもある」

「ふうむ」

「一部の人の間では、令和のアベべと呼ばれているわ」

 出世しましたなあ。人間が明るみに出ましたなあ。僕は聞いた。

「それが、瞬間移動にどう関わるんです」

「まあ、聞き給えよ」

 米倉涼子は、タバコを取り出そうとしておずおずとしまった。

「吸っていいですよ」

「いや、子供の前だし。悪影響だし」

 言いながら米倉涼子は慣れた手つきでタバコに火をつけた。僕が煙を吸い込んで咳をし始めると、「ほらー」と言ってタバコの火を消した。プレハブ小屋の扉を開けて、換気をするとお姉さんは再び僕の目の前に腰を落ち着けた。

「話を戻そう」

「ふい」

「田中先生が全国放映されていたころ、この町で一人の女が死んだ。名前は公江。郡山公江」

「なんか、聞き覚えがあるような」

「新聞で観たかい」

「ああ、そうです。でも、もっと前にもきいたような気がする」

「そうかい? 田中先生の口から聞いたんじゃないかね」

 僕はぽんと手を打った。

「そういえば、田中先生が電話してるとこを見て、相手のことを公江って呼んでました」

「へえ、そうなんだ。そうなんだよ。田中先生と郡山公江はそういう仲だったんだ」

「そういうなか?」

 お姉さんは、どんと両手を机に叩きつけて、次の句をことさらに強調した。

「田中先生は、郡山公江の恋人であり、本件の最も疑わしき重要参考人であるのだよ」

「そうなんです?」

 僕は身をすくめて、立ち上がった巨大な影を見上げた。

「動機の面ではね。郡山公江はちなみにこんな幸薄そうな顔をしている」

 米倉涼子はすっと真顔になって顔写真を取り出した。僕は首を前に出して、その写真をあらためた。彼女のいう通り、どことなく、不幸そうな、あわれっぽい瞳をしている。線の薄い輪郭は、そのまま彼女の心の弱弱しさに見えてくる。ずっとは見てられない顔だ。僕は無言で米倉涼子に写真を押し戻した。

「彼女は身寄りのない子供で、天涯孤独。唯一のつながりが、田中先生だった。死体は滅多刺しでとてもじゃないが情のない殺しとは思えない。人間関係の闇が塗り込められてた怨恨由来の殺人。警察は間違いなく田中先生より疑わしい人物はいない、少なくともそう思っているらしい」

 僕は、その話を聞きながら田中先生の顔を思い出した。昇降口の近くで覗き見た先生の顔は、恨みつらみのこもった般若の面相だった。人を殺してもおかしくない、と僕は思った。

「でも」

 米倉涼子の興奮は最高潮に達したように見えた。顔はほのかに明るく、鼻息も荒い。くちびるはぴちっと閉じて喉奥から込み上げる言葉を限界まで押し殺しているようだった。ややあって、言葉の奔流によって決壊したように、彼女の口は開かれた。

「そんなことは不可能なんだよ」

「それはどうして」

 米倉涼子は次のようにまくしたてた。

「彼女の死亡推定時刻はあの田中先生全国放映事件とぴたりと重なっているんだ。あのとき東京にいた田中先生には、五十キロメートルも離れたこんな辺鄙な田舎町に住まう寂しげな女を殺せたはずがないんだ。瞬間移動でもしない限り、ね」

「うーん」

 ほんまかいな。

「うむ」

 米倉涼子はサンドイッチを口に押し込んだ。

「少なくとも、そういう面白記事をでっち上げるには十分な素材だと思ったのだい」

「僕に、何を聞きたいんですか」

「うーん、そうだな。田中先生の奇人エピソードとか変人エピソードとかあったらそれも根拠に盛り込みたいし、学校に働くみょうちきりんな力場があったら、聞きたいな」

「な、ないです、残念ながら」

「ええ、なんのために君を連れてきたと思ってるのよう」

 米倉涼子は、とんだ期待はずれね、とため息をついた。僕はひとまずごめんなさいした。でも、このひとの頭では何がどうなっているのだろう、再び彼女は性懲りも無く

「魔界の扉とか異界に通じる穴とかはない?」

 と、ファンタジックな妄想に取り憑かれた問いかけをした。

「ないない」

 と僕は首を振りかけて、

「あれあれ、待てよ」と考え直す。

 そういえば、あの学校にはあれがあったのだった。

 真っ白な時間的セーフルーム。

 窓を越えて中に入れば外の世界の時間は止まる。

 永遠が担保された空間。

 少しおかしな物理法則が支配する世界。

 あれはまさしく、異界とか魔界とかそういうものじゃなかろうか。

 僕は頭をちゃかちゃか動かして少し考えて、

「いや、ないですね。そんな心当たりは」

 とはきはき答えた。従来の僕では考えられないくらいのハキハキ具合だった。

 今、この場をやり過ごすためだけにあの秘密基地の存在を売るわけにはいかなかった。あれが他の人に知られたらどうなる。めちゃくちゃに研究されて何もかも解明されるに決まってる。

 あそこは僕にとっては大切な場所だ。外で嫌なことがあっても、あの部屋にいけば、綺麗な白い床でごろごろ転がれる。浪川和子と緑茶も飲めるし、お互いに情報を垂れ流し合って無意義な時間をいくらでも過ごせる。僕は浪川のことを何も知らないし、どんなやつかいまだにわからないけど、だからこそ、だからこそ、僕は浪川と喋ることができる。

 浪川に関しては今日はどこかそっけなかったけど、明日になれば浪川は元通りになり、だらしなくゆるいセーフタイムを送ることができるようになるはず。 僕はそういう目論見のもと、秘密の保持に努めることとする。

「ふうん」

 お姉さんは、僕をしばらく見つめていたけど、視線を外して、後ろのクッションにもたれかかった。

「面白いことってないのね」

「そうなんですか」

「きみはまだ子どもだから毎日が面白いでしょ」

「関係あるんですか」

「大有りよ。子供は楽しくて当たり前。親に守られ教師に守られ、友達に守られている。人生のセーフルームみたいなものだもの」

「僕はこどもが楽しいと思ったこと、ないけど」

「ありゃ?」

「学生は、つまらないです。た、たまに楽しいことがあるだけです」

「それがいいんだろうがい。子供には闇と闇の間に光がある。光の中で子供は幸せになり、次の闇もその幸せパワーで乗り越えられる。また光がやってくると信じれる。でも、大人には光はない。闇のあとには闇。闇に続く闇。延々に続く闇のおかわり。闇のわんこそば。トンネルを抜けるとまたトンネルだった」

 お姉さんは、自分の言葉に合わせてどんどん語気を弱めていった。自家中毒を起こしたお姉さんは、大人いやだあ、とその場でのたうち回っていたが、急に大人しくなると、僕を車に乗せて、家まで送ってくれた。夕暮れ時だった。結局、僕はあのプレハブ小屋まで何をしにきたんだろう。取材らしい取材も受けてない。人とうまく喋るコツも教わってない。でも、僕は人とうまく喋るには四畳半程度の狭い空間がちょうどいいのかもしれないとうっすら思っていた。


 米倉涼子と遭遇した日の夜はなかなか寝付けなかった。

 僕は、布団の中で、彼女に聞いた、田中先生瞬間移動事件(ひとまずの命名)の話をずっと考えていたのだ。

 目がばちばちに覚めてしまった僕は、下の階にお水を取りに行った。洗面所の蛇口をひねると何かが込み上げるような音と一緒に、冷たい水が吹き出した。コップにいっぱいの水を注いで、ごくりと飲み込んだ。

「ぷはー」

 豪快な息を漏らした僕はぼんやりと考える。

 もしかしたら、田中先生は、本当に本当に東京で行われた生放送に映り込んだのと同じ時間に、郡山公江を殺したのかもしれない。

 それを実現する方法は存在する、と思った。

 しかし、同時になんだか嫌な予感もするのだった。

 でも、検証する必要がある。

 僕は翌朝、目元にドス黒い隈をみにつけて学校に出動した。時間がたっぷりある放課後を待って、期待を抱きながら、階段裏のセールルームの窓を開けた。中には、誰もいなかった。しばらく外で時間を潰していたけど、誰も来なかった。

 しかたない。僕は一人きりで実験することにする。でも、二人でやったらどんなに楽しかっただろうとも思った。

 僕はセーフルームに対して誤解を抱いていた。

 僕は、セーフルームにいる間、外の世界の時間がきっちり止まっているのだと思っていた。僕たちが部屋で喋くっている間、世界は凍りついたように身動きしないものと考えていた。

 でも、きっとそれは違う。

 僕はセーフルームからボールを外に投げた。

 ボールは小窓を越えたあたりで急激な速度低下を見せ、小窓をまるまるはみ出したところで止まった。なるほど確かに、こう見ると、外界は、完全な時間停止状態に見える。

 しかし、これだけで判断するのは軽率だ。

 今度は、僕は階段の裏にしゃがみ込み、小窓からボールを投げ入れた。すると驚くべきことに、ボールは小窓を通り越したあたりから急峻な加速を見せ、一瞬にして姿を消した。呆然としていた僕は、はっと我にかえりボールの所在を確認した。向こう側にある壁のそばにボールがあった。瞬間移動したのではなく、速度が爆発的に跳ね上がったのだ。

 僕はボールの運動速度について、定量的手法で計測し、以下のように結論づけた。

 こちらの世界の時間は、あちらに比べて数万倍に圧縮されている。時間の進み方がちがうだけなのだ。空間自体が時間概念から切り離されているわけではない。

 セーフルームに入る前と出る前で時計の時刻は変化せず、周りの光景も大した変化はしない。だから、僕らは部屋にいるとき外の時間が止まっているのだと勘違いをしてしまった。僕たち観察者に備わっている時間分解能があまりにも不足しすぎているためだ。

 セーフルームで経過する時間は、僕たちのいる世界で経過する時間に比べて、何万倍も早く進んでいる。つまり、食パンを今この部屋に投げ込んで数時間おくと、食パンのゾンビができあがる。死体をこの部屋に投げ込んで数秒漬け込んでおくと、数日経過した状態の死体が出来上がる。この超物理を駆使すれば、法医学的パラメータを二日未来にシフトさせることは容易い。田中先生も、きっと何らかのきっかけにこの部屋のことを知った。そして、この部屋の持つ性質を自分の犯罪計画に組み込んだに違いない。

「うむむむ」

 しかし、しかし。もし、そうだとしたなら。

 心の中にぼんやりと考えが浮かんだ。うっかり、この部屋の秘密を知ってしまった僕と浪川は、先生にとって、良からぬ存在なのでは。僕達がしかるべき学術的権威にこの部屋の存在をうちあければ、科学系雑誌だけでなく、多くのマスメディアが大々的に取り上げるだろう。報道によってこの部屋のことを知った警察関係者のなかには、必ずこの部屋と田中先生を結びつける人達があらわれる。田中先生がもし僕たちが部屋に出入りするのを知っていたとしたら、今こうしている瞬間も僕は田中先生に狙われているんじゃないか。しかしながら、考えがそこに至ったときには、やや遅すぎた。僕は目先のことに前のめりになりすぎていた。後ろに近づく、背の高い人影にまるで気づかなかった。首にあたる男のむくつけき吐息に気づいたときにはもう遅く、視界に暗幕が引き下ろされた。

「むきゃん」

 意識を失う直前、僕は子犬のような悲鳴をあげた。

 

 目を覚ますと真っ白い部屋にいた。そこはもちろん、あの時間的セーフスペースだった。

 目の前には数学科の教師、平成に舞い降りたアベべ、映り込み系迷惑一般人、殺人被疑者、さまざまな肩書きを縦にする時の人、田中先生があぐらをかいて座っていた。僕は体を動かそうとしたが、両手足が紐で縛られており、自由に動けない。

「よう、起きたか。僕ちゃん」

 田中先生はコーヒー缶を片手で飲み干した。

「あ、お、あ、お、あ」

「緊張すると壊れたタイプライターみたいになるんだったっけ」

「あ、あ、あ、い、い」

「ゆっくり話しなさい、ゆっくりでいいから」

 先生は優しい声で言った。

「深く息を吸って」

「すううううううううう」

「吐いてー」

「ふうううううううううう」

「すってー」

「すうううううううう」

「吐いてー」

「ふうううううううううう」

「落ち着いたかい」

 僕はコクリとやった。

「コツは息を吐く時に体の筋肉をゆるめる意識を持つことだ。眠れない夜にやるといい」

 先生は立ち上がって、僕の頭に手を置いた。ほんのすこしだけ安らいでしまった僕に対して、先生は一転して不穏な言葉を言い放った。

「君に、もう眠れない夜は来ないけどね」

「ふぇ?」

 あまりに優しい声だったから、何か別の言葉を聞き間違えたのかと思った。

 しかし、先生はポケットから結構しっかりしたナイフを取り出した。冷たく光る切っ先を見て、僕の目はちぎれんばかりに開いた。

「君には今からこの部屋で永遠に眠ってもらう」

 彼の低い声が僕の心胆をさむからしめた、ちょうどそのときであった。

「先生!」

 聞き馴染みのある声により、先生の手の動きは止まった。僕は先生の広い肩越しに、浪川和子が立っているのを見つけた。このときの僕の感激ったら、僕の所有するありとあらゆるレトリックを駆使しても書き表せはしまい。だけど、浪川。僕は心の中で読みかけた。ここは危険だ。どうか君だけでも逃げて、どうか大人の人を呼んできてくれたまえ。

 僕が心の中でそう呟いていると浪川はこちらに歩み寄ってきた。危険だと言っているのに!身をこわばらせる僕をよそに、彼女は、先生の肩に手を置いた。

「先生、こんなこと、もう終わりにしようよ」

 浪川は腑に落ちない言葉を喋った。

 僕は首を傾げた。

 なにか口ぶりと所作がおかしい。彼女は何から何まで把握しているような物言いだった。

 先生は、浪川の手をゆっくりと握った。

「和子、すまん。でも、これで終わりにするから」

 和子?

 僕は言葉を反芻した。

「でも……」

 浪川は躊躇うように顔を背けた。

「わかった、あたしたちのためだもんね」

「そ、そうだ。僕たちのためだ」

 浪川は仕方ないわね、と言ってしゃがみ込んだ。それから僕に向かって決まり悪そうに薄笑いを浮かべた。

「と、いうわけだから。ごめんね。あたし、君といれて楽しかった」

「どういうこと?」

 僕はようやく浪川に尋ねた。

「この部屋を使って郡山公江を殺すの考えたの、あたし」

 浪川は言った。人差し指で自分の顔を指差している。

「先生が郡山公江を殺さなきゃって言うから、ああこうしたらいいって思ったの。アリバイ工作ってやつを、やってみたらいいと思ったの。他の誰かがあの部屋を見つけてしまうのは想定外だったけど」

 彼女は僕の目を見た。体の内側からハンマーで殴られているような気分だった。

「あたしって、中身がなくて、バカだけど」

 浪川は、先生を覆い込むように抱きついた。

「他人の形に合わせるの、特技なの。でも、いつも少しずれちゃう。2ミリくらいなの。2ミリって大きくて、簡単には埋められない。あたしにはピッタリの形があるんだって、ずっと思ってた。それを探してたの、めちゃくちゃ長い間ずっと」

 僕は口をぽかりと開けた。

「それで、発見した。あたしは田中先生とぴったりなんだ。頭がうんとおかしいけど、ともかくピッタリなの」

 浪川が喋っていることの意味はわからなかったが、その熱気の入った口振りから、彼女が田中先生のことが好きなのだと理解した。しかし僕はたった今理解した事実と彼女の過去の発言との間にねじれがあることに戸惑った。

「君、田中先生が嫌いって、言ってたじゃない」

「言葉を額面通りに受け取るもんじゃないよ。言葉に真実味なんてないんだ。あたしたちの喋る言葉ってお芝居の台詞とそう変わらないのよ」

 僕は浪川の瞳を見た。僕は、浪川を見た。

 それは浪川じゃないように見えた。ぶわっと毛穴が開く感じがした。

「な、浪川は、ぼ、僕に嘘をついてた」

 声もうわずった。

「嘘ってわけじゃない。けど、ごめん」

 浪川は謝った。

「ごめんで、す、すまされないぞ。な、なみかわはひどい。な、な、なみ、なみみみみみみ」

 それから、僕は言葉を紡ぐことをやめてしまった。次に僕が何事かをしゃべろうとしたら、壊れたタイプライターみたいになってしまう。そんな気がした。僕がうまく喋れるのは、いつだって、自分の言葉が自分と相手を傷つけないと安心しているときか、相手を傷つけてもいいと確信しているときだけだった。

 視界がじわりとふくらみ、目の前に立っている浪川と田中先生の姿が歪んだ。

「本当にごめんなさい」

 声も出さずに泣き出した僕を見て、浪川は本当に申し訳なさそうな顔をした。

「なんて言っていいやら」

 僕は涙を流しながらも、頭には無数の洋画に出てきそうな洒落た文句が踊っていた。でも、結局どれも口にはできない。

「田中先生。ごめんなさい。彼を早く楽にしてあげて」

 浪川は非常に情深い言葉を喋った。

「怖くておかしくなっちゃったのよ」

 田中先生はわかった、と頷くと手に持ったナイフを再度頭のあたりに掲げた。

「僕くん、ごめんな。俺たちの愛の礎になってくれ」

 ひどいことを言っているわりに仏みたいな優しい情念が、声色から伝わった。

 僕はぎゅうっと目を閉じ込み、歯を食いしばった。

 僕の人生に闇の幕が引き下ろされようとした、その瞬間である。

 向かいの壁、ちょうど外界と部屋を接続する小窓が設けられていたあたりから、凄まじい轟音とともに土煙があがった。僕は田中先生の肩越しに、部屋の奥で起こった事象をその目に収めることとなった。

 灰色にもくもくと立ち込める土埃。崩れ落ちた外壁の欠片を踏みつけるようにして黒く大きな影が立ち上がった。影はうっとうしげに埃の霧を払うとぬうっと顔面を出現させた。ゴリラの万力で潰したような精悍な顔つきに、チンチラみたいなクリクリの目をした男。彼、他ならぬ塾長は、土煙を纏いながら堂々たる姿勢で屹立し、田中先生を睨め付けていたのである。

 このときの僕の気持ちは言葉にできまい。

「じゅ、塾長」

 このときの僕の気持ちは言葉にできまい。ありとあらゆる文彩を巧みに行使したとて、この時の僕の気持ちは。

 塾長は毅然とした面持ちで前に進み出て、田中先生の頬を蹴り飛ばした。彼の小さな体は、壁に打ち込まれ、綺麗な白い壁に田中先生の形をした薄汚い穴ぼこができた。老人とは思えないその脚力に僕は目を見張った。彼の体には一体いかほどのパワーが込められているのだろう。

 塾長は僕と浪川に見向きもしなかった。彼はまっすぐ田中先生の方へ歩いて行く。

 「やめて」

 両手を広げて立ち塞がったのは、浪川和子。彼女の目には目の前にいる男が突如自分達の幸せを壊しにきたハゲのじいさんに見えているのだろう、恐怖がありありと浮かんでいた。

「お願い、やめて」

 しかし塾長は、聞く耳を持たなかった。浪川の手を振り払い、田中先生のほおを引っ叩いた。

「やめて」

 浪川は必死に塾長を止めようとしていた。小さな体で巨大な老人の体を羽交い締めにしようとさえした。だが、そのすべてが徒労だった。塾長は鋼鉄の剛腕を田中先生に叩きつけた。

「なんなのよあの男は」

 涙でほおを濡らした浪川は、僕の襟を掴んで怒鳴りつけた。できれば、そういうのはやめてほしい。僕は目を逸らして、へらへらの笑いを浮かべた。

「あんたの知り合い? 止めなさいよ」

「浪川はなんで僕と一緒にいてくれたの」

 僕は、彼女の激情の隙間に差し込むように問いかけを発した。彼女は目を身開いて言葉に詰まった後、「知らない!」と答えて、グーで僕を殴った。

「浪川、僕は君と友達になれたと思ったのに」

 彼女はまた僕を殴った。彼女の拳は意外にも重かった。頬骨が悲鳴を上げた。心がダークになっていく僕と裏腹に、浪川は何かを思い付いたように顔をぱっとあかるくした。くるりと首を動かして、壁際で田中先生をいためつける塾長に向かって、脅すような声をあげた。

「おい、あんた、先生殴るのやめないとコイツ殴っちゃうよ」

 しかしながら塾長はそんな脅しは気にもとめず、無言で田中先生をゴンゴンゴンゴンと殴りつづけた。その様子を見た浪川は悔しげに口許を曲げ、どうしようもない様子で、小さい拳を僕の頬にぽかりとぶつけた。ときおり、塾長の方を向いて、

「ねえ、聞いてるの?」

 と呼びかけた。

 塾長は無言で田中先生をゴンゴンゴンゴンと殴った。浪川は再び僕をポカリと殴った。

 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン。ポカリ。ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン。ポカリ。ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン。ポカリ。浪川が非力な猫パンチで1回僕を殴っている間に、塾長は田中先生を7回鋭く殴りつけた。

「や、やめてえええええ」

 浪川が悲鳴をあげながら僕をポカポカ殴った。塾長は悄然とした面持ちで、田中先生をゴンゴンゴンゴン殴り続けている。


 田中先生の全身がしわくちゃの毛布みたいになったころ、塾長は殴る手を止めた。塾長は拳についた田中先生の服の断片をフッと吹いて吹き飛ばした。

 塾長は僕と浪川の間に割り込むと、僕の手足の拘束をほどき、腕を引っ張った。浪川は、塾長の猛攻からようやく解放された田中先生のもとに走っていった。驚くべきことにあれほどめためたにされても意識があるらしく田中先生は顔をあげた。だが、そこに表情というべきものはなかった。浪川は、田中先生のほおに手を当てた。

 塾長は僕の腕を引っ張った。その横顔は疲れ切っているようにも見えた。

「ねえ」

 入り口の近くまで歩いて行くと浪川が呼びかけを発した。振り返ると、彼女は僕の方を向いた。

「お願い。この部屋のこと、誰にも言わないで」

「言いふらす」

 僕は言った。

「めちゃくちゃネットに流すし、学術的権威に受け渡してめちゃくちゃ研究してもらう。国家権力に田中先生を捕まえてもらう。そして浪川と先生の仲を引き裂く」

 浪川の身開いた目から涙がこぼれ出した。

「な、なんでそんなことするの」

「なんだか気に食わん」

 浪川はがびーん、とショックを受けていた。僕はそれに、と付け加えた。

「田中先生は浪川とラブしても幸せにならん」

「なんでよ」

「浪川は田中先生とぴったりではないから。君は少なくとも、ぴったりではないと思ってる」

「それはうそ」

「うそじゃない。僕は人の心が読める」

「それはうそね」

「うそだけども、うそではない。君が田中先生に向ける目は、1秒たつごとに熱がなくなってる」

「わかったようなこと言わないでよ。友達でもないくせに」

「友達になりたかったけどね」

 僕はひそやかに言った。浪川は首を振った。

「そんなことしない。今度はそんなことしない」

「浪川。君はだんだん、自分と先生とのずれが目につくようになっているんじゃないのかよ」

 浪川の目はぎょっとしたように見開かれた。地面でボロ雑巾のように這いつくばっている田中先生を見る。田中先生は、ボコボコになった歯で、浪川を見た。

「か、かずこ?」

「せ、先生。あれ?」

 浪川は、顔を引き攣らせた。

「一ミリ、二ミリ、三ミリ」

 口が慎重に何かを数え上げている。彼女の肩が震え上がった。

「いや、ちょっと待って」

 田中先生のそばから飛び退いた。彼女の膝を枕にしていた田中先生の頭は床に強く打ち付けられた。先生は頭に星を散らして目を白黒させた。

「おい、和子。どうした、和子」

「くそ、まただめかあ」

 浪川は立ち上がると、僕の方に走っていった。僕はほいっと身をかわすと彼女は入り口に空いた大穴を飛び越えた。飛び越える瞬間、「あたしの王子様、どこへいるの」とお芝居のセリフみたいな言葉を涙とともに口走っていた。「王子様ー!」廊下を走っていく。なぜか、浪川の声が普通のはやさで聞こえた。

「な、なんばあ、なんば、どこだあ」

 僕は残された田中先生を見下ろした。頭を強打して意識が朦朧としているのか、虚な目で喘いでいる。

「俺にまた、寂しい思い、させる気かあ」

「先生には郡山公江がいたんじゃないんですか」

 田中先生はこちらをぎろりと見た。しかし迫力にかける。

「俺とあいつはずれていた。そうだ、一ミリ、いや一メートルくらいは」

「そんなの大した差じゃない」

「俺には大きなずれだ」

 郡山公江がもうこの世の人ではないのを思い出したのか、田中先生は「だった」と過去形に言い直すと、白目を剥いて眠り込んだ。

 僕はどうしたものかと思って塾長を見ると、巨大なハンマーで壁を叩き壊していた。

「アルバイトなんだ」

 彼は言った。

「バイト?」

「妹に言われてこの壁を壊しにきたんだ」

「妹?」

「ああ、そうだよ。妹に雇われ、いかがわしい仕事の片棒を担いで金を稼いでる。業腹だがしかたない」

 僕は塾長がハンマーを壁に叩きつけるのを、黙ってみていた。僕の見つけたセーフルームはとうに壊れていたので、別に今更それが粉々にされても構いはしなかった。

「僕を助けるバイトもあったんです?」

「言っておくが、俺は何も知らなかった。何も知らなかったが、成り行き犯罪者みたいなのがいたからとっちめたのだ。良いことをしたあとは全く気持ちがいいな」

 僕は目をパチクリさせた。塾長がそんなまっとうなことを喋れる人間だったなんて、本当にびっくりする。

「塾長……」

「どうだ、俺のワンツースリーは、うまく決まってただろ」

 塾長はハンマーを持ったまま両拳を前後に差し向けた。どうやら自分の腕っ節を見せつけたかっただけなのかもしれない。それにしても危ない男だ。そんなでかい金槌を持って腕を振り回さないでほしい。

 塾長は剛腕のくせに結構きめ細かい仕事をした。まるで星白金のような繊細さである。壁は本当にかけらも残らず、すべて取り払われた。何も知らない人からしたら、学校の階段うらに奇妙なスペースが生まれたように見えるとおもうけれど。僕は、ボールを壁のあった場所に向かって投げてみた。そこには時間の性質を隔てる界面があるはずだった。しかし、球速は変化せず、ちゃんと向こう側の校舎の内壁にぶつかった。

「内と外がなくなったら、異界は壊れるのだよ。柳田國男あたりがそう言っていた。茶室の本で」

 塾長は言った。

 民俗学的な都合らしい、と僕は理解した。

 僕たちは田中先生をどこかに運ぶかについて特に話し合うこともせず、彼を冷たい地べたに転がしておくことにして、校舎から退散することにした。


 あの白い部屋から出て、異様に校舎が暗いのに驚いた。夕暮れ時だと思うが、深夜くらい暗い。塾長が部屋の壁を壊してから、こっちとあっちの時間が同期して進んでいたのだろうと僕は理解した。どちらがどちらの足並みに合わせたのかは、知ることはできないけど。

「妹のバイトは面倒臭いし訳がわからんけども、割がいいんだ。お金がよく貯まる」

 昇降口を出たところで、塾長は言った。

「お金をためたらまた塾をやって、塾長になる」

「僕、行きますよ」

 と僕は言っていた。塾長は、

「何年かかるかわからん。そのころお前は、大人になっているかもしれん」と言った。

「大人」

 僕はなんとなくおデブの米倉涼子の言葉を思い出していた。子供は闇と闇の合間の光のなかで育つ。大人は闇から闇へとただ走り抜け、そして走り抜け、また闇へ向かうのだ。闇から闇へ。from闇to闇。闇after闇。

「大人は楽しいぞ」

 塾長は言った。その言葉はどこか空だった。

「なんでそんな嘘をつくんですか」

 校門を抜けると塾長の手元がぱちっと光った。タバコに火をつけたようだった。

「塾長、前タバコ吸わないって言ってませんでしたっけ」

「言ってないよ」

 すぱーと煙を吐いた塾長は清々しく言った。

「なんでそんなに嘘つくんですか」

 塾長は、吸ったばかりのタバコをぽいっと車道に放り捨てた。その上を、すぐさま自動車が走っていった。

「タバコ、ポイ捨てしちゃだめですよ」

 塾長はさらに、タバコの箱をぽいっと排水溝の穴にねじこんで、靴裏をつかって中に押し込んだ。ことりと底を打つ音が響いた。

「それ、校内清掃のときにめっちゃやなやつだ。塾長みたいな人がやってるんですね」

 僕はげんなりした。塾長は決して良い大人ではない。

 二人で並んで夜道を歩いた。塾長は車道側を歩いて、僕は歩道側を歩いた。暗い道だったが、ときどき電灯があった。塾長の影はやたら濃かった。

 僕たちは会話はしなかったが、時々考えたことをそのまま話した。僕は友達ができないことと、友達がたった今いなくなったことを憂いた。塾長は星空を見上げて、ときどきためになる話をした。かと思うと、道端の下生えに埋もれているトマトジュースの缶を拾い上げ、缶の下側に記載されている濃縮還元という言葉についてだくだくと喋りはじめた。

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