2022年度・九州大学文藝部・追い出し号『かえりみち』

九大文芸部

忘れるくらいの 作:日立無紗

皮膚が昏い水の底から昇って知る

立体的で、具体的で、直接的な現実

ここにいたいわけじゃない

近い路地を通って抜け出たい、のに

近い道を通って逃げ出たところでまたことばを失う

わたしは結局、ここにいたいのでもない


生のなかに居場所がないのはわかってる

結合と非結合との結合のなかにわたしはうまく関係できない

生はわたしの内側にない

わかってるのに

生を諦めて逃げた、近い場所すらわたしの場所ではない

死は、わたしの内側にない



どうしたらいいって訊いていい?

今、生にも関係できず、死にも関係できないわたしが

内側で分離していくさまを、

近い逃げ場に走って 走って 走って 走って

とうとうおまえにことばを引き裂かれて墜落するさまを

いちばんそばにいるおまえが笑うんだからね

水みたいになくなれたらよかったんだ


もっと浮遊した命になりたい

生きているでも 存在しているでもない

死んでしまったでも 存在しないでもない

心を溶かして意識だけになった、生と生のはざまに陥ってしまいたい

わたしは何にも関係せずに、ただわたしとだけいっしょでいる

体を失くした世界の隅で呼吸を失う



     季節の条件


あのときあなたのことばで切り分けたわたしの断面にだけ心臓があった

そうして心臓は二つになって、わたしはわたしとおまえになった

わたしから抜け落ちたものはぜんぶおまえのなかにある

わたしがいらないと思ったすべてがわたしのなかにある

するとおまえにだけ芽が吹き、葉が生って、花が咲いた

わたしは? わたしはどうだった?

あなたが振りまく笑みがわたしの肺に溜まって呼吸できないから

ほとんどみんなおまえに背負わせてみる

おまえにまた花が咲く


あのときあなたのことばで切り分けたわたしの断面から血がこぼれる

わたしがつくる祈りの痕は、永すぎる春のおまえには早かった

わたしが手を伸ばしたとたんぜんぶおまえのものになる

わたしがいなくなったとたんぜんぶおまえのせいになる

するとおまえは心臓をもう一度ひとつにしたくなった

ああ、もう、いいんですって、わたし、言えたらよかった

あなたがこぼす涙ひとつひとつがわたしだから

ほんとうはおまえもわたしだった わたしは最初からひとつのわたしだった

血のかよった人間の心臓がほんとうのわたし



     生まれかわり


午後五時の遅すぎるモーニング・コールが一日かぎりの命のはじまり

また、何もない、心臓のない、からっぽのわたしだったから

わたしは、わたし以外が闇になるまで起き上がれない


わたしが外といっしょになったとき

公園のあかりに腕を透かして

きのうの祈りの痕をなぞって気づく

ああ、祈りは届かなかった

あしたはいい日になるように、そう願ったはずなのに


今日生まれたわたし、またどろどろのわたし

嘘みたい、ほらまた、人間にはなれないって笑ってみる

子どものいない公園の抜け殻でブランコに向き合って、ご機嫌うかがい

心臓はわたしのなかにありませんでした


だからまた祈る

あしたはいい日になるように、人間のわたしが生まれますように

子どもがいなくなるとき わたしは生まれる

そのわたしがちゃんとした人間で、幸せになれますように



     灰色の存在


あなたのいるほうに向かう

あなたのいるほうに歩いていく

あなたは声だから、光だから

わたしひとりのためについてくれた嘘みたいな森のなかで

花のかおりにことばを忘れ

灌木の茂りに押し流されながら

わたしはあなたに向って歩いていく


あなたがつけてくれたダリアのコサージュ

わたしだけのもの

頬に、肩に、腿に、その内側に咲いて消えないから

わたしだけのもの

甘いにおいのしない体のなかに蜜みたいな熱がたちこめる

愛の蔓を伸ばしたから

愛の花が咲いた


でも、わたし

ほんとうは枯れちゃいたいみたい

地に足つけたまま浮遊するレヴィタチオンでも

わたし ただ透明になりたいみたい

灰色が厭でくりかえした祈りの痕が懐かしくなって

あなたなんか忘れて、いきたいみたい

どっちつかずのわたしの手を引いてくれた、わたしの腕

それに連れられて、わたしとわたし、ひとりきりで

何でもないになりたいみたい


川の水が澄んで 土の底が冷たくて

わたし ひとりになりたいみたい



     夕方が怖かった


わたしが誠実から生まれたのなら、まだ物語になった

わたしがわたしであることに理由をつけられた

でもわたしの命は愛の結晶だった

吹けば消しとぶ砂の山で、今もだんだん身を切り崩してる


こんなことを話すために仰向けになったんじゃない

喫茶店から家までの距離をうつむいて

おまえの話に笑う勇気もないのを隠したいんじゃない

どこまで突き詰めてもわたし

隅の隅までわたし

無数で一つのうねる波になれないわたし

そのわたしが泳いでもいけない 飛んでもいけない


人を殺しそうなくらい澄んでる空気に侵されて

大地とおともだちのわたしが

鳥も魚もおまえも全部 そのメをつぶしながら生きている


染みつきそうなくらい淀んでる空気に溶かされて

おまえにとおせんぼされてるわたしが

愛も誠実もおまえも全部 その心臓をつぶしながら生きている


朽ちさびれた血管は折れて

石鹼置きの汚れがいちばんうざくて

世界は愛にほだされた


死んでいった季節はアルバムのなかになくて

コップの茶渋がどうしても落ちなくて

わたしは誠実を孕まされた



     生や生活や


上からそっと眺めてみる

わたしが空で、星で、雲で、雨なんだと思う

わたしが太陽になって、照らしたあの場所におまえがいる

わたしが風になって、息を吹きかけるとおまえは身をすくめる

わたしが見えていないみたいだった


だから

おまえを毎日ていねいにつぶしてあそびたい

ふしぎと笑みがこぼれる うれしくなる

動かなくなったおまえの体は夕日よりずっと赤い

口にするそばから笑いだして顔を覆う


本に閉じこめた季節は押し花

おまえがくれた花だって思い出した

すこし乾いた茎が気味悪かった

においもない、できもひどい押し花を

口づけしてからぐしゃぐしゃにして捨てた



かたわらから離れないでいる

わたしが目で、口で、耳で、肺なんだと思う

わたしが心臓になって、送る血、澄んだ血がおまえを生かす

わたしが足になって、かわりに歩いてあげるとおまえが疲れたと笑う

何がそんなにおもしろいんだろう


だから

おまえを毎日ていねいにつぶしてあそびたい

よごれたきれいな血を飲む 吐きたくなる

息をとめてもおまえのにおいが肺にたまる

わたしの四分の一、おまえでできてるみたい


消えたいと願う心は石鹸

今よりきれいにはならないから

すり減らして すり減らして なくなるしかない

そうして、ひとしきりあそべば

あとは全部、終わりにしていいか。



     apathy, empathy


冬枯れた樹は天に伸びる箒

空の埃を掻き止めているように見えた

わたしは自分の心までが

そこに引っかかって、離れられなくなっている気がした


吹奏楽部は学校という歌のアウトロダクション

人のいない教室を劇場にした

するとわたしは自分の体が

そのためだけの飴菓子になって、からっぽな甘さになった気がした


わたしはどこかにいます

どこか遠く離れたところに引きとめられて

あなたのもとには二度と行けないみたい


だから祈ってやまない

あなただけは

どうか世界にほだされないように

綿菓子みたいにちぎれて溶ける命を悪用されないように


わたし一人、いなくなるから

それで終わりにしてほしい

命の一つなら、捨てても怒られないよ

好き嫌いの多いわたしだから

お残しくらい許してよ



     身勝手


水をかぶってすこし冷めた肌にまだ熱がある

雫が肩に落ちる 鳥肌と寒気がのぼる

熱を持つのも失うのも私の心臓のせいで

生きるのも死ぬのも心臓ひとつで変わるなら

そんなものにかかずらわないために つぶしてしまいたい


はいはいじゃあもうそれでいいよ、って言えたらいいんだけど

くだらない温度上昇につきあわされて

期待したり恨んだりする

おまえの笑みにつきあわされてる

どうしようもなく吐きたくなる


わたし おまえほど賢明じゃないから

血がなくなったり増えたりするのにふりまわされて

殺したいとかなんでおまえばかりとか考えてしかたがない

わたし おまえと違って心臓があるから

息を吸いこんだり吐きだしたりするのに精いっぱいで

涙を流したまま 隠すのもできずに 風に身をまかせる


冬になり世界も青ざめたよう

においが色になって目に飛びこんでいた葉が花が

茶色ににじんで朽ちている

土のにおいもせず わたしは

乾いていく涙で頬が痛い

虫の音もしない溶けた世界に烏の声が響いて

よけいに寒くなったみたい


なにもできないんだね が眠っているあいだも頭をこつこつたたく

なんともないよ じゃひとつも消せないのに笑わないといけない

愛が正解じゃないんだから

愛の時代は終わりです

誠実も優しさも全部嘘だから

生活なんてなくて大丈夫です

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