第10話・連鎖

 街のメインとなっている通りを少し脇に逸れると、そこは雑居ビルが連なり、さらにビルとビルの間を抜けて奥に進んでいくと、工事中であったり使われなくなったビル群が立ち並ぶエリアに入る。人の往来は皆無に近く、好んでこんな場所に足を踏み入れるのは辺りを住処にしている野良猫くらいのものだろう。

 規模からしたら僅かな範囲だけれど、こういった場所は街の各所に点在していて人目に触れず、さながらデッドスペースになっている。ましてそんなエリアの一角にある廃ビルなんて、日の高い時間であったとしても立ち入ることなんて遠慮したいものだけれど、そんな中を愛音は慣れた足取りで進んでいった。

「お待たせしました」

 廃ビルの一室で愛音が声を掛けると、フルーフが暇を持て余したような声を返してきた。

「遅いなー、何してたんだよ?」

「街の様子を見てきたんです。何か変わったことは起きていないかって。ふふ、偵察任務、といったところでしょうか」

「いい気なもんだな。最初はあれだけ、助けて~、助けて~って泣き叫んでたくせに、すっかり忘れてやがる」

 呆れたようなフルーフの言葉に苦笑いを浮かべると、愛音は首を捻った。

「けれどどこを見ても、ぼんやりとした靄のような呼毒ばかりですね。はっきりと形を成した大きくて恐ろしい悪意を感じたのは、最初に襲われた呼毒だけだったかもしれません」

「そりゃそうだ。あんなのがうようよいたら、世の中で溢れかえるぞ」

「くすっ」

「……あんだよ?」

 フルーフの口から『凶悪事件』だなんて言葉が出たことに、思わず口元が綻ぶ。そんな愛音に睨みを利かせて、フルーフは大げさに舌なめずりをした。

「ま、アタシにとっちゃ、きょーあくじけんがたくさん起こったほうが、美味しいご馳走にありつけるからな。むしろ大歓迎だ」




 日が落ちると共に寒さが増して、愛音は着ているコートの襟を閉めた。はぁと吐き出した吐息は白く、口元から離れると冬の空気に溶けて消えた。辺りはすでに暗く、街の光も届かない廃ビルの一室は、より一層の肌寒さを感じさせた。

 遠慮がちに、愛音は腕を組んだまま壁を背にしているグリィの隣に移動すると、同じように壁にもたれ掛かった。

「これだけ退治しているのに、街の中は呼毒で一杯でした。どれだけ狩り尽くしても、なくなったりはしないんでしょうか」

「当然だ」

 何気なく呟いた愛音の問いに、グリィは顔を向けることもなく素っ気なく答えた。

「人がいれば必ず負の感情は生まれる。人がいる限り呼毒がなくなることはない」

「だとしたら、こうして呼毒を狩ることに意味はあるんですか?」

「意味?」

「あ、いえ……」

 愛音は慌てて首を振った。決してグリィたちの行動を否定しての言葉ではない。むしろ、知りたいと思ったからこその言葉だ。

「意味なんてどうでもいい。ずっと追い続けた魔女をこの街に追い詰めた。手傷を負った魔女は近くに潜んでいる」

 腕を組んだ姿勢をそのままに、グリィは続ける。

「魔女は傷を癒すために呼毒を喰らう。ともすれば嫌がらせくらいに過ぎないだろうが、少しでも呼毒を削れば、焦れた魔女が出てくることもあるだろうさ」

「それが、たとえ意味のないことだと分かっていたとしても……?」

 グリィが言う通り、人がいる限り呼毒が消えることはないというのなら、たとえ今日この街の呼毒を狩り尽くしたところで、明日には元の木阿弥もくあみだ。

 意味のないことだと分かっていて、なぜ続けることができるのか。それとも何か特別な思いがあるのか。それでも繰り返すことに、何か意味が生まれるのか。

 どうしても答えが知りたくて、疑問が口を衝く。

「……どうして魔女を追うんですか?」

「それを知ってどうする?」

「それは……」

 知ったところで自分がどうにもできないことは分かっている。ただ、ふと思ったのだ。

 無駄なことを無駄だと知りつつ、無駄に繰り返す。そうだとしたら、それはあまりにも救いがない。

 無限ともいえるときを生きてきたというグリィからしてみれば、もしかすると時間なんて取るに足りない些事なのかもしれないけれど、有限を生きる愛音にとっては分からない感覚だ。

 隣で壁を背にする不死者だという男を見る。

 死なない身体で、彼はどれほどの刻を生きてきたのだろうか?

「たとえば魔女から人を守るため……。そんな使命みたいなものがあるのなら、もしかしたら、それがグリィさんの生きる糧になってるのかなって……」

 愛音は呟くように尋ねる。

「生きるって、どういうことですか……?」

 毎日のグリィたちとの行動は、その答えを彼に求めているからなのかもしれない。

 自分の境遇を重ねる。救われたいのは、むしろ自分のほうだ。

 仕方がないという諦め。抱えた問題は努力や才能でどうにかできるものじゃない。

 それでも生きる意味は、なんなのだろう?

「それを他人に言われて、お前は『はい、そうですか』と納得できるのか?」

「私が生きる意味……」

 愛音は考える。

 今までの自分は、抱え持つ病から全てを諦め、我慢することを強いられて生きてきた。やりたいことも我慢して、他の人が当然持っている『普通』も諦めて、ただ流されるままに過ごしてきた。

 そうまでして生きたいのか?

 いっそ死んでしまったほうが楽になれるかもしれない。消えてしまいたい。そう考えたことは一度や二度ではない。それでも土壇場になると、やはり生にしがみつく。そしてまた、我慢と諦めの中で変わらない時間だけが過ぎていく。

 それは、生きていると言えるのか?

 毎日毎日、頭の中で繰り返し繰り返し問い続けている疑問。

 けれど最近は少しだけ、意識が変わってきていた。

 ともすれば死と隣り合わせの世界を目の当たりにしたことが、生きていることを実感させたのかもしれない。

「グリィさんには、感謝してるんですよ」

「気でも違ったか?」

 初めて自分に顔を向けたグリィに愛音は微笑みを返す。

 廃ビルの窓枠から空を見上げると、雪雲が月を隠していた。

「雪が降りそうですね。今年のクリスマスはホワイトクリスマスになるのかな」

 なんとなく呟いたクリスマスという響きに心が弾んだ。どこか新しい絵本のページをめくるときのように、愛音の好奇心をそそる。わくわくとした気持ちのままに、自然に言葉が連なった。

「外国だと、クリスマスには教会でミサなんて話も聞きますけど、グリィさんもそういった経験ってあるんですか?」

「俺が敬虔な信奉者クリスチャンにでも見えるか? 救世主メシアの生誕を祝う気もなければ、祝福を与える気もない神などに興味もない」

「あっはっは。そういや燻る灰、昔、教祖ごと教団をぶっ壊したことあったよなー。魔女の根城が大聖堂でさ。あのときも、たしかこんな時期だったっけ?」

「……二人だけで乗り込んだんですか?」

「どうだったっけな~? けど、信徒がたくさんいて苦労したぞ。でっかい呼毒なんて、そこら辺うようよしててさー。次々に襲ってくる呼毒を千切っては投げ、千切っては投げの大活躍だったんだぞ!」

「そうなんだ」

「……反応薄いな? 言っとくけど、今その辺を漂ってる呼毒と違って、あのときの呼毒は狂暴だったんだぞ! 獣みたいになって襲い掛かってきてさー」

「人の悪意が形に?」

「戦争、貧困、差別なんてものが当たり前のように横行していたからな。従属階級が抱える負の感情は留まることを知らず、抑える術もなく。簡単に不満が飲み込めるほど、他で満たせるものもなかったのさ。その分、抱え込んだ人の思念も強かった」

「それを思うと、今は恵まれているんでしょうか……」

「今も昔も変わらないさ。人はいつの時代も他者を羨み、妬み、嫉む。むしろ豊かだからこそ尚、他と比較して一喜一憂する。他者よりも優位に立ちたい。人の根本にある感情だ。そんな感情に天井はない」

 幾度となく体感してきた事柄に、グリィは鼻でせせら笑う。

「だからこそ、魔女なんてものがのうのうと存在できるのさ」

「……分かってはいるんです。人を羨んだり嫉妬したりしても、結局意味のないことだって。頑張ったって、何したって、どうにもならないことがあります。神さまなんて存在がいるとすれば、それはとても不平等で意地悪で……。でも、クリスマスくらいは誰もが祝福されたっていいじゃないですか」

「それは、お前が掛けてほしい言葉か?」

「そうかもしれません……。だから、たとえ神さまからの祝福がなかったとしても──」

 ずっと手にしていた、小さな取っ手付きの箱を差し出す。サンタクロースとトナカイが並んだイラストがプリントされた、クリスマスケーキの箱だ。

 愛音ははにかむように少しだけ俯くと、すぐに顔を上げて満面の笑みを浮かべた。

「祝福をあなたに。少し早いですけど、二人にクリスマスプレゼントがあるんです」

「祝福なんてものは必要ない」

「そうだぞ。クリスマスプレゼントだったら、こんなんじゃなくて特大の呼毒を持ってこい」

 甘い香りがほのかに漂い、冷たい空気が僅かに和らぐ気がした。

 束の間のクリスマス──けれどその時間は、あっさりと終わりを告げる。

 グリィは背負っていた大ぶりの剣をすらりと抜き放つと、その切っ先を部屋の入口へと向けた。

 和らいでいたように感じた場の空気が、再び固まった。

「良かったな、フルーフ。だ」

 部屋の入り口から、微かに動く人の気配がした。

 愛音がグリィの視線を追って顔を向けると、ここにはいないはずの友人の姿があった。

「……水瀬?」

 声が上がる。

 暗がりの中、水瀬は臆する様子もなく、ずかずかと部屋に足を踏み入れるとグリィの前に立った。グリィの向けていた剣の切っ先が、水瀬の喉元で止まる。

 グリィと対峙する。上から下に、まるで値踏みでもしているかのようだ。ようやく愛音に向き直ると、水瀬は「ふん」と鼻を鳴らした。

「なんだかそわそわしてるって思ったら、こういうことだったんだ」

 その言葉は、いやに刺々しい。

 水瀬の態度に気圧されて、愛音は息を呑む。

「どうして水瀬がここにいるの?」

「街であんたのこと見かけたからさ、声を掛けようと思ったの。まあ、追いかけてきてみれば、こんな所でこんなことしてるなんて、思いもしなかったけどね」

 短く息を吐くと、水瀬は戸惑う愛音の腕を掴んだ。

「ほら帰るよ、愛音」

 まるで駄々をこねる子供を強引に連れ帰る母親のように、水瀬は愛音の腕を引く。その水瀬の手に自分の手を重ねると、愛音はそっと水瀬の手を解いた。

 水瀬は目を見開いて、愛音を見た。

 明確な拒絶の意志だ。

 今まで愛音は、こんなにはっきりと自分の気持ちを出せるような子ではなかった。言いたいこともはっきりと言えず、いつも周りの状況に流される。それが愛音の性格だと取ることもできるのだけれど親友としては心配で、常日頃からそんな愛音の動向を嗜めてきた。

 本来なら、こうした親友の意思表示は喜ぶべき変化のはずなのに──

 自分の知らないところで起こったそんな親友の変化に、もやもやとした火種が燻る。小火ぼやはあっという間に大火たいかになって、目の前のに向かった。

「あんたが愛音をたぶらかしたんでしょ!」

「グリィさんは、そんなのじゃないの!」

「へえ、グリィさん……。あたしより、この人のこと取るんだ?」

「そうじゃなくて」

 燃え盛る炎に近づけば飛び火する。

 愛音が懸命になればなるほどそれは逆効果で、水瀬の燃える感情に油を注ぐだけだった。

「あちゃ~、真っ黒黒だ。こりゃ完全にね。うっしっし、美味しそうな臭いがぷんぷんしてるじゃないか~」

 矛先は愛音に向けられ、水瀬から噴き零れる暗い感情にフルーフは舌なめずりをする。

 伝えたい気持ちが伝えられず、愛音は泣きそうになった。ただただ言い訳を繰り返すような言葉しか出てこないのがもどかしくて、恨めしい。

「聞いて水瀬。ここは危ないから帰ったほうがいい」

「ああそう、邪魔してごめんなさい。これから男といちゃいちゃしようってときに、そりゃあたしがいたら困るよね」

「違うの!」

「何が違うよ、嬉しそうにそんなもの抱えちゃって」

「これは……」

 水瀬の冷ややかな声に、言葉が詰まった。

 甘い香りを漂わせる小箱は、グリィたちのために買ってきたクリスマスケーキだ。

「ふん、言い訳もできないよね」

「水瀬、聞いて──」

「うるさい!」

 すり寄ってくる愛音を払いのけた水瀬の手が、ケーキの箱にぶつかる。愛音の手から払われた小箱は宙を舞い、くしゃりと音を立てて地面に落ちた。

 一瞬、水瀬の顔に驚きと後悔の色が浮かんだものの、心の奥から湧き上がってくるものが止められない。その一連が引き金になったかのように、水瀬の感情が一気に昂った。

「結局、愛音も男ができれば友達なんてそっちのけ。ふふ。あたしもあんたみたいに男でも作ろうかな? ちやほやしてくれる男の隣は、さぞ居心地がいいんでしょうね。これまで散々あんたのこと気に掛けてきてあげたのに。落ち込んでるあんたに構わなきゃ、こんな怪我だって──」

 水瀬は、未だ痛々しく包帯の巻かれた手を見つめる。

 傷を見つめるたびに暗い感情がより一層沸き起こり、溢れ出してきた感情は怒りという形を得る。

「そうよ。あの日、あんたなんかに構わなきゃ怪我することもなかったし、レギュラーを外されることもなかった」

「どういうこと?」

「どうもこうもないわよ。あんたのせいで、あたしはずっと目標にしてたものを失ったの!」

 絶望、憤怒、慟哭。そんな感情が綯交ないまぜになったような金切り声が上がった。文字通り感情が爆ぜたのだ。

 水瀬の感情に呼応するかのように、辺りから暗い闇の靄が集まってきた。靄はまるでご馳走にでも群がるかのように、水瀬に纏わりついていく。やがて水瀬の身体をすっぽりと包み込むと形を成し、それは以前襲い掛かってきた暴漢のように、暗い闇のの姿を愛音の目に晒した。

 言葉を失した愛音の心に、くぐもった声が響く。耳を塞いでも直接届いてくる呼毒の声だ。

「あんたなんかに構わなきゃ良かった。馬鹿みたい。あんたなんかを気に掛けたせいで、これまでの努力も無駄になっちゃったじゃない。全部全部、あんたのせいよ!」

 可愛さ余って憎さ百倍、とはよく言った言葉だ。

 想いが強ければ強いほど反転したときの憎しみは強く、元の大切だったはずの想いは粉々に霧散する。水瀬が愛音に向ける目はすでに親友に対してのものではなく、憎い仇にでも向けられるものだ。

「あっはっは。人間は面白いなぁ。感情なんてものに振り回されて、ころころ想いが変わるんだからさ。結局大事なものなんて、本当は分かってないんじゃないか?」

 嘲笑でもなんでもなく、純粋にけらけら笑うと、フルーフはグリィに顔を向けた。

「そうかと思えば、数百年も固執してる変わり者もいるしな」

「ふん……」

 フルーフのからかいに何の感情も表すことなく、グリィは愛音の前に進み出ると水瀬に向かって剣を構えた。

「どいていろ。終わらせてやる」

「だめっ!」

「おい」

 振り上げた剣を振り下ろさせまいと、グリィの腕に愛音が飛びつく。


『無理やり引き剥がすからには、それなりに支障はあるだろうさ。それこそ魂を形成している主となる部分を無理やり持っていかれるわけだからな』


 頭をよぎったのは、以前に聞いたグリィの言葉。

 危うく斬りかけた愛音をかろうじて避けると、グリィは苛立った声を上げた。

「そこをどけ。目の前にのは悪意の塊だ」

「待ってください、グリィさん! ここにのは私の友達です!」

「もうすでに、相手にそんな意識はない」

 腕にしがみつく愛音を振り払い、今度こそグリィは得物の切っ先を標的へと向けた。

 逃さない、という強い意志。眼光が目に宿る。

「やめてっ!」

 人の決死の行動は、たとえ非力な力だとしても避けきるのは難しい。

 身体ごとしがみついてくる愛音に、グリィは軽くたたらを踏む。そのほんの僅かに生じた隙は、相手にとって格好の機会を生んだ。

 変貌した水瀬の腕が伸び、グリィの左腕を掴む。暗い靄がまるで生きているかのように、掴んだ腕に纏わりついた。

 グリィは咄嗟に愛音の身体を突き飛ばすと、その場で身を捻った

「くそっ、浸食されたか。ならばっ!」

 間髪入れず、グリィは手にした剣を逆手に構え直すと、躊躇うことなく暗い靄が憑りついた左腕を切り落とした。

「いやぁぁああっ‼」

 愛音の悲鳴と、たぱたぱと地面に血溜まりの拡がる音が交錯する。

 落ちた左腕にグリィが剣を突き立てると、断末魔のような奇怪な音が響いた。

「ちっ……、気を逸らせすぎたか……」

 悪態をつくグリィに、愛音の声が震える。

「なんてことを……自分の腕を斬り落とすなんて……」

人間アンタらと違って燻る灰ってば、ちょっとした呼毒でも影響受けちゃうんだよねぇ~。だから取り憑かれたら、そこをバッサリやっちゃうのが一番手っ取り早いのさ」

「でも、フルーフちゃんは人に傷をつけられないはずじゃ……」

「燻る灰の身体は特別製なのさ。なんせ、魔女の呪いを受けてるからね~。だから、アタシでもバッサリやれちゃうワケ。しかもこれが、なかなか美味いんだ~。うっしっし」

「けど、そんなこと続けてたら、いつか死んでしまいます」

「それで死ねるのなら、むしろ本望だな」

 フルーフの言葉に理解が追い付けていない愛音を、さらなる難題が襲う。

 ゆったりとした動作で態勢を整えると、グリィは吐き捨てるように言い放った。

「なぜ魔女を追っているのか……さっき、そう聞いたな?」

「は…い……」

「人を守るため……使命のため……。……フン。そんなこと、魔女を追い始めたあの日から、一時いっときたりとも考えたことはない」

 感情の見えなかった言葉のやり取りは、いつしか底の見えないほどの憎悪に塗り固められている。怨嗟えんさの呻きが不死の男の口から溢れた。

「俺は、あの魔女を殺す。俺から全てを奪い、俺を異形へと変えた魔女……。どこへ逃げようとも、どんな手を使おうとも──」

 残った右手で剣を構えて再び水瀬に切っ先を突き付けると、グリィはゆっくりと歩を進める。足を前に踏み出すごとに傷口からはたぱたぱと大量の血が溢れた。それでも構うことなく一歩、一歩と、まるで幽鬼のようなふらついた足取りで距離を詰める。

 溢れ出る憎悪はまっすぐに……、それは水瀬を通して別のものに向けられていた。

「何よ……あんた……」

 気圧された水瀬が、ぺたりと床に尻もちをつく。

 恐れおののく水瀬に向けて、グリィは再び剣を振り上げた。

「──復讐の業火で奴を焼き尽くしてやる!」

 叫びとともに振り下ろされる一閃。

 その刃は最後まで振り下ろされることはなく──ぴたりと止まった。

「なんのつもりだ?」

 水瀬を庇うように立ち塞がる愛音に、抑揚のないグリィの声が尋ねた。その声はいつものように無感情で、けれどそれがほっとする。

 愛音は水瀬を振り返ると、彼女の怯える身体をそっと抱きしめた。

 戸惑った声が、水瀬の口から出た。

「離してよ、愛音!」

「ごめんね」

 考えて、考えて……出てきた言葉は、それだけだった。

 愛音の言葉に、水瀬は苛ついたように声を荒げた。

「何がごめんよ。謝ったって何も変えられない。今さら謝ったからって、どうだっていうのよ」

「ごめんね。水瀬の努力は知ってるよ。だからこんなことになって、一緒に悲しむことしかできない」

「分かったような顔しないで。あんたなんかに慰められたくない。同情なんていらないわよ」

「ごめんね、こんなことしかできなくて」

 水瀬の感情が、堰を切ったように溢れ出す。

 その感情を、言葉を一つ一つ受け止めながら、愛音は「ごめんね」と繰り返した。

 水瀬を抱きしめた腕に、ぎゅっと力を入れる。

 愛音の想いに応えるかのように、水瀬の身体を包んでいた闇の靄がゆっくりと愛音へと移っていく。まるで愛音自身が吸い込んでいるかのようだ。

「よせ! ──くそ」

 異変に気付いて止めようとするが、グリィはその場でたたらを踏んだ。腕を切り落とした傷口を押さえると、片膝をつく。

 尚も水瀬は感情を吐き出した。それは不満と同時に、長年ずっと一緒にいたことの証明でもあった。

「どれだけあんたのこと見てきたと思ってるのよ。なのにあんたは、あたしのことを見てもくれない。あたしがこれだけ悩んでるのに!」

「ごめんね。全然気づいてあげられなかった。これじゃ友達失格だね」

「あたしがいないと何にもできないくせに。身体も弱いし、言いたいことも言わないし……。もどかしいったらないのよ」

「そうだね、ごめんね。私、ずっと迷惑かけてるね」

「あんたいつもそう。何か言われたら謝ってばかりで」

「うん。ごめんね」

「ほら、今も」

 憎悪は、やっかみになり、嫉妬になり、愚痴になり……。最後は友達同士のお節介になる。

「そうだね、水瀬……」

 だから愛音は、心からの言葉を伝えた。

「ありがとう」

 言葉とともに、水瀬を包んでいた闇の靄は全てが愛音の中へと納まった。

「……ごめんね、愛音」

 水瀬の頬に一筋の跡ができている。穏やかな息遣いとともに、水瀬は気を失っていた。

 水瀬を床に寝かせて立ち上がる。ふらつく愛音の身体をグリィが支えた。

「ありがとう…ございます……」

「……無茶をする」

「グリィさんも、その腕……」

 すぐに手当てをしようとする愛音にグリィは「不要だ」と告げると、斬り落とした腕を無造作に拾い上げて傷口へと当てた。修復が始まり、やがて元に戻すことができる。

 その様子を見守りながら、愛音は掛ける言葉を見つけられないでいた。

 グリィは寝かされた水瀬にちらりと視線を向けると、ぶっきらぼうな言葉で告げた。

「安心しろ、奇麗さっぱり抜けている。今までの言葉も行動も呼毒の影響だろう」

「ま、思ってないと出てこないけどね~。あんな感情が出てくるってことは、少なからずとも心の中で──アウチっ!」

「少し黙ってろ」

 フルーフの余計な一言をいつものように黙らせ、グリィは愛音を見た。

 血の気を失った顔で、愛音は気を失った水瀬を見つめている。

「恐ろしくなったか? だったら、いつでも逃げ出すといい」

「いいえ……。結局、逃げられはしないんだなって……」

 呟きが漏れる。

 先ほどの危機とは打って変わった静けさに、沈黙が流れた。

 緊張の糸が切れるのと同時に、抱えた歯がゆさが次から次へとグリィへ向いた。

「『生きる』ことって、悲しいことなんですか? 未来に希望も見いだせない…ただ、そこに在るだけのことですか? 『生きる』ことは苦しいことですか? ……グリィさんは辛くないんですか?」

「それは、他人が決めることじゃない。自分で決めることだ。俺は復讐のみを糧に、数え切れないほどの刻を過ごしてきた。魔女に対する憎しみだけが、折れかけた心を何度も立ち直らせた。未来に見いだす希望…か……。復讐を果たすことができれば、俺は全てを失うだろう。だが、それこそが俺の望み。俺と奴の存在さえ消し去ることができればそれでいい」

「それって、『死ぬ』っていうことですか? グリィさんは、っていうんですか? それが、グリィさんの『生きる』意味だっていうんですか?」

「そうだ」

「そんなの、私には分からない…分かりたくない……」

「安心しろ。誰かに分かってもらうつもりもないさ」

 返す言葉もない。

 グリィの言葉に、持ち始めた希望が打ち砕かれたような気がする。

「……愛…音?」

「水瀬っ⁉」

 寝ぼけたような水瀬の声が、静まり返った部屋に反響した。

 愛音は水瀬をぎゅっと抱きしめた。

「ちょ、ちょっとどうしたってのよ、愛音?」

 目を覚ました水瀬は先ほどまでの記憶がすっかり抜け落ちてしまっているかのようで、だった。

 状況が飲み込めていない様子で、水瀬は戸惑いの声を上げる。「なんでもないから」と愛音は水瀬を抱く腕に力を込めた。

 目の前に水瀬がいることに愛音は感謝した。こんなに嬉しいことはない。

 それが僅かな望みを残した。

 誰に言うでもなく、愛音は言葉を漏らす。

「それでも生まれた命なら、祝福されるって信じたい」

「祝福なんてものは不要だ」

 困惑する水瀬の手を取って、その場を立ち上がる。

「グリィさんの苦しみは、私なんかには分かりません……」

「でも」と呟く。グリィに顔を向けることさえできない。

「たとえ生きる価値がなくたって、たとえ世界に否定されたって……。そんな命でも希望を見たっていいじゃないですか……」

 愛音は、掠れた願いだけを残した。

 二人が去った廃ビルの寂れた部屋の中。

 暗闇の中で、グリィはひとちる。

「それでも俺は、祝福を施されるつもりはない」

 部屋の隅には、潰れた小箱が落ちていた。

 拾い上げると、グリィは箱についた生クリームを指ですくった。

「俺には甘すぎだ……」

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