第14話・エピローグ


 突然吹いた頬を薙ぐ風に、髪を押さえる。

 ぶるりと身を縮めると、緩くワンループに巻いていたマフラーの布地を掴んで頬の辺りへと引き上げた。

 見上げると、灰色がかった分厚い雲が空を低く覆っていて、今にも天気が崩れそうだ。

 ふぅ、と白い息を吐きながら、冷たい景色を眺める。

 普段なら気が滅入りそうなこの景色も、今日という日ばかりは違う。何かを期待した、そんな高揚感に、周りの雰囲気も私と同じで、どこか浮かれて見えた。

「愛音ぇー。おーい、愛音ってばー」

「……水瀬?」

 後ろから親友の呼ぶ声が聞こえた。

 遠くから聞こえてくる足音は、ぱたぱたと。いつものように忙しなくて、思わずくすりと笑みが浮かぶ。

 足を止めると振り返り、呼ばれる声に顔を向けた。

「も~、待ってよ愛音ぇ~。置いてくなんて、酷いじゃない。愛音の教室まで呼びに行ったのにさ、さっさと先に行っちゃうんだもん」

「ごめんごめん」

「むぅ~。まあ、いいけどさ。こうやって一緒に帰れるのもあと少しなんだし、ちょっとは親友との時間も作ってよね」

「そうだね」

 冗談めかして言う水瀬が、急に表情を固くする。いろんな感情が綯交ないまぜになったかのような複雑な貌だ。

「休み明けだっけ? 愛音が外国に行っちゃうの」

「……うん、医療の先進国なんだって」

 愛音は視線を伏せて頷いた。

「医療の進んだ国での治療を重継先生が勧めてくれたの。諦めるのは早いよって」

 私は幼い頃から身体が弱く、入退院を繰り返してきた。

 他の子たちのように活発に走り回ることも、遊び回ることもできず、できることと言えば部屋の中で大人しく本を読むこと。

 幾分ましになってはきたけれど、それは高校生になった今でも変わらない。我慢の日々だ。

 私は難病を抱えている。

 今すぐにその病が私の命を奪うことはないけれど、その病が治癒することもないと医師に告げられた。

 我慢することには慣れていた──ううん、それは言い聞かせていただけで、本当はずっと報われることを望んでいたのだ。

 絶望した。

 この先もずっと希望も何もない日々が続くというのなら、いっそこの世界から消えてしまいたい。

 生きる意味なんて、私にはない。

 本気でそう思った。

 何度も何度も消えることを考えて、いつしか消えることを望んで。

 絶望して絶望して絶望して……

 でも結局、行きついた思いは『生きたい』という願望だった。

 それが難しいから、と消えることを望んだけれど、それは逃げ口を探していただけでしかなくて、本当は生きたかったのだ。

 だから重継先生から可能性の話を聞かされたとき、私の中に希望が生まれた。

「でも、寂しくなるな。愛音が向こうに行っちゃったら、こうやって一緒に帰ることも遊びに行くこともできないし……」

「大丈夫だよ、すぐに戻ってくるから」

 大げさに泣きそうな貌を作る水瀬に、愛音は笑顔で答える。

「戻ってきたら、今度はもっといろいろ一緒にできるから」

「ほんとに?」

「うん」

「……」

 答える愛音に、水瀬はまじまじと顔を向ける。

「どうかした?」

「愛音、なんか明るくなった?」

「そう?」

 問われて、愛音は首をかしげる。

 重継先生からの朗報があったから、というのもあるけれど、ここ数日は心が軽い。

 けれど今までの自分からすれば、たとえ何か良いことが起きたとしても、これだけ気持ちが前向きになるのは難しいと愛音自身も自覚している。

 実のところ、心の中にもやもやとしたものがあった。

 ここ数日の記憶が曖昧で、ふわふわと落ち着かないものがある。

 何か私の中で大きなことが起きて、そこで私は変われるきっかけを得ることができたのだと思う。

 けれど、それがなんだったのか……

 何かがぽっかりと抜けていて、思い出すことができない。

 すごく大切なことを忘れてしまっているような……

 そんな気がして……

「なになに? その物憂げな表情」

 考え込む愛音に、水瀬がにやりと目を細める。

「あたしが想像するに、そんな貌をするなんて、ひょっとしておぬし……恋でもした?」

「こ、恋?」

 愛音は思わず声を上げた。

 これまでの生活で、考えたこともなかった感情だ。

 でも恋か……

 愛音は考える。

 愛音も年頃の女の子であり、知識がないわけでもなく、そんな感情に憧れがないわけでもない。

 たとえば、絵本や物語の中に出てくる王子さまや騎士さまみたいに。いつか迎えに来てくれる大事な人を夢見たりもする。

 実のところ、最近夢の中に現れる人がいる。

 顔はよく分からないのだけれど、その人は物語に出てくる騎士さまのように、眩しく白銀に輝いている。まるで空から舞い降りた天使さまのようにも、私の目には映った。

 私は物語のヒロインのように、その騎士さまと一緒に冒険していたのだ。

 そんな騎士さまに憧れて……。追いかけて……

 そんな気持ちは、ひょっとしたら恋なんて言葉で言い表せるのかもしれない。

 そう考えると、愛音は顔じゅうが熱くなるのを感じた。

「ほほう、頬が赤くなった? ひょっとして心当たりあり? ふっふっふ。詳しく聞かせてもらいましょうか」

「も、もう。そんなんじゃないよ」

「隠すな隠すな。ケーキ屋さんは……たぶん今日は混んでるから、いつもの定食屋さんでいっか」

「今から? あんまり食べると太るよ?」

「へーきへーき。しっかり食べて、体力つけとかなくちゃいけないし」

 水瀬は包帯の巻かれた自分の手をじっと見つめる。その手をぎゅっと握って、闘志の覗く笑みを浮かべた。

「今回は逃しちゃったけど、次こそはぜったいレギュラーの座を掴んでやるんだ」

「水瀬……」

「そんなことより、今は愛音の恋ばなでしょ! ほら、行くよ愛音」

「ちょ……。もう、水瀬ったら」

 呆れて、愛音は吐息を漏らす

 意気揚々と駆ける水瀬に手を引かれて、その後に続いた。




 会話を弾ませながら、二人の少女が目の前を通り過ぎた。

 黒い外套を纏った痩身の男はフードを目深にかぶっていて、その相貌までを伺い知ることはできない。

 男は一瞬だけ少女たちに視線を送ると、彼女たちとは反対側に向けて歩き出した。

「おーおー。アイツ、生きてるじゃん。燻る灰、オマエちゃんとやったのか?」

 痩身の男からは似つかわしくはない、幼い女の子のような声が聞こえた。

 まるで絵本に描かれている妖精のような姿の女の子が、彼の周りを忙しなく飛び回っている。けれどその姿は道行く人々には見えず、その声も聞こえない。ただ耳元を過ぎる冬風のように、人々にとっては気に留める必要のないものだ。

 そんな声に、燻る灰と呼ばれた男は取り立てて気にするふうでもなく答えた。

「俺が祓うまでもなく、あいつは自ら魔女を追い払ったよ。思いの強さが魔女を上回ったのだろうさ」

「どうりで、なんか味気なかったはずだよ。あれだけのご馳走だったのに、ぜんぜん喰った気がしなかったしなー」

「よくも言う。せっかくくれてやったのに、フルーフ、喰い残しただろう?」

「くれてやったっていっても、残り物じゃんか。あんな不味いもの喰えるかよ。アタシはもっとどろどろした感情が好きなんだ。人間の負の感情ってやつがね」

 フルーフはぺっぺっと吐き出すような仕草をすると、ジトっとした目を燻る灰へと向ける。

「そういう燻る灰こそ、最後の一瞬……わざと狙いを外したろ?」

「ふん、どうだかな……」

「ま、どっちにしろアイツの中の負の感情は、綺麗さっぱりってやつだ。その後遺症なのか、が急に解けたのが影響したのか、アタシたちのことはすっかり忘れちゃってるみたいだけど、一応アイツも救われたってことか?」

「どうでもいいさ」

 燻る灰はぶっきらぼうに答え、そして抑揚なく語る。

「たとえ今、負の感情を追い出せたところで、生きる限りまた同じように捕らわれることもあるだろう。誰かに救いを求めたところでそれは無意味で、結局自分の行く末は自分の意志で決めるしかない。どちらにせよ、俺にあいつは救えなかったさ」

「ん~、けどさ……」

 フルーフは通り過ぎていく少女に目を向ける。

「アイツ、なんだか幸せそうだよ? 十分に救われたんじゃないか?」

「……だといいな。だがそれは、俺ではなくが自身で得た救いだ」

 燻る灰は、もう一度だけ少女を一瞥するとすぐに背を向ける。

 眼前をまっすぐに見据えると、再び力強い歩調で歩き出した。

「もう一度、最初からやり直しだな。魔女はすんでで逃げ出したが、気配が小さすぎて追うこともできん。おそらく、この街にはもういまい」

「そう言うわりには、あんまり悔しそうじゃないな。復讐自体、諦めたか?」

「それはあり得んな。仮に誰かが復讐は無意味だと説いたところで、あの魔女が世界の果てまで逃げたところで、俺のすることは変わらん」

 拳を握り、力をこめる。

「俺は奴を殺すだけだ。この身を焦がし続ける憎悪の炎が消されることは決してない」

「燻る灰が魔女を喰わせてくれるって言うんなら、なんでもいいさ。それがアタシたちの契約だからな。ま、その契約が果たされたら、アタシがオマエの願いを叶えてやるよ。永遠からの解放ってやつをさ」

「ふん……」

「もっとも、それは燻る灰が魔女を倒せればって話だな。オマエ、情に流されて目的を忘れかけてたんじゃないのか? 逃げた魔女をすぐに追いかけなかったのだって、なんだかんだ言ってアイツの様子が気になって──いったーーいっ‼」

「少し黙っていろ」

 燻る灰が、手にする布にくるまれた長い棒のようなものを地面に振るう。

 ガンッ、と金属がぶつかるような音がして、同時に女の子の悲鳴が上がった。




「……?」

 ふいに感じた風に愛音は振り返った。

 けれど振り返った先には何もない。

 何か懐かしい声が聞こえた気もしたけれど、それは吹き抜けていく冬風の囁きだったらしい。

「ん? どうかしたの、愛音」

「ん…ほら……」

 愛音は一度だけ周りを見回すとかぶりを振って、それから空を見上げた。

 愛音の視線を追って、水瀬も空を見上げる。

「あっちゃ~、寒いと思ったらやっぱりか」

「ホワイトクリスマス、だね」

「あはは、聖夜に祝福を、ってね。メリークリスマス」



その日は雪が降った──


ちらり、ちらりと音もなく舞い降りてくる色のない灰のような雪は、祝福を伴って柔らかに降り積もり──


やがて、世界を白銀へと染めた──



‹END≻

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グリノエンケン 政木 亮 @R_MASAKI

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