第9話・掛け違い
帰り支度を整える手は
今まで素通りしていた楽し気な会話の数々が、心地好い小鳥のさえずりのように耳に入ってくる。自分でも驚くくらいに浮かれているな、と愛音は可笑しくなった。
人の悪意と、それを糧とする魔女。その魔女を追う白銀の剣士と、小さな妖精。それは幼い頃から慣れ親しんだ物語の中の世界。自分が望めば何だってできるし、何だって叶えられる。そんな物語での冒険は想像の中だけで、現実にはそんな想像に思いを馳せるだけだ。
けれど今、自分の周りで起きているのは紛れもない現実で、想像の中の世界ではない。憧れと期待が詰まった物語。まるでそんな物語の登場人物の一人になったみたいで、愛音は胸が高鳴った。
想像ではないということは、もちろん恐怖も危険も付き纏っているのだけれど、長い間抱え込んでいた自身への不満や抑圧を思えば、そんなものは些細なことのように思えた。
ふと、最近よく耳にする歌が聞こえた。男女の恋模様を歌う、この時期定番のクリスマスソングだ。気持ちが盛り上がったクラスメイトたちが、声を弾ませて歌っていた。
もうじき、そんな季節がやってくる。イルミネーションに彩られた街路樹、店先にはサンタやトナカイの装飾が施され、繁華街は少し早めのクリスマス一色に染まっていた。
彼等を誘ってみたら、一緒にクリスマスを祝ってくれたりするだろうか?
ただの妄想に過ぎないことだけれど、もし一緒にクリスマスを迎えることができれば、それはとても素敵なことだ。たまには戦いを忘れて。たとえばご馳走を並べて。ケーキを食べて。そんな想像をすると逸る気持ちはより強くなり、愛音はいそいそと鞄を手に取った。
「……愛音」
「水瀬?」
早足に教室のドアを出たところで、愛音は水瀬に呼び止められた。
水瀬は愛音に声を掛けたはいいけれど、何かを言おうとしては言葉を飲み込み、また別の言葉を探す。どこか遠慮がちな様子で、いつもは明け透けな水瀬にしては珍しい。
「何かあった?」
「ああ、うん……、その…さ……」
言葉を濁しながらも、それでもいつもの軽い調子を作ると、水瀬は笑顔を向けた。
「今から時間ある? 良かったらさ、ちょっと付き合わない?」
「今から?」
「クラスの子たちに聞いたんだけどさ、ちょうど駅前のケーキ屋でクリスマスフェアをやってるらしくてね。今ならケーキ食べ放題なんだって!」
「ケーキって、この間も同じこと言ってなかった?」
「たはは、今回は大丈夫。途中で誘惑に負けないように、まっすぐ行くから。愛音も、もちろん行くでしょ?」
「ええと、今日は……」
水瀬の誘いに、愛音は顔を曇らせた。
ここ数日、放課後はグリィたちと行動を共にしている。特に約束を交わしているわけでもなく、
それにこれは、今までただ生きるために我慢を重ね、諦めに気持ちを引っ込めるだけだった愛音が、ようやく絞り出すことのできた願望だった。
「……予定、あった? 珍しいね、放課後埋まってるなんて。あ、ひょっとして病院?」
「それは……」
言い澱む。
放課後の行動のことは、もちろん誰にも話していない。親にも友達にも内緒にしている大事な秘め事だ。
不死の男と一緒に、人の負の感情を糧とする魔女を追う。
特に先日、揃って危ない目に遭ったばかりの水瀬にこんな話をすれば、きっと危ない真似はするなと大目玉だろう。いや、そもそもこんな
『予定がある』ただ一言そう告げればいいだけなのだろうけれど、その言葉がなかなか出てこなくて、愛音は当たり障りのない言葉を探す。
そんな愛音の様子を察したようで、水瀬は引きつった笑いを浮かべた。
「あ、ああ~、そっかそっか、予定あったか~……」
水瀬の身体からゆらりと、暗い靄のようなものが見えた気がした。
けれどそれは一瞬のことで、目を擦るとそこにあったのは気まずそうな友人の顔だった。
「あの……」
「いいのいいの、気にしないで。よくよく考えたら、あたしも部活があったんだった。それじゃ愛音、あたしも行くから」
それだけ一息に
「水瀬、また今度──」
語り掛けた背中は言葉を言い終わるより先に、あっという間に小さくなった。
〇
しっとりと焼き上げられたスポンジと口当たり滑らかなホイップクリーム、そこに真っ赤に熟れた甘酸っぱいイチゴの乗ったショートケーキ。もっちりとした触感のキッタラに玉ねぎやアンチョビ、それにケッパーなどを加えたトマトベースのソースがよく絡むパスタ。
もちろん、そんなお洒落な料理も好きなのだけれど、彼女が好むのは豪快に厚切りされた食べ応え抜群な焼肉に、溢れるほどお皿に盛られた熱々の唐揚げ、がっつりとお腹に溜まるジューシーなかつ丼など、もっぱら部活男子たち顔負けのような量もぺろりと平らげてしまう。
他にも、水瀬はカラオケが好きだ。ゲームも好きだしショッピングも好き。愛音が好むような活字の細かい小説は苦手だけれど、マンガなら大好きだ。
それらの好きを我慢してきたのは、他にもっと大切な目標があったからだ。
目標に向けて水瀬は、トレーニングを積み、コンディションを整え、より記録を伸ばす工夫を重ねてきた。他の部員たちと比べても、人一倍頑張ってきたとの自負はある。
すべては目標を成すための毎日。それが辛いとは思わなかったけれど、並々ならない努力の成果は、確実に水瀬を目標へと近づけていた。
ゲームセンターを出る頃には日も暮れていて、電飾をほどこした派手な装飾と定番で聞き飽きたクリスマスソングが街を彩っていた。人通りがなくなるにはまだ時間も浅く、活気付いた街は夜の顔を覗かせ始める。
人の流れに混ざり、ため息混じりの白い息を吐きながら、水瀬は次の行き場を探した。このまま家に帰るには、まだ何も満たされていない。
本当なら、この時間は部活に明け暮れて、五本、十本とコースを往復している。もうすぐ始まる記録会のことを考えると、とてもとても遊び歩いている余裕なんてない。
……それももう自分が気にする必要のないことだ。
レギュラーを外され、目標だったものが自分の手から零れ落ちてから、水瀬は部活には顔を出していない。
次の機会に目標を定めて今から頑張ればいい。頭ではそれがベストなんだっていうことは分かっているのだけれど、そう簡単に気持ちが割り切れるほど出来た性格もしていない。それに自分の目標だったものに打ち込んでいる他の部員の頑張りを見るのは、やっぱりやるせないのだ。
だったら、とやりたいことをやった。
お腹いっぱい食べて、力いっぱい歌って、目いっぱいゲームして。いつもは、やりたくても我慢していることをこれでもか、とばかりに堪能して、満喫して。
けれど楽しいはずの時間は、重ねるたびに鉛の
「面白くない……」
心のもやもやが、そのまま言葉になって口を
考えを別のところに向けたところで、心の中にぽっかりと開いた喪失感が埋められるわけでもなく、好きを繰り返すことで、もやもやした何かが次々に生まれて代わりに埋まっていく。
今はとにかく、吐き出したかった。
心で澱んだもやもやを吐き出して、吐き出して──誰かに共感して欲しかった。
「愛音、何してるのかな……?」
親友の顔が浮かんだ。
愛音とだったら楽しかったかな?
考えるまでもなく、あの子なら欲しい応えを返してくれるだろう。
少し困ったような顔を浮かべて、でも黙って話を聞いてくれて。たとえ今すぐに、もやもやを晴らせる解答が見つからなかったとしても、そばで寄り添っていてくれる。幼馴染として長らく一緒にいた親友のことは、想像するに難しくない。
そう考えると、心の中に溜まって澱んでいた何かが、僅かにではあるけれど薄らいでいくのを感じる。
「こんなことなら、素直に付き合ってもらえば良かった」
意地っ張りな自分の気性が恨めしかった。
放課後に思い切って声を掛けたときには、愛音はなんだか予定があるような素振りだった。昔から他の子たちよりも少しだけ身体が弱く、普段からクラスメイトたちとも距離をとっているような愛音にしては珍しい。
思い当たる節と言えば彼女が毎週通院している病院くらいしかないけれど、そんなことなら愛音だってはっきりと言うだろう。
どちらにしても放課後はもう少し踏み込んで「愛音の用事が終わったあとに」とでも話を振っていれば、都合をつけてくれたかもしれない。
「メッセージ送るくらい、いいよね?」
スマートホンをポケットから取り出すと、水瀬はメッセージアプリを開いた。たとえ今、用事の真っ最中だったとしても、メッセージを送っていればその内「既読」がつく。それを待って今度こそ約束を取り付ければ問題ない。
ふと甘い香りがした。目の前はケーキ屋さんで、ちょうど放課後に愛音と話していたお店だ。
クリスマスのセールで、今ならケーキが食べ放題。せっかくなら愛音の分も買っていって、あとで一緒に食べることにしよう、そう考えながら手元の操作をする。
通話カテゴリーは、部活、家族、友人、と細かく仕分けされている。その友人のフォルダーとは別に作っている親友のフォルダーを開くと
愛音の名前をタップすると、メッセージウィンドウが開く。どう書き出そうか少しだけ迷って、結局選んだのは「今、平気?」のいつもの
「愛音?」
水瀬は驚きの声を上げた。目当ての相手が突然目の前に現れたのだから、まったくの不意打ちだった。
愛音は水瀬に気付いた様子もなく、購入したケーキを大事そうに抱えると足早に駆けていく。
足取りは軽く、どことなくうきうきと浮かれた様子が伝わってくる。「愛音でも、あんなに浮かれることがあるんだ」なんて今更ながらの驚きに、水瀬は目を丸めた。
あれこれ考えている内に、愛音の背中が小さくなっていく。水瀬は慌ててあとを追った。
クリスマス間近の街は人通りが多く、愛音の姿が雑踏に紛れてしまわないように、水瀬は注意深く目を凝らした。大通りを抜け、脇道に逸れると人通りもまばらになる。ふぅ、と息を吐くと同時に疑問がわいた。
愛音は人通りのない脇道をさらに抜け、より
包帯を巻いた両手が、じくりと疼いた。
辺りにはもう、人通りはほとんどない。それでも愛音は臆した様子もなく、人気のないほうへないほうへと進んでいく。つい先日、あんなに恐ろしい目に遭ったばかりだというのに、なんとも感じないのだろうか? 普段から物怖じしない水瀬ですら、あの事件以降、こういった人気のない場所では足が
身体が震えた。
けれど水瀬は竦んだ足に力を入れて、愛音のあとを追った。
自分のせいで愛音にまで怖い思いをさせてしまったという後ろめたさと悔恨。次に何かあったときには、愛音だけは護ろうという思いが、水瀬を動かした。
迷路のように入り組んだ道を抜け、放置された倉庫のような場所を抜ける。この辺りは工事途中の建物も多く、使われていない雑居ビルも多い。街中に存って、まるで未開のジャングルか何かのようだ。
ようやく視界が開けると、使われていない廃ビルの前に立つ。
中から、見知った声が聞こえた。
水瀬はようやく人心地つくと、声に向かって語り掛けた。
「愛──」
その声は、最後まで発せられなかった。
弾んだ声が聞こえてくる。
口数の少なかった彼女は普段よりも饒舌で、自分の前ですらあんな姿は見たことがない。
目の前にいるのが、本当にあの親友なのかと目を見張る。
微笑む愛音の姿が、目に焼き付いた。
考えもしなかった光景に思考がついていかない。考えようとしても冷静にいられない。
ウ ラ ギ ラ レ タ ──
根拠のない言いがかりのような考えが浮かぶと、そこからはあっという間だった。
「……」
水瀬の中で何かが裏返った。
もやもやとした何かが
そしてその靄に心が覆い尽くされたとき、感情が弾けた。
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